セイウンスカイは才気煥発なウマ娘が綺羅星のごとく勢ぞろいした黄金世代のうちのひとりである。
変幻自在の快足で並み居る多士済々を翻弄し、皐月賞と菊花賞で凱歌を奏でた。
とりわけ菊花賞の勝利は記録にも記憶にも克明に刻まれている。逃げウマ娘は菊花賞に勝てないという周囲の思い込みを逆手に取り、巧みなペースコントロールでレースを支配した。
スタート直後からハイペースの逃げでみなの虚を衝き、中段はスローに落として失速を装い息をいれ、終盤のコーナーで二の矢を放って突き放す。
誰も予想し得なかった緩急自在の
「最っっっ高の気分だった! どうして私が垂れてこないんだってみんな泡食っててさ。お客さんもまさか私が逃げ切れるとは思ってなかったんだろうね。誰も彼もが唖然としてて、本当に痛快だったよ。
情報を集めて、あらゆる準備をして、実際に試して、相手の思考を誘導して、備えに備えた仕掛けが最高の舞台で、最高の形でハマった。みんなをあっといわせた。全身が痺れて、指先が震えるくらい、興奮したんだ。あの感覚は、忘れられないよ」
彼女のもつ天与の才知、それを支える非凡な足腰が、走る者みる者すべてを欺き、碧天の京都レース場に珠汗の菊を咲かせたのだった。
飄然とした印象のある彼女の内面をうかがえるエピソードがある。菊花賞の直前、彼女は担当トレーナーに胸中をこう打ち明けていた。
「いつも直線ヨーイドンばかりじゃレースはおもしろくない。違うかな?」。自身のライバルたちを強烈に意識した言容だった。
当時のレース界では、道中をスローペースで進め、最終直線でキレのある末脚を使って先行勢をまくるという戦術が流行していた。同期の好敵手スペシャルウィークはその筆頭といえよう*1。
その流行をあざ笑うかのような彼女の芸術的な逃亡劇は、トゥインクル・シリーズに親しみはじめたばかりのにわかファンはもちろん、固定化された戦術に飽いていた玄人をもうならせた。
スピード、スタミナ、ペース配分の総合力が問われ、強いウマ娘が勝つといわれている菊花賞で驚天動地の逃げを打ち、誰にも先頭を譲らず曇りなき強さをみせつけた稀代の策士に対し、人々は"トリックスター"の異名で彼女の実力を讚えた。この時点では彼女は間違いなく世代の頂点に君臨していた。
しかし菊花賞以降は暗雲が立ち込めた。クラシック二冠の立場は相手から油断と余裕を消し去った。
セイウンスカイは常に厳しくマークされる存在になり、以前のような自由な走りは封殺された。
年末の有馬記念はグラスワンダーの4着、翌年の天皇賞(春)はスペシャルウィークの3着に沈み、GI勝利から遠ざかった*2。
この時期彼女は密かに煩悶していた。シニア級になっても成長著しい同期のライバルと、成長が頭打ちになっている自分との差を、戦術や搦め手ではもはや埋めきれないのではないかと雲霧のさなかにいたのである。彼女が時おり起こしたゲート入り時の悶着はこの苦悩の裏返しであった。
「クラシックのころから感じてはいたんだよ。持って生まれた末脚のキレとか、ここぞってところの勝負強さなんかは私にはない。特別秀でたものがないから自分のペースに巻き込んで、邪道といわれても使えるものはなんでも使って、なんとか勝ちを拾ってきた。
でもみんなどんどん強くなっていく。才能があって、大きな夢をもっていて、努力もできて、油断もなくて、負けた悔しさをバネにできる芯の強さも持っていて。そんな相手に伸びしろの少ない私がどう立ち向かっていったらいいのか、釣り糸を垂らしててもまったく思いつかなかった。壁を感じたよね。明確な行き止まりを突きつけられた。このころ、布団に入ってもなかなか眠れなかったのを覚えてる」
しかしそれでも彼女をレースに駆り立てたのは、自分自身の原体験だった。
