区切ろうかと思いましたが、下手に区切ると3000文字・12000文字・2000文字な感じの変なことになりそうなので、面倒くさくなってまとめてです
──『
一部では略称して、『
その名が、江戸の男たちの雑談に紛れるようになったのが、何時からなのか。それを知る者は、一人もいない。
最初にその店を訪れた者が誰なのかも知らないし、誰からその名が広まったのかも知らない。
しかし、江戸に住まう男ならば誰もがその名を知っていた。
そして、誰もがその店を利用したいと常々思っていた。
いったいどうして……それに関しては、幾つか理由が有る。
まず、庶民たちの間(実際には、御上たちの間でも有名であった)では有名な夢屋ではあるが、驚くべきことに……その名が知られ始めてから、一度として『改め』られた事がないのだ。
『改め』とは、すなわち警察などの手入れのこと。
つまり、夢屋は『岡場所』という違法売春店でありながら、一度として警察に捕まった事がないのである。
これは、江戸のそこかしこに点在する『岡場所』の中でも、異様としか言い表しようがない話であった。
江戸には三桁にも及ぶ『岡場所』があるとされていて、御上もその全てを把握は出来ていない。
だが、名前が売れた『岡場所』は時々見回りが入り、場合によっては取り締まりもされていた。
そこから考えれば当然、夢屋もまた御上にその名を知られていた。
なので、御上は何度も夢屋へと足を運び、取り締まろうと……したのだが。
……今日に至るまで、一度として、その目論見が果たされていないのである。
何故かといえば、答えは幾つかあるが……何よりも目立つ理由といえば、店が一つではないことだろうか。
案内板などは一切無く、あくまで人伝でしかその店を知ることは出来なかった。だが……江戸の各方角に、最低1件ずつ、江戸のいたるところにその店が有ったとされている。
人によっては一店しか知らない者もいたが、本当に、色々な所に有ったらしいし、有るらしい。
店の規模や外観も特に決まりや拘りは無いが、店の主は、御上の目を誤魔化すことには熱心だった。故に、お高い『吉原』とは違い、長屋などに扮していることが多かったらしい。
そして、どのような手段を用いて連絡を取り合っていたのかは不明だが、夢屋は互いが互いを監視し合う独特の技術を有していた。
つまり、夢屋は御上以上に、江戸の至る所に目を光らせていたのだ。
なので、どこかで御上(あるいは、関係者)が不穏な動きを見せた瞬間、江戸中に点在している夢屋全てに情報が流れ、常に夢屋は先手を取ることが出来たらしいのだ。
おかげで、御上が調査に赴いた日に限って、店が閉められているという事態が幾度も続いてしまった。
もちろん、店が閉められているからといって諦める御上ではない。
正門が閉じられていればこじ開け、板戸が有れば蹴破り、場合によっては建物を壊さんばかりの勢いで押し入る事もあった。
だが……結果は全て、ハズレに終わった。
何故なら、どの店も例外なく、もぬけの殻だったからだ。
それも、ただ居ないだけではない。まるで、始めから人が住んでいなかったかのように、何もかもが空っぽだったのだ。
生活上必需品である箪笥や、炊事場もそうだ。
掃除こそ行き届いてはいるものの、そこらに使用された痕跡はなく、真新しい畳や劣化の少ない襖を見る限り……そうとしか思えない状況であった。
狐に化かされている気分だ……と、零したのは、果たして誰が最初であったのか。
実際、そうとしか言い様が無いぐらいの完璧な夜逃げ(あるいは、隠ぺい)である。
あまりの手際の良さ(夜逃げの腕というのも、変な話だが)を見て、一部では感嘆の声が上がったぐらいであった。
……とはいえ、だ。これまた、もちろんの事。御上(奉行所)も、威信を掛けて躍起になったこともあった……が、長くは続かなかった。
理由は単純明快、あまりに失敗が続き過ぎたせいだ。
何時の時代もそうだが、何をするにも対価は掛かる。店を探すのもそうだし、人員を集めておくのもそうだ。
違法のうえに面子に関わるとはいえ、何時までもそればかりに手を伸ばしてはいられない。
太平の世であるとはいえ、大小様々な事件は毎日のように起こる。
実際、殴り合い程度の喧嘩は毎日起こっているから、それを抑えに行くだけでも大変なのだ。
とはいえ、いくら公的な許可を持つ『吉原』から陳情が有っても、それらを無視し続ければ……それはそのまま、幕府への不満へと繋がってしまう。
だから、『探しはするし取り締まりもするが最優先ではない』というのが、御上の出した結論であり、方針であった。
実際、肝心の夢屋を捕まえることは出来なくとも、成り行きから他の『岡場所』をひっ捕らえることは出来ていた。
ただ、『それで我慢しておけ』……という思惑が透けているのが庶民からもバレバレだったのは……まあ、仕方ないとして。
当然、『吉原』としては不満たらたらな結果でしかなかった。
確かに、『岡場所』は『吉原』にとっての商売敵ではある。
雨後のタケノコのように、抜いても抜いても後から後からにょきにょきと生えてくる鬱陶しい相手でもある。
だが、『吉原』が何よりも本当に潰してほしいのは夢屋である。
何せ、既に一部の庶民たちから『金を取るのが吉原で、質を取るのが夢屋』と揶揄され、『金高(きんだか)吉原・質高(しつだか)夢屋』という呼び名が付いてしまっているのだ。
……率直に言おう。『吉原』としては、屈辱でしかなかった。
もちろん、『吉原』もただ手をこまねているような真似はしなかった。海千山千の者を密偵として雇い、聞き込み調査で探し当てた夢屋へ、客として向かわせた。
どうしてそうしたかといえば、純粋に夢屋の内情を知る為と……後は、誰もその姿を見た事が無いらしい『夢屋の主人』を調べる為であった。
まあ、『夢屋の主人』を上手く見付けられれば儲け物という程度で……本命は、夢屋の内情……すなわち、そこで働いている遊女たちのことを調べ、場合によってはこちらに引き込むつもりでもあった。
……が、しかし。10日後……いや、17日後。
予定していた日数よりも7日も遅れて戻ってきた密偵にヤキモキしながらも、人払いをしてから話を聞き始めた『吉原』は……愕然とする他なかった。
何故なら……密偵の言葉は、『吉原』としては信じ難い話としか思えなかったからだ。
