引退ウマ娘のセカンドキャリア   作:空洞丸

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※残酷なシーンがあります。ご閲読のさいはご注意ください。


前編②:夢をみる箱

 専門学校の校外学習で見学に訪れた動物愛護センターは郊外の高台に位置し、3棟の建物から構成されている。会議室や事務室、手術室などがある研究棟、主に犬や猫を抑留・管理する管理棟、大型焼却炉のある処分棟。駐車場のそばには動物たちの慰霊碑が建立されている。

 

 早朝、センターにたどり着いたメイショウドトウのクラス一行は、事務棟でひと通りの施設説明と注意事項の説明を受け、管理棟に案内される運びとなった。

 研究棟と管理棟をつなぐ廊下で、食品工場で着るような白衣と白帽、ビニール製の手袋を着用し、膝下まである作業用の長靴に履き替えた。長靴のゴムは厚目で、犬に咬み付かれても重傷とならないよう配慮されている。

 

 管理棟内に入ると生暖かい糞尿の汚臭が生徒たちの鼻をついた。顔をしかめる生徒もいれば咳き込む生徒もいる。「臭い」との声がひそひそとあがる。早朝の眠気はすっかり覚めた。

 

 管理棟を平面図にあらわすと、北側が「成犬抑留室」、南側は東から西に「小型犬抑留室」「猫抑留室」「咬傷犬抑留室」となる。

 北側と南側を区切るのは長さ二十メートル、 幅二メートルほどの廊下だ。成犬抑留室は東から西に「抑留室1」から「抑留室5」と5つの部屋がある。それぞれ十畳ほどの広さで、緑色の鉄格子のなかに日ごとに区切って犬を収容している。

 

 犬種は雑種もいれば純血種もいる。チワワ、マルチーズ、ダルメシアン、ダックスフント、ラブラドール・レトリーバーなど、かつて一大ブームを巻き起こした種も例外ではない。猫も同様だが収容数は犬よりも少ない。

 

 清掃は毎日おこなわれているが、犬猫がひしめき合うフロアを隅々まで洗うのは難しい。さらに身体についた汚れがそのままなので消毒剤を使っても異臭が完全には消えなかった。

 

 成犬抑留室の前にはホワイトボードが掲げられている。号室、搬入月日の文字はあらかじめペンキで書かれているが、他の情報は赤マーカーで毎日書き換えられていく。各抑留室には、このように書かれていた。

 

 抑留室1 搬入月日 9月17日 金曜日 16頭

 抑留室2 搬入月日 9月16日 木曜日 17頭

 抑留室3 搬入月日 9月15日 水曜日 19頭

 抑留室4 搬入月日 9月14日 火曜日 14頭

 抑留室5 搬入月日 9月13日 月曜日 15頭

 

 センターに連れて来られた犬はまず抑留室1に収容され、一日ごとに部屋を移り、最後に抑留室5に入る。土日は業務が休みであるため移動はない。

 したがって引き取り手が現れない場合、収容されてから1週間後の朝に最期を迎える。

 

 抑留室5を通りがかると、あどけなさを残した柴犬系の雑種が寄ってきた。鉄格子の隙間から前足をはみ出して宙をかき、ハッハと口を開けながら興奮気味に尻尾を振っている。遊んでくれるの? とでもいいたげに。

 白衣を着た獣医師*1の職員が生真面目な顔で説明する。

 

「私たち職員がそばを通ったり抑留室の中に入るといつも寄ってくるんです。甘え上手なんですよね。まだ人間を信じているんです。飼い主さんが迎えに来てくれると疑っていないんですよ」

 

 犬猫が収容される経緯はさまざまだ。犬の場合、狂犬病予防法第6条にもとづき、小型トラックのような回収車で毎日野良犬や捨て犬、迷い犬を保護・捕獲する。

 

「収容される犬のうち、首輪が付いているのは6割から7割といったところですね。ペットとして飼われていた犬でも、返還に来る方はわずかです。捨てたのか、探そうとしないのか。愛護センターにいるかも、とは考えないのか」

