セイウンスカイはロープを取り出し、母子ジカの頭と前肢、後肢をそれぞれ手早く縛っていく。
何百回と繰り返してきた妙技は目で追えないほど早く、奇術師のように一弾指で結びを作った。
「近くに沢があったね。そこに持っていこう。後ろ持ってくれる? 2頭分は重いけど、あなたなら力持ちだから大丈夫ですよね~?」
彼女に促されて、結び目から伸びたロープを肩に掛けた。2頭合わせて約70kg分の命の重みが肩に伝わる。
沢のある谷への移動中、傾斜を下り、蛇行するたびに獲物が揺れ、ロープが手に肩に食い込んだ。魂が抜けてもなお捕食者に抵抗するかのようだった。
森を流れる膝高の深さの沢にたどり着くと、セイウンスカイは近くにあった太い樹を選んで丈夫な枝にトラッカーズヒッチでロープを結び、滑車の要領で獲物を後肢から引き上げた。足元には大きめの黒いビニール袋を用意しておく。
デッキブラシを取り出して沢水に浸し、獲物の身体をこすって泥と血を洗い流す。そして獲物に一礼。剣鉈を取り出してアルコールシートで刀身を拭いた。ビニール手袋をはめた彼女がこちらに振り向く。
「これから獲物の
まず吊り下がった獲物の腹部を中心線に沿って剣鉈の峰でなぞり、皮を切りやすくなるよう毛を分ける。
「『けじめを入れる』って作法なんだ。昔から猟師に伝わってるらしいよ。私は師匠から教わったけど、師匠はそのまた師匠から教わったんだって。
刃を入れる場所をきちんと確認して、心の準備をするって意味合いがあるんだ」
胸骨の境目に切れ込みを入れる。それから彼女は
胃や腸を傷つけると消化中の食物や糞便が噴き出す。野生動物の消化器官内には病原性大腸菌をはじめとしたさまざまな食中毒菌が含まれている。
これらが付着した肉は食用に堪えない。悪臭も凄まじい。このような事態を顧慮して彼女は開腹のさい、用途に最適化されたナイフを使っている。
切れ込みにガットナイフの鈎を引っかけ、股方向に向かってジッパーを上げるように腹皮を裂いていく。
皮をつないでいた筋肉がチリチリと縮んでゆく。内臓側には刃がついていないため消化器官を傷つける心配はない。
股の中心部まで切開し、恥骨をむき出しにした。ガットナイフを剣鉈に持ち替える。恥骨のつなぎ目に刃を押し当て、峰を叩いて軟骨を切断する。
恥骨が左右に割れて直腸があらわになった。直腸に残った糞が漏れないよう肛門に近い部分を結束バンドで結紮する。
「これをみて」
腹圧から逃れるように開腹部から膨れ出た青白い膜を彼女は指差す。
ある童話で猟師がオオカミのお腹から主人公と老婆を助け出すシーンがあるが、メルヘンの生皮が剥がれてむき出しのリアルが現れたかのようだ。
「腹膜っていうんだ。胃腸を包んでいる袋だよ。シカは反芻動物で胃が4つあるから立体的で羊膜みたいでしょ。ちょっと触ってみて」
彼女に促されて腹膜を触ってみると、晩秋の寒さにかじかんだ手にじんわりと熱が伝わってくる。生きている私の手よりも屍のほうが温かく、現実離れした印象を受けた。
「捕獲したときのシカの体温は40℃を超える場合もあるんだ。仕留めてからまだ時間がたってないから体内に熱が残ってるんだよ。
不思議だよね。さっきまで生きてて、いまはもう肉の塊に変わったはずなんだけど、この熱を感じると、生きてるのか死んでるのか、そのどちらでもないように思えてくる」
下腹部の切開が終わったら、今度はしゃがんで胸骨に沿って喉元まで皮を裂く。肋骨をむき出しにし、刃に力を入れて左肋骨と胸骨のつなぎ目の軟骨を切断する。
止め刺しのさいに胸腔に流れ込んだ血溜まりが開放された。垂れた内臓が肋骨に不安定にもたれかかる。