「私はあんまり期待されてない子だったんだけど、小さいころのレースで、どうやったら勝てるかを考えて、大番狂わせを演じたら、周りがポカンとして、それがすごく気持ちよかった。自分自身もレースであんなに興奮するなんて思わなかったね。唯一疑いなく私を信じてくれてたじいちゃんもたいそう喜んでくれて嬉しかったな。
自分の走りでみんなをあっといわせたい。それが私の原点。努力や根性なんて私のキャラじゃないけど、諦めずに頑張っていたら、また菊花賞のときみたいな最高の瞬間を味わえるかもしれないって思ったんだ」
ところが遠のいたGIの金星を追いかける彼女をさらなる不運が襲った。1番人気に支持された天皇賞(秋)でスペシャルウィークの5着に沈み、次走予定の有馬記念に向けて調整していると、足に違和感を覚えた。検査を受診すると左足の屈腱炎が判明した。
幸いにも炎症の程度は浅く、治療に徹すれば復帰が可能と判断された。トレーナーの説得もあり、ライバルへの雪辱を期して療養生活に移行した。
「こうみえて私、すっっっごく負けず嫌いだからね。勝ちへの執着だけはスペちゃんたちと肩を並べてたと思うよ。負けたまんま竿をしまうのはつまらない。そう思ってたんだけどね……」
療養期間は想定よりも長く続いた。その間、彼女のライバル陣営から相次いでトゥインクル・シリーズ引退が発表された。
スペシャルウィーク、グラスワンダー、エルコンドルパサーの3名はドリームトロフィーリーグへの移籍が決定した。同リーグからのセイウンスカイへの打診はなかった。キングヘイローは「一流の走りができなくなった」と断腸の思いでターフを去った。
好敵手たちとの対戦可能性は雲散霧消し、借りを返す機会は永久に失われた*3。
「みんなそれぞれ事情があるのはわかってたけどさ、私の気持ちはどうなるのって思ったよ。張り合いがなくなっちゃって、なんのために頑張るのかわからなくなった」
競い合う相手がいなくなり、リハビリに気持ちは入らず、復帰後に向けた調整は遅れに遅れた。ライバルの退場した舞台で奇術を演じ続ける気力はもはや失われていた。しかしそれでも彼女には引退できない理由があった。
「そのころじいちゃんの病気が思わしくなくてね。寝たきりだったんだ。もともとは豪快で、声も大きくて、嵐みたいな人だったのに、病気にかかってからは進行が早くて、どんどん痩せて枯れ柳みたいになっちゃった。声も呂律が回らなくなって、蚊の泣くようなか細いうめきしか出せなくなった。
でも私がお見舞いにいくと、震える手を一所懸命に持ち上げて、私の頬をさすってくれるんだよ。あんなにやせ衰えちゃってもじいちゃんはまだ私を信じてくれてたんだ。
だから、気力的にも能力的にもとっくに限界ではあったけど、せめて最後にもう一度、レースを走る姿をじいちゃんにみせたかったんだ」
復帰戦は天皇賞(春)に決まった。かつての二冠覇者の復帰にレースファンは色めき立ったが、1年半のブランクやGI前にひとたたきもしない調整不足、新世代の台頭などを理由に、人気は12人中6番目にとどまった。
それでも、菊花賞での鮮烈な勝利が脳裏に刻まれている彼女のファンはかつての走りを夢想し、霧雨の降る京都レース場の春陰に祈りを捧げた。
控室から地下バ道に向かう折、セイウンスカイはトレーナーに、いつも通りの飄々とした、しかし真剣な調子でこう告げた。
「みててね、トレーナーさん。見せ場、作ってくるから」
しかし祈りは厚い雲に阻まれた。彼女の見せ場はそこまでだった。全盛期をとうに過ぎ、衰えた脚を補うだけの策略も編み出せなかった。せめて最後に、セイウンスカイここにありとの幻影をスタンドに投影させるのが精一杯だった。
2周目向こう正面を過ぎたあたりで、ひとり、またひとりと、後輩たちが彼女を追い抜いていく。新時代が彼女を置き去りにしていく。