 

 職員は現状を開陳した。苦虫を噛み潰したような顔から、責任感の欠けた飼い主への憤懣やるかたない様子がにじみ出ている。

 

「首輪が付いていても、大半は法律で装着義務のある登録の鑑札も狂犬病ワクチンの注射済み票もありません。新しい子のほうがかわいいからとか、病気になったからといって飽きたおもちゃを捨てるような感覚で引取依頼をしにくる方もいて、内心、腹に据えかねるときもあります」

 

 たとえば車を運転するときは運転免許証がいる。車庫証明をはじめ数々の手続きをこなし、税金も納める。だが犬猫を飼う場合に特別な資格は必要ない。かつて導入されていた犬税もいまでは廃止されている。

 

「そのせいなのか、飼い主としての最低限の義務と責任を果たす意志がまだまだ低いように思われてなりません」

 

 猫の場合、狂犬病予防法の捕獲対象外*2であるため、収容経路はセンターへの直接的な持ち込み、あるいは市民からの通報による場合が多かった。

 とくに野良の仔の引き取りが多い。なかでも離乳もしていない仔猫が引き取られた場合、ここでは即日処分としていた。

 

「生後間もない犬猫は、2~4時間ごとにミルクを与えなければなりません。母親がいなければ当然、人が世話することになります。ミルクだけではありません。自力排泄ができないので促してやらなければなりませんし、体温調節機能が未熟なのでお湯を入れたペットボトルをタオルで包んでケージ内に置き、ケージ内の温度が下がらないようにする必要もあります」

 

 地域によってはミルクボランティアの協力のもと世話をしているセンターもあるが、ここでは設備・予算・職員数、そして引き取られる仔猫の多さから即日処分せざるをえない現状があった。

 

「せめて引き取り数が減ってくれればやりようはあるのですが、猫が繁殖力の強い動物だとは意外と知られていないようなのです」

 

 猫は交尾排卵動物だ。交尾で刺激を受けて排卵する。つまり健康な猫が交尾をすれば、ほぼ100%の確率で受精するのである。1回に4~8匹ほど出産し、年に2~4回の発情で頭数は幾何級数的に弥増(いやま)していく。

 環境省発行のパンフレットによると、1匹のメス猫から1年後には20匹以上、2年後には80匹以上、3年後には2,000匹以上に増えると試算されている。

 にもかかわらず、避妊・去勢手術をしないまま放し飼いにしていたらいつの間にか増えていた、餌付けした野良猫が自宅の庭で子どもを生んだなどの理由で生まれた仔猫が手に負えず、センターに持ち込まれる例が後を絶たなかった。ダンボールに入った仔猫がわざわざセンターの前に捨てられていた事例すらあった。

 

「愛護センターの運営は税金で賄われています。つまりは処分も。ある意味究極の税金の無駄遣いです。普段税金の使い方について口うるさい方々が、処分については驚くほど気軽に申し込んでくるのは不思議でなりません」

 

 

「抑留室のシャッター上げます!」

「シャッター、オッケー!」

 

 抑留室5のなかに入ろうとしている作業服の職員2名が声を揃えた。緑色のボタンが押されると、壁のシャッターがゆっくりと上がる。すると、幅1メートル、長さ6メートルほどのステンレス製の廊下が現れた。「追い込み通路」と呼ばれる最後に歩く場所である。その先は処分棟へとつながっている。

 

「ホレッ、ホレッ」

 

 初老で筋肉質の職員が15頭の犬を追い込み通路に移るよう煽る。追い立てられた犬たちが吠えながら抵抗し、フロアに鳴き声が反響する。低いうなり声で、あるいは懇願するような甲高い声で。

 先ほどみた柴犬も混じっている。しかし抑留室に戻ろうとしても、見張っていた若い職員に阻止された。柴犬がさらに大きく吠えたが、その願いは聞き入れられなかった。

 

「抑留室5のシャッター、閉じます!」

 