ここまで来たら終わりは近い。ふたたび立ち上がって直腸に手を伸ばし、肛門の位置を確認する。肛門周りの皮を剥いで、直腸を握りながら手前に引っ張り、肛門を外側に向けてポリ袋をかぶせる。
それから直腸の後ろに手を入れて腹膜を引き剥がしていくと、支えを失った臓物がマグマのようにどろりとまろび落ちてくる。空いた腹腔からむせ返るにおいの湯気が立ち上がる。熱のこもった内臓は煮えているかのようだ。
腹膜と胸骨をつないでいる横隔膜を刃先で裂くと、いよいよ一連の生命維持装置が、すなわち四ツの胃が、ねじれ数珠の腸が、ぶどう酒の肝臓が、小豆の腎臓が、ソラマメの脾臓が、赤ガエルの肺が、こぶしの心臓が、大地の引力に応じてひとまとめに地面のビニール袋に収まった。最後に気道・食道を切断すれば内臓摘出は完了となる。
「ちょいと確認」
彼女は流れ落ちた臓腑に刃を入れて断面をつぶさに調べた。屠体の内臓に奇形や病変がないか、寄生虫に冒されていないかを確かめるためだ。
異常があった場合、内臓だけでなく屠体も含めてすべて廃棄しなければならない。全身に病変が回っている可能性が高いからだ。
「ここまでやって捨てるハメになったら虚しいけど、野生動物の肉は誰も安全を保証してくれない。屠畜場と違って獣医師免許をもった検査員が細かくチェックしてくれたりはしないんだ。だから猟師は自分の目と知識でできる限りの安全を確保する必要があるんだよ。よしよし、このシカは大丈夫そうだね」
内臓の無事をためつすがめつ確認した彼女は、血に塗れた剣鉈を沢水で洗って鞘に収めた。
「さて、次はお肉を冷やそうか」
セイウンスカイは腹抜きが済んで軽くなった獲物を枝から下ろすと、屠体をまるごと沢に沈め、ほどいたロープを今度は樹の幹に巻き付けた。
「さっきわかったと思うけど、仕留めたばかりの野生動物はまだ温かい。この体温が雑菌増殖の温床になるんだ。そのままにしておくと腐敗ガスが溜まって、血なまぐささが肉についちゃう。それを防ぐために冷たい沢に沈めて身体を急速冷却するってわけ。血抜きを隅々までやる意味もあるね。もうひとつ。お肉をおいしくするためでもあるんだ」
動物の筋肉は死後しばらくは柔らかな状態だが、 数時間経過すると筋弛緩のためのエネルギー物質が枯渇し、筋肉が収縮していく。いわゆる死後硬直だ。
硬直がはじまる前に骨から外された筋肉は縮んだまま元の形に戻れず、肉汁が抜けて硬くパサついた肉になってしまう。
そこで骨付きのまま死後硬直させる。筋肉は骨についているから、縮もうとする筋肉を骨が引っ張り、最終的にもとのサイズまで伸ばされる。
「このまま一晩沈めたままにしておくよ。仕留めてすぐのお肉はあまり美味しくないからここで熟成させるんだ」
死後硬直した筋肉は、さらに10時間ほど経過するとタンパク質が種々のアミノ酸に分解され、保水力と旨味が向上する。
こうして筋肉は柔らかくみずみずしい食肉へと変貌する。労働者の胃袋を下支えしている屠畜場でも、枝肉は牛・豚・鶏ごとに一定期間、冷蔵熟成されてから出荷される。
「野外だとあまり厳密にはやれないんだけど、私の家だと食肉処理場ほど設備もスペースもないからここでやるしかない。
私は一日沈めておくけど、仕留めてすぐ持って帰って精肉化までする人もいれば、専用の熟成部屋を作ってドライエイジングする人もいたり、猟師仲間で加工所をつくってそこで処理する人たちもいるみたい。
大まかな工程は決まっているけどやり方は各人に委ねられているんだ。そのおおらかさが狩猟のいいところなんじゃないかな」
沢に即席でつくった野外解体場の後始末を済ませ、彼女の手元には黒いビニール袋に入れられた内臓が残った。彼女はシャベルを取り出し、沢から離れた場所に移動して穴を掘りはじめた。
