ヒシアケボノが経営する店の最寄り駅は、都心への快速電車や種々の私鉄が停車する利便性の高い駅で、近年再開発されて洗練された街並みが広がったことから、周辺の大学に通う学生や都心の優良企業に勤める若夫婦などのアッパーミドル層が住まうベッドタウンとして人気を博した。
店の場所は駅から少し離れた場所にあったが目抜き通りに位置し、じゅうぶん徒歩圏内にある恵まれた立地だ。
本来ならば大枚をはたかなければ手の届かない場所だが、ヒシアケボノが日本に帰国した時期は折しも米国の金融危機に端を発する経済不安の影響が色濃く残っていた頃合いで、似たような業態の店子が夜逃げ同然で店を手放したため、厨房機器をはじめとした各種設備がそのまま使える居抜き店舗として相場よりも格安で手に入れられたのである。
本番に備えたプレオープンには両親や学園時代の友人、かつての担当トレーナーや現在彼の率いるチームのメンバーを招待した。
ヒシアケボノの作る料理は舌の肥えたウマ娘たちのお眼鏡にもかなったようで、彼女らは新規開店の報をSNSで拡散してくれた。以来、元担当トレーナーのチームはレースに勝つたびこの店で祝勝会をするのが習わしになっており、貴重なお得意様になっている。
現役ウマ娘の宣伝効果もあり、オープン初日から人が押し寄せた。本場で修行した本格イタリア料理を手頃な値段で楽しめるとあって口コミで評判が広がり、常連もできた。ハネムーン期間が過ぎても客入りは上々であった。
しかしほどなくして課題が浮かび上がった。利益がほとんどでないのである。運転資金はまだ余裕があったが、客商売の不安定さを考えると無視できない課題だった。
原因は客単価の低さである。先述した通り、経済危機のあおりで顧客の財布の紐はかたく、裕福な土地の女子大生と子育て中の母親が主要顧客であったためか健康意識が高く、安価なセットメニューや料理一品+サラダくらいの控えめな注文ばかりで利幅が薄かったのである。よいものを食べてもらいたいと食材にもこだわっていたので原価率が高かったのも要因のひとつだった。
しかし料理のグレードは落としたくなかった。安かろう悪かろうになっては腕を振るう甲斐がない。どうにかしてもっと注文してもらう必要があった。
女性客が食事量に満足していないことをヒシアケボノは見抜いていた。女の胃袋は決して小さいわけではないと同じ女性として知っていたし、デザートは別腹という言葉もあるように、なにかと言い訳しつつ口にしてしまう食べ物など山ほどあるからだ。たくさん食べるのは恥ずかしいという規範意識や太ってしまいそうという躊躇があるにすぎない。心のブレーキを外してあげられればみんなもっと食べてくれるはずだと彼女は考えた。
そこで客の胃袋に訴求する看板メニューの開発をはじめた。試行錯誤を繰り返し、従業員に試食してもらい反応を確かめ、ようやく納得のいくメニューができたころ、ヒシアケボノのもとにTV局から一報が入った。
TVドラマの撮影に使わせてもらえないかという交渉だった。現役時代はアイドルウマ娘として国民的人気を誇り、レース引退後はタレント・女優・カサマツ町PR大使として活動しているオグリキャップが主演のグルメドラマのロケの打診である。
ちょうどよい機会だとヒシアケボノは快諾し、乾坤一擲の新メニューの投入を決めたのだった。
◇
ある日の昼下がり、仕事を終えたオグリキャップは近くの市民公園で休憩し、緊張で疲れた身体をほぐしていた。
「(ふう、やっと終わった。今日の取引相手は手強かったな。陽気な関西人だと思ったら予算のすり合わせでだいぶ時間を食ってしまった。浪花節で情に訴えてきたり激しい口調で詰め寄ってきたり……まるで稲妻のような人物だったな。最後は気に入られたようでよかったが……。少し休んだら事務所に戻って資料をまとめよう)」
ベンチに腰掛けながらなにとなしに周囲を眺めていると、ピクニックに来ている親子が弁当を広げている様子が目に入った。
「(もうお昼の時間なのか。美味しそうに食べてるな。なんだか私も……お腹が減った。よし、店を探そう)」
