引退ウマ娘のセカンドキャリア   作:空洞丸

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ケース4. 一児の母 マチカネタンホイザ
前編:地獄のおっぱい合宿


 閑静な住宅街に佇むある邸宅で、一組の親子がレースクラブの練習に出かけようとしていた。

 

「じゃあ行ってくる。悪いけど留守は頼むよ」

「いってらっしゃ~い。きょうはお願いね」

「きょうはおとーさんが連れてってくれるの? おかーさんなにかあるの?」

 

 練習場に連れて行く保護者が普段と違うために、子は不思議な顔を浮かべた。

 

「おかーさん、きょうは取材を受けるんだってさ。そっちも頑張ってな」

「ふっふーん! がんばるよ~! いや~、単独取材なんていつぶりだろ。緊張しますな~」

 

 母親の顔はやや照れがありながらも満更でもない様子だ。耳慣れない単語に子が聞き返す。

 

「"しゅざい"? しゅざいってなにー?」

「お母さんの昔のお話が聞きたいんだって」

「いいなー! わたしも"しゅざい"うけたーい!」

 

 母親の真似をしたがる無邪気なわが子に夫妻の顔から笑みがこぼれた。

 

「ははっ、じゃあいっぱい練習して、大会で勝てるようにならないとな」

「うんうん、頑張らないとね」

「うん! わたしがんばる! おとーさんおかーさん、いつものやろー!」

「よしきた」「よーしやっちゃうぞー!」

 

 家族間で定番となった儀式をおこなうべく、父、母、子の三者は差し出した手を重ね合わせ、子の明朗な掛け声に同調した。

 

「せーの、「「えい、えい、むん!」」」

 

 

  ◇

 

 

 冷蔵庫に貼られた小学校からのお知らせ、コルクボードにかけられた親子の写真の数々、おもちゃや衣類、細々とした道具がよく整理整頓されて収納されている居間。きょうはあるご家庭にお邪魔している。

 引退した元レース選手の生活を取材させていただきたいと先方に申し出たところ、ご快諾いただいたばかりか、ご自宅に招待されるという栄誉まで賜ってしまった。恐縮する私に対して目の前の取材対象は鷹揚な姿勢で接してくれた。

 

「きょうはよろしくお願いします! なんでも答えちゃいますよ~」

 

 一児の母とは思えないほどの美貌と若々しさを保ち、綿雲のようにやんわりとした和やかなこの女性は、数々のGIレースに出場し、勝負を盛り上げた立役者のひとり、マチカネタンホイザである。

 

 

 マチカネタンホイザは主に中長距離戦線で活躍し、親しみやすい雰囲気と独特の言語センスで老若男女から幅広い人気を博した。特に彼女が気合を入れるさいの、「えい、えい、むん!」という掛け声は、中毒性の高さと扱いやすさからインターネットミームとなり、普段はレースに親しみのない層にまで浸透した。

 当時、NHK広報局がNHKマイルカップの宣伝のためにウマッターでこの掛け声をウマートするほどの社会現象となり、現在でもレースのインターネット中継に寄せられるコメントに時おり出てくるほどの影響力を保っている。

 

 翻ってレース選手としてのマチカネタンホイザを表すと「惜しい」の一言に尽きた。

 メイクデビューを6バ身もの差をつけてレコードタイムを叩き出し、華々しいデビューを飾ったときにはとてつもない新星が現れたと関係者から注目を浴びた。しかしその輝きは同時代の巨星たちによって霞んでしまった。

 同期には二冠ウマ娘のミホノブルボン、菊花賞・天皇賞(春)を制したライスシャワーらがおり、上の世代にはトウカイテイオーやメジロマックイーン、下の世代にはビワハヤヒデやナリタブライアンなど、レース史に名を残す多士済々がひしめいていた。彼女らの驥足(きそく)に阻まれ、GIへの挑戦は12回*1にも達したが、待ちかねた勝利はついぞ来なかった。

 

 実力がなかったわけではない。GI出走数がそれを証明しているし、重賞勝利数*2でいえば彼女もまた俊英のひとりだ。菊花賞では2着ミホノブルボンとアタマ差の3着、ライスシャワーにもGII目黒記念で勝利している。しかし一流どころが揃い踏みとなるGIだとなぜか勝ちきれない。大舞台では脇役に甘んじてしまう彼女にファンも陣営も歯痒い思いを拭えなかった。

 