 若い職員が宣言し、赤色のボタンを押した。 抑留室5と追い込み通路をさえぎるシャッターが降ろされる。追い込み通路の角をすべての犬が通過すると、職員たちは次の作業に取りかかるべく声を上げた。

 

「追い込み通路、前進、お願いします!」

 

 若い職員のかけ声に、追い込み通路にいた初老の職員が外に出て呼応する。

 

「はいよっ、追い込み通路、前進、オッケー!」

 

 黄色のボタンが押されると、追い込み通路の後ろの壁が徐々にせり出してくる。犬たちは壁に押されながら前進するよりほかにない。その様子はガラスが嵌め込まれた鉄格子付きのドアから確認できる。

 犬たちは叫び、前進を拒む。壁に頭をつけ、足をバタバタさせてせり出す壁に抗う。しかしその大きな力には及ぶべくもない。

 

 犬たちはそのまま幅1メートル、高さ・奥行き各2メートルほどのステンレス製の箱の形をした処分機に閉じ込められた。鋭い悲鳴は、鉄格子に嵌められたガラス越しからでも耳に入る。

 猫は犬を通路に追い込む前に金網ケージに入れられ、処分機に投じられる。 生後間もない仔猫たちは自力で歩けないので金網に入れるしかない。

 

 すべての犬猫が処分機に収まったのを確認すると、2人の職員は処分機の制御室のある処分棟へと向かった。これからおこなわれる事態を見越して、生徒たちを引率していた教師が神妙な面持ちで一同に警告した。

 

「いまからここで殺処分がおこなわれます。ショッキングな光景なのでトラウマになりかねません。みたくない人は研究棟の会議室に戻って待機していてください。みなかったからといって成績や単位に影響はありません。見届ける覚悟のある人だけ残ってください」

 

 ここまでの作業や殺処分という言葉の重さ、教師の警告の不穏さに生徒たちはざわつき、ひとり、またひとりとその場を後にした。残ったのはメイショウドトウ以下数名にとどまった。

 

 

「あのぅ……ここは動物愛護センターという名前がついているのに、どうして動物を殺処分するんでしょうか……」

 

 職員らが殺処分に向けた作業を進めるかたわら、メイショウドトウはここまで見学してきた光景に色を失いながらも、わいてきた疑問を職員に質問した。よく寄せられる質問なのか、職員は慣れた様子で返答する。

 

「センターの業務はもともと保健所業務の一環で、公衆衛生の維持・管理を第一目的としています。野良の動物はノミ、ダニ、寄生虫などに冒されていますから、噛まれたりすると人や家畜に感染症が広がって甚大な被害を及ぼします。それを防ぐために、戦後制定された狂犬病予防法にもとづき徘徊犬の捕獲・処分をおこなっています。

 いっぽう英国女王の来日決定がきっかけで動物保護管理法(現在の動物愛護管理法)が制定されてからはもともとの業務にくわえて動物愛護についての啓発も役割のひとつになりました。殺すよりも生かすための動物行政を、ということですね。それで処分するまでに猶予を設けるようになったのです」

 

 狂犬病予防法第6条8項によれば、抑留された犬は2日間の公示を受けたのち処分できるとあるが、公示期間が過ぎてからどれくらいの日数で殺処分するかは各センターの方針に委ねられている。すぐに処分するところもあれば10日待つところもある。

 この違いはふたつの法律の解釈の違いによるもので、いずれの場合も法的に問題はないとされている。つまり生かすも殺すも現場の判断しだいというわけだ*3

 

「このような背景があって、動物愛護センターは動物の生と死を両天秤にかける難しい判断を迫られるようになりました。ではどちらを優先するのかといえばやはり公衆衛生のほうです。公務員は人の社会の奉仕者ですから。

 それでも愛護センターという看板を掲げているのは、動物を生かす施設なのだという志を込めているからです。だれも好き好んで殺したくはないのですから」

 

 職員は処分機のほうに視線を寄せた。暗く狭い処分機の中で落ち着きなく動き回る犬猫に沈痛な眼差しを向ける。

 

