引退ウマ娘のセカンドキャリア   作:空洞丸

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ケース3. イタリアンレストランオーナーシェフ ヒシアケボノ
前編:引退ウマ娘の出店事情と料理修行


 ドーム型の中央にナイフを入れると中から濃厚な生クリームが溶け出してくる。ふりかけられたオリーブオイルと混じり合うと、レモンソースをかけられたアイスクリームのようだ。とろりとした乳酪に思わず喉が鳴る。ブッラータ。イタリアのフレッシュチーズだ。

 隣では茹でたてのアスパラガスがオリーブオイルとすりおろしたペコリーノチーズをまとってつややかに輝き、その脇ではトマトソースの絡められたペンネ・アマトリチャーナがニンニクとパルメザンチーズの織りなす馥郁たる香りを匂い立たせている。

 

 次の料理の盛り付けを終えたシェフが厨房から近づいてくる。本日の取材対象だ。調理後にもかかわらずほとんど汚れのついていないコックコートは高い調理技術の証左であり、縦長の耳まですっぽり包む背高のコック帽はこの店の最高地位を端的に示している。

 180cmを超える上背に元アスリートらしいがっしりした体躯が私のいるテーブルのそばまでやってきて長い腕を伸ばし、しずしずと皿を置いた。

 

牛の胃袋の煮込み(トリッパ)でございます。トマトで煮込む場合が多いのですが、本日は白ワインと鶏の出汁(ブロード)で煮込みました。熱いのでお気をつけてお召し上がりください」

 

 調味料は塩コショウのみ。しかし口に含むと脂が溶けてねっとりと舌に絡みつき、鶏の旨味が広がる。すわ美味しいと口走ると、シェフはその身体つきの偉容さとは対象的な、ざくろ色のどんぐり眼を備えた童顔をほころばせ、飴を溶かしたような声音で改めて歓迎の意を示した。

 

「ボ~ノ~! 今日は来てくれてありがとぉ~! いっぱい食べてってねぇ。このあとはデザート(ドルチェ)もあるからね」

 

 美味しく食べてもらうのが嬉しくてたまらない風の、雲を衝くような偉躯とメレンゲのような柔らかさとを併せもった彼女は、かつてその体格を活かしたパワフルな走りで短距離・マイル戦線を賑わせ、ついにはGIスプリンターズステークスの覇者となったウマ娘、ヒシアケボノである。

 

 

  ◇

 

 

 ヒシアケボノはほかに類をみない"大型"ウマ娘としてデビュー前から注目を浴びた。相撲好きを公言し、"おいしくておっきいのはいいこと"を合言葉に料理系ウマスタグラマーとしても活動し、レース内外でも耳目を集めた。

 初勝利まで時間はかかったものの、一度勝ちだすと勢いは止まらず、4連勝で一気にオープンクラスへと番付を上げた。マイルチャンピオンシップこそ距離の壁に押し返されたが、次戦のスプリンターズステークスでは前半を中段につけて機をうかがい、4コーナーで大外を回って一気に追い上げ、直線で先頭に並んだかと思えばゴール前で突き放す圧巻の走りで金星をあげ、短距離戦線の日下開山(ひのしたかいざん)として喝采を受けた。

 初勝利から約5ヶ月半で短距離界の幕下から横綱まで駆け上がったスピード出世、日の出の勢いに誰もがスケールの大きさを感じた。期待した。ターフに差した晨光(しんこう)に目を奪われた。この娘はどこまで駆け上がっていくのだろう。旭日は南中に達した。

 

 ところが以降のヒシアケボノの走りは精彩を欠いた。最後まで勝ち星に恵まれなかった。どうしても最終直線が伸びない。GIを獲るまでの勢いが朝ぼらけの霧のように思われた。

 当時よく耳にした論評では、類まれな巨躯によって発生した尋常ならざる負荷が短期間で集中したため、知らず知らずのうちに脚が悲鳴をあげていたのではないかとの推察が多かった。