 しかし惜しい結果が続いても彼女は腐らなかった。相手の実力を素直に認め、「今日は勝てませんでしたが次に勝つための大きな肥料になりました。大事なのは次ですよ、次!」と常に前向きなコメントを残した。この潔いスポーツマンシップ、何度負けても勝利を諦めない姿勢に勇気づけられたファンも多いという。

 

 当時、担当トレーナーはインタビューで彼女を評して"ストイック"と語っている。

 

「マチカネタンホイザのもっとも大きな魅力は非常に安定したメンタルです。負けたとしても自分に足りなかったところを冷静に受け止めて、次はこういう風にしよう、そのためのトレーニングにはなにが必要で、どんなものを食べて、休養はどうするかといった今後の計画に、すぐさま気持ちと頭を切り替えられるんです。

 大レースで負けた後の食事で、なんて声をかけようかと気を揉んでたら、彼女のほうから次のトレーニングの計画を考えたんですけどって、愛用の手帳をみせてきて相談されることがよくありました。これには私のほうが勇気づけられましたね」

 

 インタビューが掲載された雑誌には、彼女の手帳に記されたメモが一部記載されていた。レース前の特訓メニュー、早朝のランニング時におこなうチェックリスト、曜日ごとに設定された部位別の筋トレメニューなどのトレーニング計画や対戦相手の分析、レース展開の予想、摂取すべき栄養や休息について、日々の気づきを記したメモや意気込みなど、勝つために普段から見聞し、思考した痕跡が事細かに記されていた。

 

 これにファンは仰天した。それまではクラスのアイドルのような華やかさがありながら肝心なところでポカをやらかすちょっと抜けた娘という印象を持っていたものが大半であったが、この手帳の公開後、勝つために貪欲に努力するアスリートという新たな像が生まれたのである。

 

「彼女は自分を普通の娘だと思っていますし、勝つためにこれくらい努力するのは普通だよといっていますが、負けが込んだら大抵の娘は気落ちしたり心が折れたりするものです。けれど彼女にはそういう精神的なブレがほとんどない。自分自身に突出した能力がないことを自覚し、相手との実力差を目の当たりにしてもなお、勝つための思考や努力に気持ちを切らさない心の強さを持っている。普通だなんてとんでもない、これはレース選手として大きな強みです。

 よくファンの方から、タンホイザさんの頑張る姿に勇気をもらいましたといわれるんですが、普通の選手である自分でも足りないところを埋めるべく努力し続ければいつか勝てると愚直に信じて汗を流しているからこそ、ファンの方も、自分でもできるかもしれない、もっと上を目指してもいいんだと励まされたんじゃないでしょうか」

 

 

「ずっと個性がほしいって思ってたんですけど、トレーナーや理事長さん*3、ファンのみなさんに、普通の娘だからいいんだっていわれたときは、私にとっては普通でも、他の人にとっては個性にみえるのかもって思えましたねぇ」

 

 人の数だけ"普通"があるのかもしれない。現役時代におぼろげに抱いたその考えは、結婚を経て出産し、子育てをはじめるようになってから深く実感として彼女に根付いたという。

 

「特に、赤ちゃんが産まれたばかりのころが一番大変でしたね。相手を観察して、分析して、策を考えて試すっていういままでやってきた方法がぜんぜん通用しなかったんです。こっちの思惑や想像を軽々超えて、とてもひとりじゃ太刀打ちできない。そこでママ友のやり方を訊くと思いもしない方法であやしたりしてる。よそのお宅じゃそれが普通なんだと、そこに気づくのに時間がかかりました。ひとつの命を育てていくのは、普通の一言では決して語りきれないですね」

 

 

  ◇

 

 

 マチカネタンホイザはトレセン学園卒業後、大学へ進学し、大学卒業後は一般企業に就職した。その後現在の夫と共通の知人を通して知り合い、結婚。交際から結婚までは駆け足気味だったものの、普段は陽気で人当たりのよい彼がプロポーズ時にみせた緊張とたどたどしい言葉遣いにかえって毒気が抜かれ、この人となら大丈夫そうだとゴールインすることに決めた。

 

 結婚式は双方の親族・友人を招いて盛大に祝われた。仲人は元担当トレーナーが務めた。両親は娘の巣立ちを涙を流して喜んだ。義両親も息子をよろしくと快く背中を押した。力加減を間違えた彼女がブーケをあらぬ方向に飛ばしてしまうハプニングもあったが、彼女をよく知る人たちからは、それもまた彼女らしいと祝福の言葉があられのように寄せられた。理想的な結婚式だった。

