主人公がサキュバスなので性的な要素が出てきますが、R-18的な目的での性的要素ではありませんので、期待すると肩透かしの可能性大です
上を見ても下を見ても、右を見ても左を見ても、前を見ても後ろを見ても、何一つ分からない。
ぐにゃぐにゃと、景色が移り変わっているのが分かる。けれども、それが何の景色なのかは分からない。どうなっているのかすら、分からない。
そう、分からない。何一つ、微かな事すらも頭に入って来ない。ぼんやりと、景色が頭の中に留まってくれない。
そこは空なのか、あるいは大地なのか。
水の中なのか、それとも草原の上なのか。
……俺が、俺として意識し始めても、何一つ分からないまま。
でも……時間が経つと、少しばかり分かるようになってくる。
それはまるで、水面へと顔を近づけるかのような感覚が近しいのかもしれない。
……夢だ。俺は今、夢を見ている。
まず、俺が理解したのはソレだった。
たったそれだけの事だが、それを理解するには些か精神的に辛く……けれども、理解してからの次は、早かった。
……そう、そうだ。俺は夢を見ている。俺は今、立っているのか。
ハッと、踏み締めた大地の感覚に目を向ける。大地といっても、俺が良く知る土と雑草と小石に塗れた大地じゃない。
もっとこう、ありとあらゆる色を半端に混ぜ合わせたかのような、歪な色。見方を変えれば綺麗に見えるのかもしれな……というか、何で俺は裸なんだ?
大地を見たついでに気付いた、自らの裸体。
特別語る部分も無いし、見慣れ過ぎてもはや何の感想も出ない(まあ、当たり前だろう)身体を見やった俺は……とりあえず、異常が無いかを確認する。
裸だから当然、衣服は無い。
これまで俺の身を守って来た胸部を守るプレートも、手足を守る防具も無い。極めつけは、絶対に傍から離さない……愛用のブレードも、無い。
というか、俺は宿屋のベッドで寝ていたはずだ。
記憶がぶっ飛んで、実は酒場で寝ているにしても、傍から剣が離れればすぐさま飛び起きるぐらいには警戒心を維持出来るように……ああ、そうか、夢か。
……ここが夢なら、俺はいったい何の夢を見ているのだろうか?
とりあえず、夢なのだから考え出したらキリが無い。我ながら変な事をしているなと思いつつ、俺は辺りを見回す。ここが夢で、俺はその夢の中で立っている。それは、分かった。
だが、何の夢なのかが分からない。
刻一刻と、頭の中がスッキリしていく実感が強まってゆく。
こうして、起きている時と同じように頭が動いている辺り……もしかしたら、これが明晰夢(めいせきむ)というやつなのかもしれない。
しかし……だ。変わらず存在し続けている眼前のソレに、俺は首を傾げた。
ソレを、どう言い表せば良いのか。俺の視線が周囲から、眼前のソレに向かう。ソレは、例えるなら空間に浮かぶ映像みたいなものであった。
その映像が、何の映像なのかは分からない。少なくとも、軽く思い返してもそれらしいのは何一つ該当しない。
……俺は、冒険者だ。あるいは、ならず者だろうか。
地方によって名称が異なるらしいが、つまりは何でも屋みたいなもんだ。その中でも、比較的荒事に従事する方……といった感じだろうか。
あまり良い意味で呼ばれることのない仕事ではあるが、一つだけ他人に自慢できることがある。
それは、様々な景色をこの目で見て来たという一点だ。
世間一般的には一つ所に定住せず、仕事を求めてあっちこっちにフラフラする落ち着きのない者と揶揄されることは多い。
しかし、その分だけ、俺は様々な光景を目にしてきた。
100人以上の人間を呑み込んでもまだ余裕を見せるであろう広大な滝。どこまでも続くであろう深い深い森に、地平線の彼方へ沈みゆく太陽の力強さ。
そのどれもが、涙が出るぐらいに美しかった。というか、実際に涙が出た……そして、悲しい光景も見て来た。
人の倍近い巨体を誇るオークと呼ばれる豚顔巨人に蹂躙され、凌辱される人たち。
赤子ぐらいのサイズながら、1000を超える数で一気に押し寄せてくる巨大蜂によって壊滅した、町の跡。
本当に、色々なモノを見て来た……はずなのに、眼前の映像に心当たりが無い。
映像自体が、取るに足らないモノ……ではない。
けして、そうではない。むしろ、逆だ。
映し出されている映像は、何一つ、一つの例外も無く、俺が目にした覚えのないモノしかなかった。
馬もいないのに勝手に走り出している、堅そうな巨大な箱。
天の国へと突き刺さらんばかりに伸びる、巨大な建物。
黒い石のようなもので固められた大地の上を行き交う、大勢の人々。
……何一つ、覚えがない。
本当に、この映像は何だ……俺の妄想にしては、あまりに荒唐無稽だ。
夢の中で、俺は首を傾げる。今まで数えきれないぐらいに夢を見た覚えがあるが、ここまで意味不明な夢は初めて──あっ。
何気なく眺めていた俺の視線が、映像の中の一角に向けられる。
視線の先にあるのは、行き交う人々の隙間にチラチラと姿を見せる建物。どうしてなのか分からないまま、俺はその建物へと目を細めると。
「──あ、改装したんだ」
気付けば、そんなことを呟いていた。
……。
……。
…………え?