最終的な着順は最下位に終わった。それも、トップのテイエムオペラオーに16秒近く遅れての、ゴール前にバ場整備員が入ってきてしまうほどの大敗だった。世代交代の完了、彼女の枯凋を如実に表す結果となった。
レース後、雨を浴びて濡れそぼった身体で控室に戻ってきたセイウンスカイに、トレーナーはねぎらいの言葉とともにタオルを渡した。彼女はタオルで髪を拭きながら、顔をうつむかせてつぶやいた。
「みてた? トレーナーさん。見せ場、作れたでしょ。もうトリックを本物にはできなかったけど」
彼女の言葉を聞いたトレーナーは、往時の栄光とその後の辛酸とをともにした担当ウマ娘が、心血を注いでなりふり構わずひた走った姿に、彼女の目もはばからず、一掬の涙をこぼした。
「立派、だったぞ。誰がなんといおうと、セイウンスカイは、立派に、走りきった。ごめん、勝たせて、やれなくて」
「ばかだなあ、トレーナーさん。ほんとうに、ばか、だよ。どうし、て、トレーナーさん、が、泣くん、ですか」
タオルに隠れた髪の毛先から
卒業後は流されるように進学した。元来彼女は要領がよかったため勉学や交友はそつなくこなしたが、いつも気持ちは虚空に浮き、喪心を持て余して上の空だった。社会へのゲートインを当然のように受け入れている周囲との意識の懸隔も感じていた。
「この時期のことはほとんど記憶にないなー。とにかくぼんやり過ごしてたなあとしか。
とつおいつしてるうちに就活シーズンになって、あんまりあくせくするのは嫌だったけど、かといって現役時代の賞金に飽かせてなにもしないでぷらぷらするのも退屈だなあと思っていちおう就職はした。だけどいまから思えば会社選びを完全に間違えてたね」
自身と周囲の意識の違いが明確な摩擦として顕現したのは、彼女いわくラクそうだからと思って入った会社の事務職として働きはじめてからだった。
「仕事自体は難しくなかったし、残業もほとんどなかったよ。でも、えらそうに部下に説教してる上司が消耗品の保管場所ひとつ知らないとか、書類の処理前後に検印を押してもらわなきゃいけないとか、現状報告するだけでなにか決定するわけでもない定例会とか、いちいち作業が寸断されてもどかしかったね」
なにかにつけて横槍の入る業務環境に耐えかねたセイウンスカイは業務改善案を提出したが、硬直した会社組織にとって、彼女の提案は横紙破りに等しかった。間接部門に経営がわかるかと一笑に付され、先輩社員からはたしなめられた。「あたしらの仕事が増えるじゃない。余計なことしないでよ」。
「びっくりしたよね。組織内部の非効率は最終的にエンドユーザーさんがかぶるわけじゃない? 曲がりなりにもレースっていうお客さんありきの商売に携わってた感覚からすると信じられなかった。それに、現役のころは勝つためにはあらゆる策を凝らすっていうのが当たり前だったから。
あの会社ではそうじゃなかったんだね。レースの世界とは違う社会と論理で回ってる。それを突きつけられたんだ」
現状に疑問を持たず黙ってしたがえ。突きつけられた金科玉条に、彼女の心は急速に乾いていった。
「このまま自分を押さえつけて何十年も働くのかと思うと、つまんなくて耐えられないなって思った。翌日には退職届を提出したよ」
しかし辞めたところで急にどうにかなるものでもない。将来のみえない閉塞感がセイウンスカイを襲った。
同期の溌溂とした現在を聞くにつけ、自分が立ち止まったままの孤雲のように感ぜられた。自室の天井を眺めながら益体のない思考が渦を巻いた。
「(スペちゃんは故郷の農場を継いで美味しいにんじんを作ってる。グラスちゃんは学者を目指して大学院に。エルは今度はプロレスで世界最強を目指してる。キングは自分をブランドにして事業を立ち上げた。フラワーはいいお嫁さんになりそうだな。じゃあ私は?)」
