ジャパンカップ。1981より、日本初の国際招待競走として設立されたJRA渾身の一大レースにして、国内で最初に“GⅠ”として定義された、正式名称ロンジン賞。
強い馬を。
「世界に通用する馬を」と。
世界中から名だたる馬を招待し、日本馬を彼らと競い合わせ。その実力差を知り、学び、強くなれと。
意気揚々と開かれた第一回。かくして、懸けられたその願いは。
まるで敵わなかった。
実力差を前に、歯牙にも掛けられなかった。
まるで叶わなかった。
実力差を前に、学び取る事すら危うかった。
当時の日本レコードを0.5更新。馬身換算で3。それも、海外馬サイドは本命不在の状態で。
屈辱の現実だった。それが10年続いた。
タマモクロスとオグリキャップすら駄目だった。僅かにカツラギエースとシンボリルドルフの2勝。それ以外は全敗。
そこからやっと、トウカイテイオーを皮切りに4連勝し時代が開かれた……かに思えば、また連敗。世界の壁は未だに厚く、日本競馬の前に立ち塞がっている。
だが。
「それでも、道は見え始めた」
例え霞んでいようと、そこに道はあると分かったのだ。
そう、観客席で奥分は熱狂を噛み締めた。
「見ているかい、トウさん」
ペンダントを握りしめる。そこに秘められた、青春の記憶と共に。
「君の子の愛馬が、勝つよ」
《さぁ一番人気、日本総大将に推されたのはこのタッグ、クロスクロウと生沿健司!》
《いや凄まじいですね!この静まり返りが、逆に歓声というかッ》
《この東京競馬場に詰めかけた20万人、その全員が彼へと視線を向けていると言っても過言ではありません!恐らくは他の馬と騎手からすらも……》
《その筆頭として挙げられる2番人気スペシャルウィーク、3番人気エアグルーヴ、4番人気には毎日王冠で競り合ったエルコンドルパサー!果たして中距離ではどうなのか注目ですよ!?》
《ダービー馬として兄役に背中を見せられるか、古豪として意地を見せるか、マル外としてグラスワンダーの仇を討てるか。そんな彼らの敵意を受けて彼は、クロスクロウはどんな走りを世界に見せつけるのかっ!!》
《日の丸によく似た、芦毛に輝く赤目。信じてます…!》
《さぁ各馬ゲートに揃って!!》
1998年ジャパンカップ。
《スタートォ!!》
ゲートは開かれた。賽は投げられた。
各馬、蹴り出した。
『行きマスよォーッ!!』
「よぉーうし……!」
赤と青を纏い、コンドルが行く。つけたのは2番手。
エルコンドルパサーだ。
「スペシャル、もう少し前…っ」
『ここ?分かった!』
スペシャルウィークは5番手へ。差しではなく先行、前目の場所だ。
未だどちらも領域には至らず、しかし持ち前の信頼でもって鞍上の意図に肯定で応じる。
(負けない、負けない……!)
その中でも殊更、スペは密かに闘志を燃やしていた。何故か、その理由は。
(何だか分かんないけど、負けたくない…!)
そう。彼自身にもよく分かっていない。気がつけば火が付いていた、それが彼の認識だった。
(多少イレ込んでるかな?けど充分予想内だ、寧ろ利用していこう)
勇鷹はそう判断し、好位置へとスペを誘導した。そうやって、エルコンドルパサーを捉えた。
警戒しているのはクロスクロウだけではない。海外馬、そしてエルコンドルパサーも事前に織り込み済みである。
『来マスねぇスペ-サン!アナタもグラスに用でも?』
『……!』
一瞬の視線の交わり、そして刮目。エルの呟きに胸を穿たれた気分になるスペ。
思い返せば確かに───火が付いたのは、グラスワンダーが引き合いに出された時だった。
『どう……だろうねっ!!』
何故だろうか。何が自分を焚きつけたのか。
話題を掻っ攫うグラスへの嫉妬?
今でもグラスに執着するクロへの不満?
いや、違う。何か違う。
これは………
「スペシャル?」
『なんでもないよ!』
「……大丈夫そうか」
心配を跳ね除け、自ら邪念を振り払うべく頭を振る。今はそうしてる場合じゃないと、そう自戒して。
《さぁ2コーナーを回って先頭から見ていきましょう、サイレントハンター1馬身のリード。ドイツのウンガロが続き、エルコンドルパサー!外にステイゴールドとスペシャルウィーク、内にエアグルーヴ。平均ペースでレースは進み──》
『……変な奴ら』
『さぁてどう料理しようか……!』
先輩2頭も位置を定め、疾走。
さぁ、クロスクロウ。
((((どこにいる?))))
四者四頭八様に、同じことを考えた。その答えはすぐに告げられた。
《そしてクロスクロウはここ!チーフベアハートに最後尾を譲り、後方2番手につけました。怒涛の捲りを、この晴れ舞台で披露するのか?!》
『『『そこかッ!!』』』
エル、スペ、エアグルーヴの鋭い視線が同時に後方へ。コーナー故に、柵越しにその姿を捉えるのは容易だったと言える。
いた。芦毛。
『うわぁ。分かる、生沿君?』
「あぁ、最高だな」
『つっよ』
後続馬の足音に紛れ、掻き消され、彼らの口にする言葉は聞き取れない。けれど何故だろうか、スペとエルには理解出来た。勇鷹と海老奈も、また。
強者の余裕だ、と。
『ムカつく野郎デェス!』
「全くだよね…!」
ここで、エルと海老奈の心が同調した。グンッ、と足が伸びる。
領域への第一歩である。
《ここでエルコンドルパサー2番手!掛かっているかも知れません》
《冷静さを取り戻せると良いのですが……いや、見たところ冷静ですねコレ》
会場のボルテージは上昇。観客は、クロスクロウだけを見に来たのではないのだ。
怪鳥の羽ばたきが、レースを動かした。
『どーせ彼らは上がって来るんデス』
「どうせ君達は上がって来るんだ」
「『ならここが
《さぁレースも中盤、おぉっとエルコンドルパサーもうサイレントハンターに迫る!既にスパートをかけた、後続を突き放すのか足は
《マイルと間違えてませんよね!?》
実況から困惑のどよめきが上がり、しかし止まらない。どこまでも止まらない!
