4/3に書き終えたけど、それまでに2週間もかかった
「……どうした?」
「………
秋天に進む事が決められた翌日。調教でクロスの様子がおかしい事に気付いたのは、乗ってすぐの事だった。
毎日王冠が近づいて来たこの頃。いよいよもってサイレンススズカとの初顔合わせと相成ってきた訳でございますが。
(ついてけるのかぁ俺……?)
サイレンススズカの大逃げは凄まじい。かつて動画で見た1998宝塚記念は、そりゃあもう惚れ惚れとした。
「究極の競馬、ここにあり」って感じよマジで。ありゃ勝てんて。いやまぁ、正直言うと勝つ事は目的にしてないんだけど今回。
なのになんで大逃げに追随しようと躍起になってるかって?そりゃあお前……
沈黙の日曜日。
あそこでサイレンススズカと拓勇鷹騎手を待ち受ける死神は、単純な故障だけではないからだ。
(レースの真っ最中、それも最終コーナーだ。加速し始めた後ろの騎手と馬は当然止まれない)
それもススズの逃げについて行こうと躍起になっての追走だ。もしススズが、勇鷹さんが、後方の馬群からの退避に遅れたら?
もしその疾走範囲内で、転倒・落馬しようものなら?
史実では、ススズが自分の足を犠牲に決死の避難をしたから、勇鷹さん
沈黙の日曜日は。
“天才”と“逃亡者”の片方が、確実に。
そして最悪の場合、日本競馬は
そして。俺という異分子によって、バタフライエフェクトが起きてるかも知れないこの世界で。
ススズが今回も無事コーナーから避難出来ると、誰が保証できる?
(ススズを後方集団の脅威から庇えるとしたら、それは故障の未来を知ってる俺だけだ)
だからこそ、その悲劇を避ける為の策を講じた。万一起こり得る不幸な“歪み”を正すのは、それが生まれる原因となった俺の責任。
だが実行の為には、最低でも「ススズに第3コーナー時点で追随出来るぐらい速くなる」必要がある。
でも一番大事な、そのピースが足りない。全く足りてない。
(スペの
領域。有り体に言っちまえば、固有スキル。流星が如き一閃、“シューティングスター”。
これから戦う事になる古馬の中でも、一流に属する奴らは絶対に使ってくる。なんせ俺たちより現役経験が一年長いんだ、持ってない訳が無いだろ?
それも、あのサイレンススズカが。
(スペは追い込みなら行けるって行ってたけど、何でお前に追いつけなかった戦法で勝てるんだよ)
かつて見た天皇賞秋の映像を元に、何回もイメージトレーニングやったけどさ。ただの一度だってついて行けなかったんだぞ。
そんな状態で、どうやって現実でスズカ達を庇うってんだ?
ダメだ、諦めるな。思考を止めたらそこで終わりだ。
考えろ、考えろ。体がダメなら頭を使え、戦術思考だけに頼るな。苦手でも、例え無理でも戦略思考で準備を整えろ。今回懸かってるのは命なんだぞ。
何でも良い、使える物全部使え。足を回s──何だよ、もっと速く動かせるだろクロスクロウ。甘えんな!するべき事は分かってんだろうが!!俺しかいねぇんだよ!!
とにかく、今からでも力を底上げしろ!そしてサイレンススズカを徹底マークだ!それしか無い、やるしか無い!
だから!!動けっつってんだろがこの三流が!
お前はいつもそうだ、無駄に先走って空回りして台無しにする。今回もそうするか?嫌だろ?じゃあ走れよ!!
もっと上へ、もっと先へ、その彼方へ!走れ、走れ、はし……
「クロス」
あぇ?
何だよ生沿君。
「お前は独りで走ってるのか?」
そりゃ、スペやグラスだってそうなんだし。馬の能力を競うんだから単独で走ってるに決まって……
……いや。生沿君が言いたいのは多分、そういう事じゃない。
「お前、凄いもんな。実際今まで、
ああ。そうか、生沿君。
アンタは、俺に。
「それでも──信じてくれないか?」
頼って欲しいのか。
アンタを。
彼らが走るのを見ていた。
自由に、全力で、跳ねる灰色の馬体。輝かしい太陽の下に躍動するそれは、光を反射し銀に見えた。
……諦めなければ。みっともなくも、足掻き続けていれば。
まだ私は、その背に乗れていただろうか?