 しかし陣営の細心の努力の甲斐あって、現役時代に走った30戦中一度も故障は起こらず、いまだもって現役生活後半の不調の原因はわからない。誰にも。本人さえ。

 

 3度目のスプリンターズステークスで見せ場なく敗退したその日、ヒシアケボノは担当トレーナーに引退の意向を伝えた。

 まだやれる、あきらめるな、何度でも付き合う。必死に慰留するトレーナーに彼女は力なく(かぶり)を振った。

 

「横綱はね、いちど昇進したらそこから落ちることはないんだ。大関までだったら陥落してもまた返り咲けるけど、横綱はそれができないの。下からのやり直しが許されない、強さの象徴。だから、地位に見合った実力と品格を示せなくなった横綱は、引退することでしか責任を果たせないの。

 トレーナーさん、あたし、GIを獲ってからずっと不甲斐ない結果しか残せなかったけど、あたしをまだ横綱だと思ってくれてるなら、最後まで横綱らしくいさせて?」

 

 かくして、ヒシアケボノの現役生活は幕を閉じた。

 

 

  ◇

 

 

「引退後は本格的に料理人の修行をはじめようと思って、いろいろと勉強したの。お店を出さないかってスポンサーから誘われたこともあったけど、ウマ娘がやってる飲食店で生き残ってるところって、どこもハイレベルでしょ? いずれは自分のお店を持ちたいと思ってたけど、引退していきなりっていうのは時期尚早だと思ったの。まずは経験を積むのが先だって」

 

 

 飲食店の経営はレースを引退したウマ娘のセカンドキャリアとしては定番である。

 レース選手、とりわけ中央所属の選手は入学後、舌が肥える傾向にあるといわれている。成長期の選手にとって食事はトレーニングのうちであるとともに、厳しい練習をこなす日々の貴重な娯楽のひとときだ。トレセン学園は栄養豊富な食事を無理なく十分に摂取できるよう味の整った食事を、飽きがこないよう豊富なバリエーションを交えて食べ放題で提供している。

 学校機関としては無類の食事環境については学園OGが口を揃えて絶賛するほど評判がよく、当時のメニューがレース場のフードコートで復刻され、選手プロデュースメニューと並んで期間限定で提供される機会もしばしばだ。

 トレーニングをすればお腹が減る、美味しければたくさん食べられる、食べ放題だからお腹いっぱい食べてもよい。ウエイトコントロールの必要性はあるものの、このシンプルなオペラント条件付けによって食事量は日々増えていく。それとともに高級料理店顔負けの味付けが舌に馴染んでいくのである*1

 

 また、中央所属の選手はレース場のある各地方のグルメにも詳しい。

 レースの公平性確保のため、出走登録した選手とトレーナーはレース前日の21時までに現地のレース場に併設された調整ルームという外部との接触を遮断するための施設に入場しなければならない*2。レース後はレース後で週明けの授業に出席するため、当地に長居はできない。

 必然、移動スケジュールはタイトになる。レース前の緊張、レース後の困憊でとてもご当地観光という気分にはならず、せめてもの観光気分を味わおうとレース場周りの飲食店でご当地グルメを堪能するのが定番コースとなる。おいしいお店の情報は選手間で共有され、食べに行った先で知り合いとばったり遭遇するのは中央の選手にはよくある現象だそうだ。

 

 このようにレース選手の現役生活において食事の占める場面は大きく、引退後に食べ物屋でもやろうかと考えるのは自然な思考であった。

 くわえて一流選手ともなればファンクラブや後援会が津々浦々にあり、なかには彼女らの個人的な支援者、俗にいうタニマチが現役時代から接触し、トレセン学園やトレーナーの庇護を離れる卒業を奇貨としてお店を出さないかと商談を持ちかけてくるケースが珍しくない。

 