そうして善は急げとばかりに街中を彷徨したが、どうにもこれといった店がみつからなかった。
「(カレー、ラーメン、焼肉。うーん、どれも悪くないが、手強い相手との商談を終えたあとだ。特別感がほしい。今日の私は何腹だ? 焦るんじゃない、私はお腹が減っているだけなんだ)」
気がつくと駅からやや離れたところにまで来てしまった。しかしそこで一軒の店をみつけ、その佇まいにオグリキャップはなにか運命的なものを感じ取った。
「(ほう、なかなか雰囲気のあるお店じゃないか。よし、今日はここにしよう)」
店に入り、席に案内された彼女はメニュー表を一読した。
「(メニューは……イタリアンか。おお、コース料理もある。よし、今日は豪勢にいこう) 店員さん、ランチのコースをお願いしたい」
「かしこまりました。
「すまない、私はお酒が飲めないんだ」
「承知いたしました。では、お飲み物はお水をお持ちいたします」
しばらくすると最初の料理が運ばれてきた。
「
「ありがとう。いただきます」
中空から水がグラスに注がれる。水の配膳ひとつとっても、この空間が普段とは異なる特別感を醸し出していた。
「(フォカッチャは……パンか。とくに焼いてもいない切っただけのパンにみえるが……。オリーブオイルにつけて、食べる。うん、美味しい! 食パンよりずっともちもちしていて弾むような食感だ! トロっとしたオリーブオイルの澄んだ油分にパンの塩気が混ざって、空きっ腹を癒やしてくれる。スタートダッシュは成功だ)」
次に、琥珀色のスープに手をつけた。
「(これはなかなかパンチがあるな。炒めた玉ねぎの甘味とコンソメの重厚なコクが合わさって力強い味になっている。これで位置取り争いはばっちりだ。今後の展開に期待が持てるぞ)」
オグリキャップがお通しの皿を空にするタイミングを見計らって次の料理が姿を表した。
「
「(ふふっ、皿の中に小さな料理が3つ置かれて、なんだかかわいらしいな。まずは生ハムからいただこう。おお、思っていたよりずっと弾力がある。噛めば噛むほど塩味と旨味が溢れてくるぞ。薄切りのはずなのに、しっかり肉を食べている感触がある)」
ひとしきり噛んで生ハムを味わうと、次にカポナータを口に運んだ。
「(冷たっ。これは冷製の料理なのか。ナスとパプリカ、それに玉ねぎも入ってるな。トマトで煮浸したような感じだ。なるほど、たしかにナスなら冷えてもうまい。それにパプリカってこんなに甘い野菜だったのか。滋味豊かな味だ。身体に染み渡る。料理に含まれている木の実*1も噛むとポリっとして軽やかな食感だ。ステップがはかどるぞ)」
そして最後に残ったカルパッチョに手を伸ばす。
「(刺身が一切れとはちょっと寂しいな。身の上に乗っている赤いつぶつぶはなんだろう。どれ。……!! なんだこれは。シャリシャリでプチプチだ。そうか、みじん切りにした玉ねぎを刺身に乗せているのか。
しかしこのプチプチ感がわからない。赤いつぶつぶを噛むと口の中で弾けて……。それに、ソースから甘みを感じる。カルパッチョというからてっきりすっぱい味を想像していたが、酸味だけではない清涼な甘みはなんだろう。これはいいサプライズだ。荒れる展開になったな)
すまない、ちょっと訊いてもいいだろうか」
「はい、いかがなさいました?」
「このカルパッチョに驚いて……。プチプチした食感とほのかな甘味がとても不思議なんだ。いったいなにを使ってるんだ?」
「プチプチ感はピンクペッパーによるものですね。甘みについてはグレープフルーツを使ったソースから来ております」
「なるほど。それで口に入れたときに柑橘系の爽やかな風味があったんだな。ありがとう。次の料理も楽しみだ」
「恐れ入ります。それではお次のお皿をお持ちしますね」
しばらくすると赤いソースに彩られたパスタが
「
「(パスタか。具はアサリ、イカ、エビ、ホタテの貝柱。シーフードだな。赤々としているが、辛いんだろうか)」
フーフーと息をかけながら恐る恐るパスタを口に含む。
「(辛くない! トマトソースだ! これが麺と具と絡まって、トマトとシーフードの芳醇なうまみが口の中で調和する! 大地と海に祝福された味だ。これは元気が出るぞ。スパートをかけるタイミングはここだ)」