それに釣られるように、動いたのが二組。
『スズカの真似事か?私の前でそれは頂けんなァ…!』
「追うか、脚は残さないとだが……!」
一つはエアグルーヴと縦峰。偏に馬の能力を信じ、逃げる相手に追随してみせる。それは4年を戦い抜いてきた猛者の証明。
もう一つは、スペシャルウィークと拓勇鷹。
「離されたくないな……スペシャル、余裕は?」
『あるよ!ハイペースはクロが得意だけど……』
「クロスが気になるのかい?けどそこの不安はまた後で、だ!」
『うん!』
チラリと後ろに目を遣ってから、意識を前へ。こちらもまた人馬一体に踏み入れた上で、果敢に挑み掛かる。
三頭の加速は、レース盤を完全にひっくり返した。
《さぁ大欅を超えて……ッ!エルコンドルパサー入れ替わるように1番手に躍り出た!続いてエアグルーヴもサイレントハンターを躱す!!スペシャルウィーク!!!クロスクロウはまだ来ない!前が詰まっているのか?!》
『舐めるな!』
叫んだのはスペシャルウィークだ。
『アイツがここで終わる筈がありマセンっ!!』
吠えたのはエルコンドルパサー。
その恐ろしさを知っている二頭だからこそ、彼らは燃え上がる。
どこまでも熱く、どこまでも猛る!
そして。
《さぁ第四コーナー!》
(ここだ、スペシャル!!)
サイレントハンターを交わした瞬間。
勇鷹の手綱が、唸りを挙げた。
『うん!!』
スペは、即答した。
流星。
『貫けぇぇえええっ!!!』
《スペシャルウィーク猛追!ダービー馬が覚醒する!!》
スペは分からない。
何が気に入らない?
何故勝ちたい?
何が自分を駆り立てる?
『欲しいのはっ』
分からない。
それでも譲れない。
何故か思い浮かんだ、栗毛の背中。
『僕も同じだからっ!!!』
渡したくない!
賭ける、懸ける、駆け巡る!星の光を宿して駆け出す!
そして、それはスペシャルウィークだけではない。
『青いなっ!!』
見れば、隣に件の美牝。先程差した筈のエアグルーヴが控えていた。
『なにおうっ!?』
『何かが欲しい、何かを得たい、その為の走りかッ』
『それの何が駄目なの!?』
『勘違いするな!!』
ググッと、一瞬。エアグルーヴの筋肉が、張り詰めた弓のように引き絞られる。
それを見たスペは、恐怖と喜悦を全身に浮かばせる。
『嫌いじゃぁないっ!!!』
女帝が本気を出した。
一瞬でスペを差し返し、目指すは翼の舞う空という名の先頭!
《エアグルーヴも来た!来た!届くか!?》
だがスペも食らいつく。星の光と蒼炎が鬩ぎ合う。
『うおおおおおお!!』
『はあああああっ!!!』
《最終コーナーを通過!届くか!届くか!届いた届いた!!3頭並んだ、全頭日本馬!?!!?》
「「「おぉぉぉぉオオオオ!!!」」」
前代未聞、後半からの急展開から引き起こされたその事態に歓声はいよいよ最高潮に達した。大地が揺れる。東京競馬場が揺れる!
『エル君っ!』
その中で、とうとう。
『僕が相手だ!!』
届いた。スペシャルウィークが。
『スペ-サン、』
筈だった。
『悪いケド……
お呼びじゃないんデスよ』
『………っ、な!?』
エルコンドルパサー、ここに来て加速。
スペシャルウィークの足が、届かない。
《……!先頭エルコンドル!未だ譲らない、伸びていく!何だコレは!?》
『アナタとはまた……別の機会で!!』
『待、て……!』
『逃がさんぞ!』
スペは伸びない。この土壇場で足が尽きた。意地でも減速はしないが、もう追いつけない。
『くそ……っ』
エルに突き放される。エアグルーヴに抜かされる。
『くそ……!』
星が、墜ちる。
『くそぉぉぉ……ッ!!』
「スペシャル…!」
領域が終わった。人馬一体も途切れた。万策は尽きた。
響き渡る実況が現実を告げた。
《エルコンドルパサー抜けた!やはり強い、やはりマル外強い!マイラーと言ったのは誰だ!?》
(勝てないの?)
迷いの有無。それが明暗を分けた。
エルは自らの苦悩を知った。そこに正面から立ち向かった。
エアグルーヴは絶望を突き付けられた。それでも新しい希望に応えようと奮った。
だがスペは、新たに芽生えた壁に即応出来なかった。分からない事を分からないまま、解決しないままここまで来てしまった。その差が、覚悟の差として末脚に現れた。
だがそんな事、こんな喫緊のスペには分かりようが無い。
(悔しいよ)
歯を食いしばる。涙で視界が滲む。
(悔しいよぅ)
だが出来る事は何も無い。
……だから。
『く、ろ』
『ああ』
気付けば、彼は隣にいた。
だから、託すんだ。
『おねがい……!』
僕の分まで。
《………いや!いや違う、まだだ!!まだ彼がいる!対空砲火、対マル外砲火の彼がいる!!!》
《クロスクロウがここにいるッ───!!!》