出世レースに興味はない。だが好敵手たちと自分との社会的立場の違いが、現役時代に烙された評価の差をそのまま反映しているように思われた。いまや再戦は叶わない。下風を覆す手段がない。所在なげな思考は袋小路へと迷い込んでいく。
「(人を驚かすのは好きだけど、フジ先輩みたいに純粋にエンタメをやるって性格でもない。私は人を出し抜くのが好きなだけだ。その快感に酔って、依って、来ただけだ。
トリックを披露する舞台も、みてくれる観客も取りあげられたいま、私はなにを頼みに生きればいい?)」
自身のあり方に思い悩む彼女の心に、絶対的な味方の姿が思い浮かんだ。
「(トレーナーさんだったら、なんていってくれるかな)」
気がついたときにはトレセン学園の代表電話に訪問の連絡を入れていた。
訪問当日、セイウンスカイは元担当トレーナーの指揮するチームの練習場所に足を運んだ。
自分ひとりの専任だった時代とは違い、グラウンドは賑々しさを増していた。何人ものチームメンバーが切磋琢磨し、複数人のサブトレーナーが忙しなく動いている。
遠くから全体を見渡していたかつての師を彼女はみつけ、こっそりと後ろから近づいた。
「だーれだ」
「トレーナーにこんなイタズラするのは後にも先にもおまえしかしないぞ、セイウンスカイ」
「あったり~。久しぶりなのにすぐにわかるなんて流石は私のトレーナーさん」
「いけしゃあしゃあとよくいうよ。ま、変わってなくて安心した。今日はゆっくりみていってくれ。スカイの後輩たちだ」
トレーナーがいったん全員を集合させ、彼女の訪問を伝えると、ウマ娘たちはにわかに騒然となった。大先輩に対してどのように接したらいいか一同がまごついた。
ひとり、前髪の中心から右斜めに流星の入った鹿毛のウマ娘が意を決して声をかけた。
「あの! セイウンスカイさん! 私の走りをみていただけませんか!」
クラシック二冠の雲上人に話しかけるのによほど勇気を振り絞ったのか、鹿毛のウマ娘は吊り下げられた人形のようにまっすぐ背筋を伸ばし、ジャージのパンツの横裾の縫い目に指先をピッタリとつけて身体をこわばらせている。
セイウンスカイは鹿毛のウマ娘の緊張をほぐすようにひょうきんな声色で手首を振った。
「まーまー、そうしゃっちょこばらないで。いまの私はスタンドにいるお客さんと変わらないんだからさ。指導の専門家でもないし、大したアドバイスはできないよ?」
「それでも構いません! 私、スカイさんの菊花賞を現地でみてレースをはじめたんです。あこがれの人に自分の走りをみていただけるだけで感激です!」
邪気のない尊敬の眼差しに応えてやるべく、彼女は鹿毛のウマ娘の懇願を受諾した。
「そこまでいうならみせてもらおうかな。そうだ、せっかくなら併走してみない? そのほうがあなたの走りがよくわかるだろうし」
憧れの存在から願ってもない提案を受け、鹿毛のウマ娘は飛び上がって喜んだ。
「さすがに現役相手に長い距離は敵わないから向こう正面まででどうかな。そこまで行ったら私は離脱するから、そこから先は本番を想定して追い切る。そんな感じでどうかな? トレーナーさん」
「あまり無理はするなよ。できる範囲で稽古つけてやってくれ。いま予備のウェアとシューズを持ってくるよ」
「お願いしまーす。あ、そうそうトレーナーさん」
「ん? なんだ?」
彼女はトレーナーに譲れない条件を突きつけた。
「ゲートはなしでお願いしまーす☆」
「ゲート嫌いは相変わらずか……。みんな、これは真似しちゃダメだぞー」
二人の戯れにチームはどっと沸いた。
ホームストレッチに両者が並び、トレーナーの合図で併走はスタートした。セイウンスカイが現役はだしのスタートダッシュを決めてまずは先頭に立つ。鹿毛のウマ娘もすぐに加速して彼女との差を詰めてきた。両者ともに逃げ足が自慢のウマ娘だ。
