引退ウマ娘のセカンドキャリア   作:空洞丸

6 / 33
後編:屈腱炎と蹄鉄師の医師(せんせい)について

 レース選手の引退理由のうちケガが占める割合は大きい。レース中のアクシデントで再起不能の大ケガを負い、選手生命を即座に絶たれる場合もあれば、選手生活を続けるうちに捻挫や腰痛が慢性化し、十全に能力を発揮できなくなってしまう例もある。

 そして、ときにGIウマ娘をも蝕む不治の病と呼ばれる故障が発生する。そのひとつが屈腱炎である。シャドーロールの怪物と謳われたナリタブライアン、クラシック戦線で死闘を演じたBNW(ビワハヤヒデ・ナリタタイシン・ウイニングチケット)の三強など、名だたるスターウマ娘が屈腱炎によって引退を余儀なくされている。

 

 実のところ、屈腱炎は直接的に命を奪うような故障ではない。人間のアキレス腱に相当する部分が炎症を起こし痛みを伴うが、走りを控えて回復に徹すれば日常生活には問題なく復帰できるようになる。その意味では少々大袈裟に解されている感は否めない。

 しかし屈腱炎がウマ娘にとって不治の病といわれている真の理由は、治療期間の長さと再発率の高さにある。

 

 屈腱炎の治療期間はおよそ1年前後が目安になっているが、レース選手にとっての1年は常人の5年10年に匹敵するといっても過言ではない。

 ただでさえ短い現役生活を治療に費やしているうちに選手としての全盛期が過ぎ、復帰するころにはライバルと伍して戦うだけの脚力が残っていないケースも珍しくはない。

 また、屈腱炎を完治させる方法についてはいまだ確立されておらず、仮に復帰できたとしても再発の恐怖と常に隣合わせになる。先にあげたナリタタイシンも、屈腱炎発症後、約1年を挟んで宝塚記念に復帰したものの大敗を喫し、次のレースに向けての調整中にふたたび屈腱炎を発症し、ターフを去った。

 

 以上の例をみてもわかるように、屈腱炎とはレース選手の未来を刈り取る死神の鎌なのである。いちど切っ先がかけられてしまえばほとんどの場合逃れることはできない。

 だが、幼少期の出来事とはいえ、イクノディクタスは刈り取られた足を取り戻すことのできた数少ないウマ娘だった。

 

「この話をすると驚かれる方が多いのですが、私は小さいころは足が弱かったのです。名門クラブではなく地元のクラブに入ったのはそのためです。勝ち負けよりも走る楽しみを優先するタイプの牧歌的なクラブでした。

 そういう方針のクラブですし、監督さんからも『ケガをするから無理をしちゃいけないよ』といわれていましたから、大会ではほとんど勝てませんでした。周りの子は、『まあうちのクラブならそんなもんだよね』とか『大会に出られるだけで十分だよ』と負けを当然のように受け入れていましたが私は悔しかった。勝ちたかった。もし脚部不安がなかったらと夢想せずにはいられませんでした。

 もっとトレーニングを積んでいたら勝てたのではないかと思って、それから人知れずトレーニング量を増やしました。週に数回のクラブ活動以外にも毎日、ろくに準備運動も整理体操もせずに、走った分だけ力になると無邪気に考え、がむしゃらに動きました。そして弱い足に無理な負荷をかけた代償を支払うはめになりました。屈腱炎です。

 足の違和感を無視して、痛みが出はじめても我慢してだましだまし続けていたら、私の動きがおかしいと監督さんが気づいて病院に連れて行ってもらって、超音波検査を受けて発覚しました。まさかと思いました。まだ自分は子どもなのにと」

 

 激しい走行動作を繰り返し、長期間にわたって慢性的に強く屈腱を伸び縮みさせ続けるのが屈腱炎発生の主要因だとされている。

 したがって、屈腱炎は野球肘やテニス肘などと同じように、特定部位の酷使(オーバーユース)によって発生するスポーツ障害の一種とみなすことができる。身体動作の偏りが原因である以上、大人にも子どもにもそのリスクはつきまとう。

 

「屈腱炎が選手生命を脅かす故障であるとは子どもでも知っていました。でも自分がなるとは露ほども思っていませんでした。屈腱炎という言葉を聞くのはもっぱら有名選手の休養か引退のニュースのときでしたから、本格化以降のウマ娘がなると思い込んでいたのです。子どもらしい勘違いといえばそれまでですが、このときほど自分の無知を嘆いたことはありませんでした」

 

 幼イクノディクタスはしだいに塞ぎがちになった。走りたいのに走れない。走るのは痛みばかり。歩行にすら痛みが伴う。多少痛みが引いてきたころ、試しに足を踏み込んでみるとやはり痛覚が鋭敏に反応した。

