引退ウマ娘のセカンドキャリア   作:空洞丸

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後編:かけがえのない普通の生活をわが子に

 その日の院長との面談で、母親向けの懇談会(サロン)に参加してみないかと打診された。

 まだしゃべるのが億却であれば無理に参加する必要はないともいわれたが、ほかの母親が普段どのように過ごしているか興味の湧いた彼女は 参加を希望した。

 

「はじめまして。マチカネタンホイザです。出産してから具合がずっとよくなくて、お医者さんにこちらの産後ケアを紹介されました。みなさんよろしくお願いします」

 

 型通りの挨拶を終えて歓談時間になると、隣席の女性が声をかけてきた。

 

「はじめまして、タンホイザさん。ここはママたちが集まっておしゃべりする場所なの。私も育児ノイローゼになったときはずいぶんここにお世話になったわ。よろしくね」

 

 それを皮切りにほかの母親たちも新参者を迎えるべく集まってきて口々に話しはじめた。

 

「ハイハイハイ! あたしもあたしも! うちはねぇ、ぜんぜん旦那が頼りにならないの! 本人なりにやる気はあるみたいなんだけど雑なんだよね! ときどき子どもをお風呂に入れてはくれるんだけど、お風呂を掃除して沸かすのはあたし! 湯上がりの子どもを着替えさせるのも髪を乾かすのもあたし! そのあいだ本人はゆっくり湯船に浸かって鼻歌なんか歌ってる。これで『オレってイクメンだよな~』なんてうそぶくんだから呆れちゃう!」

 

「うちは母親からの干渉が煩わしかったわ。うちの子は母乳とミルクの混合で育ててるんだけど、母乳だけで育てろってうるさいの。仕事の都合もあるんだから完母は無理よっていっても『それでも母親か! 母乳が不足すると愛情も不足するのよ! 私は全部母乳で育てた!』って自分の経験を押し付けてくるのよね。子どもを何人か育てただけで専門家気取り。

 そのくせ私が育児の悩みを相談しても我慢しなさいとしかいわない。『産休があったり旦那が子育てを手伝ったり、 昔に比べてあなたたちの子育ては、はるかに楽なんだから』って頭ごなしにいわれたときは絶縁してやろうかと思ったわ。私が注がれたのは愛情じゃなくてエゴイズムよ」

 

「3歳神話とか母性神話とか、母親とはかくあるべきっていう理想像を規範として内面化してしまってますよね。自分たちだってそういう世間の母親像に苦しめられてきたはずなのに」

 

「そうそう。だいたい母性って言葉もいいかげんよね。"母は強し"だとか"母は偉大"だとか普段は持ち上げるくせに、いざ育児がうまくいかないと母性が足りないだなんてあやふやな意見を無責任に押し付けてくるんだから。育児は父親にも祖父母にも、保育園の先生やママ友にだって任せられるって知らないのかしら。むしろそのほうがいろいろな大人との人間関係が育まれて、子どもの成長にもいいはずだわ。それが『社会で育てる』ってやつじゃないの?」

 

 アフリカの森林からサバンナに進出して以来、ヒト*1は家族を作り、群れを作り、移動し、拠点を築いてその周辺で狩猟採集をおこなってきた。狩りで集められた食料は各家族に平等に分配された。もし個人の成果がなしのつぶてでも他の人から分けてもらえた。

 狩りの名人であっても空手に終わる場合は珍しくない。成果を得たものが得られなかったものに分け与えることで、次に自分の成果がゼロだったとしても他者からお返しを期待できる。ヒトは、貸し借りを通じた他者との関係を築くことで個体としての脆弱さを補ってきたのである。

 親子の口に入るものもすなわち、家族以外の他者との紐帯と結び付けられている。

 

 また、かつては同居する祖父母が母親と一緒に子の面倒をみるのが珍しくなかった。女性は閉経してから何十年も生きることができる。これは哺乳類としては稀有な特徴だ*2。素朴に考えれば、命ある限り生殖可能であるほうがより多くの子どもを産めるのではないかと感じられる。

 

