【Ep.55】仁義!
『フンガー!』
『うぉあああ゛あ゛あ゛ッ!!!』
エルが駆ける。僕の騎乗で駆ける。
横にはセイウンスカイと縦峰君。持田厩舎側の厚意あって、最初は探り合いながらの併せ馬、でも今となってはとある条件付きで成立している協力体制。
それは、対クロスクロウに向けての情報共有。
「もう負けられないよなっ」
『
肯定の意思が伝わり、俺達は加速する。横の縦峰君とセイウンスカイも凄まじい気迫だが、俺たちだって気持ちじゃ負けてない。いや、勝っていると自分で信じている。
そうだ、負けられないんだ。お互い悔しい思いをして、だからこの敗者同士の蠱毒に敢えて身を投じるんだ。
どちらかがクロスクロウに喰らいつく、その日の為に。
予定されていた距離を走り切る。今日は──ハナ差で、エルの勝ち。強度の高い実戦想定の調教だったが、よくやってくれた。今日得た経験値を活かせれば、逃げる相手を追う分にはもう問題無いだろう。ハイペースにも耐えられる。
……クロスクロウが、どう仕掛けてきても対処出来る。
『フイー、やりますねセイ君。地力じゃ勝ってるつもりだったんデスけど』
『クロさんを捩じ伏せる光景を想像したらですね、力が湧き出てくるんですよ。気持ち良いんだろうなぁって』
『えーと……ブツブツしい?デスねぇ』
『それを言うなら“物々しい”では……』
それにこの二頭は、どういう訳だか仲が良かった。こうやって馬同士で嘶き合ってると機嫌も良さそうで、それも助けになれているなら心強い。
……さて。
「海老奈さん、どうですか」
「この併せ馬の事じゃなさそうだね」
「はい。海外遠征の件、どう進んでらっしゃるのか気になって」
そう。海外遠征。
つい先日の事だった。クロスクロウが海外遠征に向かうと、発表があった。世間はそれを大々的に報じ、幸あれと皆祝福した。俺の周りも、俺以外皆そうだった。
俺は、厩舎の事務室に駆け込んでいた。
「和宮さん!」
エルコンドルパサーの調教師に。
「渡辺さん!!」
奇しくもそこにいた、馬主に。
俺は、初手から土下座を選んだ。叫んだ。
「エルコンドルパサーを、海外に
無茶は分かっていた。我儘も分かっていた。
エルコンドルパサーは未だGⅠ1勝。毎日王冠ではサイレンススズカに、ジャパンCではクロスクロウに負けている。世界に目を向けず、国内で地に足つける時だと、本来なら判断するし、実際されるだろう。
でも、違うんだ。
「エルは、最強なんです!!」
負けてない。負けてない筈なんだ。
クロスクロウにだって、勝てた筈なんだ。
「負けっ放しで良い筈が、無いんです!!!」
格付けはまだ終わってない。やり返さなきゃ終われない。
その為にも、勝ち逃げは許さない。どこまでも追わなければ。
その行き先が海外ならば……それでも。
エルコンドルパサーは本当に強いんだ。
窓葉さんから屋根を譲られたその瞬間から、全て分かっていた。このチャンスを逃してはならないと、騎手の本能が吼えていた。
そんな乗り替わったばかりの俺に、エルは寄り添ってくれて。人馬一体を成し遂げて。
なのに負けたのは……
「費用は俺が負担します!借金してでも、内臓売ってでも工面します!乗り替わらされても文句言いません!!」
ドン引きされる事を覚悟の上で、むしろされる為に頭を地面に打ち付ける。血が出ようが構いはしない。
エルの挑戦には、リベンジにはそれだけの価値があるから。あの白銀を追い掛け、打ち破らねばそれは得られないから。
それから一週間。回答は、無い。
「……凄いなぁ。俺にはそんな勇気、ありませんでした」
「いや、見習わないでくれ。エルに余計な負担を課そうとしている、とも言えるだろうから」
「それでもですよ。はぁ、グラスワンダーに有馬で勝ててたらなぁ」
国内専念が決まっているセイウンスカイ。しかしその判断は決して間違いじゃなく、むしろ大正解だと思う。分の悪い賭けに、自分どころかエルと厩舎を巻き込んで身を投じている俺の方がおかしいんだから。
でも、我慢出来ないんだよ。あんな走り見せられて。
あんな完璧な人馬一体──いや、生ぬるい表現だ。こっちの方が相応しいだろう。
「
それを、まだ成人もしてない騎手と、4歳牡馬に魅せられて。
勝ちたいと焦がれて、何が悪い。
『……ま、ケンノンなのはエルも同じデス』
『そうなの?』
『
なぁ、エル。お前も同じか?