思わず、俺は目を瞬かせた。
自分が今、何を呟いたのかが理解出来なかった。脳裏を走る違和感に、堪らず俺は映像から距離を取って──っと。
──ふにょん、と。
何か、凄く柔らかいモノが背中に当たった。
感触そのものはとても良くて嫌な感じはしなかったが、意識の外から起こった事に俺はビクッと身体を震わせ、振り返り……ぽかん、と言葉を失くした。
何故ならば……視線の先。
俺の背後にいたのは、我が目を疑ってしまうぐらいに美しく、それでいて眩しさすら覚えるほどに魅惑的な裸体を晒している女であったからだ。
──世辞も何も、思い浮かばなかった。率直に、何て美しい女性だと思った。
俺の両手では到底掴みきれないぐらいに立派な乳房も、内臓が収まっているのか不安を覚えるほどに細い腰回りも、遠目からでも柔らかさが想像出来る尻も、何もかも。
欠点が、何一つ思い浮かばない。
頭の先から足の先まで、何一つ。全てが、美しい。そんな美女が、見ているだけで蕩けてしまいそうな笑みを浮かべながら歩み寄って……っ。
──ふにょん、と。
微笑みを浮かべたまま広げられた美女の両腕が、俺の背中に回った。そうなると、当然……俺と美女との間に有った隙間は無くなる。
びくん、と、身体が震えてしまった。
身体の前面から伝わってくる、この世のモノとは思えない柔らかさと、眠気すら覚えそうな温かさと……軽く鼻を鳴らすだけで、堪らず股間が滾ってしまいそうになる、甘い香り。
いや、しまいそう、ではない。滾ってしまっている。こんなことは、初めてであった。
思春期真っただ中の頃ならいざ知らず、今の俺にそれはあり得ない。年齢的にも、経験的にも、女の裸は見慣れている。
娼婦を買ったことなんて、両手の数では足りない。そんな俺が、いくら相手がこんな美女だとしても、これ──はっ!?
──ちゅう、と。
顔が──近づいてきた。
そう思った時にはもう、美女の唇が俺の唇に触れていた。
堪らず目を白黒させる俺を他所に、美女はほんのりと頬を染めると、ぺろりと自らの唇を舐めて……その舌で、俺の唇を撫でた。
瞬間──ビリビリと、背筋に痺れが走った。
たったそれだけのことで、射精したと錯覚したぐらいで、思わず腰が抜けなかったのは……俺を抱き締める美女のおかげであった。
状況が……全く呑み込めない。けれども、気付けば俺は美女の背中に腕を回していた。
美女は、全く拒まない。いや、それどころか、嬉しそうに眼を細めると、ちろちろと舌を震わせて俺の頬を舐めてゆく。
まるで、蛇の交尾を思わせる動きで、俺の身体にその裸体を擦り合わせ始める。
……これは、そういう夢なのだろうか。
そう思うも、頭が上手く動いてくれない。展開の速さに驚く間もなく、背中に回された美女の指先が這い回る。
それは、くすぐったさを伴う……愛撫であった。
痺れは、あっという間に快感にすり替わる。
身体の力が、抜ける。膝が笑い、かくん、と尻餅を付いた──のに合わせて、美女が圧し掛かって来た。
……期待が、膨れ上がる。
俺の内心を察したのか、美女はそのまま顔を近づけ……ふう、と耳元に息を吹き付ける。
鼻筋をくすぐる美女の匂いがあまりに濃厚すぎるせいで、クラクラと理性が──と、その時であった。
『──っ、──っ』
何処からともなく、歌が聞こえてきた。初めて聞く歌声……なのに、耳にした瞬間、俺は理解した。俺は、この歌を知っていると……この声は、どこから?
