『クロさぁぁぁぁん!』
『スペはさぁ……』
馬房から連れ出された俺の姿を柵越しに見て泣き喚く同輩。ここ数ヶ月で多少強くなったと思ったらコレだよ!
『行かないでぇぇぇ!!独り嫌だぁぁぁぁ!!!』
『落ち着けって死ぬ訳じゃねぇんだから。親切にしてくれる厩務員もいるだろ、お前ニンゲン好きだし』
『そんなの別腹ですもん!』
『飯と同じ扱いかよ…』
呆れ果てて厩務員──臼井(多分)さんと顔を見合わせる。言葉が分からないなりに察しているようで、彼も苦笑を浮かべていた。
『ニンゲンもニンジンも同じだよー!クロもそうだから別腹なんだよー!!』
『意味が…分からない……』
「うーん……後で対処するか。行こう、クロ」
『りょうかーい。じゃあスペ、また臼井厩舎でなー』
そう。クロこと競走馬の俺、なんと臼井調教師管理下への内定を獲得しております!前の調教面接が好印象だったようで、受かった事をその日の内にこの厩務員さんが教えてくれますた。やったぜ(完全勝利UC。
いやぁ安心した、これで後はスペが後から来るだけやな!という訳で頑張れ!!という旨を昨晩伝えた。
『待ってよぉぉぉ!!!置いてかないでぇぇぇぇ!!』
伝えたのにコレである。
……いや、さ。割かし俺も辛いんよ。見知った友達のいない環境に急に放り込まれるのって不安で仕方がない。ずっとスペと一緒にいたいし、移籍タイミングだって同日であって欲しかった。
けどな、スペ。
『グラスは、もう走り出してるんだ』
『……!』
このままじゃ、置いてかれちまう。
甘い環境に身を浸してたら、約束を守れない。
『アイツを待たせてられない。だから、俺はお前を待ってられない』
『……うん』
『だから、お前が追い付いて来い。出来る筈だ、お前なら』
お前が、日本を熱狂させたスペシャルウィークなら。
『……分かりました。絶対、すぐ、追いつきます』
『おう。その時にまた、一緒に走ろうな!』
『走りませんよ。並ばず追い抜かしちゃいますから!』
『言ってくれるじゃん?』
そうそう、そう来なくっちゃ。それでこその、日本総大将スペシャルウィークだよ!
ツン、と鼻を一瞬突き合わせる。それが別れの挨拶。
『じゃ、またな!』
『じゃあ、また!』
それを最後に、俺は4ヶ月を過ごした馬房を後にしたのだった。ここを終の住処にする覚悟もあったけど、そうならなくて良かった。でも同時に、それでも満足無いぐらい馴染んでいた事に今更気付く。
ここには、もう二度と戻って来ない。
「クロ」
歩いていると、俺を誘導していた厩務員さんが立ち止まった。
そうか、きっとこの人と会うのも最後だ。臼井さんの息子さんっぽいからその縁もあるかも知れないけれど、それでも殆ど会う事は叶わないだろう。
「
「生産牧場からの引き継ぎで、お前をずっとクロって呼ばせて貰ってたけどさ。嫌じゃなかったか?」
えっなんで?嫌な要素ありました?
寧ろ聴き慣れた名前で呼んでくれたから、やり易い事この上無かったんですけど…
いやホント、アンタが世話してくれたおかげでマジでやり易かったんだ。誇りに思ってくれよな。
「ハハハッ、心配してくれてるのか?ありがとうな」
「
「……うん、本当にありがとうな。アメリフローラの子の事も、キャンペンガールの子の事も」
馬運車の後ろに到着する。これが、最後。
「楽しかったよ、クロ。頑張ってな」
『……あぁ。アンタも、気張れよ』
さようなら、ノーザンファーム。
ここでの出会いを、日々を。俺は忘れない。
◆◆◆
という訳で着きました、栗東トレーニングセンター!
着きました、臼井厩舎!!
いやぁとうとう始まりますねぇ競走馬生活!テンション上がって参りましたよぉ、あ〜行くぞ行くぞ。
良いよ、来いよ未来のライバル共!こちとら臼井最強の名の下に育てられる(予定)のサラブレッドやぞ!!
『あ゛?』
なぁんて自負は、厩舎に入った途端萎れましたとも。えぇ、無理でした。
いやだって、居並ぶ先輩達の気迫がさぁ……
『新入り?』
『真っ黒だな』
『あら可愛い』
歴戦の重厚さが口調に滲み出てるんだよなぁ…!
えっ何?俺って今からこんな荒波に揉まれるの?いや待て落ち着け、菊花賞までは古馬に揉まれる事は無……それ以降にぶち当たるのは確定じゃないですかヤダー!