第1コーナーに入るところで鹿毛のウマ娘がセイウンスカイと並び、ハナを奪おうとする。セイウンスカイは内に寄って経済コースを陣取り、抜かせまいと踏ん張った。そのまま両者は互いに負けじと競り合っていたが、最終的にはやはり現役の地力がまさり、第2コーナーから向こう正面に入ってすぐのところでセイウンスカイは抜き去られ、脚を止めた。
鹿毛のウマ娘はその後しばらくペースを落とし、第3コーナー途中からロングスパートをかけて空想上のライバルたちを一蹴した。
集中した走りをみせる後輩を遠くから観察しながら、セイウンスカイは勝利のための知謀に頭を巡らせた。
「(私に憧れてるっていうだけあってよく研究してるな。走り方もよく似てる。でもまだ粗い。先頭争いにムキになるところがあるみたいだし、強引にハナを奪っていけば焦って調子を乱してくれそうだ。
あるいは後ろにぴったりつけてプレッシャーをかける。真面目な子みたいだし、こっちが仮病使ったら心配して心を乱してくれるかも。
蹄鉄の具合が変だってささやけば気にしてくれるかな。前走からイメージを植え付けておいて、それから……)」
そこまで考えて彼女ははたと気づいた。自分がすでに引退して久しい元選手である事実に。
「(なに考えてるんだろう私。もうこんなこと考えても意味がないのに)」
鹿毛のウマ娘との併走を契機にセイウンスカイはチームメンバーから質問攻めにあい、練習終了時間になってようやく解放された。
選手たちが寮へ引き上げた後、ストレッチで身体をほぐしていると、トレーナーが慰労の声をかけてきた。
「お疲れ。臨時コーチ、サマになってたじゃないか」
「大したことはしてませんよー。みんなの走るときのちょっとしたクセを教えてあげただけで」
「本人も指導者も気づいてなかったクセをみつけられるのはただごとじゃないぞ。さすが、現役時代に対戦相手をよく観察していただけあるな」
「トレーナーさんだってすごいじゃないですかー。昔は私とマンツーマンだったのに、いまはメンバーが増えて、サブトレさんもたくさん抱えて、すっかり大御所のボスじゃないですか。毎年重賞の常連なんでしょ? よっ、名伯楽!」
「名伯楽はよしてくれよ。毎年GI複数獲るのが当たり前の化け物チームだってあるんだから」
この場にはほかに残っている者はいない。自然とふたりは口がなめらかになり、思い出話に花を咲かせ、ついでトレーナーの現在の担当ウマ娘に話柄がおよんだ。
「スカイからみて気になるウマ娘はいたか?」
「うーん、やっぱり最初に話しかけてくれた鹿毛の子かな。私に憧れてるっていってたし、走り方も私を意識してる感じだった。
でも私の勘だけど、あの子は私と違って小細工しなくても自分の実力だけで強い相手と渡り合っていけるんじゃないかな」
彼女の所感にトレーナーは目を閃かせた。
「スカイもそう思うか! あの子は一番のホープなんだよ! 骨格・筋肉・トモの張りのバランスがよくて、キレはないがスピードのある脚を長く使える。まだ荒削りだが、いずれはテンよし・中よし・終いよしの強い走りができるようになるはずだ。クラシックはもちろんグランプリだって夢じゃない。本当にこれからが楽しみだよ。それにな」
「うん、それに?」
「誰かさんと違って真面目で練習をサボったりしない」
トレーナーが不敵に口角を上げて当てこすった。彼女も返す刀ですっとぼける。
「不届きなウマ娘もいたもんですねー。誰ですかその気性難は」
「おまえだおまえ」
かつてと同じようなざっかけない掛け合いにセイウンスカイとトレーナーは吹き出した。このとき確かに、ふたりの時間は彼女の現役当時に巻き戻っていた。時計の針が元に戻ると、トレーナーは真面目な顔をして彼女に謝意を述べた。
「俺はさ、おまえに感謝してるんだよ、スカイ」
「どうしたんですかトレーナーさん。あらたまって」