「
狩猟で得た鳥獣は捕獲場所に放置してはならず、全量持ち帰るのが原則だ。ただし、やむを得ない場合は生態系に影響を与えないよう適切に埋設することとされている。
彼女の場合、ほとんど人の立ち入らない山野で活動するため、水場から離れたところに深い穴を掘って埋めれば法律には抵触しないだろうと判断している*1。
「実をいうとね、私にとって獲物の解体はおまけなんだ」
セイウンスカイは自らの狩猟の目的を打ち明ける。
堅い木の根がある位置を避け、尖った匙先を脚で突き刺しては掘り、突き刺しては掘り、深淵を形成していく。
「山の中の獲物の痕跡を読み取って、罠を仕掛けて、読みを外されたり、欺かれたりしながら心理戦を繰り広げて、相手が罠に掛かったときの驚いた顔を想像する。それで私の猟欲は十分に満たされるんだ。
山をコースに、獲物を対戦相手に見立てて擬似的なレースを楽しんでる。お肉は第一目的じゃないんだよ」
彼女は獲物に対する心持ちを切々と、額の汗とともに絞り出した。
「昔のマタギは獲物を解体する前に山の神さまに捧げる儀式をやったらしいけど、私にとっては解体そのものが儀式なんだ。
獲物の解体を通して、その動物がどんな身体つき、性格、生活をしていたのか、自分自身に刻みつける感覚。私のわがままに付き合ってくれた動物に対する礼儀って感じかな。
いまだにレースに対する未練を残してる、みっともない私なりの、せめてものスポーツマンシップ。ただの感傷にすぎないけれど、ね」
胸の高さまで掘削した彼女は、ビニール袋を逆さにして残渣を穴に入れ、その上から土をかぶせていく。
自分では十分な深さだと認識しているが、それでも時たま掘り返される場合があるという。
「前にイノシシが獲れすぎて一頭まるごと埋めたことがあったんだけどね。そのあと雨が降って。気になって後日埋めた地点を確認しにいったら見事に掘り返されてた。
アナグマやらキツネやらの仕業かな。屍肉があさられて、骨がみえてた。眼もなかった。カラスがついばんだのかもしれない。はらわたを直接握られるようなすごい臭いがして、反射的にえづいて、涙が出た。ウジやらハエやらもびっしり。
美辞麗句でパッケージされた自然にはないグロテスクな光景ではあったけど、私の代わりに仕留めた命を無駄にしないでくれたんだなあと思うと、なんだか恐縮しちゃった」
イノシシは江戸時代、
山鯨の名は幕府の統制を逃れるための隠語にすぎなかったが、潰えた命が別の命をつなぎ、その命がまた別の命を育むという点において、図らずも鯨骨生物群集*2を形作るクジラの特質をいみじくも捉えた名称であるといえよう。
「サワガニがね、屍体を這って、カサコソと肉を食んでたんだ。サワガニって普段はイノシシに食べられる側なんだよ? それがあそこでは捕食者と被捕食者の立場が逆転してた。
食べる・食べられるの関係っていうのは、私たちが思っているほど単純じゃないのかもしれないね」
食物連鎖はピラミッド型がイメージされる。だがその頂点に位置する大型肉食禽獣も、死んでしまえば下位の動物に被食され、残った骨もやがて微生物に分解されて土壌の栄養になる。
生物間の相互関係は、固定化された三角錐ではなく、砂時計を交互に動かすような動的循環によって成り立っている。
「よし、これで埋設完了。あとは箱罠を回収して、撤収しよう」
埋設作業を終えた彼女は、腰を弓なりにして伸びをし、汗みどろの顔をタオルで拭いて作業の終了を告げた。
「解体の続きはまた明日。次は皮剥ぎをやっていくよ。今日はお疲れさま」
翌日、セイウンスカイの自宅ガレージを簡易解体所として作業は再開された。