静かに、しかし一心不乱にフォークを動かす。皿を空にし、グラスを傾けて一息つけていると、次の料理が運ばれてきた。
「
「(ふむ、きれいなきつね色をしたナゲットのようだ。ソースはかかっていないからそのまま食べろということか。添えられたサラダは緑と紫のサラダ菜*2だろうか? 定食屋だったらきっとキャベツだっただろうな。さて、まずは一口)」
トンカツとは異なる洋食店のカツレツを息を弾ませながら噛むと、衣の裂ける小気味よい音がオグリキャップの耳朶を打った。
「(サクッとジューシー! ヒレ肉だ。抵抗なく噛み切れるのに、咀嚼すると弾力があって、ほどよく肉汁が溢れてくる。薄い衣が心地よい食感を添えて、いいコンビだ。あくまで肉を主役として立てて、自分は黒子に徹する
続いてサラダにもフォークを立てる。
「(おお、ちゃんと氷水につけて戻してからサーブしてくれてるな。噛むとシャキッとした食感が伝わって気持ちがいい。野菜そのものが美味しいからドレッシングも塩・オリーブオイル・ビネガーだけのシンプルなもの。お店の自信が伝わってくるな。このサラダ、添え物なんかじゃない。うまい野菜はそれだけで立派な料理だ)」
サラダにもひとしきり舌鼓を打ったオグリオグリキャップは、もう一枚残ったカツレツにも手を伸ばした。
「(よし、今度はレモンをかけて食べてみよう。ふふっ、ひとりだからレモンはかけ放題だ。梅肉のようなさっぱりした味になったな。脂っぽさが打ち消されて肉そのものの旨味が感じられる。力強い。最終直線の坂を駆け上がるパワーをもらえる。一着はもらったぞ)」
メインの皿を平らげると食後のデザートがお披露目された。
「
「(ティラミスか。私はティラミスにはちょっとうるさいぞ。なにせ同級生に流行りだといわれて連れ回されたことがあるからな。お手並み拝見といこうか。
あむ……! おお、これはうまい。濃厚で、甘くて、苦い。マスカルポーネチーズのクリームとエスプレッソを吸ったスポンジが見事なペアダンスを踊っている。ウイニングライブまで完璧だ。イタリアンランチステークス、完勝)」
すみずみまできれいに完食し、皿とカトラリーが下げられるのを眺めながら食後のコーヒーで一服するオグリキャップは、美味しいものを食べられた満足感に浸っていた。
突如として音が鳴った。厨房の音か? 店の電話か? お客がフォークを落としたか? いや、自分の腹の虫だ。
「(参ったな。胃袋がアンコールを要求している。求められたら応えないわけにはいかない) 店員さん、メニューをみせてもらえないだろうか」
「まだお召し上がりになるんですか?」
「ああ。ここの料理が美味しくて、もっと食べたくなってしまった」
「ありがとうございます。すぐお持ちします」
オグリキャップは手渡されたメニュー表を目を皿のようにして眺めた。
「(なにかないだろうか。セットリストにない予定外のパフォーマンスに足るメニューは……ん?)」
メニュー表の後ろのほうを追っていくと見慣れない料理名が目に入った。
「(イタリアンちゃんこ鍋? ちゃんこなのに、イタリアン。そういうのもあるのか) すまない、ちょっと尋ねたいのだが」
「はい、なんでしょう」
「このイタリアンちゃんこ鍋というのはいったいどんな料理なんだろうか」
「イタリアンちゃんこですね。ちゃんこ鍋のスープをトマトベースにして、具材を洋風にしたものです。シェフがお相撲好きでして、どうしてもちゃんこをメニューにくわえたいと強い希望があったそうですよ」
「シェフ自慢のメニューというわけなんだな。じゃあそれを頼む」
「かなり量がありますが大丈夫ですか? 少なめの量にすることもできますが」
「いや、普通の量で大丈夫だ。お腹の容量には自信がある」
「かしこまりました。少々お待ちください」
しばらくして、テーブルに箸と取皿、レードルを入れた器、カセットコンロ、テラコッタ製の鍋が運ばれた。