その内容とは……そう、複雑なモノではない。『岡場所』には数少ない、食事の提供だったり、お湯の提供(要は、身体を洗う事)だったり、なるほど、珍しくはあるだろう。
だがしかし、それらは『吉原』では当たり前のように行われているモノに過ぎない。
言い換えれば、女を買う事に慣れている者ほど、それらには新鮮味を覚えないはずだ。
部屋だって『吉原』が用意しているモノと比べても、劣ってはいない。
いや、むしろ、『吉原』の方が数段は豪奢であり、贔屓目を抜きにしても、『吉原』に軍配が上がるモノであった。
……だが、しかし。密偵が語ったその中には、決定的に、夢屋が勝っている点が一つだけあった。
たった一つ、そう、たった一つだけ。けれども、それだけで『吉原』は理解した。
いや、理解させられたからこそ……『吉原』は、信じられなかった。そんなの、信じろという方が無理なのだ。
──そう、まさか……夢屋の遊女たちがみな、心底望んで客たちに抱かれ、まるで新妻のように身体を開き、愛を囁いてくるなどという戯言を、だ。
……。
……。
…………その年の夏は、何時もの夏とそう変わりはしなかった。
夏至も過ぎ去り、蒸し暑さが増していく。なのに江戸の足元ときたら朝も昼も夜も、春も夏も秋も冬も、些かの違いもなく砂埃がもうもうもう。
誰も彼もが茹だるような暑さに辟易しながらも帰路に着いている最中……
与一は、江戸に住まう男たちの中では珍しく、特に特徴の無いありふれた恰好と佇まいをしていた。
少しばかり色あせた着物に捲り上げた裾。その裏地には表とは色違いの波模様。皺が目立つようになってきている顔や大きく開かれた胸元には、僅かばかり汗が噴き出ている。
少しばかり解れが見られる髷(まげ:いわゆる、ちょんまげ)や、ふわりと膨らませた髱(たぼ:後頭部の髪の部分)、薄らと伸びる髭……誰が見ても、数多くいる町民の内の一人だと思われる風貌をしていた。
……与一は、蕎麦屋を営む男……と、周囲から思われている。
体格は良いが気が少しばかり弱い所があり、荒事は大の苦手。反面、料理に関しては拘りがあるらしく、彼の蕎麦に惚れこんだ者が幾らかいて、毎日食べに来る者も幾らかいる。
奥方は、いないらしい。いや、正確には、今はいない、である。
噂では、どうも若い頃(子供も出来なかった)に先立たれ、以後、ずっと独りらしい。
時折『岡場所』や『吉原』に行って女を買ってはいるようだが、伴侶を娶るつもりはないのだという。
当人曰く、『妻に先立たれたのを思い出すから、もう妻を持ちたくない』だとか。
女を買うのは、時折無性に妻が恋しくて寂しくなるらしく、それを紛らわせる為。看板娘を雇ってはいるものの、それ以外で与一の傍に女の影があったことは一度としてない。
何時までも過去を引きずる意気地の無い男と考えるべきか。
あるいは、妻を忘れられない一途な男と考えるべきか。
彼を知る者の間では評価の別れるところだが……まあ、悪事に手を染めていないし、あこぎな商売をしているわけでもない。
また、看板娘に手を出すこともせず、近所の子供たちにも優しく接し、日々を真面目に暮らしている。
──つまり、彼は善人である……というのが、与一を知るだいたいの者たちの、与一に対する人物評であった。
……。
……。
…………が、しかし。
与一には、極々一部の者たちにしか知られていない秘密が有った。
蕎麦屋の与一という表の面しか知らない者たちは想像すらしていないだろうが、彼には裏の顔とも呼べる姿があった。
それは、彼が『吉原』の関係者であること。
もっと詳しく言うなら、『吉原』の指示を受けて密偵をやっているというもので……それも、ひと月、半年前の話ではない。
彼が田舎より江戸にやってきた頃から就いているので……つまり、蕎麦屋の与一というのは表向きの、仮の顔でしかないのであった。
さて、そんな彼が行う密偵とはずばり、他の売春業者の潜入調査である……従業員としてではなく、客として、だ。
名前が売れ始めたり、密かに客を集めていたりしている『岡場所』などに潜入し、内情を探り、『吉原』に取り入れ、場合によっては悪評を流す足がかりを作る……というのが、与一に与えられた仕事であった。
与一は、それをずっと続けてきた。江戸にやって来てから今日まで、二十年弱。
そのこと(密偵の仕事)事態は、特に何かを思うような事はなかった。
要は、敵情視察のようなものだと、与一はこの仕事についてそのように捉えていた。
煙草屋もそうだし、表通りに店を構えている大店たちもそうだし、何なら江戸に点在するありとあらゆる職業においても、同じ事。
売れている他店については調べるし、それが飲食店なら客として料理の味をこっそり確認する。何なら、真似が可能なら真似をする。必要なら、噂も流す。
江戸では、当たり前の事だ。いや、江戸だけではないだろう。そして、それが、たまたま『岡場所』になっただけ。
中にはそういった部分が潔癖な者もいるが、与一はそう思っていない。
ただ、それだけの事だと認識しているからこそ……彼は、二十年もの間、密偵をやれているのであった。
……さて、そんな与一の、密偵としての腕前だが……率直にいえば、その腕前は玄人の域であった。
元々、そういった方面への才能が有ったのだろう。
そのうえ、二十年にも渡って続ければ、嫌でも上手くなる。当人は洒落に気を使わないのもあって、今のところは密偵がバレたことは一度も無い。
彼の興味は、あくまで密偵をこなした後で得られる報酬、ただそれだけ。
切った張ったは嫌いだし、惚れた惚れられの色恋沙汰にも興味は無い。
だからこそ、彼の出す報告は何処までも客観的で、『吉原』も彼の仕事を評価し、二十年にも渡って雇い続けたわけである。
(今日は、沖那(おきな)ちゃんはいるかな……)
……だが、しかし。これまた、しかし。
この日……いや、正確には、密偵として夢屋を利用するのを終えて、一人の男として夢屋を利用するようになってから、早ふた月。
気付けば……与一は、すっかり夢屋の遊女に……そこで働く沖那に骨抜きになっていた。そうなってしまっていることを、彼は自覚していた。
──密偵の為に客として入った最初の頃は、そうではなかった。
確かに、前評判通り、夢屋の遊女たちはみな美しかった。
髪は艶やかで肌も若々しく、どこの店に行っても天辺を取れる美貌。夜伽の腕もまた、与一から見ても一流の太鼓判を押すに足る技量を有していた。
だがしかし、その程度では与一の心は揺るがない。
何故なら、与一は『吉原』の……