 現役時代に有名で人気のあった選手であれば、その知名度からくる集客力に期待が集まる。ときどき顔を出しに来てくれればいいからと好待遇の店長職をオーナーから提示され、元選手も楽にお金が入るならと引き受ける。現役時代の成功と知名度、メディアからの注目、若者特有の万能感をよりどころにして商売繁盛間違いなしと意気軒昂に店を構えるが、しかしそのような店はたいてい短期間で潰れる運命にある。

 たしかに開店当初はマスコミが取り上げてくれるし、通りがかりの人もあの有名選手の店だと入ってくれるが、実務を担うのはオーナー側の用意した人間であり、およそ元選手の名前以外に料理もサービスも特色のある店ではないから、一度は興味津々で食べに行ってもお目当ての元選手がいなかったりすると二度と行かなくなる。

 ファンはシビアな消費者でもあり、ファンだからといって大目にみることはなく店の評価も厳正におこなう。不景気の昨今、コストパフォーマンスに合わない店にわざわざ訪れる物好きはいないだろう。

 

 みずからがオーナーとなって開業し、毎日出勤して手ずから接客や給仕をおこなう勤勉な元選手であっても経営事情は楽ではない。

 よくあるオーナーウマ娘のお店は、自身の顔を売りにし、現役時代の写真や勝負服、勝利したレースのトロフィーなどを店内に飾り、店内のテレビで流れるレースについて、現役時代の経験を活かした解説をおこなったり、客からの求めに応じて現役時代の裏話を披露したりと、レースファンを見込み客とした居酒屋やスポーツバー、もしくは喫茶店などが典型的だ。

 もっとも似たようなことはみな考えるわけで、GI勝者も含めた多数の選手が毎年飲食業界に流れるとあっては移り気なファンの注目は右往左往し、開業当初あてにしていた知名度などというものは容易に減価償却される資産項目の一つでしかなく、料理の味や価格、店の雰囲気、店主の人柄など、結局のところ店そのものの魅力を備えなければ経営が立ち行かなくなるのがすぐに理解できる。

 

 引退後は店のご隠居として左団扇などというイメージは幻想もはなはだしく、現役時代と同様、厳しい生存競争にさらされるのである。

 

 

 ヒシアケボノは現在、勝負服からコックコートに着替え、イタリア料理店のオーナーシェフとして店を繁盛させている。

 

 店の外観は年季の入った洋食屋のような風体で、赤銅色(しゃくどういろ)のレンガ柱と入口横の料理サンプルの入ったショーケースが瀟洒な雰囲気を漂わせている。かわいいもの好きな面ものぞかせていた現役時代の彼女のイメージから考えるといささか渋い印象はあるものの、普段食べられない本格的な料理を期待できそうな味のある風格が漂っていた。

 店内は白い壁紙に覆われて清潔感があり、彼女の現役時代を想起させるような物品は置かれていない。あくまでここは料理が主役という意志の表れだ。店の左半分がテーブル席、右半分がカウンター席、調理場はカウンターから料理人の動きを観察できるセミオープンタイプのキッチンになっており、自信のほどがうかがえる。

 

 メニューについては、サラダ、スープ、パスタ、リゾット、ピッツァ、魚介料理(ペッシェ)肉料理(カルネ)デザート(ドルチェ)といった一通りの正統派イタリアンを取り揃えており、パスタについては大盛り・特盛にくわえてウマ娘盛*3での提供が可能だ。通常量に数百円プラスするだけでお腹いっぱい食べられるため、食べるのが趣味のウマ娘だけでなく運動部の学生にもウケがよい。

 大衆食堂(トラットリア)と冠しているが、一品料理(アラカルト)だけでなく高級料理店(リストランテ)のようなコース料理も提供しており、カジュアルに楽しみたい層からも本格的に食べたい層からも好評を得ている。

 

 しかしなんといってもこの店の特異な点は、イタリア料理店でありながらちゃんこ鍋が看板料理(スペシャリテ)となっている点だろう。

 

「あたし、お相撲が大好きで、ちゃんこ鍋もちっちゃいころから研究してきたんだ~。最初はお店の雰囲気に合わないかなと思って置いてなかったんだけど、おでんを出してる喫茶店があるって聞いて、それならちゃんこ鍋出してもいいかなって思ったの。テコ入れが必要な時期があって、実験的にメニューに追加してみたら大当たり」

