嫌な夢を見た、と言えればどれほど良かったか。
でもボクが見ていたのは悪夢という名の現実だった。
「はっ、はっ…ぁ……!」
目を開き、遅れて上がった息と汗だくの身体を自覚する。次いで、自分が今置かれた状況を。
保健室。母国の家族と話した記憶。
「そうだ……私、エルと一緒にスペちゃんに介抱されて……」
「あっ、グラス。起きた?」
その声に目を向ければ、隣のベッドに眠るエル。そして彼女の額を濡れタオルで拭うスペちゃんの姿がある。
「うん、昨日よりも顔色は幾分マシだね。でも汗びっしょり」
「すみません、手間取らせて……」
「良いの。これが僕のやりたい事だもん」
そう言いながら、スペちゃんはこちらにも濡れタオルを翳してきた。そのまま私の頬を、割れ物を扱うようにそっと拭く。
「ごめんね。昨日は急に、君の家族まで巻き込んじゃって」
「いえ、助かりました」
本当だ。精神的に不安定だったあの時、スピーカー越しとはいえママの、パパの、そして妹の声を聞けてかなり救われたから。
……帰って来い、とも言われてしまったけれど。
「どうしたい?」
「
貴女にだけは言われたくない。同じ事態に陥っても、絶対に引き下がらないだろう貴女にだけは。
「帰る訳無いじゃないですか」
「……うん。だよね」
でも、とスペちゃんは言う。私の手をぎゅっと、優しく握って。
「僕、クロを救いたいけど…グラスの事だって同じくらい、大事なんだ」
「スペちゃん……」
「だから、グラスが帰っても、僕は頑張れるから。ちゃんとグラスの下にクロを届けてみせるから。無理だけは、しないで」
……温かい。伝わる体温が、私の中に流れ込むように。
その感覚は、かつてクロに寄り添われていた時に酷似していて───
「……それは、ダメです」
───だからこそ、甘えられない。
甘えてはいけないと、理性と本能の両方が警鐘を鳴らしていた。スペちゃんに非は無く、ただ私の方の問題で。
これに甘えたらきっと、
「私だけが、あの時私だけがクロを救える場所にいた」
あの日、あの時、あの場所で。
クロがエルと共に旅立ったあの日、クロは私にだけあの謝罪を残した。これを根拠に、私なりに「あの時、私は心理的にクロに最も近い立ち位置にいた」んだと。そう思い上がる事で、自分の心を守ってきた。
つまりそれは、あの場で一番クロに救いの手を差し出せる可能性があったということであり。
同時に、その役目を放棄した責任がある、という事。
「ちゃんとクロの側にいなきゃ……私が、私じゃいられない」
あの時果たせなかった義務を、今度こそは。
足を引っ張ってる場合じゃない事は分かっている。分かっていてなお離れない、離れられない弱さ。それを開き直る今の私はきっと、大和撫子からはこの世で最も遠い存在だろう。
「でも、スペちゃん。貴女がいるなら、きっと頑張れます」
「───!」
それでも、貴女なら。
あの有馬記念で、私に希望を見せてくれた貴女となら。
私、まだ立てます。
矛盾しているようですが、貴女といればきっと、
「だからお願い。私にも、クロを助けさせて」
「グラス……」
「それに貴女を野放しにしたら、クロを奪われてしまいますからね。そんな事は許しませんよ?」
照れ隠しに付け足した最後の一文、それを受けてスペちゃんは……え、何ですかその顔。どういう表情ですか?
「ヒトの気も知らないで、グラスはさぁ……あはは」
困惑する私の情緒を置き去りにするが如く、スペちゃんは次の行動に移る。握った私の手に、さらにもう片方の手を重ねて。そのまま愛おしげに頬へ摺り寄せる。
モチモチと潤いながらも程よい滑りを見せ、吸い付いて来るスペちゃんの頬。恥ずかしくて、こそばゆくて、何だか変になりそう。
「す、スペちゃん?その、えっと」
「うん満足。ありがとうね、グラス」
「どういたしまして?」
と思っていたら、あんなに没頭していた様子なんて嘘だったように名残も無く離れてしまった。一体何だったのだろうか。
そうしている内に重くなる瞼。あれ、まだ回復しきってなかったのでしょうか?
「あんなに泣いたんだもの。仕方ないよ」
「アーッ。アーッ」
「マンボ?ああ、そっか」
声が遠くなる。聴覚的にも、距離的にも。
「スペ、さん」
「ごめんグラス。エルを落ち着かせる為にマンボを連れてきてたんだけど、人が来るからその前に戻して来ないと」
おやすみなさい。
聞こえてきた優しいその声を最後に、私の世界は静かな闇に沈んだ。
「あなたが、グラスワンダーさん?」
聞こえる。フワフワとしてる。
だれですか?
「ライスシャワー。高等部所属で、あなたから見れば先輩……だよ」
なんでだろう、よく聞き取れない。あたまもうまく回らない。
ゆめ?
