展開は分かり切っていた。
誰もが、あと数分に迫ったレース模様を未来視していた。
先頭は間違い無く栗毛。
最後方は恐らくだが芦毛。
問題はもう一頭の栗毛、そして黒鹿毛がどう動くか。
近付く対決。否応無く高まる熱。
そして。
《お互いがお互いを知り尽くしています。小細工無用の真っ向勝負、毎日王冠──スタート!!》
『くっ…!!』
久し振りのレースだから、なんて言う訳にはいかない。そんな言い訳に逃げそうになった自分を恥じる。
けれど、忘れていたプレッシャーを前に出遅れてしまった事実は覆せない。
(立て直さなければ…っ)
「グラス、落ち着こう」
『窓葉さん…』
その向こうに、緑色の影がすっと抜きん出て。
そして……!?
《乾いた西日を浴びて、秋の府中開幕週。そうです、サイレンススズカ当然行く……が、その後に続くのはクロスクロウ!逃げでサイレンスと張り合うのか生沿健司、こうなると一層問題なのはペース!》
へぇ、ボクの目の前でそれをしますか。それをやるんですか、クロ!?
思わず掛かってしまいそうになる心を落ち着けて、芦毛の鬣をじっと睨んだ。私は敵ではないと言ったその傲慢、絶対に打ち砕いてみせますから……!
《3番手はエルコンドルパサー!手綱はガッシリ持ったまま、海老奈正敏とのコンビ》
『ふたり共待つデェス!』
エルはあの位置。先行としては上々、けれど……っ。
「ペースが速いな」
窓葉さんの焦りが伝わってきた。かくいうボクも、いつもより力を込めて走らざるを得なくなっている。
でも落ち着いて、こういう時こそ深呼吸して。
《グラスワンダー早くも盛り返している。窓葉一との信頼の絆───おおここでクロスクロウ下がった!クロスクロウ下がりました、これはまさか朝日の作戦か!?》
……は?
「…挑発かな?」
へぇ。へぇ。へぇー。
カチンと来ました。ここに来てまだボクを惑わせますか。こっちは貴方に抱いてる感情をまだ整理出来てないというのに。そこから更に煽ってきますか、誘ってきますか。
……もう一回言います。カチンと来ました。
「だが
『はい……!』
僥倖です。これはタイミングが測りやすい。
そう、丁度クロがボクの所まで来たタイミングで。
『ハッ、バテたなんて言いませんよネ?!』
『さぁてな』
エルと彼が擦れ違う。叩かれ合った簡潔な減らず口に思わず笑ってしまいそうになり、我慢。
あと、もう少し。
そろそろ。
『クロ』
『グラス』
来た。
『来ますよね?』
『当たり前だ』
『安心しました』
よし。もう憂いは無い。
行きましょう、窓葉さん──!
《外からグラスワンダーが早めに出てきた大ケヤキの向こう側!》
クロが下がって暫くしてから、競る相手を失いサイレンススズカがペースを落とした気配がありました。大逃げというのも噂ほどでは無く、何よりクロと一緒に対策を積んできた効果があった。
一瞬の油断を突く。差すとはつまりそういう事……!
《さぁどうだどうだ、サイレンススズカに詰め寄ってきたのは外のグリーンの帽子!》
迫ってきた!いけます、この距離なら詰め切れる!!最終コーナー時点で先頭に立てる!
そこからはクロ、エル、貴方達との真っ向勝負です!油断はしない、絶対に抜かさせない。この距離で2度も負ける訳にはいかないんですよ!
大きい歓声、でも臆さない。あともう少しで勝利への特等席が手に入るんですから、ここで臆す訳にはいかない!
《さぁ真っ向勝負!》
そこをどけ、サイレンススズカ!もうここはボク達だけの世界なんだ!
《サイレンススズカ、リード3馬身!》
粘りますね、でも!
《坂を登る!》
くっ、しぶとい。それでも!!