 

 ヒシアケボノは看板メニュー誕生のいきさつを朗らかに披露する。

 のどかな雰囲気は往時と変わらないが、脱いだコック帽から現れた彼女の髪型は、現役時代のツインテールとはうってかわってさっぱりとしたショートだ。

 

「卒業式の日に切ってもらったの。飲食店は衛生面に気を遣わなきゃいけないでしょ? 毎回ひっつめ髪にするのも大変だから、思い切って短くしてみようと思って、トレーナーさんにお願いしてはさみを入れてもらったの。お相撲さんの断髪式みたいな感じだね。レースから離れて料理に集中するっていう、あたしなりのけじめ。

 女性の髪を、それもそんな大胆に切るだなんて恐れ多いよってトレーナーさんは遠慮したんだけどね、GIを獲ったときも、それから引退までずっと勝てなかった間も、あたしのために試行錯誤してくれて、酸いも甘いも一緒に噛み分けたトレーナーさんだからこそお願いしたいのって伝えたら、トレーナーさんも覚悟を決めてくれた」

 

 卒業式後のパーティーの片付けが終わり、トレーナーとヒシアケボノの二人だけになったトレーナー室でひそやかに断髪式は執りおこなわれた。

 パイプ椅子に座った彼女が両分けにした髪からヘアゴムを外し、うなじのあたりでひとつにまとめる。ここを切ってねと指し示す。束髪の根元にあてられたはさみの刃からトレーナーの手の震えが伝わってきた。トレーナーの手は動かない。彼女は一声かけてトレーナーに振り向き、大丈夫だよと微笑みかけた。再び前を向く。トレーナーがはさみを動かす瞬間を待つ。トレーナーが大きく深呼吸した。一度。二度。三度。そして腹をくくった。ふたたび彼女の髪にはさみをあてがう。数瞬の逡巡ののち、その手に力を込めた。パチンッ。

 

 以降、彼女は料理の道に専心している。

 

 

 最初に修業に入った店は席数が十席強の西洋料理店だった。昭和の時代からある街のレストランで、シェフひとり従業員ひとりの、小ぢんまりとしているが小綺麗で手入れのよく行き届いた店だった。店のオーナーはシェフとしてみずから腕を振るう初老の上品な婦人で、ヒシアケボノを快く受け入れてくれた。

 少女時代からちゃんこ鍋の研究をおこなってきたヒシアケボノとしては和食にも興味があったが、将来的に自分の店をもつ計画を考慮すると和食は必要となる修行時間が長すぎた*4

 実家のイタリア料理店を経営している父親に相談したところ、父親の修行時代に世話になった姉弟子が独立して開いた店を紹介してくれた。最初から親のコネに頼るのはどうなのかと思ったが、"楽な道を勧めたつもりはない。あの人は手強いぞ"と神妙な面持ちで告げる父親の言に押され、紹介された店で修業をすることに決めたのだった。

 

 はじめは下働きとして雑用や野菜の下処理、皿洗いなどに勤しんだが、すぐに手際のよさを認められて前菜やスープも任された。小さな店舗なので接客も仕事のひとつである。

 わからないことがあればシェフは孫娘に教えるように丁寧に説明してくれた。いつしか、父の述べていた"手強い人"という人物評は記憶からこぼれ落ちていた。

 

 ある日、シェフが手ずからまかないを作ってくれた。洗練されたシェフのまかないに舌鼓を打ち、歓談に興じるうち、話題はヒシアケボノの将来の夢の話におよんだ。

 

「ボーノちゃんはいまうちで修行してくれているけれど、将来はやっぱり自分のお店を開くつもりなの?」

 

「はいっ! そのつもりです。でもどういうジャンルのお店にしようかなかなか考えがまとまらなくて。実家みたいなイタリアンもいいし、フレンチも素敵だし、北欧料理やスペイン料理も美味しいですよね。料理メインでいくのかカフェスタイルにすべきなのか、スイーツショップなんかもあるし、あれもいいなこれもいいなって迷っちゃって」