 勝ちたい一心で流した汗が最悪の形で裏切られ、以前のように走れなくなった。年端も行かない少女が家にこもるようになるには十分な悲劇だった。

 

 転機となったのは彼女を心配したクラブの監督が家庭訪問にやってきたときだった。

 彼女の屈腱炎の発覚以来、監督は責任を感じ、屈腱炎を治療できる医療機関がないかほうぼうを訊いて回っていた。すると広島県に「骨折と腱断裂以外の脚の故障はすべて装蹄とシューズで治せる」と標榜するウマ娘専門の治療院があるとの情報が耳に入ってきた。本当かどうかはわからないがいちど診てもらいに行かないかと説得に来たのだという。

 

「そこまでしていただかなくてもと遠慮する両親に、監督さんが、『イクノさんがケガをしたのは自分の監督不行き届きのせいですから。せめてこれくらいはさせてください』と頭を下げるんです。いいつけを破って勝手に練習してケガをしたのは私なのに、ここまで骨を折ってくれる監督さんの申し出を断るのも忍びなくて、半信半疑ではありましたが行くことにしました」

 

 くだんの治療院は広島県の山あいの集落にあった。院長はもともと蹄鉄師としてレースに携わり、引退後にウマ娘の故障を専門に診る治療院を開いたという。

 ここに来た経緯を聴き、イクノディクタスの足を触診して反応を確かめると、院長は広島弁混じりの口調で診断結果を告げた。

 

「こりゃあずいぶんと足をいじめたのう。痛かったじゃろ。でももう大丈夫じゃ。このくらいの屈腱炎(エビ)なら治るしまた走れるようになる」

 

 絶望的と思われた故障だけに、こともなげに治るといわれてもにわかには信じられず、彼女は胸中を吐露した。引率する監督も同じ気持ちだった。

 

「本当に、また走れるようになるんでしょうか。いまだって痛いし、これが原因で引退する選手も多いって聞きました」

「こうもはっきり治るとおっしゃる先生ははじめてです。疑うようで申し訳ないんですが、本当に治るんでしょうか」

 

「治る。じゃが長い目でみてかないといかんのよ。治療してる間に選手としての全盛期がすぎるのを嫌って治りきらんうちにレースに復帰する選手があとをたたん。そしてまた屈腱炎になる。ここに駆け込んでくる()ぉはそんなんばかりじゃ。気持ちはわかるがえーがいに(ちゃんと)治してほしい。引退後の人生のほうが長いんじゃけぇ」

 

 そして、院長は屈腱炎の発生機序と治療方針を門外漢にも理解できるよう噛み砕いて説明しはじめた。

 

「走ると屈腱が伸びたり縮んだりして腱の一部の繊維が切れたり変性したりするんじゃ。ふつうは多少傷ついても回復するが、全力疾走くらいの高い負荷を毎日続けたりすると回復が追っつかなくなって、腱組織の中の液が漏れたり出血したりして腫れになる。

 痛みは1、2ヶ月もすればなくなるが、ここで治ったと思ってまた全力を出すとぶり返してしまうんじゃ。回復に合わせてぶり返さない程度にだんだんと負荷をかけ、傷を塞いだ繊維の方向を整えていく。

 受傷後3ヶ月くらいまでは常歩(なみあし)、そこから徐々に速度をつけていって6ヶ月後くらいに速歩(はやあし)、9ヶ月~1年後に駈歩(かけあし)、それが過ぎてからようやく襲歩(しゅうほ)。これが目安じゃな」

 

 具体的な治療方針が示されると彼女らの疑心はほぐれ、

 

「嬢ちゃん、屈腱炎は必ず治せるケガじゃ。焦っちゃいけんぞ。辛抱が大事じゃ。監督さんもこの子のことよくみてやってつかあさい、してもいいケガなんてひとつもないけん。嬢ちゃんは幸いまだ子どもじゃし、治す時間は十分あろう。じっくり治していこう。ほいで、治ったらあんたの走りワシにみせてくれや。のう?」

 

 衷心から故障を抱えたウマ娘を案じる痛心ぶりに心動かされ、彼女はこの院長を信じてみようと決心したのだった。

 

「先生、よろしくお願いします」

 

「よし、まずは痛みが引くまで一日3回、各30分ずつ患部を冷やすこと。足のテーピングは、あんたんとこの地元じゃとここがええのう。ワシの知り合いがやっとるけん、腕は保証する。痛みがなくなったらまたワシのとこ来てくれ。そしたら次はシューズと蹄鉄を調整するけん」

 

 

