問題の人物は去ったがオペレーションの立て直しが急務となった。男の担当していた料理はヒシアケボノが直接請け負い、厨房の調理補助とホール業務は残っているアルバイトにシフトの増加を依頼した。
幸いヒシアケボノ自身には人望があったためアルバイトたちは理解を示してくれたが、彼らにも都合がある。ひとたび欠員が出れば、入場制限をしなければならないほどギリギリの人数で回さざるを得なかった。
新しい人員の募集もおこなったが、たとえ業界経験者であっても、店独自の規則や雰囲気、言語化の難しいノウハウ、人間関係の構築なども考えると戦力として数えるには数ヶ月は猶予が必要である。
なるべく少ない人数で作業を回すことができ、ミスをしづらく、早く習熟できるように業務を再構築する必要があった。しかしどうすればいいのかわからなかった。元はといえば自分の人をみる目の甘さが原因だ。だのに従業員は自分についてきてくれている。彼らに報いなければならない。だが光明はみえなかった。
そんな折、トレセン学園卒業後も親交を続けているかつてのライバル、ビコーペガサスから連絡が入った。久々に非番になったから遊びに行かないかと。
ビコーペガサスは現在警察官として
当日、ひととおり買物や遊びに興じたふたりは、ビコーペガサスが贔屓にしているイタリアンレストランチェーン『S屋』で休憩をとった。
安い・早い・うまいと三拍子そろっているうえ、椅子の座り心地も悪くないので、美味しいものを食べてリラックスしつつ非番時の急な呼び出しにも対応できて重宝しているという。
メニューをみるとミラノ風ドリア一皿300円、グラスワイン一杯100円をはじめとして手頃な価格が並んでいる。それでいて安かろう悪かろうではなくしっかり美味しい料理を楽しめるため、コストパフォーマンスに優れる店として市井の人気は高く、外食不況の時期でも順調に利潤確保と規模拡大を遂げられた優良チェーンである。
ひとしきり注文した皿を空にして、食後の飲み物で一息ついていると、おずおずといった感じでビコーペガサスが話を切り出した。
「なあボノ、今日はいったいどうしたんだ? 遊んでるときも食べてるときもどこか上の空で心ここにあらずって感じだったぞ。ひょっとして楽しくなかったか?」
「ううん、そんなことないよビコーちゃん。心配させちゃったみたいでごめんね。最近、お店でうまくいかないことがあって、そればっかり考えちゃってたの」
「うまくいかないことって、お客さんからクレームでも入ったのか?」
「うーん、お客さんは変わらず美味しいっていってくれてるんだけどね、スタッフ間で揉めちゃって、何人か辞めちゃったんだ。作る人も食べる人も、ボーノになれるお店を目指してがんばってきたんだけど、あたしのやり方は間違ってたのかなって悩んでるの。でもどうすればいいかわからないの」
「理想と現実のギャップってやつかー。ボノも苦労してるんだな。アタシも似たようなことよくあるよ」
「ビコーちゃんもそうなの?」
「ああ。駐禁の切符切ったら"税金泥棒!"って罵られるのなんかしょっちゅうだし、重大事故の現場なんか行くと目を覆いたくなるような惨状が広がってて、慣れないうちは吐いちゃったこともあったしな。被害者に事情聴取したら泣き崩れて聞き取りどころじゃなくなったり……。
そういうときはホント、なにやってんだろって自己嫌悪するよ。キャロットマンだったらもっとカッコよくスマートに解決するはずなのにってさ。ひょっとしたらヒーローも画面に映らないところで人一倍悩んでたのかもしれないけどな」
「そっか、ビコーちゃんも大変なんだねぇ……」
ほかの人も同じように悩んでいるんだ、自分だけじゃないんだと思うと、少し心が軽くなったような気がした。
お互いがやりきれなさにため息をついていると、湿っぽい雰囲気など関係ないとばかりに無機質な着信音がビコーペガサスの携帯電話から鳴り響いた。緊急の招集だった。
「悪い、ボノ。行かなきゃならなくなった。これでアタシのぶん払っといてくれ。バタバタしちゃってごめんな」
「気にしないでビコーちゃん。お仕事なら仕方ないよ。気をつけてね」
「おう、じゃあなボノ。今度はボノの店にも食べに行くよ」
そうしてビコーペガサスは警察所属のウマ娘用の制帽をかぶり、ウマ娘専用レーンを駆け抜けていった。
ひとり残されたヒシアケボノはあらためてメニューを見渡して思索にふけった。
「(S屋のメニュー、どうやってこんな安い価格実現してるんだろう。ほかのお店だったらどれも倍以上の値段でもおかしくないのに。エスカルゴなんて本格的なお店だったら2,000円はするのにここじゃ400円。なのに美味しさが損なわれているわけでもない。セントラルキッチン方式を採用してるとは聞いたことあるけど、それだけじゃこの価格は無理だよね。ほんとうに不思議)」