「まあ聞けって。あの子な、俺がスカイの担当だったことを覚えてて、トレーナーを決めるときに俺を逆指名してきたんだよ。
名家の出身で、模擬レースでも頭一つ抜けてたからトレーナー連中はみんな狙ってたんだけど、それが向こうから来てくれたんだ」
聞くところによると、鹿毛のウマ娘の母親は皐月賞とダービーを勝った名選手だったが、鹿毛のウマ娘が小学生のころに夭折したそうである。
「お母さんの獲れなかった菊花賞の夢をなんとしてでも果たしたいってんで、スカイを担当してた俺に指導してもらいたいっていってきたんだ。労せずに単独交渉権を得られたわけで、本当に幸運だった。
そのとき思ったよ。スカイ、おまえはまた、俺を助けてくれるんだなあって」
唐突なトレーナーからの賞嘆に彼女は面映ゆくなり、ごまかすように軽口を叩いた。
「いやあ照れますねぇ。私って、幸運の女神だったり?」
「そうだよ。スカイが俺にとっての女神なんだ」
トレーナーのキザな表現に彼女は不意を打たれ、
「も、もう! トレーナーさんたら! 昔からときどきものすごく恥ずかしいセリフいうよね!」
「いやいや真面目にそう思ってるぞ。あの子の件だけじゃない。スカイが引退したあとも、はじめての担当をクラシック二冠に導いた若き俊英だなんて箔がついたからか、スカウトで話を聞いてくれる子が多くなったんだ。その子たちがまた結果を残してくれて、ますますスカウトがしやすくなる」
実績が評判を生み、評判が才能を誘い、才能がまた実績につながった。トレーナーはその好循環を現在も維持している。
「俺自身は大したことはしてないのにな。いまのいい循環につなげられたのは、間違いなくスカイが俺に
自分の考えていた以上に自分がトレーナーに評価されていた事実に彼女は内心胸を熱くした。同時にバツの悪さも湧き上がった。トレーナーからの褒誉に釣り合うほど引退後の自分はなにかを成し遂げられただろうか。
自己評価と他者評価の食い違いにわだかまりを感じた。その気持ちを悟られぬよう、彼女は努めておどけてみせた。
「なるほど、トレーナーさんは私が育てた! セイちゃん理解しました! でもトレーナーさんも大変だよね。勝ち上がるごとにプレッシャーは大きくなるし、自分の時間はほとんどないし、ファンから批判される機会だってあるでしょ? つらくならない?」
「うーん、プレッシャーはたいてい選手本人のほうが強く感じてるもんだし、ウマ娘のために時間を使うのはトレーナーとして当たり前だし、選手がいい走りをするためなら俺がいくらでも批判の防波堤になればいいし。大変ではあるけどつらいと思ったことはないよ」
トレーナーはあっけらかんと言い放つ。彼の人となりをセイウンスカイはよく知っている。
読書家で暇さえあれば本を読んでいた。先達が営々と築きあげてきた専門知にかじりつく根気があった。だからといって頭でっかちではなく眼光紙背に徹する知性があり、日々の生活のなかで浮かんだアイディアをトレーニングに取り入れる柔軟さ、彼女の奇策を後押しする大胆さもあった。
屈腱炎を負った折はリハビリに取り組む彼女のために図書館に通って医学書を紐解き、専門家に意見を請うた。担当ウマ娘の気持ちに寄り添い、周囲と本人の諦念をよそに辛抱強く支え続けた。
実績を重ねても驕らず、ウマ娘のためになると思えば気に入らない相手に頭を下げてでも教えを請うプロ根性があった。ウマ娘のために私生活をなげうち、担当を理解しようと身を粉にする誠実さがあった。
だからこそ麾下のメンバーに慕われ、その信頼が競争いちじるしいレースの世界で安定した成績を残す原動力になっているのだろう。彼女はそのように解した。
トレーナーは息を弾ませながら言葉を続けた。