──花魁とは、『吉原』における最上の遊女に与えられる位である。
見た目や夜伽の良さだけではない。
心・技・体、その3つだけでなく、様々な学問や芸術にも秀でている必要があり、あらゆる殿方の胸中に素早く合わせる機転の良さを兼ね備えた、数多の遊女たちの頂点に立つ存在である。
その名がもたらす影響力は凄まじく、ただ通りを練り歩くという行為に花魁道中(おいらんどうちゅう)という名前が付けられるぐらいだ。
それを一目見る為に朝から詰めかける者が大勢いる程で、与一は仕事がてら、何度も花魁をその目で見て来た経験があった。
……だが、そんな与一でも。
まさか、花魁でもない遊女の一人に絆される日が来ようとは……夢にも思っていなかった。
……時間は少しばかり流れ、今は昼と夜の境目、夕暮れ時。あるいは、逢魔が時、と称した方がいいのかは、さておき。
西日によって伸びる影を横目に見やりながら与一が到着したのは、西の長屋の一角にて、ひっそりと店を開いている……夢屋であった。
与一が少し前から懇意にしている夢屋は、長屋の内装を改築して経営されている。知る人ぞ知る……という言い方も何だが、『岡場所』である。
当然、看板ものぼりも、何一つ設置されてはいない。
与一が調べるまでもなく、男たちの間に広まっている噂の通りの、神出鬼没な店である。
店の外観は、正しく長屋のそれだ。多少なり改築をして綺麗にはなっているが、所詮は長屋。
建物そのものに年期が入っており、唯一の出入り口である木戸も、相応におんぼろだ。
その木戸だが、基本的には夜間の出入りは禁止されていて、だいたい18時~20時の間には閉まってしまう。
何故かといえば、純粋に防犯の為だ。
江戸にも鍵はあるのだが、そんなものが取り付けられるのは蔵(くら)ぐらいであり、後はせいぜい、内側からつっかえ棒を置いて開かなくする程度だ。
なので、破ろうと思えば誰でも破れる。何せ、長屋の建物の出入り口は木製の障子や板戸だ。
少しは手こずるだろうが、大人の男が本気で何とかしようと思えば、いくらでも押し入ることが出来るのだから。
……で、だ。
基本的に、長屋への唯一の出入り口である木戸には、木戸番と呼ばれる門番が常駐している。
長屋の住人たちが持ち回りで行うのが通例となっていて、与一が訪れたその長屋もまた……同じであった。
『そこの、止まれ』
閉じられた木戸の前にて立ち止まったのと同時に、何処からともなく声を掛けられた。木戸番のモノであるのは、すぐに察せられた。
声の出所は、分からない。
これまでと同じく、与一は反射的に視線をちらりと巡らせるが……相変わらず、それらしい人影も姿も見られない。
……当然、辺りには人の気配もない。
中心部より離れていることもあって、ともすれば軽く恐怖を覚えるぐらいに辺りは静まり返っている。
まあ、夢屋があるここら一帯に、商店は無い。屋台も、ここには来ない。
立地的に誰かしらの通り道になるわけでもないし、時間も時間だから、来るのは客ぐらいだが……まあいい。
『……名は?』
しばしの間を置いた(顔を確認しているのだと与一は思っている)後、ポツリとそんな問い掛けが成された。
ここの木戸番は、男なのか、女なのか。
いまいち判別しにくい不可思議なこの声に慣れてしまっている与一は、「与一と申します」何時ものように名乗るのであった。
『誰に、会いに来た?』
「沖那ちゃんに……その、御手隙でなければ、次の機会であっしは……」
『焦るな、しばし待て』
その言葉と共に、再び静かになった。
けれども、相変わらず視線だけは感じる。
こればかりは、どうにも慣れないなあ……と、思っていると。
『……良かったな。空いているぞ』
「──ほ、本当ですかい!?」
「ああ……で、泊まりか?」
「もちろん、泊まっていきますぜ」
「よし、分かった……金子は何時もの通り、今日は『六番』だ」
……そう言い終わってすぐに、きい、と。
少しばかり錆びついた蝶番の軋む音と共に、木戸が開かれる。
促されるがまま中に入った与一は、何時ものように設置された台の上に置かれた箱へ、何時ものように料金を──。
『……どうした?』
──入れようとして、ふと、手を止めた。
当たり前といえば当たり前な、訝しむ木戸番の声。そこに含まれているのは警戒……というよりは、困惑だろう。
そうなるもの、致し方ない。
まさか、ずっと同じ人が担当しているわけではないだろうが、ここしばらく与一は通い詰めていたのだ。
既に、与一が良からぬ事を企てる輩でないのは伝わっている。だからこそ、訝しんでいるのが暗がりの向こうから察せられた。
「……いえ、その、本当にこの値段で宜しいんでしょうか?」
『……質問の意図が分からん。今までそうだったし、値上げなどした覚えはないし、伝えた覚えもないが?』
「……ええ、そうでしたね。すいやせん、ちょいと寝ぼけていたようです」
その言葉と共に、与一はお金を入れた。
その金額、他の岡場所と同じく400文(現代の価格にして約5900円程度。ちなみに、昼間の方が高い)。
……はっきり言って、滅茶苦茶安い。
金額だけを見れば同じと捉えるだろうが、内容が明らかに違う。それを与一は誰よりも知っている。
夢屋と同じだけの奉仕(要は、サービス)を受けよう思うのならば、この倍以上……金2朱(いわゆる金貨:価格は約13000円前後)は取られるだろう。
少なくとも、『吉原』では最低それぐらいは取る。
加えて、これに色直し代やら花代やらの名目で値段を吊り上げるから、実際はもっと高額に……いや、それだけではない。
……無言のままに歩き出した与一は、長屋の奥へと向かう。
とはいえ、長屋の立地自体はそう広いわけではない。元々がぎゅうぎゅうに詰め込まれているわけだから、『六番』と小さく記された札が張られた家の前は、すぐであった。
……。
……。
…………何時も、この開ける瞬間が堪らないと、与一は思う。
障子一枚を挟んだこの奥に、沖那がいるのは分かっている。
たった二ヶ月程度とはいえ、毎日のように来ているのだ。もはや、顔馴染みと称しても差し支えないだろうとは思っている。
けれども、それでも緊張してしまう己を与一は抑えられなかった。
自分が来た事で、喜んでくれるだろうか。
それとも、客を出迎える笑顔の準備をしているのだろうか。
あるいは、何時もと同じことを繰り返す準備でもしているのだろうか。