メニューから顔を上げてフロアを見渡すと、自分の店よりも店舗面積が大きいにもかかわらずフロアスタッフが1名しかいない様子に気がついた。
「(ピークタイムなのにひとりでぜんぶ対応するのかな。あれ? 厨房から人が出てきた? フロアスタッフの制服だよね。フロアスタッフなのに今までキッチンで作業してたってこと?)」
通例、飲食店の役割分担はキッチンとフロアとで明確に分けられ、たとえ一方が忙しくしていてももう一方がヘルプに入ったりはしない。当たり前だと思っていた慣習がここではそうではないことを目の当たりにし、ヒシアケボノはS屋に興味が湧いた。
帰りしな、本屋でこのレストランチェーンについて書かれた本をいくつか買って読んでみた。そしてわかったのは、食材の調達から顧客の口に入るまでのあらゆる工程において徹底的に無駄を削ぎ落とし、生産性を追求する企業努力の数々だった。
特に店舗オペレーションの改善について言及した箇所については目が釘付けになった。
S屋にはエンジニアリング部という部署があり、経営工学*1の手法を用いて店舗における作業者の動きを分析し、最短の作業手順を開発し、全店に展開している。
特筆すべきは、店舗によって程度の異なるピークタイムのオペレーションではなく、どの店舗でもおこなわれる固定作業を優先して狙い撃ちしている点である。
たとえば開店前の掃除作業がそうだ。従来の手順では、フロアに掃除機をかけたのちモップもかける工程になっていたが、掃除機のゴミパックの中身を検証したところ、大半が砂・埃・食べカスなどの細々としたゴミだった。そこで作業動線を新たにしたうえでモップがけを先におこない、ゴミを数ヶ所にまとめてから掃除機で吸う手順に変更することで、移動距離を半減させることができた。
また、モップもボタンを押すとモップの先から水が出るタイプのものに変更し、モップの吸水にかかる時間をも削減した。そのほか入口前の掃除やパーティションの掃除を開店前でなく営業中の空き時間におこなうよう組み替えた。
これらの作業手順の変更により、従来は60分かかっていた開店前の掃除作業を30分に短縮することに成功している。単に作業時間を短縮しただけでなく、従業員の作業負荷の低減も同時達成しているのが見事だった。
「読んでてびっくりが止まらなかったよ~! ここまで徹底してやってるなんてほんとうにすごいよね。チェーン店を下にみてたわけじゃないけど、いままで目に入ってなかったのはもったいなかったなぁ」
ここに自分の店の改善のヒントがあるかもしれない。そう感じたヒシアケボノはS屋でアルバイトをする決心を固めた。すでに一国一城の主ではあったが、これと決めた場所に潜り込んで修行するのはいままでたびたびやってきたので抵抗はなかった。
履歴書にはこれまでの経歴を包み隠さず書いた。応募先の店長には狐につままれた顔をされたが、彼女の本気を感じ取ったのか、採用を決めてくれた。
週に1回、自分の店の定休日にしかシフトに入れないので職位はいちばん下のランクだったが、上下関係はほとんどなく、高校生からシニア層まで老若男女が和気藹々と働いているのが印象的だった。
高校生でも"こっちのお皿から洗ったほうが早いですよ"と年齢差を気にせず当たり前に教えてくれる。店長からの仕事の説明も丁寧だった。
ヒシアケボノにとってこれは新鮮な体験だった。彼女がいままで経験してきた料理人の世界は一種の職人稼業である。みながせわしなく動く殺伐とした雰囲気のなか、仕事は盗んで覚えろという職場も珍しくない。
しかしそこでがんばれるのは一流店で働いた経験やノウハウを吸収して一人前になりたいからであり、一介の町レストランが真似すれば誰もついていけなくなる。来る人をふるいにかけるのではなく戦力にしなければならないのだ。
それだけに、丁寧な説明や円滑なコミュニケーションが自然に発生するこの店の文化には学ぶべきところがたくさんあった。
作業の簡便さについても見逃せなかった。キッチンでは包丁を使わず、加熱するだけ・和えるだけなので教える事項が少なくて済み、新人でもすぐに仕事を覚えられる。また、これほどまでに作業が簡易化されているからこそキッチンとホールの両方を担当でき、従業員の多能工化が達成できるのだ。
くわえてS屋はマニュアルが整備されており、作業手順が厳密に決められている。皿やグラスを下げるさい、なにをどちらの手で持ち、洗い場のどこに置くかや置く順番までもが決まっているし、机を拭くときの動作も定まっている。
