A:マジでゴメン(2回目)
正直言うと、僕は僕自身を、もっと泣き喚くと思ってた。
だってクロのいない生活なんて考えられなかったから。
でも、違ったんだ。
いや厳密には違わないんだけど、クロは間違いなく道標で幼い頃の僕にとっては絶対の背中だったんだけど、今だってそうなんだけど。
でももう、それだけじゃないんだ。
(皆がいるから)
栗毛さんやグラス達が、ユタカさん達がいる。クロ以外にも大事な、大切な存在が僕の心を占めていた。いつの間にか、皆が僕の中にいた。
そして最後に、聞こえてくるこの歓声。
「ブライト意地見せろー!」
「スペシャルウィーク―!!クロスクロウを継げー!!!」
「セイウンスカイならやれる、やってくれる…!!」
僕たちを待っている声。僕達に夢を見ている声。夢を乗せて、託してくる声。
ああ、やっぱり僕はまだ、自分の為には走り切れないや。
だって——応援されたら、力が湧いちゃうんだもん。
『前にも増して気に入らねェ面構えになったな』
『…うわ、噛み付き先輩』
『ステイゴールドだ、名前くらい覚え……そういや名乗った事無かッたか』
クロが伝説になったあの日、出会った先輩。貴方も出てたんですか、やだなぁ。
『……随分とふてぶてしくなりやがッて。ペット根性なのか王様気取りなのかどっちかにしろ』
『え?両立させちゃいけないんですか?』
『…』
何故だろう、怖くない。あの時はあんなに恐ろしい形相に見えたのに、大きく見えたのに。
きっと、分かったからなのかな。
彼もまた、前までの僕と同じように迷い———今もまだ、答えを探して彷徨ってる最中なんだろう、って事が。
『……俺は今回、様子見に徹させてもらう』
『勝ちに来ないんですか?』
『気分が乗らねェ。ニンゲン共はその気だとしてもな、ほら』
「今日はちゃんと走ってくれよ…頼むぞぉ……」
「……完走を祈ります」
「他人事みたいに……乗ってみたら勇鷹さんも分かりますって」
「僕は良いや。でももし譲ってくれるなら、生沿君に回したいかなぁ」
「鬼だ!スターター、ゲートに鬼が紛れ込んでます!!」
『うわぁ』
なんだかお祈りしてるニンゲンさんを見せられて、思わず同情した。でも先輩、流石にその態度は、本気で勝ちたいと思ってる他の仔たちに失礼なんじゃ…
…いえ、ここから先は過干渉ですね。きっと噛み付き先輩の戦いは、まだここじゃないんだろう。
『……健闘を祈ります』
『ハッ、勝手にやってろ。だがな——』
最後に先輩は、一言だけ。
『それがテメェの生き方なら、せめて派手に生き続けろよ。惨めに死んだら死体に糞掛けてやるから』
それだけ追って、あとは黙り込んでしまった。彼なりの激励、なのかな?そう思う事にしよう。
何にせよもう開始は目の前。集中力を高め、高め、高めて……
「スペシャル、良いか」
あっ、
「標的はただ前に在りだ。狙い撃つよ」
『スカイにマークですね。了解!』
ユタカさんの意識が向いた方、そこにあるのは菊花賞で煮え湯を飲まして来たライバルの横顔。目が合ったのは、向こうもこっちを警戒しているから。
一筋縄ではいかない予感。でも乗り越えてみせる!
次の瞬間、ガチャン。一斉に飛び出した。
『わわっ…やっちゃったぁ!』
スカイの声。ん、出遅れた?僕の方が前に出ちゃったけど、どうしましょうか。
「このまま行こう。どうせ抜かしてくる」
『ですね、了解!』
逃げ馬である以上はスカイは基本前を譲らない。ダービーの時はキングが焦って前に出たけど、今回はそんな切迫した馬は他にはいないし。だから僕が気を付けるべきなのは、決してペースを乱さない、その一点のみ。
《さぁスタートです、各馬飛び出す——ここでスペシャルウィークがセイウンスカイより前に出ました。予想外ですね》
《ここからどう巻き返せるでしょうか》
『いやぁスぺ君、悪いけどそこ変わってくんない?オレの場所だからさ』
『いいよー』
『軽っ』
だって僕は先行策だし…変に逃げて消耗したくないし。
と、その時。ズンという手応え、まるで背中のユタカさんにもっと重しが乗ったような。
これは…ブライト先輩ですね?