……これまで、幾度となく女を買って来た。
『吉原』も『岡場所』も『それ以外』も問わず、色々と……しかし、これ程までに心が落ち着かないのは、生まれて初めてだろう。
……我ながら、何とも情けない有様だなあ、と。与一は苦笑する。
二十年にも渡って『吉原』の密偵として働いて来た己とは思えない、初心な反応。
まるで、女の肌を知らずに悶々としていた若き頃に戻ったかのような──と。
ぼんやり考え事をしていると、唐突に眼前の戸が開かれた。
予想外の事にあっと目を見開く与一を他所に、中から顔を覗かせたのは──。
「どうしたのですか? 入口で突っ立ったまま、私を焦らせたかったので?」
──島田髷(しまだまげ)が解かれた、それはそれは見事な黒髪を艶やかに、それでいてゆったりと下ろした……美しい女であった。
そう、『岡場所』には……いや、『吉原』でもそうは見掛けないぐらいの、何処となく幼さを感じさせる顔立ちをした……天女だろうか。
その女は、与一を前にして、満面の笑みを浮かべている。
淡く色づいた着物の胸元から覗く、たわわに実る膨らみが見せる谷間。笑顔から逃れるあまりに見てしまったそこから顔を上げた与一は。
「……沖那」
堪らず、といった調子で女の名を呼んだ。何時もの事ではあるが、今日も与一は用も無く彼女の名を呼んだ。
……ただ、名前を呼んだだけだ。
目的も無ければ意味も無く、与一自身も何故彼女の名を呼んだのかすら分からなかった。
「──はい、与一さん」
だが──幼さを感じさせるその顔に浮かぶ、満面の笑みを目にするたびに……呼ばずにはいられない。
そう、与一は名を呼ぶたびに思い知る。
……己はもう齢なのだとということを。
それを、毎度忘れそうになる。
己の半分程度しか生きていない年頃の娘から焦がれるような男でもないことは、自覚している。
なのに、沖那から名を呼ばれるたびに……どうにも落ち着かない気分になるのを、与一は抑えられなかった。
その度に、いちおうは己を戒める。
己はもう齢なのだと。所詮は、一夜のお遊びでしかない事を。結局は、金を得たいから媚を売っているだけなのだという事を。
己はけして、モテるような風体ではない。
二枚目でもないし、粋な洒落も言えない。『吉原』の密偵を務めているとはいえ、『吉原』を介さずに女を抱いた事など一度としてない。
それは同時に、金で女を買う事は数えきれないぐらいには有ったが、それだけであるという証左。
この齢まで独り身であるのは、己に魅力が無いだけ。ただ、それだけの理由なのだと与一は思っていた。
……だが、しかし。
「──どうしましたか、与一さん」
尋ねられて、名を呼ばれて、ハッと与一は我に返る。
「……ああ、いや」
いつの間にか傍まで来ていた、沖那の白い肌を間近にした与一は、反射的に零しそうになった言葉を、寸でのところで呑み込んだ。
……貴女に見惚れてしまった、などと。
爺に片足突っ込んだ己の世辞など、年頃の娘が喜ぶわけもない。勘違いするなと、与一は己を戒める。
沖那は、金で一時を買われた娘でしかないのだ。
夜が明ければ江戸に住まう一人の娘に戻る。数多に存在する、遊女の一人に過ぎず、己もまた、客の一人に過ぎない。
自惚れるな……己を好いてくれていると、勘違いをするな。
そう、与一は何度も己に言い聞かせながら、中に入る。
途端、直前に抱いた己への戒めが、ぐらぐらと揺らぐのを与一は感じ取ってしまう。
そう高くはない上がり框(かまち)の先にあるちゃぶ台に置かれた、椀に注がれた水。そして、冷奴と徳利(とっくり)とおちょこ(猪口と書く)が二つ。
それらを照らす行灯(あんどん)と、寝床となる布団が部屋の隅にあって。『吉原』とはまるで違うのに、まるで『吉原』に来ているかのような……奇妙な感覚を、与一は覚えた。
……けれども、それに怖気づいている間はない。
ハッと我に返ると同時に、優しく背中を押されて促され……上がり框に腰を下ろす。直後、与一の前に置かれたのは……僅かに湯気が立つ、小さなタライであった。
……無言のままに、足を差し出す。
先程は気付かなかったが、玄関傍に置かれていたのだろう。「今日も一日、お疲れ様」沖那は、そう呟きながら与一の足から草履を外すと……手に取った与一の足を、タライの中に優しく入れた。
その手付きは、とても優しかった。
ともすれば、愛おしさと錯覚してしまいそうになるほどに……穏やかに、それでいて、心地良さを覚えるほどに……丁寧に、洗われた。
(……『吉原』以外で、こうやって足を洗ってくれるのは……ここぐらいだ──っ!?)
沖那の艶やかな旋毛をぼんやり眺めていて、油断していた。
まるで、赤子についばまれたかのような、感触。幾度となく繰り返される感触に、ハッと我に返った与一が目を向ければ、己の足に頬擦りしながら接吻を繰り返している沖那がいた。
その仕草には……情欲等の意図は見られない。与一としては、嫌ではないが……これでは、動けそうにない。
けれども、心底嬉しそうに、大好物を前にした童のように、嬉しそうに頬擦りをしている沖那の顔を見てしまえば……無下に振り払うことは出来ない。
拭って綺麗になった男の足に頬擦りする女……甘えた盛りの娘がいたら、こういうこともあるの──あっ。
不意に──くふくふと笑っていた沖那の目が、上を向いた。
当然、その先に居るのは与一しかいなくて……視線が合うのは、当然の結果であった。
……。
……。
…………先ほどが大好物を前にした童であるなら、それはまるで、悪戯が露見してしまった童のようであった。
本人も、無意識にやっていたのだろう。
ぽぉ、と瞬く間に頬を紅潮させた沖那は、与一の視線から逃れるように幾分か慌ただしくタライ一式を片付け……赤らめた頬をそのままに、与一の傍に座ると。
──何も言わずに、するりと与一の胸に飛び込んできた。
これには……思わず、与一は面食らった。
反射的に受け止めたが、こんなことは初めて……というか、アレだ。既に知っていることだが、着物越しに伝わってくる柔らかさに、与一は堪らず沖那を離そうとした。
「……三日も来なくて、寂しかったのですよ」
だが……ポツリと、そう言われれば……与一も、抱き締める他選択肢はなかった。
……。
……。
…………そうして、ふと。
初めて女を抱いた時、抱き締められただけで頭が真っ白になった事を、与一は思い出していた。
けれども、さすがに今はそこまで興奮してはいない……いや、まあ、そういった興奮はあるものの、不思議と心は心地良く落ち着いている。
