なお短い。内容としては他の話と変わらないつもりではあるけれど……
溜める。
荒れ狂う波を鎮め、己の内に秘める。
まだだ。今じゃない。
『グラス』
……マドバさん。
「今日もいいかい」
いいとか、悪いとか。そんなのどうでもいいんです。
お願いします。是が非でも。
「そうか。じゃあ──」
ええ、それでは──
『今日も、よろしくお願いします』
毎日王冠での選択に後悔は無い。グラスワンダーを選んだ事に過ちなど無い。
だが、ただひたすらに反省があった。
怪我明けで無理をさせた事。
そんな状態でサイレンススズカに挑ませてしまった事。
でも、何よりも。
『Stay away!!』
あの時の、君の絶叫。
そして嗚咽。
あの──芦毛の戦士に向けた、感情。
詳細な内容までは知らない。けれど、その感情は鞍下から直に伝わってきた。
……そんなに好きなのか、彼が。
そんなにも、彼に良い所を見せたかったのかい。
彼に、あの姿を見せたくなかったのかい。
「今日はよろしくお願いします」
併走相手にまたがる調教助手に挨拶。お互いに頭を下げ、ウッドチップのコースに入った。
今日は有馬記念を前にしての最後の本腰調教、必然的に気合も入る。
………それに。
「久しぶりだね、」
「………ブルルっ」
そうして、地面の状態を確かめてから……走り出す。今回は右回り、相手が先行。
デジャヴが過ぎる。色んな意味で。
「フーッ、フーッ…!」
「良いぞ、グラス」
調子は格段に良い。毎日王冠後はどうなるかと思ったが、ジャパンCの翌日からは見違えるようだ。飛躍度合いで言えば、デビューから朝日杯への過程を思い出す程に。
もしかしてだけど、それもクロスクロウに影響されてかい?
「君の視界には、いつも彼がいるんだね」
頭上から瞳を見る。その中に、銀色の尻尾が揺れているのを幻視する。
ノーザンファームでの事は知っていた。君の競走馬としての馬生はある意味、クロスクロウと出会って始まった。
3歳馬戦線の折も、近くで見てきた。レースで会う度、君達は歩み寄って鼻を突き合わせていた。確かに絆があるのだと、傍目から見ていても分かった。
毎日王冠の時なんて顕著だ。出走前、あんなに意気揚々としていた君は見た事が無い。
それを踏まえた上で、私が彼に抱く感情は……実はそこまで大きくはない、つもりだ。
飽くまでライバルの一頭。数あるそれらの中でも特に因縁があって意識こそしているけれど、特別な感情は無いと自分では思っている。
頭勝負で負けて朝日杯を奪われたのは心から悔しいし、それをキッカケに「戦士の怪物退治」としてグラスをヒール気味に紹介されたのもいささか不満だけど相手は馬だ、そこに変な感情を抱いてもしょうがない。
でも、グラス。君はそうじゃない。
よく考えれば、それで済む筈が無かった。
「有馬にクロスは出ないけれど、」
さぁ、今だ。
「見せてやりたいよな…!」
私達は、こんなんじゃ終われないと。
手綱を扱く。鞭は要らない、君なら分かるだろう?
『───はい!』
ほら。
『若いな』
前から声が聞こえる。
『悪いですか』
『いや。俺個人の問題だ』
何だろうか、不思議な馬だった。寡黙さはまるで真逆なのに、クロと同じ何かを感じる事が。
『空回りしそうなんだろう』
ボクのコンディションを、察してくる所とか。
『知った風な事を……!』
でも、クロ以外に見透かされるなんて癪だ。その悔しさが胸の内に火をつけそうで、爆発しないかと自分でもヒヤリとする。
まだだ。これは本番まで取っておかないと。
『……ふむ』
そんなボクを見て、彼は何を思ったのか。
『なら、こういうのはどうだ』
その瞬間、ボクは驚いた。
きっとマドバさんも、様子を見るに相手に乗ってる人間さんすらも。
『さぁ、どうする?』
下がられた。
まるで、クロの走りのように。
「……
マドバさんが何か言ったけど、それどころじゃない。
なぜ貴方が、その走りを?
『これで負けたと聞いたぞ』
ほらどうする、と。彼はそう言った。足を溜める気配がする。
……この状況で、意外な事に。
『そうですか』
何でこんなに冷静なのか。
ボクが破られた走りなのに。
それをクロ以外にやられているのに。
「グラス」
……マドバさん。
「見せてやりたいよな」
ええ。
ええ、その通りです。
急に落ち着けた理由は、未だ分からない。でもそれすらも利用して。
乗り越えて。
ボクらは、高みへ。
『───はい!!』
『また良い相棒に会えたな、窓葉』
調教は色んな意味で予想以上に終わった。
まず、グラスは自己ベスト更新。これは良い、凄く良い。望んだグラスが戻ってきた事の証左だ。
次に、強度超過。明らかに本来想定した分を超えた疲労、本番までに回復するとは思うけれども。
「お疲れ様、グラス」
『ぶるっ』
これ以上負担を掛けないよう降りて撫でれば、彼は誇らしげに鼻を鳴らす。そうだ、この調子で行こうな。
……さて。
「ちょっと失礼します」
「えっ、あっはい。どうぞ」
グラスを専属の人に任せ、私は今日の併走相手に歩み寄る。どんな走りをした後も変わらないそっけない表情、
「息災で何よりだよ、ラストアンサー」
忘れていない。忘れられる訳がない。
……君からすれば。私の顔など、見たくなかっただろうか。
『…お前が元気なら、アイツも嬉しいだろうさ』
唸るような、でも怒りの無い吐息。君はそこに、どんな意味を込めたのか。
ライスが生きていれば、僕にも理解できただろうか。
今回、君と会えたのは偶然に偶然が重なったから。移送に際して地方から一時的に美浦に預けられた君と、有馬を控えた私達。こんな機会は、意図しない限り二度と無いだろう。
「君は複雑かも知れないけれど、僕は無事だ」
ライスのお陰で、助かった。
「もう、大丈夫だから」
もしも万一、心残りになっていたのなら。
もう、良いから。
『……良かった』
その瞬間だけ、心が通じた気がした。
『気張れよ、有馬』
応援を、貰えた気がした。
ああそうだ。もう、負けはしない。あの時獲れなかった栄冠を、獲らせてやれなかった栄光を。
グラスワンダー。
彼は、あの仔じゃないけれど。
『見ていてくれよ』
グラスが、クロスにそう思うように。
私は君の視線を、ずっと背負い続けよう。
それが咎であろうと、祝福であろうと。
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筈