 

「ふふっ、そうなのね。ボーノちゃんの調理技術は私からみても高いレベルだし、このまま修業を重ねていけばそう遠くない将来、どのジャンルを選んだとしてもいい味を提供できるお店を開けると思うわ。

 でもボーノちゃん、ひとつ訊きたいんだけれど、あなたどうして自分のお店を持ちたいの?」

 

「えっと、実家がレストランで、お客さんに美味しい料理を食べてもらう両親の姿をみてきましたし、レースやってたころも、仲間やファンと一緒に作ったり食べたりしてみんなが笑顔になるのをみるのが嬉しくて、自然と将来は自分のお店を持ちたいって思うようになったんです」

 

「ええ、あなたをみてると食べるのも食べさせてあげるのも大好きっていうのがよくわかるわ。でもね」

 

 シェフはカップに一口つけて間をとり、あらためて口を開いた。

 

「それだけなら、雇われコックでも構わないんじゃないかしら」

 

 口元は笑みが浮かんでいるが双眸は笑っていなかった。混雑時でも余裕のある所作を崩さないシェフからの思いもよらない質問にヒシアケボノはたじろいだ。シェフの詰問は続く。

 

「雇われでも腕をふるってお客様に美味しく召し上がってもらうのは変わらないわ。あなたならいずれは一流ホテルの料理長にだってなれるでしょう。知識もあるし、接客もお客様に評判だから出張料理人という選択肢だってあるかもしれない。料理で人を喜ばせるのにもいろいろな方法があるけれど、そのなかからオーナーシェフを選ぶ確固たる理由が、あなたにはあるのかしら」

 

 ヒシアケボノは返答に窮した。実家がレストランだった彼女にとって飲食店は身近な存在であったし、料理を振る舞えば自分も他人も喜んだ。将来は自分のお店を開きたいといえば、"素敵だね"、"応援するよ"と後押しの言葉をもらえた。本人にとっても周りにとっても彼女がオーナーシェフを目指すのは、リンゴが地面に向かって落ちるのと同じくらい自明の理であった。だからこそ、改まってなぜと問われるとうまく言葉を返せなかった。なおもシェフはたたみかけた。

 

「従業員のいさかいを仲裁した経験はあるかしら。排水トラブルで床を掘り返して水道管をまるごと工事しなきゃいけなくなったことは? 排気ダクトの調子が悪くてお隣さんから臭いとクレームが飛んできたことは? お客様がぜんぜん入らないのに家賃と光熱費だけはかかってものすごい勢いで減っていく通帳の数字をみたことは? 笑顔で美味しいっていってくれた人からレビューサイトで酷評を書かれたこともあったわね」

 

 なおもヒシアケボノは答えられない。父親が述べていた"手強い人"という所感がようやく理解できた。

 性格は優しい。が、覚悟の問いかけが厳しい。自分の料理人としての根本義はなにかと問われている。その問いに返せる明確な答えを、当時のヒシアケボノは持っていなかった。

 

「ごめんなさい、厳しいことをいって。修行をはじめたばかりの子に問うのは酷だったかもしれないわね。

 でも自分のお店を持つってそういうことよ。日々起こるトラブルや運営上の課題に真正面から向き合ってはじめて、"お客様に美味しく食べてもらう"って当たり前の機能が維持できるの。体温を一定に保つために臓器や神経が無意識のうちに調節してくれるようにね。

 オーナーシェフになったら好むと好まざるとにかかわらず経営者としての役割も果たさなければならない。それでもなお続けられるだけの理由ややりがいがなければお店なんて続かないわ」

 

 もっとも、といってシェフは普段どおりの温順な顔つきに戻り、

 