いまだ、少しばかり頬が赤い沖那に促されるがまま、ちゃぶ台へ……腰を下ろしてから、まずは水を飲む。幾らか喉が潤って、椀を下ろせば……スッと徳利の注ぎ口を向けられる。
対して、与一は何時ものように、無言のままおちょこを向ける。
そうすれば、すっかり慣れた手付きの沖那は徳利を傾け……視線で促されるがまま、与一は注いでもらった酒を、含むようにして柔らかく喉奥へと流し込む。
この際、与一は無言だ。世間話も、雑談も、一切振らない。
同時に、自分で自分のおちょこに酒を注いでいる沖那に対しても、何も言わない。無言のまま冷奴に手を伸ばし、無言のまま注がれる酒を胃袋へと流し込んでゆく。
傍からみれば、何とも気まずい一時だと首を横に振るところだろう。実際、外からはそうとしか見えない光景であった。
だが……第三者からは分からない事だが、少なくとも与一の方は心から気を休め、肩の力を抜く事が出来ていた。
何故なら、与一は自覚しているぐらいに女に対して口下手であり……それを沖那が察してくれていることを、誰よりも当の与一が知っているからだった。
「沖那」
「──はい、なんですか?」
何せ、この用意された冷奴自体が、与一を気遣ってのモノなのだ。
手でも口でも、動かしている間は考え事(何を話せば良いのか)に集中出来る。
ただ、待たせると与一自身が変に気を使ってしまうので、これ自体は名目の意味合いが強いのだ。
「……ありがとう」
そうして、たっぷり間を置いてから与一がようやく絞り出せた言葉は……そんなものであった
もう少し、気の利いた言葉は思いつけないのか……毎度、沖那に言葉を掛けるたびに思う事だ。
洒落な言葉の一つも言えないんじゃあ、そりゃあ相手にされないよなあ……そう、与一は瞬間的に思う。
「……うふふ、どう致しまして」
でも、それでも……沖那は喜んでくれている。
己と顔を合わせたその時から、ずーっと満面の笑みを浮かべている。頬をほんのり赤らめ、どことなく落ち着かない様子で……嬉しそうに、笑ってくれている。
その度に、与一は跳び上がらんばかりに忙しなくなってしまう自分が、よく分からなかった。
でも、分からないなりに、己は今、とても幸せだと思った。
己を分かってくれていると思い知らされる……そんな幸せを噛み締めるのは、例えば、冷奴を食べ終えてからの、この一時がそうだろう。
(沖那……)
ちらりと、横目で視線を向ける。
酒も満足し、手持無沙汰となった与一を他所に、沖那はお猪口に満たした酒で唇を少しずつ湿らせている。
……それはけして、飲みたいのを我慢しているのでもなければ、飲めないのを無理に飲もうとしているわけでもない。
沖那は、与一が頭の中に浮かべている様々な言葉を整理し、声に出すまで待ってくれているのだ。
舐めるように少しずつ酒を含むのは、待たせていると思わせない為なのである。
でもそれは……与一の機嫌を損ねない為に行うのではない。
「……どうしましたか?」
不意に動いた沖那の視線が、かち合う。
思わず目を逸らしたが、沖那はにやにやと意地の悪い笑みを……それでも可愛いと思ってしまう己に苦笑しつつ、与一は理由を気恥ずかしくない程度に理由を吐露した。
──お前が前に、俺に掛けてくれた言葉を思い出していただけだ、と。
当然、それだけではさすがの沖那にも分からない。
だからこそ、沖那は不思議そうに小首を傾げて、いったいそれはどんな言葉なのかと問い掛けてきた。
……さすがに、それを言えるだけの素直さは、与一には無かった。
沖那も、そこまで無理強いするつもりはないし、察したのだろう。
クイッとお猪口を傾けたて軽く唇を舐めたかと思えば、ソレと共に食器を片づけ……手慣れた様子で台を片付け、布団を敷く。
これからの予感と共に、沖那から手招きをされる。
静かに、かつ、明け透けな誘いを見る度、ここが『吉原』ではないことを改めて思い出す。
何せ……『吉原』は豪奢な外観とは裏腹に、客に対してかなり規律を厳しく求めるからだ。
床入り(男女の同衾)をする前に、『若い者』(吉原に努める男の奉公人の事)や案内人の者から翌朝の起床時間や注意事項を伝え、部屋を出た後とて、けして静かになるわけではない。
他の部屋からの様々な意味合いでの囁き声もすれば、先に布団に入って待ちぼうけになっている男の焦れた気配もする。
部屋の外にだって、行灯の火を絶やさないように巡回している『不寝番』(ねずのばん)が定期的に巡回しており、時折、規律を破った者がいないかを遣手と呼ばれる者が監視にも来る。
それに比べて……手を引かれ、そっと布団に寝かされた与一は……己の身体へもたれ掛るように腰を下ろす沖那の姿に、目を細める。
そうして、ゆるやかに身体を預けてきた沖那の、その小さな唇が、優しく首筋に口づけた──かと思ったら。
「──で、先ほどは何を思い出していたのですか?」
誤魔化されてなど、いませんよ……と、言いたげな調子で囁かれてしまった。
耳元のくすぐったさなど気にもならない直球な問い掛けに……思わず、与一はびくりと身体を震わせた。
……。
……。
…………ああ、いや、違う。
そうだな、そうだった、あれで誤魔化されてくれる沖那ではなかった、やはり、諦めてなどいなかった。
チラリと沖那を見やった与一は、僅かばかりに吊り上っている沖那の頬を突いてやった。
沖那が与一の事を分かっているのと同じく、与一もまた、沖那の内心をある程度は察する事が出来た。
故に与一は、沖那が本当は分かっているということをすぐに理解した。だからこそ、与一はこれで話はお終いだと言わんばかりに己が上になろうとした──のに。
するりと、腕がぐるりと回される感触。
ハッと気づいた時にはもう、当の沖那によって先手を取られ……抱え込むようにして己が抱き締められていて……与一に逃げ場はなかった。
江戸でもそうは見掛けない見事な谷間がくにゃりと歪み、己の胸板を優しく押し潰している。その事実に、与一は……ごくりと、唾を呑み込む。
──魔性を思わせる、色気だと思った。
というより、魔性そのものだ。着物から飛び出さんばかりに押し上げている膨らみから立ち昇る、香とは異なる甘い匂い……沖那の、匂い。
……期待を込めた、沖那の視線が頬を擽る。
堪らず視線を逸らせば、「私に、隠し事でも?」唇で顎先を啄まられ……これはもう誤魔化せないと判断した与一は、沖那から視線を逸らしたまま……諦めて、口にした。