 それから回復が進むごとに治療院で診察を受ける日々がはじまった。それまで身体を動かすのがトレーニングだとばかり思っていた幼イクノディクタスにとって、院長の話は新たな価値観に触れる機会となった。

 

「よし、経過は良好じゃ。ようがんばっとるのう」

 

「がんばってるんでしょうか。わたし、なにもトレーニングできてないのに」

 

なにいうんなら(なにをいってるんだ)。してるにきまっとろうが。治療には辛抱が必要じゃ。とくに受傷してしばらくはのう。ウマ娘は活発な子がおおいけぇ、あんたも動きたくて歯がゆいじゃろうけど、気持ちを抑えてじっとして、回復に努めとる。それは立派な努力じゃ」

 

 いままで道具に頓着していなかった彼女にとって、シューズと蹄鉄で足をサポートするという発想も斬新に感じられた。

 

「治療とリハビリで回復箇所の繊維の方向を整えると前にいうたが、実は完全にもとの状態に戻ることはないんじゃ。じゃけん前とおんなじ負荷をかけ続けるといずれまた再発する。

 そこで屈腱にかかる負荷をシューズと蹄鉄で軽くしてやるんじゃ。足の大きさに合った靴を選ぶのはもちろん、足裏の骨のアーチをサポートする中敷き、かかとにかかる衝撃を軽減するパッドも合わせて使う。

 蹄鉄をつける位置も微調整が必要じゃな。あんたぁ左右で微妙に足の大きさが違うけぇ、数ミリ程度じゃが足のバランスを保つうえではこれが意外にバカにならん。屈腱炎を治してもほかんとこに故障が出たら泣くに泣けんわい」

 

 速歩で動いてもよいという段になって、元蹄鉄師の経歴を持つ院長の知見はいかんなく発揮された。

 

「これから走るときはこの蹄鉄を使うとええ。全体がななめになってて、つま先がくぼんでるから反回ポイント*1を後ろに下げてくれて、屈腱への負荷が減るんじゃ。これはワシが作ったもんじゃがシルバークイーンちゅう名前のメーカー品がほぼ同じ形をしとる。製造元に連絡すれば取り寄せできるはずじゃ」

 

 蹄鉄を取り付けながら院長は蹄鉄師時代の仕事を話して聞かせた。蹄鉄師が身近にいた時代の話はどこかおとぎ話のように感じられたが、レースを走る選手本人とせいぜいそのトレーナーくらいしか認識していなかった幼イクノディクタスにとって、画面に映らない場所でウマ娘に心を砕いている人がいるという事実は興味深く感じられた。

 

「昔は蹄鉄(テツ)を一本一本手作りしてたんじゃ。造蹄ちゅうてな。熱く灼いた鉄の棒を金槌で叩いてUの字型に曲げたり、走りを阻害しないよう薄く伸ばしていくんよ。各陣営から依頼されたウマ娘の装蹄チェック(鉄合わせ)蹄鉄師(鉄屋)の仕事だったんじゃ。

 昔は練習のときには鉄製の練習鉄、レース本番はアルミニウム製の勝負鉄で履き替えてたけぇ、普段と変わらない感覚にしてくれっちゅうウマ娘の注文に応えるのも難儀したし、担当するウマ娘の数は多いしで、とくにレースのある週末はいつもてんてこ舞いじゃったな。

 でも製鉄メーカーが蹄鉄を量産するようになると様子が変わってきた。出はじめのころこそ品質にブレがあって、折れたり曲がったりすることもよくあったが、だんだん品質が安定してきて直しが必要な頻度も減っていった。

 画期的だったのはアルミ合金製の"兼用鉄"の登場じゃな。いままでレースのたびに蹄鉄を打ち替えなけりゃいかんかったのが、練習で使っていた蹄鉄をそのままレースに使えるようになったけぇ、ウマ娘も蹄鉄師もうんと楽になった。蹄鉄メーカーの造蹄技術も進歩してカタログができるくらい大きさ・厚さの違う多種多様な蹄鉄を作れるようになったし、外国の蹄鉄も取り寄せられるようになって、ウマ娘自身で納得のいく蹄鉄を選べるようになったんよ。

 ただ、そのぶん装蹄師はおまんま食い上げよ。いまでも造蹄技術継承のために各トレセンやレース場には蹄鉄師を一定人数置く規則になっとるが、昔より仕事が減っとるけぇ、廃業した同業もえっと(たくさん)おる。

 ワシんとこは幸い食っていけるだけの仕事は回ってきたけどワシがおったら弟子に仕事が回ってこんけぇ、技術継承も絵に描いた餅になると思って装蹄師を引退してウマ娘向けの治療院を開いたんじゃ。装蹄師時代に蹄鉄とシューズを替えて良くなった足悪くなった足えっとみてきたからのう。その経験を活かして別の形でウマ娘のサポートができないかと思ったんじゃ」