「収容された子たちに救いはないのですか。引き取り手が現れれば殺されなくて済むんですよね?」

 

「理屈上はたしかにそうです。ですが実際に引き取りに来てくださる方はほとんどいないですね。動物を飼うとなったらまずペットショップに行くでしょう? 保護動物を引き取る選択肢があるとわかっても、実際に保護動物を飼うことはまだまだハードルが高いと思われているんです」

 

 救いの手がほとんどないと告げられた彼女は祈りが砕かれた衝撃で舌が凍りついた。そんな彼女を尻目に、職員は殺処分に関する現状を補足し、いよいよ実際に処分をおこなう準備ができた旨を告げた。

 

「愛護団体の方々がときどき引き出しに来てくれる機会もあるのですがとても追いつきません。この辺りは放し飼いにする方や餌付けする方、避妊去勢手術を受けさせない方もまだ多くて、野良とつがってしまうんです。

 安易に飼わない増やさない、飼ったら最期まで世話をする。この飼い主としての基本的義務が浸透しなければ、処分機が停止する日は来ないでしょう」

 

 

 処分機には円形のガラス窓がついており、窓越しに内部の様子をのぞくことができる。蛍光灯に照らされ、大小折り重なった犬猫がくんずほぐれつ回転している。先ほどみた柴犬がすぐ手前でもがいている。なにが起きているのか飲み込めていない。これから起こることも。

 

 やや間があって、制御室の初老の職員が操作盤のボタンに手をかける。

 

「ドリームボックスへ炭酸ガス*4を注入します!」

「注入、オッケー!」

 

 職員2人のかけ声が合図となり注入ボタンが押されると、シューッという音とともに処分機内に炭酸ガスが吹き込まれた。

 犬や猫たちの哭声(こくせい)が一瞬大きく響いた。反射的に咳き込むのだ。残った生徒たちも同調するように絹を裂くような悲鳴をあげた。

 狭く暗く密閉された箱に閉じ込められ、突如注入されたガスの音に犬猫たちは異変と恐怖とを感じたのか暴れまわり、ステンレスの床や壁をひっかき、不協和音が鳴り響いた。

 

「処分機は通称『ドリームボックス』と呼ばれています。苦痛を和らげて、眠って夢をみるがごとく、安らかに逝けるようにと願ってつけられた名前です。炭酸ガスによる二酸化炭素濃度の上昇により昏睡状態に陥らせ、そのまま死に至らしめます」

 

 哺乳類は通常、肺で体内の二酸化炭素と外気からの酸素とを交換し、ヘモグロビンと結合した酸素を血液を通して全身に運ぶことにより、脳をはじめとする身体の各組織に酸素を行きわたらせている。ところが取り込んだ外気の酸素濃度が低すぎると逆に体内の酸素が奪われてしまう。

 したがって、処分機内の二酸化炭素濃度が上昇すると、酸素要求量の多い脳が酸素欠乏になり、中にいる動物は自然に昏睡状態に陥る。人の一酸化炭素中毒と同じだ。刺激性がなく、味も臭いもないため、気づかぬうちに意識を失い、そのまま絶命する。

 

 注入開始から1分ほど経過したころ、処分機の中からはときおり、バタバタッ、ゴトンッという鈍い音が聞こえてくる。昏睡状態に陥った犬猫が倒れ、壁や床に身体を打ちつけているのだ。しかし個体によってガスの効きが異なるためか、一部の犬猫はまだ意識を失うまいとあえいでいる。

 カリカリと壁をひっかく爪の音が聞こえた。先ほどみた柴犬だった。助けを求めるかのように前足を窓ガラスに押しつけている。

 

「もう駄目! みてられない!!」

 

 残った生徒のひとりが手で顔を覆った。肩は震え、目からは涙を流して切迫した呼吸をしている。あまりにも無情な光景を、命がモノに変わる瞬間を、ほかの生徒もみな直視できないでいた。

 