「私も最初は夫と離婚した勢いではじめたようなものだからあまり偉そうなお説教はできないけれど。運と時代に恵まれて、それなりに常連さんもできて、いまではそのお子さんが食べに来てくれる機会もあるわ。ここはもう彼らの生活の一部なのよ。私はそれをできる限り守っていくつもり。老骨に鞭打ってでもね」

 

 と、にこやかな表情で内に秘めた覚悟を吐露した。圧倒されたヒシアケボノはなおも言葉を紡げなかった。

 

 

 修行が進むにつれて肉・魚料理も任され、せわしなく働くうちに1年が経過した。いまだになぜ自分が店を開きたいのか、はっきりとした答えはみつかっていなかった。

 このまま惰性で働き続けてもみえてこないかもしれない。環境を変えたかった。紹介してくれた父やシェフに申し訳ない気持ちでいとまを乞うと、シェフは渋面ひとつみせず了承した。

 "あなたならきっといい答えをみつけられるわ。焦らず修行なさい。料理には人柄が出るものだから"という静かな激励を残して。

 

 

  ◇

 

 

 最初の修行先を離れたヒシアケボノはイタリアの北部、ピエモンテ州トリノに飛んだ。外国人のためのイタリア料理学校(Italian Culinary Institute for foreigners)、通称ICIF(イチフ)に入学するためである。前々から本場で料理修行をしてみたいと考えていたため、この機会に身を投じることにしたのである。

 

 当初は現地で直接修行先を探すつもりでいたが、当時イタリアはワーキングホリデー協定国ではなかったため、当地にコネのないものが働くには留学先の語学学校に張り出される求人に応募するくらいしか正規の手段がなかった*5

 ICIFのマスターコースであれば一日7時間、9週間にわたりみっちりと講義・実習が受けられる。そののちICIFと契約を結んでいる信用あるレストランに派遣され、15週間の実地研修を受ける。勝手のわからない外国で単身動くよりもはじめから整ったカリキュラムを受けたほうが効率的に学べるだろうと目論んでの渡伊だった。

 

 ICIFには料理のみならず、ソムリエ、パティシエ、ショコラティエのコースもある。調理実習室はもちろん、テイスティング用の部屋、ワイン・チーズ・チョコレート・調味料の展示室、高級レストランを模した広間まで設置され、充実した研修が行われる。

 すでに実務経験があるとはいえ、料理をほとんど独学で身に着けてきたヒシアケボノにとっては、体系的・網羅的にひとつの国の料理を集中して学ぶのは新鮮な体験だった。

 

 講義で何度も強調されたのが、『"イタリア料理"という料理はイタリアには存在しない』ということだった。イタリア料理という呼称は、イタリアの各地方で作られる郷土料理を総称した便宜的な呼び方にすぎない。

 国土形状が長靴のようだと形容されるように、イタリアは土地が縦に細長く広がり、沿岸部・山岳地帯・丘陵地帯・湖水地方・島嶼部*6などさまざまな土地から成り立っている。緯度でいえば北海道宗谷岬から栃木県宇都宮くらいまでの隔たりがあり、北部と南部では気候がだいぶ異なるため、それぞれの土地の風土気候を反映した産物から多種多様な郷土料理が生まれた。

 過去にはフランスやオーストリアの領土だった地域もあり、島嶼部では地中海がイスラム勢力の影響下にあった時代の文化とも混じり合っている。歴史的に都市国家の群立していた時期が長く、イタリア全土が国家として統一を果たしたのは19世紀後半と遅かったため*7、各郷土料理までもが"イタリア料理"として統一されることはなく、現在も地方料理・伝統料理が脈々と受け継がれている。

 

 休みの日には同期生と外食に出かける機会もあった。高級料理店(リストランテ)でなくとも美味しい店はそこらじゅうにあった。ピザ専門店(ピッツェリア)サンドイッチ専門店(パニーノテーカ)小食堂(タヴェルナ)など、気軽に入れる軽食屋であってもだいたい外れはなく、イタリアの食の豊かさを舌を通して存分に学ぶことができた。

 