『……やっぱり効きませんかぁ。望み薄だったとはいえ、堪えますね』
『前のようにはいきませんっ!*1』
『では、引き続き様子見させて頂きましょうか』
そう聞こえたのを境に気配が薄くなる。でも隠れたからには必ずできてくる、問題はそれがいつになるか。
…う~ん。
「負けないで、スペシャルぅー!!」
その時、どこか聞きなれた声が僕を現実に引き戻した。危ない危ない、また郷愁に浸る所だった!しっかりしろスペシャルウィーク!!
そうだよ、もう気付けば半分に近付いてるんだ。だってほら、ニンゲン達がこんなにも近い!
《さぁ各馬、大歓声を受けながら正面を駆け抜けていきます》
《セイウンスカイが出遅れから持ち直す際、それにつられて全体的にハイペースになっています。これは終盤、どれだけの馬が脚を残せているしょうか?》
皆の視線が僕達に集中する、それが後押しになる。心地よくて、気持ち良くて、嬉しい。
ねぇ先輩、噛み付いてきた方の先輩。この感覚、先輩は好きじゃないの?
(うるせェ嫌いだこんなモン)
ぅへぇ、視線だけで雄弁に語ってきた。はいはい、分かりました分かりました。僕だって、今の所はクロと同じ答えを追随してるに過ぎないし。
見つけられるかな。僕だけの答え、僕だけの走る理由。誰かの為じゃない、自分の為の理由を。
でも今は、これで良いんだ。
「頑張れー!」
「掛かんな落ち着け、頼む!!」
「いけいけいけー!」
僕はニンゲンが好きだから、人間の想いに応えたいんだ。
この視線も。
この期待も。
全部全部、僕の力にして。
「──ここだ」
ユタカさんの合図。息入れの合図。
それと同時に僕は、スッと空気を鋭く吸い込む。胸の奥に入り込み、血に溶けて、全身を回っていく。道中で、身体中に蓄えていた栄養を取り込みながら。
巡る血潮は、疲れを訴え始めていた僕の体に活力を齎した。そして、ここで更に———
『———
「よし来れたっ!」
また、海を見たようなあの感覚!これで体はいよいよ本調子、終盤に向けて準備万端になったと言えそう。後は位置取りにさえ注意すれば……
「……なっ、」
ん?どうしましたユタカさん。そろそろ、スカイを抜かす為の位置取り調整ですよね。何か問題が?
「不味いぞ、スペシャル。後ろだ」
不味い?朝ごはんは美味しく頂きましたが何か。
後ろなんて見てどうするんですか、スカイが悠々と先頭集団を引っ張ってるってのに。
『やあ、どっち見てるんです?』
どっちって、そりゃマーク相手の姿を探して前を……
ん?
んんん??
『にゃははっ。海だかなんだか知りませんが、
……や。
や……っ!
「『やられた…!!』」
《さぁ向こう正面へ向かって……!?スペシャルウィーク
あー!この瞬間はやっぱり気持ち良いですねぇ最高ですねぇ!!
そう思いませんかタテミネさん!
「ああ、全くだな!このどよめきも何もかも…!」
おっ、肯定のニュアンス。やっぱそうですな、特にスぺ君のあの顔!バクチ打った甲斐があるってもんですよ全く!!
「ははっ…ノってくれてありがとうな、スカイ」
いえいえ、タテミネさんの指示なら何とでも。優先度としてはフラワー姉の命令の次くらいだから、誇ってくださいな?
……それはそれとして、下がる指示を出された時はビックリしたよ全く。出遅れの果てに必死こいて取り戻した先頭の位置、それを手放すって言うんだから。
「ダービーの時、キングヘイローが爆逃げした果てに垂れまくったのを思い出したんだ。同じ事をスペシャルに、ダービーよりも遥かに長いこの春天で押し付けられたなら……!」
『ちょちょちょ、ストップお願いします。そんなに複雑な言葉でまくしたてられたら、ニュアンスじゃ理解するにも限界がありますって』
「…ああ、すまない。興奮し過ぎた」
でもまぁ、その指示が正解なのは薄々感じてたしオーケーオーケー。だってスぺ君達ったらこっちをバッチバチに意識してくるんだもの、なんとか逃れられないかなぁって考えてた訳ですよ。でも、菊花みたいなペース騙し作戦はもうタネがバレてるから使えないし。
そこで手綱を引かれて、思ったんですな。あっこれだ、と。
そこからはもう、出来る限りスぺ君だけが先頭になるよう他の先頭集団馬に
という疑問に答えてくれたのは、もちろんタテミネさん。
「ユタカさんとスペシャルは、先行策の時に息を入れるタイミングがあるんだ」
『息?』
「要はちょっとした休みだな。それに紛れて下がれば、気付かれるのも遅れるかなって…結果はビンゴ」
ほうほう。大体よく分かりませんが、とりあえず計算尽くだったという事で良いですね?