「目を逸らしちゃ駄目ですぅ!!」

 

 メイショウドトウが声を張り上げた。みなが彼女のほうを向いた。彼女自身もまた、まるで1レース走った後のように息を切らしていた。全身がこわばり、耳を後ろに引き絞り、目は潤んでいる。それでも眼前の光景を見逃すまいと必死に自らを奮い立たせていた。

 

「目を逸らしちゃ、駄目です……! 私たち、だけなんですよ……。あの子たちの、最期を、見届けてあげられるのは……。飼い主さんに見放されて、人知れず、殺されていく、あの子たちを、覚えててあげられるのは、私たちだけなんです……!

 だから、目を逸らしちゃ、駄目です! そうじゃなきゃ、あまりにも救いがないじゃないですかぁ!!」

 

 普段おどおどしがちな彼女がみせた芯の強さにクラスメイトたちも感化され、再び処分機の丸窓に視線を戻した。それから5分ほどして、最後に残った柴犬が息絶えた。

 

「ドリームボックスへの炭酸ガス、ストップします!」

 

 職員の明瞭で無機質な声が響きわたった。声の反響が収まったとき、ほかに音を立てるものはいなかった。

 

 

「どうしてあんな残酷な方法で死なせるんですか? あの子たち、すごく苦しそうにしてました。最期まで生きようともがいてました! なのに、どうして……」

 

 ドリームボックス内の二酸化炭素濃度が十分に下がるまでのあいだ、クラスメイトたちがさめざめと嗚咽したり唇を白くさせて放心するなか、メイショウドトウが気力を振り絞って非難混じりの質問を投げかけた。尻すぼみになる口調とは裏腹に、てのひらの肉に爪が食い込むほど切歯扼腕している。

 

「たしかに高濃度の二酸化炭素を吸い込んだ動物が反射的にもがくことはあります。しかしそれは一種の夢遊状態であって意識的に行動しているわけではないのです。意識がないということは恐怖もない。ガス殺は一見すると残酷にみえますが、限られた設備と予算の範囲で達成できるもっとも倫理的な処分方法なのですよ」

 

 職員は冷々な回答を返した。その言葉を聞いていた生徒のひとりが、大人に噛みつく遠慮もあらばこそ、噴火した火山のように激憤をたたえて反駁した。

 

「あんな狭い箱に追い立てられていきなりガスが出てくるのに恐怖がないですって!? 倫理的!? そんなわけないじゃない! あんなむごたらしい方法で殺すなんて人間じゃない!!」

 

 職員は生徒からの糾弾にも悠揚な態度を崩さず、逆に反問を投げかけた。動物愛護家──名乗るのに知識も資格もいらない──からの感情的な抗議の電話に日々さらされている職員にとっては、生徒の反応も日常茶飯事に過ぎなかった。

 

「では逆に私から質問させていただきますが、炭酸ガスによる方法が採用される前はどのようにして殺処分をおこなっていたと思いますか?」

 

「はぐらかさないで! こっちの質問に『おーい! ○○さん、ちょっとこっち来てくださーい!』」

 

 生徒の追及をさえぎるようにして、白衣の職員は県から業務委託を受けてやってきているという作業着姿の初老の職員を呼び寄せた。

 

「この方は犬の捕獲のスペシャリストです。昔の事情にもよく通じています。○○さん、アレ、みせて差し上げられますか?」「ああ、構わんよ」

 

 そういって初老の職員が作業着の袖をまくると、腕から甲まで、いたるところにミミズ腫れ状の太い縫い跡が残っていた。彼女たちは思わず息を呑む。

 

「まだ犬猫の殺処分数が全国で100万頭を超えてたころは、バットで直接叩き殺していたんです」

 

 白衣の職員が当時の事情を説明する。初老の職員が補足を続けた。

 

「犬だけで一日100頭とどめを刺した日もありましたわ。俺たちセンターの、当時はまだ保健所っていわれてたが、職員が交代でやったもんです。汗をかくから冬場でもTシャツでね。