それを……探すまでも無かった。すぐに、位置が知れたから。
耳から首筋に掛けて行われる吐息愛撫の、反対側。美女の愛撫が及んでいないそちら側に映し出されている映像に視線を向けた瞬間、俺は──我知らず、息を止めていた。
何故か……その理由は、その映像に姿を見せた女性にこそあった。
その女性が、どのような人物なのかを、俺は知らない。だが、分かる。一つだけ、分かっている。
その女性は、こんな俺ですら夢中にさせたぐらいの……歴史に名を刻み続けていた、クイーン・オブ・ポップス。
彗星のように芸能界にその名を見せてから、俺が命を落とすまで。いや、おそらくは、俺が死したその後も、ずっと。
常に新たなサブカルチャーの歴史を紡ぎ出し、新たな命を得て転生した俺の、前世を想う心の支えとなってくれた……伝説の歌姫。
「高田……文……?」
考えるよりも早く。フッと、無意識の内にその名を呟いた……その瞬間。
時間によって押し固められた奥底から、浸み出して来るかのように……俺は、思い出した。今の今まで忘れ去っていた記憶を……『前世』の事を思い出していた。
疑問や違和感を挟む余地等ない。混乱すら、起こらない。
始めからそこに有ることを思い出しただけでしかないから、乾いた喉へ水を流し込むように……スーッと頭が鮮明になってゆく。
──それは、ここではない別の世界での、昔の事だ。
ずっとずっと、誰に話した所で何の意味も無い、俺だけしか知らない、異なる時間の事。
俺がまだ、『剣と魔法のファンタジーな世界』という代物に憧れていた頃。その時の俺は、機械に囲まれた現代社会で無邪気に学生をやっていたと思う。
いや、思う、なんて言い方になるのは、その時の記憶を順次思い出している途中だから。そう、徐々に、包み込まれて固められていた前世の記憶が広がってゆく。
そう、そうだ……俺は、普通の学生だった。日本の、恵まれた学生だった。
学校に通って、勉強をして、ゲームをして、時々バイトをして──そんな事を思い出した、その時。俺の脳裏に、何かが過った。
「あっ」
何かは、すぐに姿を見せた。それは、高校生であった俺が、当時ハマっていたゲームに登場していた、とある敵キャラの──って、ヤバい!?
「お前、サキュバスか!?」
反射的に、俺がその名を呟いた──結果。
「──っ!?」
俺に圧し掛かっている美女が見せた反応は、一瞬ばかり呆気に取られてしまうぐらいに顕著であった。
それまで、頬を染めて色気たっぷりに浮かべていた笑みが瞬時に引き攣る。
しなやかにもたれ掛っていた身体が一気に仰け反り、驚愕に見開かれた眼が俺を見下ろし──やはり、そうだ。
これは、只の夢じゃない。サキュバスが見せる淫夢だ!
そう確信を得ると同時に俺の脳裏に流れたのは、この世界には実在しているサキュバスの情報であった。
──『サキュバス』
それは男だけを狙い、夢を操る怪物である。前世では少し違うかもしれないが、この世界ではそのように伝えられている。
あくまでそのように伝えられているだけであって、実物がどうなのかは俺も知らない。何故なら、サキュバスに狙われて逃げ延びたやつはそう多くはない……らしいからだ。
どのような方法で獲物を仕留めるのかは知らないが、一度狙われた獲物はかなりしつこく追われるらしく、最後は抵抗らしい抵抗が出来ないまま行方不明になるだとかで、謎の多い怪物とされている。
故に、どのようなタイミングで狙われるのかも不明。辛うじて生き延びた者たちの証言では、様々な夢を見せる事で抵抗を封じ、その間に獲物の生命力を奪い取って──って、そうだ!
このまま夢を見続けるのは──まずい!
そう、思った瞬間。目を開けているはずの俺が、再び目を開けていた。直後、俺の目が捉え、頭が認識したのは……羊の顔をした、化け物であった。
羊の化け物は、人間の女と羊とが混ざり合ったかのような姿をしていた。
顔と手足は羊のソレだ。ヒヅメがあって体毛が伸びていて、よく見れば背中には蝙蝠を思わせる翼が見える。けれども、胴体の部分は……人間の女であった。
……己に圧し掛かったまま硬直している怪物を前に、俺は少しの間状況を呑み込めなかった。
覚えのあるベッドの弾力、見覚えのある天井の木目、見覚えのある室内の臭い。ああ、間違いない、ここは俺が借りている宿屋の──っ!