 

 ほどなくして子どもを身籠った。つわりがはじまり、受診した産科の診察室で経膣超音波(エコー)検査の画面に映ったそら豆のような形の胎児の姿と心音とを認めると、夫妻は抱き合って喜んだ。身重の妻を夫はよく気遣い、だんだんと大きくなっていくお腹の子の成長を一緒に喜んだ。

 妊娠が安定期に入ると両親学級にも夫とともに参加し、親になる準備をはじめた。出産への期待に胸を馳せた。心が踊った。平凡だが人並みの幸福な生活がこれからも続くと信じて疑わなかった。

 

 

 妊娠6ヶ月を過ぎたころ、事態は風雲急を告げた。夫が遠方への転勤の辞令を受けたのである。両親、義両親のいる場所とは遠く離れた土地だった。すぐさま夫婦会議が開かれた。お腹の子の安全を考え、きみはここにとどまった方がいいと夫は説得したが、彼女は自分もついていくと譲らなかった。

 たしかに夫に単身赴任してもらい、自分は両親か義両親のもとに身を寄せれば出産にあたって助力が得られるかもしれない。しかし離れて暮せば夫は血を分けたわが子の誕生の瞬間に立ち会えないかもしれない。産後に乳飲み子を抱えて引っ越すのはより困難だから、子どももしばらくは父親の顔を知らずに育つだろう。

 なにより、籍を入れて1年にも満たないにも関わらず愛する夫と離れ離れになるのは考えられなかった。大衆食堂の娘として生まれた彼女にとって、夫婦とはいつも一緒にいるものだったのである。

 

 彼女の意地に夫も折れて、連れ立って引っ越すことを認めた。決して重い荷物は持たないことと釘を差されたので、もっぱら引っ越し先の産科病院の情報収集に精を出した。彼女自身の仕事は辞めざるを得なかった。

 

 引っ越し先の病院で尋ねられたバースプラン*4には「Make Debut!」を流してほしいと希望した。これから親になる自分たちの覚悟と、光射す世界へ生まれいずるわが子への祝福を願っての希望だった。引っ越し先の地域でも指折りの産科病院を選んだおかげで、大きなトラブルもなく自然分娩で出産を遂げた。新生児を胸に抱いてその体温とか細い身体を感じると、新しい家族と出会えた喜び、分娩からの開放感とスタッフへの感謝とも相まって感涙にむせび泣いた。

 

「産むときは身体が引きちぎれそうなほど痛くて、死んじゃうんじゃないかって思いましたねぇ。もっとこう、すぽぽーんと出てきてくれれば楽だったんですけど。いやぁ、年賀状の写真に添えられた『産まれました』の一言にすっごいドラマが詰まってたんですなぁ~」

 

 出産時の記憶は彼女の中で印象に残っているのか、たっぷりと情感を込めて詳細に回想してくれた。

 

 

 予定日近くになって周期的な陣痛がはじまり入院し、陣痛室で破水を待つ間も、陣痛により襲われる痛みと同室の妊婦の絹を引き裂くような叫び声が気になって眠るどころではなかった。

 破水が起きて分娩室に移動してからは、彼女も普段のやや舌たるい声音からは想像もつかない獣の咆哮のようなくぐもった喚声を絞り出した。身体は反り返り、手は空をつかんだ。心のなかでは何度も助けてと懇願した。娩出中も陣痛が寄せては引き、断続的な痛みが繰り返されるうちに時間の感覚は失われた。順調に進んでますよと励ます助産師の声が信じられなかった。こんなに痛いのに、順調? 産道が裂けているのではないかと感じた。出産のためというよりはむしろ自分が気を失わないためにいきんだ。思考は混濁して、気持ちはぐちゃぐちゃだった。バースプラン通りにかけられた「Make Debut!」は耳に入らなかった。

 

 新生児の頭が半分ほどみえてきたところで入院生活中に顔なじみとなった助産師たちが入室し、4人がかりで彼女の足腰を持ち上げた。夫も会社から急いで駆けつけてきて、彼女を励ました。

 