答えはすぐに自分の中に出た。否、だ。
「どうっすかね奥分さん」
柵に寄って、鞍上から生沿君が話しかけてくる。その下で、クロスクロウはフンスと鼻息荒くこちらを見据えてくる。
返す言葉は、一つだった。
「素晴らしかったよ」
「ありがとうございますっす」
「……」
「……」
「………えっと。至らなかった点とか教えて頂ければ」
「無いよ」
「無い!?」
冗談キツいっすよ、俺新人っすよ。
そう首を横に振る生沿君だけれど……本当にそうなんだから、文句なんてつけようが無いんだ。
「私が乗った時よりも、遥かに楽しそうだったよ。クロスが」
「えっ?」
「
「クロスも不思議がってますよ」
「ああ、そのようだ。となるとつまり、本馬としても無自覚といったところだろうか」
「うーん……まだ信頼仕切ってもらえては無いっぽいですけどね」
でも明らかに違う。私が乗っている時は、クロスはその重さを跳ね除けるように強引に足を運んでいた。でも生沿君、君が駆った時は違うんだよ。
クロスクロウの馬体が、
「“軽さ”が違う。クロスの
「そうなんすよ!勇鷹さん、それまでも便宜図ってくれてたのにダービー後は一層俺に色々良くしてくれて!!いやホント、俺なんかがこんなに手取り足取りして貰って良いのかっていう……」
そう謙遜する彼、だけどそれだけじゃない事を私は知っていた。
ダービー後。マスコミの盗撮騒動を機にノーザンF空港牧場に移されたクロスの所に、生沿君は何度も通い、調教に参加していた。
勇鷹君に躊躇いなく見識を乞い、それを余す所なく吸収しようと必死だった。
出来る限り早くGⅠに出られるよう、勝ち星を懸命に稼いでいた。
「生沿君は“未来”ですよ」
いつか聞いた、勇鷹君の言葉を思い出す。夏のレースで会った折、控え室でクロスクロウの話をした時の事だったか。
「意欲、才能、吸収力。卑下癖が玉に瑕だけれど……予言してやりますよ。彼は将来の三冠ジョッキーだって」
「君の後継者になり得る、という事かい」
「僕だけじゃありませんよ、奧分さんだって───彼は、
私の行けなかった場所。そう言われて思い出すのは、やはりあの凱旋の門。
ルドルフを連れて行ってやれなかった、仏の栄光。
「そんな彼が、ただでさえ相性の良いクロスクロウに乗っちゃったら……どうなるんでしょうね?」
まぁまずは実戦で息を合わせなきゃですけど、と予防線を貼る勇鷹君。けれどその言葉に、夢想と戦慄を重ねたのは他ならぬ私自身で。
ああ、そうだ。生沿君が、クロスクロウに跨ったら。
そしてその夢が、現実になったのを。今、目の前で見てしまったのだ。
私では引き出せない力。
私では導けない地平。
君たちなら、きっと。
「生沿君」
「何ですか?」
「今、何勝だい?」
「えーと1234……25勝、あと6勝っす!奥分さん達が良い馬回してくれたお陰です、感謝してます!」
「
もう、そこまで。そうか、ならば。
お膳立てした甲斐は、あったという事か。
「クロス。生沿君。頑張るんだよ」
「え……」
「……
「秋の天皇賞、君達に任せた」
「「っっ!!」」
今年の11/1。それまでに生沿君は必ず31勝を達成するだろう。となれば必然、私はもうお役御免だ。
後の道は、自分達で切り拓け。そこに先達の、それもこれからライバルとなる者の助けがあってはならない。
「勇鷹君の講義は続くだろうけど、私からはこれで終わりだ。次会うのはターフの上だろう」
「……その時は、よろしくおねg」
「そんなんじゃダメだね」
「!…っ、全力で!勝たせてもらいます!!」
良い声だ、その意気だ。勇鷹君から次の時代を託されてる以上、半端な覚悟じゃ許されないからね?
頼んだよ、ルーキー。
………っと。
「クロス?」
「………
私の袖を咥え、額を押し当ててくる巨躯。ああそうだ、君は存外寂しがり屋だったな。
「生沿君をよろしく頼むよ、クロス」
「
やんわりと押せば、それだけで離される口。良い子だ。君は最初から最後まで賢かった。
だからどうか、折れないでくれ。私とルドルフが行けなかった場所まで、私たちの夢を連れて行ってくれ。その頭脳で、その足で、その絆で。
「『ありがとうございました!!』」
踵を返した練習コース。その背に投げかけられた言葉と嘶きは、同じ意味を含んでいるように私には感じられたのだった。