 その謎を説明する有力な仮説の一つに「おばあちゃん仮説」がある。生物の究極的な目的は自身の遺伝子をできるだけ多く後代に残すことであって、生殖はその手段の一つにすぎない。たくさん産んでもみな死んでは意味がないのだ。

 高齢出産になると母子ともに命に関わる危険が増える。そこでヒトの女性は寿命がまだじゅうぶん残っている段階で自らの妊孕(にんよう)性を喪失させるという特異な進化を遂げ、老いた体で産み続けるよりも娘や孫を助けることで自身の遺伝子を延命させる戦略をとるようになったのだろうと考えられている*3

 

 以上のように、ヒトの子育てははじめから両親以外の関係者が携わるのが前提となっている。それはおそらく数十万年、ややもすると何百万年もずっと続いてきた。ところがヒトが農耕を発明し、定住するようになってからまだせいぜい1万年ほどしか経っていない。

 遺伝子の変化は気の遠くなるほどゆっくり起こる。われわれの心の仕組みは狩猟採集時代からさほど変わっておらず、隣人の顔も知らない現代都市での核家族生活にまだ適応できていない。ヒトはまだ、孤独を克服できていないのだ。

 

「それなのに母親一人に育児を押し付けて、『母親がちゃんと育てないと子どもがまっすぐ育たないぞ』って脅かしてくる。母親は聖母でも女神でもないの。疲れたり、イライラしたり、何もかも投げ出したくなることだってあるの。私たちは子どもを産めるけれど、産まない人と同様に悩みもすれば苦しみもする。普通の人と変わらないのよ」

 

 

 子育ての苦労を沸々と語る母親たちの姿を目にして、彼女は呆気にとられた。どうしたの、という声がかかってようやく我に返った。

 

「えっと、子育てって、つらいっていっていいんだなって驚いちゃって。頑張らなきゃいけないのに、うまくできなくて、子どもと向き合うのがしんどいって思ってるのが私だけじゃなくて安心したといいますか」

 

「そりゃそうよ~。子どもが愛しいって気持ちと、子どもから距離を置きたい気持ちは矛盾なく両立するわ。子育てっていいことばかりじゃないし、むしろ大変な時間の方が大きいはずよ。子どもの成長を特等席でみられるのは親の特権だけど子どもはコントロールできないもの。

 片付けた端からまたおもちゃを散らかされるようなことがずっと続いてるのにつらいとも思っちゃいけないんじゃ母親は逃げ場がないじゃない。母親を辞めることはできないけど辞めたいと思うのは自由。そう考えることまで封じられたら死んじゃうわ」

 

 実際、現代日本における産前産後の死亡原因のトップは出産時のアクシデントではなく自殺によるものだといわれている。母親を辞めてしまった不帰の人も、ここに集う母親たちも、根底にある願いは一致していた。いいお母さんになりたかった。

 

「子育ては天皇賞(春)よりも長く長くずっと続くレースだわ。障害レースのほうが実態としては正確かもね。でも勝ち負けを決める競技じゃない。何度息をつけても構わないのよ。ここにいる人達はそれを助けてくれる。助けたいと思ってる。ここでうまく気持ちを吐き出していってね」

 

 同じ悩みを共有する母親たちの素朴な惻隠の情に、彼女は深く(こうべ)を垂れた。

 

 

  ◇

 

 

 定期的な通院と服薬、産後ケア施設や保育園の利用により、徐々に症状は回復していった。また夫も妻のサポートのために定時退社するようになり、以前にも増して育児に協力的になった。3ヶ月も経つころには、出産前の精神状態にまで寛解し、事態は落ちつきを取り戻したかに思えた。

 

 ある日の夕刻、台所を整理しているとゴミ箱から胃薬がみつかった。夫が服用したのだろうか。そういえば最近は口数が少なくなって、話しかけても生返事が多かった気がする。

 

 夕食後、お茶をすすっている夫に、彼女は様子をそれとなく伺った。

 

「ねえあなた、最近ちょっとお疲れ気味? なんだか顔がしぼんだ風船みたいにプシューってなってるようにみえるよ?」

 

「そうかな? いや、大丈夫だよ。ちゃんとご飯も食べられてるし。ほら、この通り」

 