「──っ!!!!」
おそらく、夢を操る魔法は術者にも相応の負担が掛かるのだろう。
体勢的にもタイミング的にも圧倒的に不利な状況であったにも関わらず……俺とサキュバスの攻撃は、ほぼ同時であった。
ほんの僅かではあるが……俺の方に、幸運は下りたのかもしれない。
愛用の武器は、ベッド傍にある。だが、姿勢的に届かない。
故に、枕の下に入れておいたナイフを鞘から素早く抜き取り、無我夢中で刃を放った──それが、サキュバスの胸を貫いた。
そこで……俺の幸運は尽きた。
がぽっ、と……羊の口から血反吐が噴いた。
人間と同じ見た目をしているだけあって、内臓の位置も同様なのだろう。手応えからして、心臓を貫いたのが分かった……が、同時に。
「──こほっ」
サキュバスの鋭いヒヅメが、俺の胸へと……深々と食い込んでいた。見なくても、分かった。内側へと潜り込んでくる激痛が、ばちんと何かが傷ついた感覚が、全てを教えてくれた。
俺たちは……互いに、致命傷を与えたのだという事を。
けれども、先ほどの幸運の名残のおかげか。
先に息絶えたのは、サキュバスの方で。
羊の口からごぽっ、と噴き出した鮮血が俺の身体を濡らし……そのまま、俺に身体を預けるようにして動かなくなった。
振り払う……無駄だ。そんなこと、もう俺には出来ない。
助けを呼ぼうにも、声が出ない。
血だけが、ごぽっと喉奥からせり上がってくる。
息も、上手く吸えない……なのに、サキュバスの温もりだけは、妙にはっきりと伝わってくる。
……最後の最後に、化け物に抱かれて……。
これは、走馬灯、なのだろうか。
辛うじて感じ取れていた温もりも、すぐに分からなくなった。けれども、代わりに……脳裏を過る、これまでの記憶と……『前世』の記憶。
……ああ、思い出した。その瞬間、涙が頬を伝うのを……俺は辛うじて感じ取れた。
死ぬ寸前になって、俺は思い出してしまった。
俺は……今世も、前世も、ずっとずっと孤独に生きてきたということを。そして、誰にも愛されないままに終わるということに……気付いてしまった。
次々に思い出して来るのは……冷たい眼差しばかり。
ある時は親に冷遇され、ある時は同世代に冷遇され、ある時は年上に冷遇され、ある時は年下に冷遇され……そう、そうだ、俺はずっと、俺が俺として成ったその時から、ずっとそうだった。
俺の何が悪かったのか、それは俺自身にも分からない。
何時も嫌われるのは俺の方だから、俺が悪いのは分かっている。けれども、俺はそれを治せない。何処を治せば良いのか、誰も教えてくれない。だから、今世もまた、同じ結果になった。
いつも、思い出すのは死ぬ寸前だ。死ぬ寸前になって、俺はその度に思い知るのだ。
愛して欲しいと思った両親。傍に居たいと思った想い人。気の置けない間柄だと思っていた友人。それら全て、幻想に過ぎなかった。
愛して欲しいと願った両親は、最後まで俺の兄妹たちにばかり愛情を注いだ。
傍に居たいと願った想い人は、都合が悪く成れば俺を羽虫のように嫌い、狂言で俺にレッテルを張った。
気の置けない間柄も、彼らにとっては体の良い金づるでしかなくて、金が無くなると去って行った。
それだけは、何時も変わらない。何度生まれ変わろうとも、顔ぶれや境遇が変わろうとも、そこだけは変わらない。
──ああ、今世でも愛されないままだった……と。
酷く、惨めな気分だった。今に至る瞬間まで、こういう人生もそう悪いモノではないと思っていたからこそ、余計に。
でも、俺にはどうすることも出来ない。痛みも、温もりも、分からない。目を開けてはいるけど、何も見えない。
ただ、ゆっくりと……足先から水に入れていくかのように、暗闇が徐々に俺を呑み込んでゆく。
それが、死への前触れであることを思い出すよりも早く、俺は……お……。
…………。
……。
……。