 

 その後も順調にリハビリは進み、初診から1年が経過するころ、ようやく全力で走ってよいとの許可が出た。治療院に併設された小さなコースで試走をおこなった。

 

 常歩から速歩、速歩から駈歩、駈歩から襲歩。これまでのリハビリの軌跡をなぞるように徐々に速度を上げた。裂帛(れっぱく)の気合で足を踏み込む。痛みはなかった。もう一度駆けてみる。やはり痛みはない。もう一度。もう一度。いずれも痛むことはなかった。

 

 ひととおりの動作確認を済ませたイクノディクタスは立ち止まって自分の足をまじまじと眺めた。それから尻尾を高く揺らして、喜色を噛みしめるような表情を院長に向けた。院長は感慨深げに目を細めていた。

 

「先生がお持ちの蹄鉄は博物館ができるくらいあって、そのなかから私の足に合う蹄鉄をつどつど見繕ってくださいました。いったいどれだけの研鑽と経験を積んだのかいまでも想像がつきません。

 先生の影響でリハビリしながらいろいろと勉強するようになりました。

 最初は子ども向けの学習漫画で人体構造を学ぶところからはじめて、しだいにトレーニング計画やテーピング、マッサージ、救急医療、栄養学、手当たりしだいに手を伸ばしました。もちろん蹄鉄についても。なにぶん走れない時期が長かったものですから時間だけはあったのです。ときにはクラブの子に施術を試させてもらったりもしましたね。

 学ぶうちに生じる疑問を診察のたびに先生に質問すると、先生は嫌な顔ひとつせず丁寧に答えてくれて、リハビリだけでなく知識面でもとてもお世話になりました。初回以降は両親が送り迎えをしてくれて、自分の子どものこととはいえよく付き合ってくれたと思います。走れなかった期間はつらかったですが、この時期の経験がその後の私の人生を大きく規定したのは間違いありません」

 

 

  ◇

 

 

 設立の過程で紆余曲折はありながらも、発足以来順調にクラブは続いているようにみえる。最近では県レベルの大会で入着できる選手もクラブから出てきたが、イクノディクタスはまだまだ満足していない。

 

「NPO法人化して自治体の指定管理者として選ばれれば、より柔軟な施設の運用や整備ができるでしょう。クラブハウスも手狭になりましたから移転を考えなければなりませんし、スポーツ整形に詳しい医療機関との関係づくりも進めていきたいところです。より高レベルな技術を教えられる指導者もお招きしたいですし、支えてくれるスタッフさんたちへの報酬ももっと報いてあげたいですね。私に代わるクラブマネージャーもいずれは決めなければならないでしょう。やるべきタスクは無限にあります。

 それと、これまでの活動を本にして出版する準備を進めています。制度的な説明や手続きマニュアルは国が公開していますし、関連書籍も存在しますが、実際に設立に関わった当事者による記録はあまりありません。私たちが直面した課題やそのときどのような気持ちだったか、後に続く人の背中を押せるよう当時の空気感が伝わるような本を上梓したいですね」

 

 

 取材の最後に、本書を読んでいる読者になにか伝えたいことはありますかと尋ねたところ、自身を支えてくれた大人たちや現役時代に応援してくれたファンへの感謝、今後の抱負を口にした。

 

「私はかつてさまざまな方のお世話になりました。地元クラブの監督さんが先生を探し出してくださらなければ、送り迎えをしてくれる両親がいなければ、先生が根気強く私の足の治療に付き合ってくださらなければ、レース選手としてのイクノディクタスは誕生していなかったでしょう。トレーナーさんがいなければ、重賞を取れるほどの成績は残せなかったでしょう。ファンのみなさんの応援がなければ、記憶に残るウマ娘として私が思い出される機会もなかったでしょう。

 私が競技人生をまっとうできたのは、周りの方々が一心に熱意を注いでくれたからです。そしてわたしも大人と呼ばれる年齢になり、世の中にお返しをするときが来ました。

 いまの子どもたちには、故障で走れないつらさ、もどかしさ、周囲に置いていかれそうな気持ちを味わってほしくありません。安全に、自由に、そして楽しく走ってほしいと思います。そのための環境を私は提供していくつもりです。

 かつて大人たちから受け取った熱意をよりよい形で次の世代に渡す。それがいまの私の使命です」

 

 そのように語る彼女の決意に満ちた目の奥には、夕映えのように炯然(けいぜん)とした鉄火がいまもなお燃え続けている。

*1
走行中に最後に地面を離れるつま先部分のこと。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。