 そういって夫は力こぶを示したが、彼女にはそれが空元気に思えてならなかった。少し迷ったが、昼間見つけた胃薬の箱を差し出して、夫の内心に迫った。

 

「この胃薬、あなたのだよね。胃が痛むの? それとも、胃が痛むくらい、しんどいことがあったの?」

 

「……いや、最近部下のミスで取引先に謝りに行ったらしこたま怒られて、それでちょっと胃に来ちゃってさ。だけど、タンホイザが心配するようなことはなにもないよ」

 

「本当に? 一時的なものならいいんだけど、もしあなたが悩んでいたり、つらいと思ってるなら聞かせてほしいの。私たち、夫婦でしょ?」

 

「……」

 

 彼女が胸を痛める様子にも、夫は口を貝にしたままだ。なおも彼女は問いかけを続けた。

 

「あなたのおかげで私、すっごく助かってる。私が通院するようになってから、あなたは以前にもましていろいろとやってくれるようになったよね。早く帰ってきてくれるようになったし、夜中にお乳をあげたりしてくれて、ずいぶん楽させてもらってる。でもそのぶんあなたの負担は増えて、いろいろと気持ちを抱えるようになっちゃったんじゃないかって心配なの。

 私が子育てに悩んでいるとき、なにをやってもどうしようもなくて、つらい気持ちを吐き出したかった。誰かに聴いてもらいたかった。わかってもらいたかった。だから、あなたがいましんどいって思ってるなら、その気持ちを聴きたいの。理解したいの。あなたが私を助けてくれたように、私もあなたを助けたい。パートナーでありたいの」

 

 彼女の憂心に頑なだった夫も気持ちが動いたのか、ぽつぽつと言葉をこぼしはじめた。

 

「……ちょっと愚痴っぽくなるけど、いいかな」

 

「もちろん。愚痴はお母さん同士のおしゃべりで聞き慣れてるから」

 

「……そっか。実はさ……」

 

 子どもができてからむしろ仕事に張りが出て自分の営業成績はよくなったのに、定時に帰るなら査定に響くぞと上司からは脅かされ、先輩からはお日様のみえるうちに帰れていいねなどと嫌味をいわれるようになった、うちの会社みたいな中小企業じゃなかなか育児のために時間をとることを理解してもらえない。

 訥々(とつとつ)とではあるが、いままで内心に押し込めていた淀みを絞り出すように、夫は仕事上の不満を吐露した。

 

「働いて、稼いで、家族にいいもの食べてほしいし、子どもをいい学校にも入れたい。俺にとっては家族との時間が働くエネルギーになるんだよ。どうして上の連中にはわかってもらえねぇんだ……」

 

 やり場のない怒りと痛切な無念を表情に滲ませた夫を、彼女はそっと抱きすくめた。

 

「ほんとうに大変だったね。しんどかったね。あなたがいつも私たちのために骨を折ってくれてるって、私はわかってるよ。あなたの気持ちが聞けてよかった。いつもありがとうね。あなたが私の夫でよかった」

 

「タンホイザ……。俺も、タンホイザが奥さんで本当によかった。ありがとう。聴いてくれて」

 

 

 次の通院時、夫とのやり取りの件を主治医に話すと、主治医は恵比須顔を作って感心した。

 

「それは素晴らしい! 子育てや夫婦のあり方に悩んでいるのは男性も同様ですからね。男性の産後うつも女性と変わらない割合で発生するという論文がありますし、離婚の約4割はまだ子どもが物心つかないころに起こるというデータもあります。

 男性は女性と比べると不満や弱音を吐き出すのが苦手な傾向がありますから、あなたがた夫妻のように、お互いを思いやって気持ちをいい合えるのは理想的な夫婦関係だと思いますよ。今後もその関係を大事にしてくださいね」

 

 医師は彼女らの夫婦関係に太鼓判を押した。そして医療者としての助言も忘れなかった。

 

「ただ、お互いがずっと一緒というのもそれはそれでストレスが溜まりますから、思い切って一日お互いフリーでいる日があるといいと思いますよ。一人で思いっきり好きなことをやってリフレッシュする。なかなか時間を作るのは難しいと思いますが、あなたがたならやれると思います」

 