ガレージの梁に太いロープを渡し、解体専用のハンガーを吊り下げる。
沢から運んできたシカの後ろ両足のスネ周りを剥皮し、腱の部分に切れ込みを入れる。ハンガーの左右の頂点は返しのない釣り針のようになっており、そこに後肢を引っ掛けて
その下にトロ船と呼ばれるプラスチックの箱を置き、解体時に出る残骸の受け皿にする。
精肉化作業用の机にはコンパネ板を設置し、天面にアルコールスプレーを噴霧する。一斗缶に薪を燃やして鍋に湯を張り、解体用のナイフを煮沸消毒する。
ナイフはいくつか種類があり、それぞれ形が異なっている。ノコギリまである。
「ひとつのナイフで止め刺しから解体まですべてこなす人もいるけど、私は工程ごとの用途にあった道具を使いたいな。そのほうがいろいろと策を凝らしている感じがしておもしろいからね」
そのように語る彼女は解体用の服装に身を包んでいる。
防水性の高いビニールエプロンにゴム長靴、袖つきゴム手袋を装着し、顔以外の肌の露出がないようにしている。色合いは全体的に明るい。ダニが這い上がってきてもすぐにわかるようにするためだ。
「一晩沢に浸しておいたから大丈夫だとは思うんだけど、ダニに噛まれて感染症で亡くなった事例もあるからね。用心を重ねるに越したことはないでしょ」
吊り下げられた腹抜き済みのシカの乾き具合を確認する。問題はない。いよいよ皮剥ぎの開始だ。
後肢の吊り下げ部分から股間に向けて
彼女の使うスキナーナイフは切っ先から峰にかけて湾曲しており、バターを塗るためのヘラのような形状をしている。刃の切れ味をあえて落とし、薄皮の下の筋肉や内臓に刃が及ばないようになっているのだ。
柔道着の襟を引き絞るように腹部の皮を引っ張ると、皮と肉の間にある白い筋膜が目立つ。
「この筋膜を切っていくんだ。切るっていうより"触れる"って感じ。皮を引っ張りながらナイフをそっとあてがうだけでスルスルっとこそげるよ」
左右均等に、肉に毛を巻き込まないよう皮を引っ張りながら剥いでいく。時おりナイフを熱湯で洗浄・消毒する。
「お肉になるべく毛とか菌を付着させないのが重要なんだ。野菜は水で洗えば泥汚れが落ちるけど、食肉の場合は肉表面にある油膜が汚染物質を吸着して、洗っても汚れを落とせない。むしろ水の飛沫で汚染物質が拡散されちゃう。鶏肉を水で洗うなっていうのと一緒だね。
だからナイフをときどきお湯にくぐらせて消毒してるんだ。刃についた脂も溶かせて切れ味が戻る。腹抜きのときにアルコールシートでナイフを拭いていたのも同じ目的」
次いで彼女は背中側に回った。臀部の皮を剥ぎ、尻尾を切り取って、細い尿道を結束バンドで結紮すると、彼女は尻皮を両手でつかみ、下方向に手繰り寄せた。
すると、ベリベリと音を立てて皮が前肢の付け根まで引き剥がされ、腰巻きのようにトロ船に垂れた。
「シカはイノシシよりも皮下脂肪が少ないから手で簡単に剥けるんだ。大胆にみえるかもしれないけど、時短になって意外と合理的なんだよ。作業時間が長いほど肉質は劣化していくからね」
今度は地面近くの前肢の肘周りに切れ込みを入れ、脇からスネに向かって皮を剥いでいく。
頭と首の境目まで皮を剥いだら、ユーティリティナイフに持ち替えて首周りの肉を切る。肉の弾力が刃を押し返す感触が伝わる。頭と首との境目にあたる頚椎に刃を入れて頭ごと落とす。
トロ船にぐたりと落ちた頭部がこちらを向いた。瞳孔の開いた眼はつやのある苔色に染まっている。眼底の
魂魄の失われた
「あまり眼をみないほうがいいよ。感情を想像しちゃうから。よくいうでしょ。眼は口ほどにものをいうって。