 店舗研修は長靴のかかとにあたるプーリア州バーリのレストランに派遣された。いくらか人を雇っている家族経営の中規模レストランで、父親がオーナーシェフ、長男が客席係、次男三男は厨房担当、そして母親が女将として一家を取りまとめていた。

 客層の大半は地元の常連で占められ、昼食時・夕食時には看板の魚介料理を求める客ですぐに満席になる評判の店だった。

 

 ヒシアケボノがはじめて一家と対面したとき、息子たちよりも背丈の大きい彼女に一家は目を丸くしたが、将来の自分の店のあるべき形を求めてひとりイタリアの地に飛び込んだ彼女の情熱を一家は理解してくれ、温かく迎えてくれた。

 ICIFでイタリアの食材の扱いも習得していたので厨房の仕事も即戦力になれた。ウマ娘特有の膂力で食材の入ったダンボールを軽々と運び、次々に野菜の皮を剥き、水にさらし、あるいは下茹でをして、調理用に整える。その端然とした手際は先達の厨房スタッフたちにも引けを取らなかった。

 ほかの人が敬遠するような洗い物やゴミ出し、掃除などの雑用も率先しておこなった。誰よりも早く厨房に入って開店に備えた。仕事が早く、男にも負けない一所懸命な仕事ぶりを女将は評価し、彼女を大層かわいがった。

 

「娘ができたみたいで嬉しいわ。女の子もほしかったのよ」

 

 張りのある声をあげる彼女は典型的なイタリアの"お母さん(マンマ)"で、人情味にあふれ面倒見がよく、親身になってくれた。仕事は慣れたか、小遣いは足りているか、ホームシックになっていないか。あれこれと世話を焼きたがった。

 ヒシアケボノも外国人の自分に目をかけてくれた女将に懐き、休日は家事をともにした。女将と一緒に市場に出かけて買い物のコツを覚え、食事の支度を手伝うことでレストランでは出さない家庭料理のレパートリーも増えた。

 これが貴重な経験になった。特別な食材を使わなくとも市場で手に入るトマトピューレとニンニクとオリーブオイルがあれば天下一品のトマトソース・スパゲッティ(スパゲッティ・アル・ポモドーロ)ができる。イタリア料理の発展が家族に美味しいご飯を食べさせてあげたいと願う各地のマンマによって担われてきた歴史を、女将との交流を通じて肌身で感じた。店での研修だけでなく現地での生活をも世話してくれたイタリアの母に、彼女は今でも感謝している。

 しだいに下働きから前菜、パスタと担当させてもらえるようになり、最後の数週間はメインの魚介料理や肉料理も一部調理を任されたが、ともすれば厨房内の序列を揺るがしかねない勇躍ぶりに対してほかの料理人が素直に彼女の努力を認め、上達を喜んでくれたのも、この鷹揚なマンマの性格が周りによい影響を与えていたからだろうとヒシアケボノは推察している。

 

 研修の最終週の定休日には一家がお別れパーティーを開いてくれた。テーブルの上に店のメニューが次々と並ぶ。

 白いんげん豆とエビのサラダ、ズッキーニのマリネ、ナスのパルミジャーナ、ムール貝のパン粉焼き、イカスミのリングイーネ、ボンゴレ・ビアンコ、イカの詰め物、子羊の蒸煮、地鶏とじゃがいものオーブン焼き、アカザエビ(スカンピ)のグリル、スズキのロースト、料理に合わせたワインの数々。ウマ娘に喰わせるほどという慣用句がそのまま当てはまるほどの大量の料理がテーブルを彩った。ICIFで学び、この店で作り慣れた料理。されど教本から少し外れた、ハーブとスパイスの効いた味。地元の人の喜ぶ味を追究したシェフの味。短いながらも濃密な研修の日々の象徴。

 

 一家と歓談しながらご馳走を賞玩(しょうがん)していると、席を外していた女将が戻ってきて追加の料理を並べた。角切り肉の煮込み(スペッツァティーノ)。かぐわしい香りがあがる出来立ての皿に息子たちが沸き立った。