「……前に、『無口じゃなくて、良い言葉を探しているから咄嗟に言葉が出ないだけ。貴方は、とてもお優しい方だ。私は、そんな貴方が、私の為に言葉を考えてくれているのを見るのが好きだ』と言ってくれただろう」
「……まあ、そんなこと?」
思っていたのとは、違っていたのだろう。
不思議そうに小首を傾げる沖那を前に、「そんなことが、あっしには嬉しかった」与一は……そこで初めて、沖那へと顔を向けた。
「沖那……お前さんの借金はいくらなんだ?」
借金……その言葉に、沖那は驚いた様子で身体を起こした。
「まさか……見受けを成さってくださる御つもりで?」
目を瞬かせる沖那に「いや、そのつもりは……よく聞いてくれ」、与一は落ち着いた様子で……沖那の手を握った。
「沖那……あっしは、あんたに救われた。あんたに出会えた事で、あっしは初めて、生まれて良かったと思えた。初めて、女の為にこの命を掛けてやりたいと思えた」
「…………」
「でも、あっしはもう齢だ。所詮は、老いらくの恋。若ぇあんたを娶れはしないし、しちゃならねえ。だから、あんたには……これだけを受け取ってほしいんだ」
その言葉と共に……与一は、残っている手で己の着物の……裏地に縫い付けていた井箟(いのう:ポケットの事)から取り出したのは……小さな巾着袋であった。
それが、左右に一つずつ。「……開けても?」尋ねられて頷いた与一を見やった沖那は、固く締められた袋を開けて……ギョッと目を見開いた。
「合わせて、20両(金の小判20枚)ある。あっしの全財産だ」
「こんな……受け取れません」
「いや、受け取ってほしい。それを使って、幸せになっておくんなせぇ」
まっすぐ見上げてくる、与一の瞳。
そこに宿っている光を見て、本気である事を悟った沖那は……だからこそ、与一の願いに首を横に振った。
「与一さん、貴方と一緒ならば、その金子は受け取りましょう。それ以外ならば、この金はそこらの川に投げ捨てます」
「沖那……あっしを困らせねえでくんな」
「困らせます、うんと、困らせます。老いらくの恋と勝手に決めつけ、終わらせようとする与一さんなど、困らせて然るべきなのですから」
そう、与一の勝手な願いなど、文字通り、願い下げであった。
少なくとも、沖那にとっては……侮辱以外の何物でもなかった。
「子を産めぬ私に今更、与一さん以外の殿方を見付けろと……惚れた貴方に背を向けて、不誠実な行いをせよと……与一さんは仰るのですか?」
「いや、そういうわけじゃあ……」
「では、どういうわけだと? 私は、貴方が良いのです。貴方以外の誰かに嫁ぐつもりはありませんし、したいとも思っておりません」
「……沖那」
「もし、それでも離れようとするのならば……私は己の舌を噛み切り、その後、貴方を祟って……共に地獄へと連れていくつもりです」
「沖那、あっしは、ただ、お前さんの幸せを……」
「言い訳は聞きません。私を見受けするか、私と死ぬか、どちらかを選びなさい……それ以外は、何も私には届きません」
──絶対に、逃がさない。
そう言わんばかりに、沖那は与一へと圧し掛かる。だが、今度の圧力は、先ほどの比ではない。
ともすれば、男である与一ですら痛みを覚える程に強く、強く、強く──と。
がぶり、と。
首筋を噛まれる痛みに、与一は顔をしかめた。
血が、出ているのが分かった。
だが、沖那は一向に止める気配はなく、痛みも続いている。
──貴方と一緒に、お店をやりましょう。与一様は蕎麦が御上手と前にお聞きしましたから。
──私たちの『夢屋』から、お店を出しましょう。子を産めぬ代わりに、貴方の味を継いで行きます。
──私は、貴方と共に生きたいのです。二人で力を合わせて、残された命を一緒に使って行きましょう。
がぶがぶ、と。
不実を働こうとした己を罰するかのように繰り返される痛みの最中、懇願するかのように沖那は囁き続ける。
いや……するかのように、ではない。
それは正しく、懇願であった。
女から……金ではなく、己自身を懇願されるのなんて……始めての事であった。
「……そこまで」
それほどに……それほどまでに、己を好いてくれているのだろうか。
そう思った瞬間……気付けば、涙を零している己を、与一は自覚する。
生まれて初めて、何の打算もなく女に愛されるという感覚に……涙を流した。
だからこそ──そうだからこそ、与一は、沖那に己の全てを与えたかった。
何故なら、与一にとって、己の全てとは金子であった。
酒はあまり呑まず、博打はしないし煙草も呑まない。
女を買う以外では使う事もなく、さりとて、そこまで頻繁に通うわけもない。
若い頃は急かされるように通いはしたが、長続きはしなかった。
『吉原』の密偵として働くから、一番金が掛かる女代は『吉原』が立て替えてくれる。
だから、気付けば金子は貯まるばかりで……でも、それをどう使えば良いのかが与一には分からなかった。
だからこそ──だからこそ、己に出来るのはこれしかないと、与一は思っていた。
けれども、沖那はいらないと言った。財などいらない、と。
代わりに欲したのは……与一自身。
町を歩けば誰もが振り返るであろう美貌の女が、20両という大金よりも求めたのは……与一という一人の男であった。
……嬉しかった。涙が、止められない程に。
何と……何と嬉しい事なのか。女に愛されるという喜びが……無条件で求められるという、この喜び。
この喜びに比べたら……金20両など、何の価値もない。
世の男たちが『吉原』や『岡場所』に通い詰める理由が分かった気がした。少なくとも、与一はその理由を理解出来た。
たとえ、金子を介したとしても。
たとえ、それが仮初のモノであるとしても。
そうせずにはいられないし、その為ならば身の破滅すら度外視してしまう。
この甘美な幸せを体感してしまった今だからこそ……与一は、初めて彼らの気持ちが分かる気がした。
そして……その瞬間……与一は気付いた。
沖那に絆されてから今日まで、胸中より溢れ出ようとしているナニカの正体を……理解してしまった。
「──沖那っ!」
「あっ、きゃあ!?」
そうなればもう……与一は己を止められなかった。己に縋りつく沖那の背に腕を回し、ぐるりと反転する。
あっという間に組み伏せられて目を白黒させる沖那を他所に、与一は……傍目にも分かるぐらいにもたつきながらも、必死になって衣服を脱ぎ捨て……そのまま、強引に沖那の着物も捲り上げる。