変だよね。眼があろうがなかろうがもうただの肉でしかないし、化けて出てくるわけではないはずなんだけど、私はきっとこのシカから恨まれてるだろうなあとか、最期まで自分の子を守ろうとしたのかなあとか反射的に思っちゃうわけ。仕留めたのは私なのにね」
一見すると道理に合わない言動のように思われるが事はそう単純ではない。
猛禽獣の縄張りたる自然を、古来より人類は集団を組んで生き延びてきた。
ひとりひとり個性が異なる集団内でうまく共存するために、ヒトは言葉や行動、目線の動きなどから相手の思考・心情の機微を推察し、他人から善くみられるよう振る舞った。毛皮も爪も持たないヒトにとって、集団からの追放はほとんど死を意味したからである。ヒトより強いが個体数の少ないウマ娘の祖先も例外ではなかった。
他者視点の認知能力は、利他的・協調的な行動をうながし、やがて他者の感情を自分の感情として受け止める共感能力に発展した。
現実には存在しない創作上のキャラクターにわれわれが感情移入するように、発達した感応力はヒトの種の埒外にも発揮される。
ここにいたって葛藤が生じる。生きていくためには獣を殺さなくてはならない。しかし傷つけられた獣の身になると胸が痛む。
数百万年にわたる狩猟採集生活を通して受け継がれてきた心の仕組みは、生死を弁別する理性と、自他を同調する感情とを、農耕時代にいたってもなお切っても切れない関係になさしめた。
したがってヒトは、弱った獲物を仕留める酷薄さも、肉になった獲物への沈痛も、そのどちらもが矛盾なく両立する。
シカの眼から視線を外して、むき出しになった枝肉を見渡す。ミオグロビンの豊富な赤褐色の筋肉を、薄い筋膜がまだらに透かす。スモモの絨毯に桜雪が敷き詰められているかのようだった。
「綺麗でしょ。慣れてない人はぎょっとするかもしれないけど、私は美しいと思う。このしなやかな手足で、鋭敏な耳で、敏感な危機察知能力で、私と渡り合ってくれたんだから」
山の獣は対峙する相手ではあるが敵ではない。屠体に送る彼女の眼差しは、親しみをいだいているようにさえ感じられた。
「ちょっと感傷が過ぎたね。そろそろ枝肉を部位ごとに分けていこう」
骨と肉がまるごとついた枝肉は、関節を外して部位ごとの骨付き肉にした部分肉に分け、部分肉をさらに骨から外して余分な部分を切断・成型した精肉に処理していく。
「まずは
皮剥ぎは後肢からだったが、大バラシは前肢からおこなう。弓張月を引き伸ばしたような
続けて肩甲骨の位置を確認し、その境目から腹側に向けて刃を入れる。人間でいうと腕にあたる前肢に関節はなく、背中と僧帽筋でつながっている。肩甲骨に癒着している筋肉を剥いでいき、前脚を分離する。
次はあばらだ。肋骨を後ろからつかんで、背中側にぐいと開き曲げる。 肋骨と背骨のつなぎ目がむき出しになった。刃先で1本ずつ軟骨をくり抜くように切断していく。
「あばらは骨付きのままスペアリブにするのもたまんないね。骨は煮込んでラーメンのスープにしたりとかもできちゃう。お肉を自給できると了見が広がって美味しい。これは間違いない」
今度は胴体。腰と骨盤をつなぐ形で左右の内側についている
ヒレを切り離したら、腰椎と骨盤のつなぎ目の関節を切り、 胴体を分離する。
最後に後肢を解体する。尾骨と仙骨のつなぎ目をノコギリで縦に切断し、後肢が左右に分かれたら、ハンガーに吊り下げられている部分を切り外して、後肢をハンガーからおろす。
ここまでこなせば部分肉化は完了だ。机に鎮座した重厚な骨付き肉の一群は圧巻の一言に尽きる。
「ここまで来たらお肉になったって感じがするでしょ。師匠みたいなベテランだと仕留める前の状態でもうまいまずいを感じられるらしいけど私はその域には達してないなぁ。さて、あとは骨を外して各部位からお肉をとれば解体作業はおしまい」