《サイレンスまだ逃げる!!!》
……あ、れ?
距離が、縮まらな───
『……見えた』
声がかすかに、聞こえた。
『これが、
私だけの景色』
『え?』
離された。
ボクより速い速度で。
ボクより強い加速で。
『えっ?』
おかしい。
道理に適ってない。
ボクの方が後ろで足を溜めてたのに。
サイレンススズカはずっと前で消耗してたのに。
なんで。
ボクより速く。
あり得ない。
『あり得て堪るか──ッッ!』
『待つ、デェェェス!!』
遅れて出て来たエルと共に追う。追うのに、追ってるのに全く近寄れない。それどころか離されていく!
しかも、それだけじゃなくて。
『グラス、追いマスよ!何してるんデスか!?』
後から来た、エルにすら。
足が回らない。これ以上加速出来ない。
(ここが、限界…?)
前の冬の時は、こんな物じゃなかった。
衰えてる自覚はあった。けど取り戻せた筈だった。我慢を、褒めてすら貰えた。
なんで……!
(こんなんじゃ……)
値しない。
ヤダ。
見ないで。
こんなボクを見ないで……
『っ、グラス』
そんなボクの願いが、叶う筈なんてありはしなくて。
ああ、見られた。貴方にだけは見られたくなかった。
『先に、行ってる』
クロ。
《少しよれながらエルコンドルパサー!グラスワンダーは伸びが苦しい!クロスクロウは……来た!来ましたクロスクロウ迫る!逃亡者へ迫る!エルコンドルパサーと並んだ、手応えが良いぞ生沿健司!200を通過!》
「ダメか、グラス…!」
《サイレンススズカだサイレンススズカ!だが!クロスクロウ、エルコンドルパサー懸命に追う!クロスクロウ辛うじて抜け出たか?!グラスワンダーは4番手も厳しい!!》
『なんデスか、その走り…!?』
「勇鷹さんッ!」
「やるじゃないか、だが……!」
《“逃亡者”対“追跡者”!だが!だが今回は!少なくとも今回は!
グランプリホースの貫禄ッッッ!!》
───そして、終わった。終わってしまった。
何だこれは。
なんだ、このザマは?
《どこまで行っても逃げてやる!どこまで行こうと追ってやる!!》
ニンゲンの声が鳴り響く。きっとそれは、クロとサイレンススズカを讃える言葉で。
《エルコンドルパサーは3着!しかし見劣りなど全くしない、素晴らしい走りでした!》
エルも。
でもボクには、何も無い。
何一つ誇れる所が無い。
なんで、ここにいるんだろう。
ふと顔を上げた。
吐きそうになった。
クロが、サイレンススズカと話してた。ボク以外の栗毛と、面と向かって話してた。
気持ちが悪い。
気分が悪い。
『……グラス?』
やめて。
来ないで。
こんな情け無いボクを自覚させないで。
お願いだから、やめて。
気付けば、逃げるように芝を背にしていた。暗くて景色の見えない馬道。いつもは好きになれなかったその閉塞感が、世界から遮断してくれてるようで今だけはありがたかった。
でも拭えない痛みは、まだ胸の中にあって。
ああそうだ。クロの敵は私達じゃなかったんだ。
彼は舐めてなんていなかった。
舐めていたのはボク達の方だった。
挑むべき相手を、彼はちゃんと分かっていたんだ。
それが不満なら、彼のターゲットに足る存在で在れるようより努力するべきだったのに。ボクは。
『
ボクは。
「……泣いているのか、グラス」
ごめんなさい。
ごめんなさい窓葉さん。
ごめんなさい、クロ。
まるで寂しさに耐えかねたあの日に戻ったかのように、ボクはメソメソと泣く事しか出来なかった。
勇鷹はアヤベさんの新馬戦で
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やらかす(ジャパンCでのスペ鞍上は奥分)
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やらかさない(スペ鞍上続行)