 通院からの帰り道、夫が彼女に提案してきた。

 

「来月、三連休があるだろう。俺が面倒みてるから、タンホイザは一日好きに過ごしたらどうだい? 産んでからずっとろくに娯楽目的で外出できてないだろうし、久々に美味しいもの食べたり走ったりしてきたら。先生もおっしゃってたしさ」

 

「いいの? じゃあお言葉に甘えちゃおっかな~」

 

 

 迎えた三連休の夕方、父親は慌てふためいていた。

 

「うわー! どうして泣き止んでくれないんだぁー!! 沐浴はしたしおむつも替えてさっきミルクもあげたのにあとはなにをすりゃいいんだ!?」

 

 懐に娘を抱きかかえ、身体を揺らして必死に泣き止ませようとするが、親の心子知らず、赤ん坊は烈火のごとく泣き、手足をばたつかせる。数時間続くぐずつきに途方に暮れていたところ、玄関の扉が開いた。

 

「ただいま~。あっ! 泣いてる! どうしたの!?」

 

「わからないんだ。夜中にやってるみたいにぐずったときの方法をいろいろ試してみたんだけどぜんぜん泣き止んでくれなくて。俺、もうどうしたらいいのか」

 

「あ~、これ甘えたがってる感じだねぇ。緊急事態じゃないと思うよ。ちょっと待って」

 

 彼女は買い物のビニール袋から荷物を取り出し、空になったビニール袋を、いまだ父親の懐で号泣する赤ん坊の前に広げてみせた。

 

「みてみてー! いまから楽しくなる音の魔法をかけちゃいます! ほーら、しゃかしゃかしゃか~、しゃかしゃかしゃか~」

 

 娘はビニール袋を丸める音に反応し、泣くのをはたとやめ、音の鳴る方へ顔を向けて手を伸ばしながらきゃっきゃと笑った。ひとしきり相手をすると、娘は疲れたのかうとうとしはじめ、やがて静かな寝息を立てはじめた。ようやく家の中に平穏が戻った。

 

 

「あらためてお帰り。美容院、行ってきたんだな」

 

 一息つけようと淹れたコーヒーを口にしながら夫は妻の姿を眺めた。子どもができてからは後ろ髪を簡単にまとめてお下げにしていることが多かったが、いまは軽くパーマをかけた髪を下ろしてゆるく巻いている。お母さんというより若奥様といった雰囲気に思わず息を呑んだ。

 

「久しぶりにおしゃれして、カフェでお茶したり、ウインドウショッピングで街をぶらぶら~ってしたりして、満喫しちゃった。ベビーカーなしで外を歩けるのがこんなに楽だなんて思わなかったよ」

 

「楽しんだ割には意外と早く帰ってきたんだな。買い物も、ベビー用品ばっかりで自分のものは買ってないみたいだし」

 

「夕方になったら2人がどうしてるか気になっちゃって、結局帰ってきちゃった。きょう一日面倒みてくれてありがとね。掃除洗濯洗い物もしてくれてすっごく助かるよ」

 

「それくらいはお安い御用だよ。でも抱っこ紐でおぶりながら作業するのは重くて大変だったし、いつ泣くのか気が気じゃなかったしでぐったりだ。さっきもタンホイザが帰ってくるまでどうにもならなくてお手上げだったしさ。

 最近子どもと接する時間が増えてきたからひとりでもできるかなと思ってたんだが、ままならないな」

 

「私もはじめからうまくできたわけじゃないよ。赤ちゃんと接するうちになんとなくこういうニュアンスかなって汲み取れるようになっただけだし、いまだにわからないことも多いもん。

 さっきのビニール袋作戦だって、子育てサロンでママ友から教えてもらった方法だし。結局のところ場数と、相談できる相手が身近にいるかどうかなんじゃないかな」

 

「前途多難だなぁ。子どもと以心伝心できるようになるには時間がかかりそうだ」

 

 それからしばらく雑談が続いた。話の接ぎ穂が尽きて静寂が場を包んでから、夫は意を決して口を開いた。

 

「きょう一日ひとりで世話してみてわかったけど、この家はタンホイザにとって職場みたいなものだったんだな。俺は会社を出れば気を抜けるけど、タンホイザはずっとここで気を張って……」