こうもマニュアルだらけだと辟易しないのかと同僚に尋ねてみたところ、むしろ好意的な答えが返ってきた。
「前も飲食店でバイトしてたんすけど、細かい部分になると人によってやり方とかいってることが違ったりして混乱することがあったんすよね。どっちが正しいんですかって質問したらウザがられたりもしたし。
ここじゃ作業や手順がきっちり決まってるし、わからないとこ質問してもちゃんと理由込みで教えてもらえるから助かってますね。ど忘れしてもマニュアル確認すればすぐに思い出せるし、ほかの人の時間を奪わないで済むからむしろ人間的だと思いますよ」
定型作業が厳密に定められているからこそ判断に迷いがなくなり、時間的・精神的な余裕ができているのではないかというのが彼の見立てであった。彼はそれをスタッフのグループLANE*2で作業のやり方について提案したときに実感したという。
"この容器は下にして置いたほうが異物混入を防げるんで、そうしませんか?"。この提案は店長から本部へと伝えられ、正式なルールとなった。
「バイト風情の俺の提案でもちゃんと聞いて取り入れてくれるんだからすごいっすよね。懐が深いというか。時給だけならもっといいとこありますけど、こういう風通しのよさとか、雰囲気のよさとか好きで、俺、ここで働くの楽しいっす」
働くのが楽しい。自分の店はそういう職場になっていただろうか。アルバイトの立場になって、同じ立場の人と話して得られた会話は、彼女の心に深く刻み込まれた。
S屋でしばらくアルバイトしたのち、ヒシアケボノは経験を自分の店のスタッフに話して聞かせた。"S屋ではこんなことをやってたんだけど、うちでもできないかな?"。多くのスタッフが以前から思うところがあったらしく、ヒシアケボノの話に耳を傾けた。
それから業務改革が実行された。
まずおこなわれたのは新たな道具の導入と作業方法の改善である。とりわけグラス洗浄機の導入は大きな効果をあげた。
ワイングラスを水道水で洗ったまま放置しておくと、水道水中に含まれるミネラル分が水垢となって現れるため、洗ったらすぐに布で拭かなければならない。しかし拭き残しが生じたり手元が狂って落としてしまったりとアクシデントの種であり、思いのほか神経を使う作業であった。
グラス洗浄機の導入により数十脚を純水で自動洗浄できるようになり、洗浄が終わったグラスをラックで自然乾燥できるようになったため、以前は数時間かかっていた終業後の洗浄作業を数十分に短縮できた。
業務用のグラス洗浄機は中古でも数十万円はくだらないが、削減できる時間と人件費を考えればじゅうぶん割の合う投資だった。
グリストラップ*3の掃除方法の改善も従業員から大きな支持を受けた。ヘドロと化した油脂のこびりついたグリストラップの掃除は、感触の気持ち悪さと鼻の曲がりそうな悪臭に誰もが忌避したい作業である。
S屋式の掃除方法を導入することで、いままで1回1時間、週3回おこなっていた作業を週1回、10分程度に短縮することができ、従業員のストレス軽減に大きく寄与した。
また、厨房では大きな権限委譲がおこなわれた。以前は大半の料理についてヒシアケボノが味見したうえで給仕していたが、彼女が腕を認めた一部のコックについては味見なしで出してもよいルールに変更した。これによって料理の提供時間が短縮するとともにコックたちの感じていた緊張感が緩和された。
厨房とホールの垣根も取り払われた。ホールが忙しければコックが自分で配膳したり、厨房が忙しければホールが皿洗いに入っても構わないルールになったため、たびたび発生する厨房とホールの忙しさの不均衡がならされ、臨機応変な対応が可能になった。
併せて業務マニュアルも作成された。これは開業時から働いている女性アルバイトがキーパーソンとなった。丁寧でまめまめしい仕事をしてくれていたが物静かで引っ込み思案な性格だった。
ヒシアケボノとスタッフたちが業務改善のアイデアを話し合っていたとき、話を振られた彼女は遠慮がちに口を開いた。
「あの……おしぼりって、袋から出して、折りたたんでからお客様にお出ししてますけど、袋に入れたままお渡ししてもよろしいんじゃないでしょうか。リストランテならともかく、
ヒシアケボノは来てくれたお客様に心尽くしをするつもりでいままでそうしてきたし、スタッフたちもその心意を理解していたので誰も異議を挟んでこなかった。しかし衛生面に問題があると指摘されては耳を傾けないわけにはいかなかった。
衛生面の問題は食中毒につながる。食中毒は飲食店にとって死活問題であり、もっとも避けるべきトラブルである。いくら注意してもしすぎることはない。