なんて弱音をなんとか飲み下し、『どもー』と挨拶して、堂々と馬房へ。俺がここで弱腰になって下手に酷いヒエラルキーにされたら、後から来るスペにも迷惑掛かっちゃうからね。気合入れて行こう。
『何だァ?テメェ……』
堂々としてたらキレられたね!気合吹っ飛んじゃった!うんどうしようか!?(パニック)
『あらあら、そうカッカしないの。ごめんなさいね、初めて先輩になるものだから緊張してるのよこの子も』
『アハハ、いえいえお気遣い無く。これからよろしくオナシャス』
『まぁ礼儀正しい。落ち着いた男の子は大好きよ、私』
いえ、緊張の余り一周回ってるだけです。内心は鬱と躁を反復横跳びしてるんですがそれは。噛んでオナシャスとか言っちゃったし。
そのまま馬房に案内された俺は、緊張と輸送の反動が来たのかその場で爆睡したのだった。
で、翌日。初めての本腰入った“競走馬デビューに向けての調教”に入った。
とは言っても、まずは現状の仕上がりを確かめるみたいで。ウッドチップのコースを軽〜く流す感じ。何だこんなもんか、楽勝楽勝!
とか思ってんだろうなぁ、過去の俺は(後の祭り)。
いやぁ、キツイ!坂路キツイ!助けて!!
『ヘバるな、まだまだだぞ』
『ヒェッ』
先輩方は悠々とこなしてますねぇヤバイですねぇ!あークソ、早く追いつけ追い越せ引っこ抜け!むりぽ。
「よく着いて行ってるな。偉いぞ」
調教助手さん、慰めるにしてももっとその成果を実感出来る段階で頼みます。突き放されてたら、喜ぼうにも(喜べ)ないです。
あっ、でもプール調教は割と好きっすよ。育成牧場で散々走り回ってたお陰か、肺活量だけは伸びてるっぽいので楽に楽しめますねぇ!あー水きもちぇ〜。
と、そんな日々を過ごしていた時の事。
「この子ですか」
「この子ですわ。お眼鏡に適ってくれましたか?」
「この頃合いにしてはかなり仕上がりが良いですね。すぐにでもレースに出せるんじゃないでしょうか」
「そうですな。スタミナが妙にある分、3歳馬*2にしては強度の高いトレーニングでもこなしてまう。何よりコイツ、馬房で自分なりのストレッチっぽいのをしとるから回復も早いんです」
「自分でストレッチですか…?」
「まぁ、伸びとかの延長線上っぽいですけど。でも暇になったらすぐにやり始めるし、実際疲れてる部分を意識して伸ばしとるから、その分代謝が早まって疲れにくくなってる……と、助手が考察しとります」
飼葉をハムハムしてる俺。その馬房の前で、俺を見ながら話す臼井調教師とおっさん(馬主ではない)。服装的に、もしや騎手の方ですかね?
「という訳で。レジェンドさんのお墨付きも貰えた事やし、このまま今週末の新馬戦に出したろかなと」
「……えっ。いやちょっと待って下さい、少し前に入厩したばかりって先ほど言ってましたよね?確かにすぐ出られそうとは言いましたが、もう少し待っても……」
ほう、とうとうデビューっすか!今までグラスとスペしか比較対象がいなくて、同世代の中での自分の立ち位置がどの程度のモンなのか分からなかったんすよ。最近先輩達との差に落ち込む事が多かったし、やりたいやりたい!勝ちたい!!
「うおっ…クロもやる気みたいやし、何より馬主の意向もありましてなぁ。朝日3歳杯を目標にしとる以上、そろそろ始動した方がええんですわ」
「しかし、騎手も決まってない状況で……」
「……その件なんやが…」
10分後。おっさん、俺氏に乗る。
調教師試験の次は騎手試験ですか。たまげたなぁ……。
「大人しい馬ですね。初対面の人間に乗られても全く動じてない」
「ところがそうでもないんですわな、これが」
なにおう!俺ほど利口な馬はおらんぞ!?というか他の馬に利口さで負けてたらヒトソウル持ってる意味が無ぇぞ!
なんて文句を言ったら怒られちゃうかもしれないので黙秘。オレ、カシコイカラ。イイコ。
「ま、一回走ったら分かると思います。馬なりでダンスパートナーを、あそこのフラッグまで追走させてください」
「了解です」
『よろしくね〜』
『よろしくお願いしまーす』
付き合ってくれるダンスパートナーさんにお辞儀。アイサツは人馬問わず大事なのである。
でも一回も勝った事無いんだよなぁ……しかし俺は腐っても牡馬、熟れてなくとも牡馬なのだ。元ヒト息子としての矜恃もかねて、先輩とはいえ牝馬さんに負けっぱなしじゃいられない。
『今日も、勝ちに行かせてもらいます』
『あらやだ情熱的。若い子に求められるのって良いわね♪』
「……おや?」
よーし漲ってきたぞー。フンスフンスと鼻息荒く、俺は勝利への筋道を模索し始めた。
「あー、走る前にもう一つ。ダンスパートナーの方はかなりハイペースで行かせるので、クロは途中でバテると思いますわ。なのでそのタイミングで、一回扱いてみて下さい」
「……正気ですか?レースを控えているのにそんな負荷を課すと?」
「コイツの回復力は凄まじいので大丈夫です。其方の方針と相反する指示である事は分っちょりますが、クロにあなたが必要な理由がこれで浮き彫りになると思いますんで」
「……分かりました」
ん?なになに、鞍上で何やら内緒話しとる。奇策かなにかあるのだろうか。
なんて思ってたら、扱かれる手綱。よっしゃスタートだ!