「俺、この仕事が好きなんだ。空の向こうまで届きそうな才能の原石を磨いて、鍛えて、開花の瞬間を感じるのはさ、自分の成長以上に嬉しいもんだ。ましてやそれをGIのウィナーズサークルで見届けられたときなんてたまらない。
もうやめられないよ。トレーナーって仕事は。サブトレたちからは『チーフは働きすぎです! もう休んでください!』ってよく叱られるんだけどな」
トレーナーは屈託なく相好を崩した。夜間照明に照らされた顔に後光が差していた。苦労を苦労と思わぬ楽しげな口ぶりには、誇りと充実感が満ち満ちていた。
自分の欲してやまないものをすべて持っている彼が羨ましかった。その気持ちを押し殺して笑い返した。元教え子の尻尾がしだれたのを師は見逃さなかった。
「このあとトレーナー室に寄っていかないか。今日はなにか話があってきたんだろう?」
「そのつもりだったんだけど、やっぱりいいや。トレーナーさんの顔をみたら満足しちゃった」
「なんだそりゃ。まあスカイがそういうんなら、そういうことにしとくよ」
彼女の胸中に釣り糸が絡まっているのをトレーナーは推察したが、無理に踏み込みはしなかった。代わりにひとつの提案を投げかけた。
「実はな、サブトレのひとりがいま家庭の事情で休んでて手が足りないんだ。もしスカイさえよければ、サブトレが戻ってくるまでチームスタッフとして入ってくれないか。OGが後輩にコーチするのは珍しくないし、たづなさんも理事長も許してくれるだろ。
今日みてた感じ、チームメンバーとも打ち解けていたし、同じウマ娘ってことで相談しやすい子もいるかもしれない。なによりGI勝者の経験は代えがたい財産だ。それをチームに伝えてくれないか」
突然の誘いではあった。だが願ってもない話だった。久方ぶりのグラウンドの空気は澄明に感ぜられた。春秋に富む後輩たちを
トレーナーからの言葉が嬉しかった。必要とされているのがありがたかった。どんなときでも自分を信じてくれた彼に好意を抱いていた時期もある。
きっといまの自分の胸裏を察してくれて、無私の厚意を申し出てくれているのだろう。彼女は軽やかな声で返答した。
「せっかくのお誘いだけどやめときますよー。トレーナーさんは毎日やってるのに私は今日一日だけでもうくったくた。明日はなにもしないでゴロゴロするぞーって気分だもん。私が指導者なんて雲に
彼女の謝絶を聞いたトレーナーは、自分が力になれない無念さをにじませながらも、彼女の意思を尊重し、寂しげに言葉を返した。
「そうか……残念だ。でも、なんとなくスカイならそう答える気がした。無理いって悪かったな。またいつでも遊びに来てくれよ」
「気が向いたらね。じゃあね、トレーナーさん。久しぶりに会えて嬉しかったよ!」
いうが早いか、セイウンスカイはトレーナーに背を向けて手を2、3度振り、弾けるようにグラウンドから辞去した。
遠ざかっていく彼女の背中に向けてトレーナーが激励の声を張った。返事はできなかった。顔を伏せた。歯噛みした。
校門を出てウマ娘専用レーンに入ると速度をあげ、トレセン学園を彼方にした。学園の建物が地平線に隠れたのを確認すると、速度を緩め、立ち止まって、天を仰いだ。
凍て夜のプラネタリウムは地上にあまねく星芒を投げかけていた。けれども、そのおぼろな瞬きは、彼女の走る道をいささかも照らしてはくれなかった。
◇
「あのときどうしてトレーナーさんの誘いを受けなかったのかって? 受けちゃいけないって思ったんだよ。私みたいな中途半端なやつが、みんなの純粋さに水を差しちゃいけないって、本気で思ったんだ。
同期のみんなはもう次のライフステージに移って、将来に向かって進んでた。トレーナーさんと後輩の子たちは、夢や目標のために、いまの一瞬一瞬に力を注いでた。
私だけだったんだよ。私だけだった。鹿毛の子と併走してはっきりわかった。私だけが、ターフに心を残したまま、ずっとゴールできていなかったんだ」