「──ずっと、一緒だ。あっしの命が尽きるまで、お前と一緒だ!」
「──ええ、一緒! ずっと、一緒よ、あなた!」
「もう離さねえ! お前は、あっしの妻だ。ずっと、あっしの傍を離れねえでくんなよ!」
「離れません、ずっと一緒です、ずっと、ずっと──来て、早く来て!」
露わになった、生まれたての秘所。手入れが行き届いたそこは僅かに濡れていたが、これから始まる行為を悟ったのか、こぷりと蜜を噴きだしていて──そこに、与一は…………。
……。
……
……。
……。
…………長屋全体に響き渡る、私の嬌声。いや、正確には、私たちの嬌声。
今宵もまた、そこでは私たちの嬌声が響き渡る。
愛しき彼らに貫かれて、愛しき彼らの腕の中で、愛しき彼らを受け止める。その、悦楽に身も心も浸す、幸福。
そんな幸福が、ここでは毎日繰り返されている。
そして、たった今上がった幸福は……『夢屋』が普通の長屋であり、江戸の至る所に有る普通の『岡場所』であったら……苦情の一つが入ってもおかしくは無いぐらいの、艶やかな女の雄叫びであった。
だが、しかし。苦情など、夢屋に入るわけがない。
何故なら、外に漏れないように魔法が掛かっているから。
だから、それを耳に出来るのは、私たちと、私を相手にしている愛しき彼ら、ただ一人だけ。
「──うっ、くぅ……与一のやつめ、これだけ情熱的にされれば……胎が堪らぬではないか……」
そして、私たちを産み落とした、大本である私……それだけであった。
私を通して伝わってくる愛しき彼らの律動に堪らず、腰をくねらせてしまう。骨盤や子宮ごと内臓を押し上げてくる感触に、思わず唇の端から涎が垂れてしまう。
既に、床に敷いた座布団は私が垂れ流した蜜でべとべとだ。
一部は空気と混ざり合って白く変わり、静まり返った我が屋敷の香りが、淫靡なものへと移り変わってゆく。
……私たちは、ある意味では一心同体だ。
感覚だけでなく意識そのものも共有され、誰か一人が感じている感覚を疑似的に体感する事が出来る。
そこに、距離は関係……いや、さすがに数千kmも離れれば弱くはなるが、たかだ山を一つ二つ、三つや四つ離れた程度では、何の障害にもならない。
故に、私は今……与一に抱かれているという私の感覚をほぼ同時に、疑似体験する事が出来る。
これがまた、言葉には言い表し難い愉悦である。
何せ、大勢の私が、大勢の彼らに抱かれているのだ。
それも、この感覚を受けるのは私だけではなく、夢屋で抱かれている私たちにも共有される。
つまり、私たちは、己を抱き締める彼の腕の中で悶えながらも、私たちを抱いている彼らの腕の中で悶えてもいるのだ。
この幸福ときたら、一度味わったら病み付きだ。
おかげで……屋敷にこもりっぱなしの私は大変だ。
全体の指揮を取る代表者として、屋敷にて当面の方針や資金の計算、警らの者たちの動向を監視し、点在する夢屋から送られてくる情報を取りまとめ、それを全員に送っているが……正直、切なくて堪らない。
まあ……焦らされているようで、これはこれで良い部分はあるのだけれども。
さすがに今は慣れたが……それでも、実際に触れてはいない彼らを想って、股をまさぐってしまいそうに……おかげで、夜になると手が止まってしまう。
ああ、堪らない、切ない、もっとして欲しい……という感想しか私にはない。
伝わってくる彼の匂いや体温や感触に、我慢出来ず虚空へと舌を伸ばすしか出来なかった……と。
「──女王よ、会議が進まぬから、夢屋で活動している私たちとの回線を切れ。でなければ、また夜が明けてしまうぞ」
快感に悶える私に女王と呼んで声を掛けて来たのは……何処となく私の面影を持つ、長身長髪の見事なまでの美女な『私』であった。
いや、『私』だけではない。
注意されてようやく顔を上げた私の目に留まったのは、何処となく私の面影を宿しつつも、私とは幾らか異なる顔立ちをした、美女や美少女たちであった。
──彼女たちは、私が産み落とした私たちの中でも、最も古株に当たる『私』である。
彼女たちは『私』であるのに、私とは見た目が異なっている。
ある者は私よりも幼い顔立ちをしていて、ある物は私よりも肉付きが良く、ある者は私よりも背が高く、ある者は……同じのは、一人としていない。
その理由は……生まれてからまだそこまで経ってはいない(100年も生きていない)が、肉体が別にあるせいだろう。
何時の頃からかは、分からない。繋がってはいても物理的に『分かれた私』は、独自の成長を遂げていた。
言い換えれば、彼女たち一人ひとりに……個性とも呼べる変化が起こったのである。
まず、最初に起こった変化は……口調からだった。
その次に起こったのは微々たるものだが性格の変化だ。
何だか私に比べて『私たち』はずいぶんと感情の機微が激しくなっているような……と思い始めた頃にはもう、見た目にまで変化が現れていた。
見た目が変われば、性格の変化は更に劇的な変化を加速する。『長身長髪の私』なんて、その典型というか、最たる例だ。
私が変化に気付いた時にはもう、彼女は私よりも規律を重んじて、論理的(言い換えれば、計画的)な考えを前面に出すようになり、私を含めた私たちの参謀的な立ち位置に就いていた。
よくもまあ、元は私だというのに、ここまで変わった者だと最初の頃は……いや、今でも思う時が正直あるが、感心したものだ。
何せ、『長身長髪の私』は、私を含めて暴走しがちな私たちの中で唯一、比較的に理性的な(あるいは、常識的な)行動を取る事が出来る唯一の『私』だ。
澄ました顔をしつつも回線を繋げてマインドセックスを楽しみまくっている私たちの中では、ある意味異質の存在である。
まあ、その異質に助けられた面は多々あるから、ある意味では私以上に誰もが一目置いているのだけれども。
ちなみに……私を『女王』という立ち位置にし、全体の方針を定める先導者の役割に就くよう提言したのも、その彼女だ。
──彼女曰く、全てが同列の組織(あるいは、群れ)は必ず内部崩壊を起こす。何故なら、全てが同列であるということは、全てに同等の決定権を与えられているということ。
自分自身にすら矛盾を発生させてしまう人間の要素を持つ私たちにとって、それはいずれ、致命的な最悪を引き起こしかねない。
だから、最終的な決定権を持つ者を作る。
致命的な崩壊を防ぐ為に、『王(または、長)』を決めて、最低限の序列を作る必要がある……ということらしい。