「もうすぐ赤ちゃんに会えますよ! 頑張って!!」助産師の一人が活を入れた。

「あとちょっとだ、頑張れ!」夫が握った手に力を込めた。

 担当医が会陰切開*5をおこなった。

「本当に……本当に終わるの……?」意識が霞んだまま切れ切れの呼吸をなんとか整える。

 すぐさま助産師から発破をかけられた。

「タンホイザさんおへそみて! おへそに力ですよ! 声出してもいいですからね!」

 全身に残された最後のエネルギーをかき集め、励声激越した。

 

「あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!」

 

 ずるりとした感触が産道を抜けていった。

 

「おめでとうございます! 元気なウマ娘の赤ちゃんですよ!」

「よく頑張りましたね!」

「よくやったなぁ……ありがとうなぁ……」

 

 スタッフから夫から歓呼と労いの声がかけられ、分娩室は新生児の呱呱の声とともに安堵に包まれた。長く苦しい奮闘の末に新しい命がこの世に産声を上げた。体重はほぼ標準通り、分娩にかかった時間は10時間程度。人によっては24時間以上の長丁場になる場合もあることを考慮すると極めて順調な出産だった。

 そして、虚脱と困憊に筋骨を抜かれたような母体が残った。一般的な、ごく普通の"安産"だった。

 

「でもお産の喜びに浸れたのはこのときまで。その後は嵐にぐるんぐるん巻き込まれるような日々を送ったんです。いまから思い返せば、このときにきちんと身体を休められればよかったなぁ」

 

 

 わが子に出会えた喜びもそこそこに、翌朝開催の、産後入院中の過ごし方と授乳指導についてのオリエンテーションに参加するよう要請された。入院から分娩終了までほとんど眠れず、子どもが産まれたのは夜半すぎ。全力でいきんだからか全身の神経が敏感なままで、眠気はあるのに目は冴えたままだった。休む間もなく次の務めを果たしにいかなければならなかった。

 

 入院した病院は完母(完全母乳育児)を推奨する病院として育児界隈では有名だった。WHOが標榜する「母乳育児を成功させるための10か条(Ten steps to successful breastfeeding)」を遵守し、日本母乳の会によって認定されている数少ない「赤ちゃんに優しい病院(Baby-Friendly Hospital)」のひとつだった。

 

 母親たちは産後の寝不足と倦怠とを赤子と一緒に抱えたまま指導を受けなければならない。母乳の合成・分泌を促すホルモンのプロラクチンは、出産を終えると急激に減少する。プロラクチンの分泌量低下に歯止めをかけるために、産後すぐから1日8回程度の授乳が必要とされているのだ。

 

 母子同室のこの産院では、乳をせがまれるたびに赤ん坊をコット*6に乗せ、授乳室に移動して授乳することになっていた。授乳室では助産師から授乳指導を受ける垂乳根(たらちね)の母たちがみな一様に、教練でしごかれた新兵のようにぐったりしながらわが子に乳をあげていた。

 

「正直、煮すぎた白菜みたいくたびれてましたけど、お母さん方が眠い目をこすりながら授乳しているのをみると、自分も頑張らなきゃって気を張りました。あまり話す余裕はなかったけど、みんなあの大変なお産を経験してるんだって思うと、戦友みたいに感じましたね」

 

 授乳の仕方はマニュアル化されていた。まずはおむつを替えて、ベビースケールに乗せて体重を量る。つぎに自分の乳房をマッサージし、母乳を吸わせる。飲ませたあとに再び赤ん坊の体重を量り、飲めた母乳の量を測定し、目標授乳量に達していなければ、ミルクを足す。これが3時間に1回を目安に昼もなく夜もなく繰り返される。

 ただし、授乳は赤ん坊が欲しがるときに欲しがるだけあげる「自律哺乳」 が基本である。新生児はまだ体力がないので3時間も腹持ちするような量を飲めず、すぐ疲れて眠ってしまう場合が多い。ちょっと飲んではすぐ眠り、自部屋に戻るとまた欲しがる。そのたびに身体を起こして移動しなければならない。

 

 疲弊した身体で赤ん坊を抱えながらこれらをこなすのはまさに修行だった。まだ母親も世話に慣れていないから、おむつを替えようとしただけで赤ん坊は大暴れしながら絶叫する。新生児を抱っこするだけでも気を遣う。首も据わっていない、弱々しい乳飲み子を抱えていると、床に落としてしまったらどうしようと神経が張り詰めた。

 