「…まぁ、出遅れ以外は」
『やったー!』
よーし達成感マックス!やる気も満タン!!後はオレ自身が掛からずに、最終コーナーからの直線で差し切るだけだ。
『見てろよスぺ君、クロス~……!!!』
君が、君の弟分が力尽きた時。それがオレの勝利の瞬間だ…!
『……正直、正気を疑いたいですね』
後ろから見ててドン引きしました。逃げ馬が逃げを捨てて、周りを巻き込んで意図的に垂れるだなんて。それも、ただ一頭を陥れる為だけに。
『本馬はトリックスターのつもりのようですが……これは、寧ろギャンブラー』
『どどどどうするんですかこれはぁ!』
『そしてこちらはパニッカー』
『ブライトさぁん!?』
同じ作戦同士、似た位置でフクさんと共に前を伺いますが……いえ、撤回しましょうスカイ君。先程“ただ一頭を陥れる為”と言った事を。
『前がこんな混沌としてたら、抜け出すタイミングがぁー!!』
『……そうですねぇ』
前が総崩れになって、ようやく半分を過ぎた地点なのに既に先行馬が先頭になっている混乱状態。先鋒を押し付けられたスペシャル君は勿論の事、プレッシャーに惑わされ落ちた逃げ組、落ちてきた先鋒組に進路を閉ざされた他の先行組、そして団子になった前方に絶望する僕達こと差し組。得したのは意図していたが故に即座に自力で持ち直したセイウンスカイ君だけという、地獄のような独り勝ちの様相です。この有様では、仕掛け所が掴めません。
……ああ、そうだった。なんで今更思い出したんでしょう?スカイ君は有馬で中々な走りを見せてたじゃないですか、グラス君の印象が強すぎて抜けていました。もっと早くに思い出して、警戒するべきでした。
『しかしこれでは、博打にしても……』
『賭けなら負けません!ワタクシにはシラオキ様のご加護がありますから!!』
『そしてこちらは神頼み』
『ブライトさぁーん!?!!?』
スペシャル君を孤立させる、その為の布石として前方集団をかき乱したのは分かります。結果に至るまでの用意周到な仕込みこそが、きっと貴方の本領なのでしょうね。
しかしそれでも不確定要素が大き過ぎます。上手く周りが掛かってくれるかが不明、スペシャル君に勘付かれないかも不明、何より自分が無事で済むかも不明。最悪の場合、他の馬の邪魔をしたという事でニンゲン達から
『本当に…不思議な世代ですね~』
『うわー!急にほわぁとしないでください!』
『いえいえ、自分でそうありたいと取り繕っただけですから』
そう、こういう時こそ自分を保つ。己を知れば百戦危うからず、一方で自分を見失えばそもそも土俵にすら上がれません。
今、土俵の上にいるのはスペシャル君とセイウンスカイ君。そこに僕も加わるべく。
『フクさん、置いていきますよ』
『そうはいくものですか!フンギャロォーッ!!』
同期の
時代は僕たちの物です。あなた方に明け渡すのは、今日じゃない……!!
《スペシャル先頭、掛かっているか苦しいか、勇鷹の折り合いはどうなのか!?二番手に縦峰セイウンスカイのコンビぴったりと追走しほくそ笑む、メジロブライトはいつ来るか!さぁ最終コーナーも近くなり、阿鼻叫喚の喝采巻き起こる京都競馬場———!!》
黒鹿毛君とユタカさんの声が、聞こえた気がする。苦しそうな音色の、吐息のようだった。
思わず見上げた空は青い。どう足搔いても届かなくて、でも何もせずにはいられない。
(…頑張って…!)
目を閉じ祈る。求める声にいつでも応えられるように、クロ君が私にそうしてくれたように。
そうやって静止した私の姿を、シーラちゃんだけが静かに見つめていた。