同じなら、嬉しいんだがな。
そんな時だった。
「海老奈仁義さーん!!」
「ん?」
「おや」
『誰?』
『エルの走りをよく見てくれるヒトですねぇ』
和宮厩舎の調教助手が、大声を張り上げながらこっちに向かって走ってくる。他の馬を刺激しないよう注意しながら、俺たちもそっちの方へ。
「何かありました?」
「も、申し上げます」
ゼェハァと肩で息をする彼。まさか、と思った。
そのまさかだった。
「テキが、エルコンドルパサーの海外遠征を決定しましたァ!」
瞬間。握り拳を懐に振り絞った俺を、俺自身咎められなかった。
『……なんだか知りませんが、』
その時伝わって来たエルの問いかけは、なぜか明瞭に受け取れた。
『クロスと、戦えるんですね?』
「ああ……!」
次は勝つぞ、エル。
そうこなくっちゃ、エビナ-サン。
お互いへの信頼を交わして、再び俺達は駆け出したのだった。
「……あれーっ!?海老奈さぁぁぁん、どこ行くんですかぁぁぁぁ」
「あれは止まりませんね、経験あるから分かります」
『菊花直前、クロさんが出ないと分かる寸前のオレ達みたいだぁ*1』
『アーッ、スカイ。エルハ……
『あっマンボ。何ですかい何ですかい』
『マンボカラ、
『あれま珍しい。言ってみて下さいな』
『ガールフレンドガデキタ』
『うんうん……えっなんて?』
「突っ込んでこう!」
「ヘーイ」
「限界へそう!」
「イェーイ」
健司君が気持ちよく歌うのに合わせて、ボクはシンバルを打ち鳴らす。相当溜まりに溜まっていたのか、歌い終わるや否や彼はこっちにマイクを突きつけ言い放った。
「孝四郎パイセン!次どうぞっす!!」
「いいって、歌いなよ」
「俺のマイクが受け取れないって言うんですかぁ!?」
「あちゃー」
先輩*2にも物怖じしない、大胆不敵で傲岸不遜。
「俺ぁ生沿健司っすよ!」
「そうだね」
「競馬学校の首席っすよ!!」
「そうだね」
「昨年の新人最多勝利騎手っすよ!!!」
「そうだね」
「GⅠ最短獲得記録保持者っすよ!!!!!」
「そうだね」
全部事実だ。後輩ながら、本当に凄い奴だと心の底から思う。競馬学校に入る前からの付き合いとはいえ、まさかここまでとは思わなかった。
……それでも。
「やっぱり海外は怖いかい」
「──怖いっす」
途端、萎むようにソファへ座り込む彼。張り詰めた末に穴が空いて縮こまった風船のように、その眉根も八の字を描いている。
クロスクロウの海外遠征が発表されたのはつい先日。乗り替わりが公表されなかったという事はつまり、生沿君もまた海の外へ行くという事。
下積みも何もしないまま。
「ちょっとこの1年間、余りにも怒涛過ぎて……足元がふわふわしてるような感覚が、取れないんすよ」
「………」
「今自分がいるのは、本当にこの場所なのかって」
彼はまだ成人してない。つい前々年度まで、学生の身分だった青年だ。
そんな彼が、デビュー直後から。
朝日杯馬であるクロスクロウを。
レジェンドである奥分幸蔵から任され。
半年で31勝を期待され。
秋天でサイレンススズカを救い。
そして、あのジャパンカップ。
どれほど重かっただろう。どれ程のプレッシャーだっただろう?