前肢からはスネと
慣れた手つきでよどみなく各部位の関節を外し、肉を剥ぎ取り、骨を抜いていった。
切り分けた肉は調理しやすい大きさのブロックに分け、チャック付きの保存袋に個別にパックする。そして真空パック機で袋の空気を抜き冷凍保管する。
真空パックすることで冷凍時の食味の劣化、いわゆる冷凍焼け*5を防止できる。保存袋には肉の種類、部位や日付、個体の特徴などを記入しておき、日々の料理に活かす。
これらの肉を販売したりはしないのか。彼女は首を横に振る。
「営利目的の販売は衛生基準や法令関係が厳しいから。それに、
猟師の数や腕、野生獣の生息状況、捕殺後の処理の良し悪し、加工場の有無など、狩猟肉の供給量は多種の変数によって左右され、流通が安定せず、畜肉よりも高価になる。
また野生鳥獣の味は一匹一匹に個性がある。肉質の硬軟や脂肪量、発するにおいがそれぞれ異なり、調理の難易度が高い。
これらの理由から、好事家からの評価は高くとも家庭料理の主役にはなりえない。
実際、国は駆除された野生鳥獣の利活用促進のためにジビエ振興に多額の税金を投入しているが、農林水産省の報告によれば、食肉利用は捕殺数全体の1割程度であるといわれている*6。
捕殺された野生動物のほとんどが埋設・焼却、あるいはそのまま山中に放置されているのが現状だ。
「レストランと個人的に契約する猟師もいるけど、人に売るとなったらどうしても買う側の論理が優先されるでしょ?
たとえば『来週までにシカ三頭よろしく』なんて注文を受けるようになったら自分のペースで山に入るのが難しくなるだろうねー。買い叩かれても太刀打ちできない。販路をいくつも開拓すれば防げるのかもしれないけど、そんな暇があったら山に入りたい」
結局のところ、セイウンスカイにとって狩猟は生活の一部であって労働ではないのだ。銭金の多寡で一喜一憂するのは本意ではない。
「私は私のためだけに猟をする。狩猟をビジネスにする人を否定はしないし、鳥獣被害を減らすにはむしろ必要な対策なんだろうけど、私自身は、山に暮らす動物とは私的な関係のままでいたいんだ」
訥々と語る彼女の口ぶりからは、彼女の狩猟に対する思い入れと、対戦相手への真摯さがうかがわれた。
すべての肉の切り分けを終え、目の前に積み上げられた袋詰めの肉の山は30kgにものぼった。いくら健啖なウマ娘といえど、これだけの量の肉を消費するのは容易ではない。冷蔵庫のスペースも限られている。
そこで知り合いの猟師に配ろうと連絡したが、色よい返事は返ってこなかった。
「え、間に合ってる? あー、そっちも獲れてましたかー。はいはーい。ほかあたってみまーす。……ダメだこりゃ。シカ肉経済は大恐慌みたいでーす」
今年はおしなべてシカが豊猟らしく、知己の猟師からはみな分配を拝辞された。
脂肪の少ないニホンジカはイノシシに比べて評判がいまひとつであり、猟師以外の知人に贈与を提案しても、高齢者の多いこの地域ではシカ肉の筋肉質は敬遠され、肉山の一角を崩す程度しか受け取ってもらえなかった。
そこで彼女は、農家の畑の下草刈りを依頼したシェアハウスに連絡を入れた。
「もしもし。シカがいっぱい獲れたんだけどもらってくれない? うん、10kgくらいもらってくれると助かるかな。お、いいの? じゃあいまから持っていくよ。……よし、交渉成立。若い子たちはよく食べるねー」
連絡を入れたシェアハウスに肉を持っていくと、庭先にバーベキューコンロを広げて待っていた住人たちがセイウンスカイを歓呼の声で迎えた。
彼らの用意していた野菜と酒と合わせてたちまち饗宴がはじまった。