……って速ァ!?
『おーにさんこっちら、ここまでおいで!』
『ちょ、せんぱ…えぇ!?』
とんでもないペースで疾走するダンスパートナー先輩相手に、俺は瞠目するしか出来ない。これが実戦を潜った古馬の本気ってか…!?
『ふんぬぬぬぬぬ……!』
「凄いな、このペースにも追随出来るのか…」
鍛えてましたから!なんてほざく余裕は皆無。
だってこれ、スパート掛けるだけの足残らないペースだもの…せめて、せめて距離だけは離されんようにせんと!
「……ここら辺だな。行ってくれ、クロ」
『!…りょ、かいっ!!』
「っ、まだ絞り出せるのか…?」
舐めないでくれると嬉しいですねぇ、俺は絶対に生き残るって決めてんだ!その為に勝つんだ!!例え公式戦じゃなくとも、勝って勝って勝ちまくって俺はあの世界に───
あっ限界。
息が浅くなる。ヒュッ、という音と共に視界が狭まる。これ以上はダメだ、止まらないといけない。力がもう無い。
「……許してくれ」
えっ何を?
あっ、扱かれた。
そうか、勝ちに行くんだな。
やらなきゃな。
ありがとう。
がんばる。
視界が開けた。
『うおおおおおっ!』
『うぇっ!?クロちゃん!』
『せんぱいいいいい!!』
並べ並べ、追い越せ追い越せ!スタミナの代わりに気力を回せ!
よっしゃ並b、やっべ気を抜いたら離される!まだ、まだ、まだまだまだまだまだまだまだまだァ!!
あっゴール。
「クロ、止まれ。落ち着いて」
アッハイ止まります!減速、減速、っと足縺れかけた!っぶねぇ、騎手さんナイス判断!今の体重移動が無かったら地味にキツかったわ。
『ぜぇ、死ぬ、ぜぇ、心臓こわれりゅ』
『だ、大丈夫?明らかに無理してたけど』
『ヒュー、なんとか、コヒュー、大丈夫の、ヒュコー、範疇っすね』
いつもと違って、二日は回復に費やさないとキツそうな疲弊ではあるけれど。お気持ちだけ有り難くいただいておきますわ。あ、耳鳴りしてきた。
「どうでしたかね、奥分騎手」
あら臼井さん。どーm…
って奥分!?奥分ってあの?あの皇帝さんの騎手さんですか!レジェンドってそういう意味っすか!!?
いやぁなるほど道理でコーナリングとか上手ぇ訳だわ、流石っす!
って耳鳴り酷くなってきたわ。流石に疲れ過ぎたンゴ……。
「……仰ってた意味がよく分かりましたよ。この子は、危うい」
「せやろ。生半可“仕掛けどころ”を理解してる分なお厄介ですわ」
こういう時はじっと目を閉じて深呼吸……おーい、ニンゲンお二方〜?今話すと聞き取れないからちょっと後にしてもらえません?
「そして、明らかに尽きていた状態からの再スパート…素直過ぎる」
「もっと言うと、ウチの息子が乗った時の感触曰くロングスパート型らしいんですわ。脚部への負担が…」
「……誰かが定石を教えてやらなければならない、と」
おーい、って聞こえる訳無ぇわな。しゃーない、詳しい話はニンゲンにお任せだ。俺は回復に努めさせてもらおう。
あっ、耳鳴り治った。
「……受けましょう。ルドルフから教わった私が、この子に競馬を教えます」
「ありがとうございます。正直、断られてもしゃーないと半分諦めとりました」
やったー合格だ!クロ、晴れてレジェンドを鞍上に据える事に成功しました!成し遂げたぜ。
いやぁしかし、よもやよもや奥分騎手に跨ってもらう事になるとは。こりゃ今後も安泰、万全の状況でアイツと戦える。
(待ってろよ、グラス。お前という怪物を、俺が仕留めてやる!)
新進気鋭、気炎万丈!ああ、新馬戦が楽しみだ!!
なお、馬房に戻って柔軟した直後に即寝オチした模様。疲れたからね、しょうがないね(自己弁護)。
「ところで、馬の名前は?もう決めてありますよね」
「えぇ、宮崎の……馬主が決めちょります。なんでも、別れた妻に引き取られて行った娘が、かつて好きだった英単語二つを組み合わせたとか。それがこれ」
「……“クロスクロウ”。良いじゃないですか」
「認めるのは悔しいが、あの馬なら刻めるかも知れませんわ。負け続きの日本競馬界へ、勝ち続きの世界競馬へ、忘れられない爪痕を」