「それと……電話やメールの対応なんですけど、人によって返答の仕方や言葉遣いがバラバラですよね。これも、統一じゃないですけど、雛形みたいなものがあったほうがいいと思うんです。
私、電話が苦手でいまだに慣れなくて、すごく緊張してしまって……。どう話すべきか、なにを聞いてなにを伝えなければならないのか、その内容が最低限決まっているととても助かりますし、新人さんも飲み込みやすいと思うんですが……。ええと、ほかにも……」
たどたどしくも一所懸命に伝えられた彼女のアイデアの多くは、ほかのスタッフが認識していなかった問題をあぶり出すものだった。ここまで考えてくれていたんだとヒシアケボノは彼女の活眼に目を丸くするととともに、スタッフの能力に気づけていなかった自身の不見識に忸怩たる思いがした。そしてひとつの決断をした。そのアルバイトスタッフにマニュアル作成の取りまとめを依頼したのである。
しばらくの間、厨房・ホール問わずスタッフの動作の観察に専念させ*4、そこで得た気づきやアイデアが各業務につき1~2枚のA4紙に草案としてまとめられた。作業工程を写真に収めたり動画をとったほうがわかりやすいのではないかという意見も加味し、店独自のマニュアルが完成した。そのマニュアルは現在も定期的にアップデートされている。
「私、お料理は好きですけど、鈍くさくて、シェフや周りのひとたちに助けてもらってばかりでした。役に立っているか自信がなかったんです。
マニュアル作りの件も最初は断ろうかと思ってたんですけど、"ほかの人とは違った視点でお店をよくみてくれてるあなただからこそお願いしたいの"っていってもらえて、心に響きました。業務の調整やほかのスタッフの説得もしてくれて、ああ、シェフは本気でお店を変えようとしてるんだな、それならちゃんと期待に応えたいなって思ったんです。
マニュアルを作ったからって私自身が大きく変わったわけではありませんし、ものすごい感謝があったわけではありませんけど、ここに入って日の浅い子が、あれはどうやってやるんだっけってマニュアルを確認するのをみると、ちゃんと役に立ってるな、がんばってよかったなって思うんです」
マニュアル作りを主導したアルバイトスタッフが後年、はにかみながら以上のように語ったのがヒシアケボノは印象に残っているという。
「知らず知らずのうちにね、あたしは自分の王国を作っちゃってたんだって反省したなぁ。人に任せるのは難しいし勇気がいるけど、あたしの力がいくら強くたって自分ひとりにできることなんて限りがあるもんね。自分についてきてくれてる人たちとちゃんと話をして、性格や能力を見極めて信じて託す。そうしないと自分の器以上の変化や広がりは得られないってお店のみんなから勉強させてもらったねぇ」
ヒシアケボノがS屋から持ち帰ったアルバイト経験をもとに業務改善をおこなった結果、就業時間の短縮や以前よりも少人数でのオペレーションが可能になったことでスタッフ間の意思疎通が以前よりも円滑になった。離職率も低下した。人件費が縮小したぶん利益が向上し、従業員の給料をあげることもできた。
なにより、みなが活き活きと働けるような環境に近づけたのが喜ばしいと彼女はいう。
「家族と過ごす時間が増えた人もいるし、あたしの真似してよそのお店に研修に行く厨房スタッフも出てきたね。アルバイトの子がフェアの企画を考えてくれたこともあったし、うちのちゃんこ鍋をスープの素みたいにして外販したら売れるんじゃないかっていろいろ調べてくれた子もいたなぁ。あたしは基本ノータッチ。みんなが好き好きに考えて楽しそうに働くのをみられるのが嬉しいんだ」
店の経営が軌道に乗ってきたヒシアケボノは現在、次の計画を考えているという。
「アメリカにお菓子の家みたいな建物があるの。ジンジャーブレッド・スタイル・ハウスっていうんだって。そこで建物の雰囲気を活かしたコンセプトのお店をやってみたらおもしろいんじゃないかなって考えてるんだ。いまのお店はチームが自走するようになってるからあたしがうるさくいわなくてもお店の味を作れるようになってるし、あと何年かしたら完全に誰かに任せるか譲るかしてもいいかなって。
昔はあたしの作ったお料理を美味しく食べてもらえればそれでじゅうぶんだったけど、お店を持つようになったいまは、作る人・食べる人だけじゃなくて、働く人も含めたみんなが幸せになってほしいし、そういう場所があたしにとってのちゃんこ鍋なんだと思う。あたしだから作れるちゃんこ鍋を、もっといろんなところに作っていきたいな」
多くの下積みや課題を乗り越え、今後の展望を語る彼女の表情は、