 

「あなた……」

 

「先生の提案がなかったら、こんな当たり前のことにも気づかないままだったかもしれない。いままでごめん」

 

「……私たち、まだ結婚してから何年も経ってないじゃない? まだお互いの知らないところがいっぱいあるんだよ。私だって、あなたが愚痴をこぼしてくれるまで、あなたがあそこまで家族を想いながら働いてくれてるってことも、そのせいで会社で苦い思いをしてるってこともわからなかったもん。

 たしかに子育ては大変だし、逃げ出したいときもあるし、パートナーに不満を覚える日だってあるけど、子育てっていう共同事業に真剣に取り組んでいるからこそ、いままでみえなかった相手のいい面も、自分では気づかなかった至らない面もみえてくるんじゃないかな」

 

「タンホイザ……」

 

 彼女は夫を安心させるように彼の手を両手で包み、言葉を続けた。

 

「あなたがとても誠実な人だってわかって私は嬉しいし、あなたを選んでよかったと思ってる。これからも夫婦として、親として、一緒に成長していこ?」

 

「……! ああ!」

 

 夫婦があらためて今後の関係を誓いあったそのとき、ベビーベッドから赤ん坊の「アー、ウー」という嬌声が聞こえた。

 二人が様子を覗くと、赤ん坊は左半身に力を入れて寝返りを打とうとしていた。これまでにないわが子の奮闘に両親は沸き立った。

 

「がんばれ、がんばれ、あとちょっとだぞ……!」

 

「惜しい! あとちょっと!」

 

 試みては失敗し、試みては失敗する。それでもなお寝返りに挑戦するわが子を両親は固唾を飲んで見守った。何度目かの挑戦でとうとう半身がコロリと横転し、うつ伏せの格好になることに成功すると、両親は諸手を挙げて祝福し、頬ずりしてわが子へ親愛の情を寄せた。

 

「なんか感動しちゃったな。寝返りなんて俺たちにとっては普通のことだけど、子どもが少しずつ自分の力で立ち上がろうとしているんだと思うと、すごく尊い感じがする」

 

「きっとすぐハイハイやつかまり立ちもできるようになるよ。歩けるようになるのだってあっという間だよ!」

 

「そうだな。タンホイザ、俺、頑張るよ。いい夫になれるように、いい父親になれるように」

 

「うん、お願いね。これからも一緒に頑張っていこうね。私の旦那さま」

 

 

  ◇

 

 

「私が経験したのはどこのご家庭でも普通に起こりうるありふれた話だと思いますけど、それでもその渦中にいるときは本当に大変で。いま公園で親子が睦まじくしてるのをみると、アナタたちもあの大嵐をかいくぐってきたんだねぇって、勝手な共感を覚えちゃうんですよね」

 

 夫婦で乗り越えてきた数々の試練を、自分の中では大きな出来事と断りつつも、あくまでも彼女はありふれた普通の話と評価する。

 しかし親の立場になってから、彼女は自分自身に感じてきた普通さを、かけがえのないものだと感じるようになったという。

 

「自分が子どものころは、朝起きて、学校行って、勉強したり友だちと遊んだりして、夕方家に帰って家族と一緒にご飯を食べて、お風呂に入って寝る。こういう当たり前の生活のループを、大きな不満はないけど普通だなってちょっと物足りなく思ってました。

 でも両親が陰で負っていた苦労だとか、商品やサービスを世に送り出してくれている人たちの努力だとか、みんなを支える人たちのサポートだとかがちゃーんとぐるぐる回ってはじめて普通の生活が成り立っていたんだなって、自分自身が親になってからようやくほんとうの意味で理解できたと思います。

 私が自分を普通だって感じてきたのは、気づかないうちにいろんな人の絶え間ない努力や惜しみない協力、両親の無私の愛情を受け取ってきたってことなんですよね。そう考えると、私はいま、母親の務めを曲がりなりにも果たすことで、世の中を動かしている循環のなかにいままで受け取ってきたものをお返しているのかもですね。それがまた巡り巡って娘にいい形で注がれることを願ってます」

 