 でも犬たちも命狙われてるのがわかってるから、文字通り死にものぐるいで反撃してくる。それでこんな傷が残っちまった」

 

 噛まれたあとは入念に消毒するものの、破傷風になるのではないかという不安と恐怖に襲われた経験も一度や二度ではない。

 

「相手も動くもんだから一発で急所を叩けるなんて稀で、何度も叩かなくちゃならない。嫌なもんですよ。木製バットで頭蓋骨を叩き割るときの鈍い感触は。

 頭から血が出て、死体が痙攣しているのをみると、俺がこいつら殺しちゃったんだって良心の呵責にさいなまれて、メシが喉を通らなくなる。続けていくとその感覚も麻痺していく。カミさんに能面みたいな顔っていわれたときは堪えたなぁ」

 

 初老の職員がかつての苦い経験に深い溜め息をこぼす。

 

「しばらくするとさすがに職員が危険だってんで、硝酸ストリキニーネっていう毒餌を使う時代もあったけど、あれもあれで食べたら死ぬっていうのを犬が周りをみて学習しちゃうのか、殺しきれないことがよくあって、そのときは結局バットで。

 だからガス処分機が導入されて、あっさり死んでいくのをみたときは心底ホッとした。もうこれで直接手を汚さずにすむって。責めるような吠え声を聞かずにすむって。

 たしかにあれは批判も多いんだけど、俺からすれば人にも動物にも余計な苦痛を与えない、すこぶる倫理を重んじた代物だって思いますわ」

 

 初老の職員の壮絶な経験の告白に、青筋を立てていた生徒も反論する言葉がみつからないようだった。メイショウドトウも自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。その様子をみて白衣の職員が話をまとめる。

 

「たしかにおっしゃるとおりガス殺は決して安楽死ではありません。自治体によっては一匹一匹に致死量の麻酔を静脈注射して最期を看取る方法をとっているところもありますし、それがもっとも動物福祉(アニマル・ウェルフェア)に沿った方法だと思います。

 ですがセンターの業務は殺処分だけではありません。市民からのお問い合わせや保護動物の公示、収容された動物のお世話、市政への報告など日々やらなければならない仕事が山積みです。限られた時間で公衆衛生を維持しつつ動物愛護に関する広報・啓発をおこなうためには、現状ドリーム・ボックスに頼らざるをえないんです。

 私たちの啓発活動があまり浸透していないという点では力不足を感じてはいます。しかしいま申し上げたような事情や背景がある点はご理解いただけると幸いです」

 

「……はい。生意気いってすみませんでした」

 

 生徒は逆捩(さかね)じを食わせる気概がすっかり消沈したらしく、しおらしく職員に頭を下げた。

 

「あのう、そんな苦しい思いをしたのに、どうしてこのお仕事を続けられるんですか?」

 

 メイショウドトウがおそるおそる質問を挟んだ。聞いているだけで顔が青ざめ、胸が締めつけられるような仕事をどうして辞めずにいられたのか、彼女には理解ができなかった。

 

「うーん、まあ昔はなんでこんな仕事やってるんだろとは思ってたけど、家族食わせにゃいかんし、こうやって徹底的に野犬を駆除してきたからこそ日本は狂犬病清浄国になれてるわけだし、続けているうちに世の中も変わってきて、殺処分もだいぶ減った。これでもね。だからいまはこう思いますよ。俺たちがやらなきゃ、だれがやるんだって」

 

 古くから公衆衛生維持に従事してきた初老の職員の表情には、一本独鈷で刻苦精励してきたもの特有の意地が宿っていた。

 自分がやらねばだれがやる。それはかつて、自分こそが憧れの存在に並ぶライバルにならなければいけないと心に秘めた断固たる決意と同じだった。揺るがぬ覚悟で事にあたっているものに対して、それ以上に差し挟めるだけの言葉を、当時の彼女は持っていなかった。

 

 