鍋にはトマトスープに浸った野菜や豆腐、鶏肉、ムール貝などの具材が山積しており、その上にモッツァレラチーズが散らされている。通常であれば複数人で鍋をつついても十分な量の鍋がオグリキャップの期待と腹の虫を煽った。給仕係がコンロに火を入れる。
「このまま2,3分すれば食べられるようになります。にんじんスティックは硬いので少し長めに火を通すとちょうどいい歯応えになりますよ」
「ありがとう。いただきます」
火にかけられた鍋の具材に熱が通るまでのあいだ、オグリキャップは餌を前にお預けを食らった犬のようなもどかしい気持ちを覚えた。
「(鍋が煮えるまでのこの数分間、生殺しだな……。あと少しでレースが始まる。そんな緊張感だ。落ち着け。にんじんの数を数えるんだ。にんじんが1本、にんじんが2本……)」
数え上げたにんじんの数が50本を超えたあたりで、鍋に山となった野菜の数々がしんなりし、地盤沈下を起こしはじめた。にんじんが100本を超えたあたりで、具材の数々がスープの海に沈んだ。いよいよ食べごろだ。
「(よし、そろそろいいだろう。まずはスープからいただこう。んっ、美味しい。塩ベースのトマトスープにダシが合わさって、やさしい味だ。チーズの風味で力強さもプラス。日本とイタリア、両国の恵みががっぷり四つ。
ほうれん草、パプリカ、ズッキーニ、キノコ……よく汁が染みてて噛むとじゅわっと口の中で溢れる。くたくたになってていっぱい食べられる。野菜をいっぱい食べられると、なんだか嬉しい。ムール貝の身もぷりぷりだ。肉は……鶏ももか。スープの塩味、トマトの酸味、鶏肉のうまみ。三つ巴の無差別級ファイトに心が踊る。それにこのつみれ。ちょっと噛んだだけでほろっと崩れて、脂の甘さの混じった汁がご開帳だ。これはたまらない。
具材から溢れる汁に溺れそうになったらブロッコリーとにんじんスティックにつかまろう。煮て軟らかくなっても身が詰まってて歯ごたえがある。軟らかい具材が多いからいいアクセントだ)」
ひととおり具材の味を確かめるうち、鍋の中身を食らいつくそうとオグリキャップのボルテージがあがっていく。
「(野菜、肉、野菜、肉、野菜、野菜、肉、野菜。食べても食べてもなかなか減らない。箸も止まらない。鍋の熱が私を突き動かす。はむ、はふ、はふ、はふ……はふっ! うおォン、まるで私はウマ娘火力発電所だ)」
ひたすらに箸を動かし、給仕係からおすすめされた締めのリゾットまで平らげると、人心地ついたのか、オグリキャップは恍惚の表情を浮かべて鍋に合掌した。
「ふう、美味しかった。イタリアンちゃんこ、ごっちゃんでした」
「失礼いたします。お鍋、お下げいたします。すごい食べっぷりでしたね」
「ありがとう。ほんとうに美味しかった。名前は独創的だが味がうまく調和していて、温かくて満たされる料理だった。シェフにもよろしく伝えておいてほしい」
「ありがとうございます。たくさん召し上がっていただいて、シェフも喜ぶと思います」
「ところで」
「はい?」
「おかわりをいただけないだろうか」
◇
この回は番組史上屈指の傑作回であるといわれている。お洒落なイタリア料理とちゃんこ鍋の落差、オグリキャップの美味しそうに食べる表情とだんだんと上がっていくテンションとが、番組はじまって以来の好評価に押し上げたのである。
それと同時に、画面の前で生唾を飲むだけでは飽き足らなかった視聴者が店に足を運ぶ呼び水ともなった。予約分だけで席が埋まってしまい、振りの客*3や常連らが入れなくなってしまうほどであった。
ここまで来たからにはと喫食の機会を逃すまいとする訪客が店外に列をなし、事態を重くみたヒシアケボノがみずから列に並ぶ客に謝罪と釈明をおこない、次回使えるクーポン券を配布するとともに近隣にある飲食店を紹介する日すら出るほど応接にいとまがなかった。店の中も外も沸騰した鍋のように沸き立っていた。
にわかに集まった千客についてヒシアケボノは、新メニューのお披露目とドラマのロケのタイミングが奇跡的に重なってすこぶる運がよかっただけとあっけらかんと述べたが、降って湧いたチャンスをものにできるだけの料理を日頃から研究してきた努力の賜物だといえるだろう。