住人の大半は20~30代前半で、本来は旺盛な食欲を備えている。だが社会にうまく馴染めず、山地の集落に世を忍ぶようにして生活している彼らの普段の食生活はつましい。
それだけに、彼女の持ち込んだ肉林は彼らにとっては干天の慈雨だった。大量の肉を前にして彼らは手の舞い足の踏むところを知らず、普段のひっそりとした振る舞いとは打って変わって狂喜乱舞した。彼らの反応をみて彼女は目を細める。
「これだけ喜んでもらえると頑張って仕留めた甲斐があったね。彼らはありがたがってくれるけど、私のほうこそ救われるよ」
それに、と続けて、彼女は自慢気に、一冊の冊子を手に広げた。
「じゃーん。レア物の猫写真集~。さっき住人の猫好きが譲ってくれたんだ。ずいぶん前に絶版になってて、中古市場じゃ高値がついてるんだよ。親切はしておくものだね。お肉を配ってると、ときどきこういう風変わりな取引が成立するんだ」
彼女が知己に肉を分配すると、返礼としてさまざまなものが贈られる。野菜や果物などの食料、お土産、引退した猟師からの猟具。軽トラ点検などのサービスが返ってくる場合もある。
「お肉が通貨として機能するんだよね。写真集を買うだけのお金があれば野菜も買えるはずだけど、写真集を直接野菜と交換はできない。でもあいだにお肉を挟めば成り立つんだ。さしずめ私は肉のブローカーってところかな。
しかも、差し出すお肉は猟期に手に入るうちの余った分でしかなくって、私にとってはそれほどレアなものじゃない。つまり、明らかに等価交換ではないんだ。
それでも成り立つのがお肉経済の不思議なトリックだね。私にとっての余剰が誰かにとって価値をもつのなら、私の自己満足も存外、意義があるのかもしれない」
彼女は
ほろ酔い気分で帰宅したセイウンスカイは、デザートだといって、冷蔵庫から赤身肉を取り出した。シカの背ロースのブロックだ。前日の晩から冷蔵庫に移して半解凍させていたという。
「こんな感じでルイベ*7みたいにしてやると、生姜醤油によく合うんだよ。表面を炙ってタタキにしてもほっぺが落ちる」
衛生のために包丁で表面を切除し、赤紫の肉身を刺身にしていく。一口大に切りそろえられた背ロースはさながらマグロの赤身のようだ。
「脂肪は少ないけど赤身の力強い旨味が美味しいんだ。シャリシャリした食感が絶妙なアクセント。
おっと、あなたには食べさせられないよ。加熱してないから食中毒のリスクがゼロじゃない。この味は猟師の特権。自己責任の範囲で楽しむ味だよ」
彼女は掘りごたつに座って上機嫌に箸を動かす。熱燗も用意して酒精にふける。この自己責任が心地よいのだと彼女は強調する。
「狩猟犬使ったり巻狩りだったらまた違うのかもしれないけど、単独猟ならすべて自分に選択権がある。どこでやるか、なにを獲るか、どんな方法を使うか、どれくらいの頻度で山に入るか、どんな方法でとどめを刺すか、どこまで
天候とか猟果のばらつきは人智の及ばない部分だけど、自分の意識できるところはぜんぶ自分で決められる。その結果や上達のフィードバックがダイレクトに自分に返ってくるんだ。いまの社会でそんな仕事がどれだけあると思う?」
人間は分業によって豊かさを築いてきた生物だ。生産工程を細分化し、それぞれに専門の人員を配置して効率化し、全体として大きな成果をあげてきた。
しかし、分業があまりにも複雑・巨大化してきた現代においては、多くの人員が歯車になれと暗に求められる。
一個人が全体を俯瞰し、作業の意味をとらえ、使命と責任をもって仕事に従事するのは難しい。
ひるがえって狩猟においては、フィールドの選定、道具の準備、追跡、仕留め、解体、後始末といったすべての工程を一手に引き受け、現場の折々の要素を勘案して最適な行動に結びつけていく。