 

「これこれ! 待ってました!」

「スペッツァティーノがないとうちのパーティははじまんないよ!」

「自分で作ってもこの味出せないんだよな」

 

 息子たちにとってのおふくろの味らしかった。一口食べてみると、軟らかくなった肉は抵抗なく噛み切れ、溢れる旨味に舌が踊った。たしかにこれほど美味しい肉煮込みは食べたことがない。

 

「マンマ、スペッツァティーノってどうやって作ってるの? なにか隠し味に入れてるとか?」

 

「隠し味なんて特別なもの入れてないわさ。ワインを少しずつ入れるのがコツなのよ。ちょっとだけ入れてフタをして、少し経ったらまた入れてフタをして、それを繰り返すの。そうすると美味しくできるんだよ」

 

 女将はこのレシピを自身の母親から教わったらしい。そうして受け継がれたレシピがまた家族を結びつけている。高級料理だけではなく家庭料理にも歴史がある。連綿と紡がれてきたレシピのひとつひとつが、そこで生きる人々の人生を形作っている。

 

 女将が座にくわわり、一家の口は俄然なめらかになった。主人は料理人を志したきっかけや修行時代の日々、女将との出会い、店を立ち上げたときの思い出話を、女将は息子たちの腕白ぶりに手を焼いた苦労話を、兄弟は両親に反発した時期もあったが結局我が家の料理が一番だという自慢話を、かわるがわるヒシアケボノに話した。こうしてわいわい話しながらご飯を楽しむのはいつぶりだったか。

 

 ふとヒシアケボノは現役時代の食事風景を思い出した。

 カフェテリアで友人とおしゃべりしながら食べたご飯、クリスマスにトレーナーとふたりで食べたご馳走、ファンと一緒に作ったちゃんこ鍋、レース後にライバルたちと健闘をたたえながら食べたお弁当。疲れた身体に染み渡るおいしい食べ物、心を満たす他愛ない会話。みなが幸せだった。

 そうだ、作る側と食べる側の想いがたっぷりと込められた、ちゃんこ鍋のような空間が自分は好きだったのだ。日々の食事を美味しくいただけて、たまの記念日にはみんなとご馳走を食べられたら最高じゃないか。ただ料理を作るだけじゃない。作る人も食べる人も双方が幸せになれる"空間"を作りたいのだ。

 いままで影すらみえなかった店の形にようやく輪郭がつきはじめた。

 

「結局、答えはずーっと自分の原点にあったんだよね。それを自覚するまでずいぶんと遠回りしちゃった。だけどね、自分の原点になった体験が海外でも同じように存在して、海外に行っても揺らがないほど自分の中で強固なものだったんだってわかったのがいちばんの収穫だったなぁ」

 

 その後、最後まで無事に研修をこなし、研修先の人々に惜しまれながらICIF本部に戻り、修了式に臨んだ。

 修了後はみな自国に戻って料理人としてのキャリアを歩むが、すっかりイタリア料理の虜になったヒシアケボノはこのままイタリア国内に留まり、各地の料理を食べ歩いた。

 北はフリウリ・ヴェネツィア・ジュリア州から南はカラブリア州まで、島嶼部も含めてイタリア各地の味を舌で覚え、ときには従業員として潜り込みレシピを学んだ。

 イタリアの全州を回ってようやく日本に帰国し、自身の店を開くころには、トレセン学園を卒業してから5年以上が経過していた。

*1
なお、ただでさえ健啖なのにトレーニングで飢えに飢えたウマ娘の胃袋を満足させるのは並大抵のことではないらしく、厨房は常に戦場だったと勤務経験者は語っている。

*2
URA公式サイト:『選手の一日 週末編』より。

*3
通常の5倍の量

*4
日本料理店で一人前の板前として認められるには10年は必要であるといわれている。

*5
しかも就学ビザでは労働時間は週20時間までと制限されている。

*6
シチリア島やサルデーニャ島など。

*7
明治維新とほぼ同時期。

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