 数十分後、ドリームボックスの二酸化炭素濃度が十分に下がると、折り重なるように横たわる犬猫たちを若い職員が一匹一匹調べ、死亡を確認した。いまわの際にここではないどこかへと旅立つ一場の夢をみることはできただろうか。

 確認が終わると、職員は目を閉じ、小さく合掌した。

 

 若い職員がドリームボックスの外に出て扉を締め、合図をすると、ドリームボックスが動き出した。焼却炉と接続するためだ。焼却炉との接続位置に来ると、呼吸の失われた棺箱の底板が開き、柴犬をはじめとした犬猫たちの遺体が焼却炉へ落とされた。肉と骨のかたまり同士がぶつかる鈍く生々しい音が響きわたった。

 

 石油が投入された焼却炉に火がともされると火勢はまたたく間に冲天をつき、轟音を上げて午前いっぱいまで燃え続ける。800℃~1000℃の火炎が容赦なく犬猫たちの遺体を焼いていく。残るものは、白い遺骨と焼け残った首輪のバックルだけだった。

 

 処分棟の壁に立てかけられた青いビニール袋の数々を一同はみせられた。若い職員がビニール袋の結び目をほどくと、中から無数の骨が敷き詰められた砂利のように顔を出した。焼却炉内から回収したあまたの遺骨だ。どれもこれもが焼けてカラカラになっている。

 

「炉内の温度が落ち着いたら、お骨は棒でかき出されてビニール袋に詰められます。ビニール袋の数が一定量に達すると、『廃棄物の処理及び清掃に関する法律』に基づき、一般廃棄物の扱いで市のゴミ中継施設に運ばれ、最終処分場に埋め立てられます。

 ……死んだらモノ扱いなんです。動物愛護管理法は動物の死んだあとの扱いまでは規定していませんから……。この仕事をしていると、自分は天国には行けないだろうなと、よく思います」

 

 みな二の句を継げなかった。施設にスペースがあれば、保護日数を延長することもできる。しかしここにはとてもそんな余裕はない。収容動物は市内各地から日々絶えまなく運ばれてくる。新入りの収容場所をつくるためには、毎回収容日の古い順に犬猫をドリームボックスへと押し出すしかなかった。

 

 

  ◇

 

 

「当時の私はあまりに純朴で、無知でした。ペットはみな、少なくとも、大多数が飼い主さんの愛情を一身に受けてかわいがられていると思っていたのです。動物が処分されるのがどういうことなのか、関係者がどんな気持ちで従事しているのか、まるでわかっていなかったんです。

 金槌で頭を打たれたとでもいうんでしょうか、それくらい衝撃的でした。殺されていくワンちゃん猫さんの悲壮な顔をみてしまったら、もう無視はできませんでした」

 

 以来、彼女はその動物愛護センターにボランティアとして出入りするようになり、卒業後はいくつかの動物愛護団体で活動したのち、自らのシェルターを立ち上げた。いまにいたるまでずいぶんと清濁併せ呑む経験をしたらしい。動物のためと自分を鼓舞し続けた結果、肝も据わった(だが本質的な性格は変わっていないらしい)。

 

「法律が変わって、世の中の動物愛護の機運も高まって、殺処分数や率は大幅に減りました。いまではあのセンターも殺処分はおこなっていないそうです。でも日本全体をみれば完全にはなくなっていません。場所が変わっただけ、ともいえます。

 あした、放棄された繁殖施設へ救出に向かう予定があるんです。ついてきていただけますか? 以前ならばセンターで引き取られていたはずのワンちゃん猫さんたちがどういった扱いを受けているのか、その一端が垣間みえると思います」

 

*1
獣医師は町中の開業獣医師だけでなく、動物園や畜産関係施設、公衆衛生を担う保健所などでも必要とされることに留意されたい。

*2
ただし猫が狂犬病の感染源になる場合は稀にある。

*3
さらに時代が進み、安易な引取依頼が減った現在ではセンターの収容スペースに空きがある限りは殺処分しない方針のところが多い。

*4
工業的な名称で、物質的には炭酸ではなく二酸化炭素のガスである。

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