「もちろん獲物が獲れない日もあるし、狩猟中のトラブルやケガ・病気のリスク、現地の人との付き合いなんかもあるから万人には勧められない。
でも、うまくできた経験も、ままならない事態も、まとめて自分事として受け止められる。生活を自分自身で組み立てていける。
これはとても自由で、ぜいたくだ。同期のみんなから羨ましがられるくらいに」
彼女の住む集落の近くには秘湯に分類される穴場の温泉がある。彼女とその同期は年に1回ほど集まってその温泉に入り、その後は彼女の家でくつろぐのが近年の習わしになっているという。
現役時代からの知己の話になると彼女はがぜん饒舌になった。
「スペちゃんは故郷とは違う自然の風景を楽しんでたし、グラスちゃんは山の森閑な雰囲気に感じ入ってるみたいだった。エルは野獣相手にプロレスしようとして私が慌てて止めた。キングなんかはぶつくさいうけど私の獲ったお肉でとっておきのジビエ料理を振る舞ったらいつもの高笑いで称賛してくれた。
話してみるとみんな大なり小なりいまの生活に悩んでるみたいだった。みんなからすると、獲って、さばいて、肉にするっていう私の生活は、シンプルで新鮮にみえるみたい。
実際は楽なほうへ楽なほうへ流れてきた結果がいまの生活なんだけどね。私からみれば、みんなちゃんと自分の生業をもっててすごいなーって思うよ。案外みんな隣の芝が青くみえているんだね」
蹄鉄を壁にかけて久しい彼女たちは、現在、順位のつかない、ゴールがあるかも定かでないエキストラレースに臨んでいる。ひとりひとり違うバ場を、ひとりひとり違うペースで。
ときには合流地点で互いを確認し、そこからまた自分だけの道を創って進んでいる。
「ああ、そういえばこのあいだフラワーも来たんだ。娘を連れてね。フラワーの子と3人で川の字になったりしたよ。雛菊みたいにかわいらしい子だった。最近レースをはじめたんだって。筋がいいみたい。ひょっとすると将来GI獲っちゃうかもね?」
彼女は掘りごたつから出ている上半身を畳に横たえ、未来のGI候補の雄飛をあずましく夢想した。
それが酒精による一炊の夢なのかどうかは、後々の雲行き次第だろう。
翌朝、罠の見回りに行く時間になり、彼女の家を暇乞いすることになった。
別れ際、彼女は最後にこれだけは伝えておきたいと口を開いた。
「ここは町から遠いし、仕事もないし、斜面ばっかりで、冬は寒くて、不便だけど、なんだかんだいって、狩猟は楽しい。楽しいから続けられるんだ。
もうレースでみんなをあっといわせる快感も、ライバルとしのぎを削る興奮も叶わないけど、山は私の望むすべてを授けてくれる。私は山に生かされてる。
山はいつも同じ場所にあるのに、同じ条件のときはひとつとしてない。そのときそのときの観察眼と知恵を試される。そこに棲んでる動物たちも、条件の変化に反応してこっちとの心理戦に付き合ってくれる。ときには文字どおり死にものぐるいで向かってきてくれるんだよ。そんな自分のもっているスキルすべてを使って競える相手なんて、おとなになってからどれだけみつかるのやら。
山は私が私のままでいられる、私の場所、私だけの場所なんだ。この環境のおかげで、いまの私は充実してるんだ」
そのように語る彼女の表情は、陰りのない晴れやかな
「山の神さま、今日も行ってきます」
祈念を済ませた後、山中に向かって粒のように遠ざかっていく彼女の軽トラックを山神の御神体がみつめていた。先日参拝したときよりも心なしか頬が緩んでいるように思えた。
この地を囲う山脈は、雨にも風にもものをいわず、粛然と彼女を懐に迎え入れる。
野生動物の