「おむつ替えもおっぱいをあげるのもうまくいかなくて、毎回1時間半ほどかけてお乳を飲ませてました。はじめの数日は目標授乳量にまったく到達しなくて、ほかのお母さんと比べて自分は授乳が下手だなって落ち込みました。ほとんど眠れてなかったから気持ちがどよよんとしやすかったのかもしれないですね」

 

 母親たちを悩ませたのは赤ん坊の世話だけではない。出産によって負った身体のダメージも無視できなかった。移動するたびに股間の痛みに顔を歪め、トイレひとつ行くにも脂汗を流しながら歩いた。もともと女性の骨盤は腸や子宮、 膀胱や卵巣などの内臓を取り囲むような形になっており、その下部には骨盤底筋群という筋肉の集まりがガードルのように臓器を支えている。妊娠・出産をすると骨盤が開き、骨盤底筋群は傷つき伸びてしまうため、体は交通事故にあったときのようなダメージを受けているのである。

 

 後陣痛(こうじんつう)にも襲われた。産後、子宮は産前の大きさに戻ろうとして4~8週間ほどかけて収縮する。そのさい赤ん坊の吸啜(きゅうてつ)による乳頭刺激により分泌されるホルモンのオキシトシンが子宮収縮を促すため、授乳中に下腹部の痛みに襲われることがある。マチカネタンホイザの場合、ピークは産後数日で過ぎたが、会陰切開の傷の縫合部の疼痛とも相まって、産前に抱いていた授乳の心温まるイメージは痛楚に取って代わられた。また、授乳中に悪露(おろ)*7が出てきても、産褥パッドを替えるにはひと通り乳をあげて赤ん坊が眠るのを待たなければならなかった。

 

 助産師からは毎日厳しい言葉が浴びせられた。授乳がうまくいかずに 「赤ちゃんがおっぱいを吸ってくれません」と相談すると、「そんなはずはない。とにかくたくさん吸わせて!」と一喝された。ミルクの作り方やおむつ替えがうまくできないと「そんなやり方じゃ赤ちゃんがかわいそうでしょ!」と叱責された。乳首が切れて悶絶する痛みに襲われても、次のお乳を作るためにできるだけたくさん吸わせるようにとその態度は変わらなかった。夜中の授乳と授乳の合間に少しだけ眠れることがあっても、授乳の時間になると助産師に叩き起こされ、3時間おきに起きなければならないプレッシャーでますます眠れなくなった。

 赤ちゃんに優しい病院は母親には厳しかった。この病院の産後入院生活は別名"おっぱい合宿"と呼ばれるほどのスパルタだと後に知った。

 

 産前は子どもの世話をするのは自信があった。普通にできると思っていた。昔から小さい子の相手をするのは得意だったし、現役中も子ども相手のプログラムで懐いてくる子は何人もいた。しかし新生児相手はまったく勝手が違った。意思は通じないし何度試行錯誤してもうまくいかない。助産師からは叱られ、ほとんど寝る間もなくつきっきりで世話をしなければならなかった。

 

「昼も夜も泣きやませるのに必死でした。自分のやり方がよくないのか、赤ちゃんにどこか具合が悪いところがあるのか、心配は尽きませんでした」

 

 娘は抱っこするだけで泣いて嫌がる。おむつ替えもうまくできずにシーツをうんちまみれにしてしまう。母乳もうまく飲ませることができない。 日々心がすり減り、育児がうまくやれていない自分を責めた。深夜の授乳室で母親たちが出産体験を記録するノートに「迷惑をかけてばかりで申し訳ありません。これから頑張ります」と書き込んだ。

 

 そのまま一週間の入院生活を終え、帰路についた。結局、疲労の回復も子育てに対する自信もうまく持てないままだった。

 

*1
競走除外・取り消しになったレースも含めれば14回

*2
GII 3勝、GIII 1勝。

*3
トレセン学園理事長の秋川やよい氏のこと。現在も理事長職を務めている。

*4
自分らしい出産をするために、分娩前後の医療処置や産後の赤ん坊との過ごし方などの希望をあらかじめ産院に伝えるプラン。

*5
胎児の娩出がスムーズになるよう陰裂近くに数センチほどの切れ込みを入れること。

*6
新生児用の移動可能な箱型の簡易ベッド

*7
分娩後の4~6週間、子宮や膣から出る分泌物。おりもの。主として胎盤が剥離した子宮内膜部からの出血と、他の子宮内膜面からの分泌液に少量の子宮頸管、腟からの分泌液が混じったもの。

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