「えへへ、夢じゃないんだけど……うんやっぱり。入学式で見かけた時から感じてたけど、あなたからは運命的な何かを感じる」
うすく、辛うじてひらいた視界。くろかげを揺らして、むらさき色のひとみが覗きこんでくる。
近い。息、たがいに、まざるくらい。
「お姉さまは、私達に何を期待してたのかなぁ」
なに、って。
おもいだした。
ライスシャワー、先輩?
「ふふっ、正解。起こしちゃってごめんね、グラスワンダーさん」
「せん、ぱ、」
「おやすみなさい。あなたは、好きなヒトを助けてあげられると良いね」
……?
ライスせんぱい、は?
「よう、
グラスワンダーちゃんをこれ以上刺激しないよう、音を立てずに出た途端に掛けられた声。そう言ってもたれ掛かるあなたは、そう言えば海外GⅠが最終目標だったっけ。
「ステイさん、久しぶりだね。最後に会ったのはいつだっけ」
「知るか。見舞いにも来ない先輩とか、覚えてるだけ無駄じゃねェか」
「でも、声を掛けてくれた」
「ラストさんの縁が無かったら話し掛ける気にもならねェよ」
グサリ、と音が聞こえる。もちろんそれは幻覚で、でも確かにライスの心から聞こえた音。
翡翠の瞳が、その傷の奥をさらに抉るように見つめてくる。
「償いのつもりならやめちまえよ。鬱陶しィ」
「……そんなんじゃないよ」
「ならその辛気臭ェ顔は?
……そうだよね。ラストさんから見れば、そうなるよね。実際、その通りだよ。
でもね。でもね、ラストさん。
「それを言うなら、先にお姉さまに言った方が良いよ」
「は?」
「
ポカン、と擬音が付きそうな可愛い顔。こんな話でさえなければ、なぁ。
「……何、言ッてんだ?」
「お姉さまこそ、先にライスの運命を奪っていったんだよ。お姉さまの運命と引き換えにね」
「バカな、事……!」
「分かるんだ」
あの日、私の運命とお姉さまの運命は入れ替わった。
途切れる定めだった私の未来を、お姉さまは引き受けて。
その後続く明日を、お姉さまは私に託したんだって。
分かっちゃうんだ。
「あのジャパンカップだって、凱旋門賞の事だってそう。アレはお姉さまが獲る筈だったんだよ、ステイさん」
「それが本当だとして──尚更、許せねェな。どのツラ下げてあの歓声の中を立ってたんだ、アンタ」
「さぁ……思い出したくもないかな」
「………チッ」
お姉さまはヒーローだった。その座に今、私が居座っている。
当のお姉さまは今、座に戻れる状態じゃない。
──だったら。
「お姉さまが目を覚ますまで」
頑張らなくちゃって。そう思うんだ。
「俺はアンタを、ヒーローだなんて思わない」
去ろうとするライスシャワーの背中に、俺は絞り出すように言った。
「託されたとか受け継いだとか、そんな綺麗な言葉で片付けさせるか。アンタは簒奪者だ」
「………っ」
立ち止まった背後から投げ付ける。震えるその影へ、どこかへ消えてしまう前に杭打つように。
「アンタはヒールだ。世間サマがどうほざこうと、奉ろうと──俺だけにとっては、“悪”だからな!」
「!!」
そして。
事もあろうに、コイツは。
「……ありがとうね」
嗚呼、糞が。なんて顔で笑いやがる。
ヒールなら泣くな。ヒーローでも泣くな。
なんでだ、ラストさん。何故アンタが、よりによってアンタが
妹分がこうなるって分かってたら、それこそ死んでも選ばなかッただろ……!
「苛つくなァ……!!」
ライスシャワーがいなくなった廊下で、八つ当たりに壁を蹴った。それしか出来なかった。
ふざけんな。ふざけんな。ふざけんな!
「全部アイツの所為だ……!」
ラストさんが昔語っていた、孤児のガキ共を纏めていたとかいうウマ娘。そいつを語っていた時のラストさんの目と、あの宝塚記念を控えていた時のラストさんの目は同じ色をしていた。
アイツだ。アイツがラストさんを
「許さねェ………ッ!!!」
どんな顔かも、何処にいるかも分からない誰か。だが理性が、本能が、宿命の天敵と告げていた。
まるで
必ず見つけ出して、落とし前をつけさせてやる。そう強く、心に決意を刻みつけた。
「先輩。グラスとエルが寝てるんですけど、その近くで粗暴を働くのやめてもらえません?」
「ア?誰だ」
「俺ですよクロスクロウですよ。いくら気に入らないからって、声まで聞こえないフリは流石に……」
「……ケッ。新入生が調子乗んな」
「俺が調子乗って罰せられるのは別に良いんですけどね。調子に乗ってもないグラス達が、先輩の巻き添え食らうのは我慢ならないんで」
「……萎えた。分かッたよ、帰る」
「……………」
「あ゛〜!怖かったぁ……!!」
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