「トマトベースのちゃんこ鍋ってあたしのオリジナルじゃなくて、ちゃんこ屋さんなら珍しくないメニューなんだけど、イタリア料理の店にはミスマッチかなと思ってたんだ。
ただ、ちゃんこ鍋はあたしの原点になったお料理だからずっと出したいと思ってて、ロケの件はいいきっかけになったねぇ」
イタリアンちゃんこは本来のターゲットであった女性客の好みにも合致した。
ボリューム満点のイタリアンちゃんこは、本当はお腹いっぱい食べたいが普段は我慢している彼女らのニーズに合致していたうえ、野菜たっぷり・美味しい・ヘルシーという謳い文句が、たくさん食べる罪悪感に対する言い訳要素としてうまく機能していた。取皿に分けて食べるのも容易だったので子連れ客にも評判がよかった。
目的としていた単価のアップにくわえて客数も増加し、ヒシアケボノは胸をなでおろした。
一方で急激な客数増加による弊害も目立ちはじめた。
多くの注文に対応しなければならないため注文の取り違えが発生したり、料理提供までの時間が長引き不満を募らせる客も出てきたほか、常に忙しく調理や接客で動き回り、営業終了後は翌日に向けた仕込みや洗い物、店の掃除など身体的な業務負荷も無視できなかった。
くわえてコックの一人に性格的な問題があった。
その男は調理の腕は抜群で作業も早く、厨房ではメインの料理を任されるほどであったが、粗野なところがあり、アルバイトのいたらない動きをみつけるとしばしばバックヤードに呼び出して怒鳴り散らした。
混雑時にもたついている、食材のカットの仕方がおかしいなどの理解可能な理由ならまだしも、同じようにやってもある日にはOKでまたある日にはダメと判断するなどの朝令暮改がはなはだしく、ほかの従業員からはいつ爆発するかわからない腫れ物として敬遠されていた。
男の問題行動が起こるたびにヒシアケボノは口を酸っぱくして注意し、しばらくは鳴りを潜めるが、どうしても店を離れなければならない用事があるとこれ幸いとばかりにアルバイトをなじる悪行が繰り返されてきた。あの人にはついていけないと調理補助のアルバイトが辞めていったのも一度や二度ではない。
ある日とうとうオープニングから働いている古株のアルバイトからも辞意を告げられた。
「申し訳ないけど辞めさせてもらいます。この店は好きだし、シェフにもお世話になりましたけど、最近は朝から晩まで働き詰めで身がもちません。
それに、あの人にももう我慢の限界です。気に入らないことがあるとすぐに当たり散らして。子どもかよ」
ずっと腹に据えかねていたのだろう。憤懣やるかたない様子の古参アルバイトに対し、"あたしが不甲斐ないせいでごめんね。いままで本当にありがとう"と沈んだ声でねぎらうことしかできなかった。
事ここに至り、さすがに看過できないとその男に強い態度で注意したところ、男はあれこれと自己弁護を弄し、辞めた奴に根性がないのだと自分の非を認めなかった。
あまりに身勝手な言い分にヒシアケボノは絶句した。理解を著しく超えた事態に直面すると人は二の句が告げなくなると身をもって味わった。そして、滅多に振るう機会のない強権を発動させた。
「契約の残りの期間分に上乗せしてお給料を支払いますから即刻出てって。これは決定事項です」
火の元を断たなければならなかった。いままでその覚悟がなかった。その甘さがこの事態を招いたのだと彼女は心を鬼にして告げた。
アルバイトが何人も辞め、厨房スタッフにまで抜けられたら業務が回らなくなる可能性があるが、どちみちこの男を放置していては新しくスタッフを雇っても長続きはしないだろう。また、スタッフ間に吹く隙間風が店の雰囲気をも冷やしてしまうのは火をみるより明らかだった。
なおも男は不当解雇だと
「あたしがメニューブックです!! この店に置くものはあたしが決めます!!」
仁王像のような迫力で男に迫ると、事実上の解雇通告を受けた男は旗色が悪いと感じたのか、"こんな店、こっちから辞めてやる"と捨て台詞を吐いて出ていった。後日、宣言通り男の銀行口座に給与を振り込んだ。臓腑を直接握りしめられる思いがした。