 当時手を焼かされた娘もすくすくと育って、いまではかつての自分と同じくレースクラブに入って走りの面白さを堪能している。最近は自我も出てきたようだ。

 

「この前、娘と一緒に服を買いに行ったんですけど、これはどう?って私があの子の服を選んだら、『そんな普通のじゃイヤ!』っていったんですね。思わず笑っちゃいました。なんで笑うのー!って娘からはぷりぷりされましたけど、普通であることに反発する姿をみると、やっぱりこの子は私の子なんだなぁって、しみじみ思いましたねぇ」

 

 日常生活での何気ないやり取りからわが子の成長を感じられるところに、彼女の母親としてのたしかな歩みが表れていた。

 

「あの子もいつか、自分のアイデンティティについて悩むときが来ると思いますけど、来るべきときが来たとき、あの子が自分の抱える悩みだけに集中できるようにしてあげたいですね。

 子どもが絡まなくても家庭の問題っていっぱいあるでしょ? あるご家庭は家計に問題があるかもしれないし、別の家庭は夫婦仲がぎくしゃくしてるかもしれない。またあるご家庭は介護問題に頭を悩ませてるかもしれない。そこまで大それてなくても、ご近所さんや町内会の関係とかあったりもしますもんね。

 でもそういう家庭絡みの面倒な問題であの子を悩ませたくないんです。あの子にできるだけのレールを敷いてあげたい。レールの上を走るだけの人生なんてつまらないっていうけど、レールを敷くのは乗客の安全を願ってするものでしょ? 母親として、あの子の健やかな成長のために、いつかレールを必要としなくなる日のために、できるだけのことはしてあげたいの」

 

 母親としての覚悟を語った彼女は、最後にある詩を紹介してくれた。あなたはがんばりすぎるところがあるからとママ友から贈られたという詩集に載っていたその内容がお気に入りでときどき見返しているという。

 

 子育てに奮闘する母親を励ます内容のこの詩を引用し、本話の締めくくりとさせていただきたい。彼女たちの行く末に幸福な未来が手を広げて待ちかねていると願って。

 

 

 今日、わたしはお皿を洗わなかった

 

 ベッドはぐちゃぐちゃ

 浸けといたおむつは

 だんだんくさくなってきた

 

 きのうこぼした食べかすが

 床の上からわたしをみている

 窓ガラスはよごれすぎてアートみたい

 雨が降るまでこのままだと思う

 

 人に見られたら なんていわれるか

 ひどいねえとか、だらしないとか

 今日一日、何をしていたの? とか

 

 わたしは、

 この子が眠るまで、おっぱいをやっていた

 わたしは、

 この子が泣きやむまで、ずっとだっこしていた

 わたしは、

 この子とかくれんぼした

 わたしは、

 この子のためにおもちゃを鳴らした、

 それはきゅうっと鳴った

 わたしは、

 ぶらんこをゆすり、歌をうたった

 わたしは、

 この子に、していいこととわるいことを、教えた

 

 ほんとにいったい一日

 何をしていたのかな

 たいしたことはしなかったね、

 たぶん、それはほんと

 

 でもこう考えれば、いいんじゃない?

 

 今日一日、わたしは

 澄んだ目をした、髪のふわふわな この子のために

 すごく大切なことをしていたんだって

 

 そしてもし、そっちのほうがほんとなら、

 

 わたしはちゃーんとやったわけだ

*1
ここではホモ・サピエンスとウマ娘を総称して呼んでいる。ウマ娘が人類史のなかでいつごろから人類と生活を共にしはじめたのか、そもそもウマ娘がどのようにして人類と同様に直立二足歩行能力を得たのかなど、ウマ娘はいまだに謎が多い。

*2
ヒト以外にはゴンドウクジラやシャチなどが知られている。

*3
そのような変異を遂げた種がたまたま現代まで生き延びたにすぎないというのがより正確であって、ヒトがはじめから特定の方向や目的に向かって直線的に能力を開花させたわけではない。また、他者を助けるという利他的な行動もあくまで自己の遺伝子の世伝が根幹にあり、ヒトという"種全体"の繁栄のために衰えた個体が奉仕するようプログラムされたわけでもない。進化に関するよくある誤謬に注意されたい。

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