最初は、彼女の言わんとしていることはよく分からなかった。何せ、見た目や性格の違いが出ているとはいえ、『私たち』は私だ。
どれだけ数が増えようとも、私が増えるだけ。他の組織とは違い、私を含めて私たちの意思疎通は常に行われている。
もちろん、喧嘩が起きないというわけではない。というか、喧嘩はしょっちゅう起きていた。
何せ、私だから……しかし、自分しかいない場所で内部崩壊も糞も無いだろう。所詮は喧嘩だし、そもそも、私たちしか……と、思っていたのだが。
──甘い。自分しかいないということは、言い換えれば、自分の心一つで瞬時に崩壊する状態も同じ。『順調』と『壊滅』のボタンが隣同士に設置されているようなものだ。
……と、いった具合に、即答の駄目出しをされた。
これにはさすがに、私とて怒りは覚えた。だが、私たちの中でも唯一と言ってもいい理性的な彼女の言葉だ。
そんな彼女が、断言するぐらいだ。渋々ではあったが、私を頂点とした序列を作り、彼女の言う通りにしてみた。
……すると、何事もスムーズに事が運ぶようになったのだ。
本当に、驚くぐらいに。それまで2日に一度は私たちの間で起こっていた争いが無くなり、ちまちまとしか進まなかった私たちの動きが、目に見えて良くなったのだ。
もうそれだけで、彼女の性格というか、有能性が読み取れるだろう。
だから、今では誰もが彼女の提案に意を唱えない。『女王』という立場に就いている私も、基本的には彼女の出した提案には賛成(これまた、否定する材料も無い)している……というわけだ。
……次いでに言えば、彼女の性格から、『長身長髪の私』は『委員長』とあだ名が付いていて、今もなお変わらず彼女はその理性を惜しみなく活用して……あっ、これは。
「──おお、梅班(うめはん:班分けされた私たちの内の、一つ)の私が、近所の男子に手解きを始めようとしておるな」
回線を切ろうと(それでも、最低限は繋げておく)した瞬間──江戸に滞在している『私』の一人が、勇気を出して夜這いに来た男子を床に迎え入れている光景と感覚が共有されてきた。
──ざわり、と。
堪らずといった調子で呟いた私の言葉に、私たちが一斉に反応した。と、同時に、物凄い勢いで回線が繋げられてゆく……違いがあるとはいえ、大本は私だ……初物は大好物なのだ。
「──こりゃまた格別じゃのう。未熟な男の肌の柔らかさと来たら……はあ、美味いのじゃ」
集まっている中でも2番目に初物(要は、ショタコン)狂いの私(彼女)が、頬を緩める。
彼女の外見は私よりも幼いが、肌も手足も柔らかく……どうにもアンバランスな印象を周囲に与える『私』の一人だ。
ちなみに彼女は、私たちの間では、通称『童婆(わらべばばあ)』と呼ばれている。
理由としては、婆のような雰囲気を醸し出しつつ見た目は幼い童ということからで、『見た目は童、心は婆』の略称である。
そんな彼女は、うっとりと目を細めて……ちろちろと、伸ばした舌で虚空を舐めている。
いや、よく見れば彼女だけではない。
私を含めて『私たち』がみな、舌を出しては虚空を舐め取り、鼻を鳴らしては若木の香りに目を細めている。中には、自慰を始める者すら現れ始めた。
「毛も生えていない、むき身の卵のような肌──ああ、何ともちもちとした舌触り──」
それは、すっかり見慣れた私たちの実況……が、しかし。
童婆が感想を零し始めた……その瞬間──めきゃり、と。
何かが壊れる音と共に、童婆が言葉を発せたのは、そこまでであった。
何故なら、嬉しそうに感想を呟く童婆の言葉を黙らせたのは、床を突き破った拳の打突音で……それを成した委員長は、憤怒を通り越したナニカを顔に浮かべていた。
「──梅班!? その子、半吉(はんきち)ですね!? 許せん、それは私が10年前から育てていた愛し子なんですよ!?」
「え、10年前って何それ、初耳なんだけど? ていうかあんた、また回線切って勝手な事を──」
「我が子にお乳を与える様を触れ回るような女になった覚えはありません! 捨てられていた坊やを引き取った一人の母親として、当然の事をしたまでです!」
「いや、お乳ってまさかあんた、この前話していた『自分のお乳で育てた我が子の初物を食いたい』っての、冗談じゃなか──」
「──んがああああ!!!??? 私の半吉に触るな! その子は私の母乳で育てた私の子だぞ! 母親の私がお世話するのは自然の摂理でしょうが!?」
ヒートアップ。いや、それはもはやヒートというより爆発であった。
私たち全員が思わず身を引く……のを他所に、どんどん口調が荒く、鼻息も荒く、目が血走り始めた……かと思ったら。
「ちょいと仕事が立て込んでいて会いに行けない間に……許せん! たとえ相手が私だとしても、許せん! 半吉の初物は私のモノだ!!」
それだけを言い残すと、次の瞬間にはその場から消え──いや、ワープしていた。
……。
……。
…………後には、何とも言い表し難い空気と、すっかり冷めてしまった私たちの性欲と……気配に気付いて慌てて逃げ出す泥棒猫が如き『私』と、そのままの流れで始めようとしている『委員長』の回線越しの……いや、止めよう。
「……初物は大好物だが、アイツの初物狂いは相変わらず突き抜けているわね」
「50歳を超えた童貞も格別の珍味だって言って飛び出して行くやつだし……もしかして、江戸の幾らかの初物はあの子一人で食べちゃっているんじゃあ……」
「妄想はするけど、本気で自分の母乳だけで育てたの、あいつ? さすがに、母乳だけでは彼らの身体が駄目になるんじゃないの」
「可能性としては、一日一回か二回、おやつと称して授乳させていた……てのが高いと思う。いや、それでも相当な執念だけど」
「……でも、浪漫が有りますね」
「うむ、我が母乳で男の子を一人前の男に育て上げる……うむ、血が滾ってきてしかたがないな」
とりあえず、怖い物見たさのような調子で、ぼそぼそと囁き合う私たち……いや、彼女たちを見て。
「……お前たち、余計な雑談をしていないで、さっさと会議を始めるぞ」
私は……自分を棚に上げて、会議の再開をするのであった。
言っておきますが、作中の彼女たちはけして男たちの味方というわけではありません
味方っぽい描写はありますけど、よくよく見ると全然対等扱いしてませんからね、裏から手をまわして宝箱の中に入れて永遠に管理したいっていうやべータイプのアレですからね