その双肩に、痛いぐらい食い込んでいただろうに。
「あ゛ー……飛び級して早くデビューしときたかった」
昔、学校で好成績を取って、調子に乗った彼が言っていた言葉。再び紡がれたそれに、しかしボクは心から同意する。
クロスクロウの存在さえ知っていれば、ボクだって賛成したさ。健司君は、もっと準備してからあの馬に会うべきだった。あの馬が君の人生を、良くも悪くも捻じ曲げた。
「早くクロスクロウの馬房に行きたいっす」
「どうして?」
「あそこが1番落ち着くんす」
そしてその元凶に、物理的にも心理的にも近づいて行く。
良いのか、悪いのか。人馬一体を極めていると言えば聞こえは良いけど、悪く言えば依存だ。まぁ、騎手3年目のボクだってとやかく言えるクチじゃないけれど。
それを見越して、
「メーデーパンの騎乗、見事だったよ」
「50点と60点の奴がっすか?」
「ほぼ全てへの対応が完璧だった。問題なのは掛かりへの対応が甘かった事と、そして結果的に負けてしまった事。この2点だけだもの」
「でも勝てるレースだったのに」
「大丈夫」
震える肩にポンと手を置く。僕だって前々年度に最多新人勝利を記録した身だから、励ませはする筈だ。
「分かっているか。クロスクロウだけで終わる人生じゃない、そうだろう?」
コクンと頷き。そう、大丈夫だ。ボク達には、君には未来がある。
「目の前の事を一つずつ、着実にこなしていこう。無理に先々を見通す必要は無い、それは兄さんや臼井さん達がしっかりやってくれる。ボクだって何かアドバイス出来るかも知れない」
「アドバイスも何も、こうやって話聞いてくれるだけで本当に助かるっすよ」
「それは嬉しいけど……何よりも今は、自分を大切にするんだ、健司君」
期待に応えたいと思うのは上等。だがそれで壊れてしまえば、
この業界では、人馬共にその頻度は高く……故にこそ、忌避されなきゃいけない事態なんだ。
「何度も言うけど、大丈夫。君には頼れる仲間がいるから」
「……」
「兄さんとか」
「そうっすよね!」
「うわぁビックリしたぁ」
ちょっと元気になったところに、憧れの拓勇鷹の話題を出されて火が付いたのか。なんにせよ、活力が湧いたのは良い事だ。
「うおおおおお勇鷹さんに追いつけ追い越せぇぇえぇ」と次の歌を入力する彼を尻目に、僕はトイレと言い訳して部屋を出た。
そして。
「すまないな、孝四郎」
「全くだよ兄さん。弟子の面倒は自分で見てくれ」
「僕じゃあ生沿君が固まってしまうだろ?」
壁にもたれかかるように、ボク達の会話を盗み聞きしていた兄さん。昔から人使いの荒い……。
「兄さんの伝えたかった事、ボクのも含めて全部伝えてきた。これで良いよね?」
「いや本当に助かった。今度奢ろうか」
「そんなのよりGⅠ勝利をくれよ」
「ダメ」
「分かってるさ。自力でもぎ取る
……で。兄さんは、健司君はいけると思う?」
「分からない」
それを聞いて浮かんだのは、まぁそうだよね、という納得。次いで、兄さんにも分からない事があるのかという衝撃。
「やっぱり、2年目騎手の海外遠征は厳しいのかな」
「前例が無いからね。希望的観測は除けたつもりだけど……僕自身、生沿君とクロスのコンビに目を焼かれてしまっている」
しょうがない。あの秋天とジャパンカップは、それだけ大き過ぎた。
騎手とサラブレッド、の範疇を完全に超えていた。あそこいたのは現人神か何かの類だ。
「生沿君とクロスクロウは、完成しているんだ」
1人と1頭が合わさり、一つ上の次元へと進出している。今更、彼ら片方が欠けるなんて想像すら出来ない。これはもう、騎手も何も関係なく日本全体の総意だろう。
だからこそ、惜しい。
「生沿君が飛び級して、1年早くデビューして下積み出来てたらなぁ」
「兄さんまで言い出すのか」
「本人がそれを望んでたと聞いちゃ、ねぇ」
分かってる。でも過ぎた事だ。
だからこそ兄さん、頼むよ。
「生沿君を導いてやってくれ」
「……だね」
ああ、大丈夫だ。昔から頼れる、最高の兄貴。その顔ならきっと、健司君も大丈夫だ。
そう、信じてるからな。
「なんとかするさ。それが僕の仕事だ」
ニコ動のシン・ウルトラウマ、オヌヌメです