転生TSサキュバスは独占欲が強い   作:葛城

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将棋で言えば、王手の状態です

なお、長考していると自動的に詰みに移行します


インターミッション: それは誰にとっての開幕であり、閉幕なのか

 インターミッション:それは誰に取っての開幕であり、閉幕なのか。

 

 

 

 

 ──かねてより危惧していた最悪は、おおよその場合において、そうなることはない。だが、それは必ずしも……というわけでもない。

 

 

 

 どれだけ荒唐無稽な話であろうと、どれだけ信じ難い話であろうと、どれだけ……目を背けた所で……起これば最後、それは紛れもない現実でしかない。

 

 そう、例えそれが、泣き叫びたくなるぐらいに受け入れがたい話でも。

 

 

 ……とある少年は。

 

 

 とある町の、とある家で生まれたその少年は、物心が付いた頃から愛された記憶が無い。その少年は……それまで、よく耐えていた。

 

 父にも母にも似ていない少年は、よほどの場合を除いて、『居ない者』として扱われてもなお、耐えていた。

 

 

 いったいどうして……それは、少年が『望まれずに生まれた子供』であったからだ。

 

 

 望まれていない存在であることに気付いたキッカケが何なのか、それは少年自身にも分からない。

 

 ただ、強いて理由を挙げるとするなら、反抗すれば即座に食事が抜かれて家から叩き出されるという環境だろうか。

 

 

 

 ──幼いながらに、苛酷な環境に身を置いていた少年は、死に対して恐怖を覚えていた。

 

 

 

 だから、少年は黙って耐え続ける事を選んだ。幼いからこそ、純粋に死ぬことを恐れ、生きる事を望んでいた。

 

 

 

 ……何故、少年は望まれていないのか。

 

 

 

 それは、少年の父にとって……少年は、愛する妻の『裏切りの証』であったからだ。それ故に、息をしているだけでも、ただそこにいるだけでも虫唾が走る程に、父は少年を嫌っていた。

 

 

 ……少年を見ると、思い出してしまうのだ。

 

 

 まだ父が年若い学生であった青少年の頃。幼馴染である彼女に好かれようと色々な事に手を出し、口説いて口説いて口説き落とし、ようやく幼馴染から恋人になった時の事を。

 

 

 ……幼馴染は、贔屓目を抜きにしても、美しい女性であった。

 

 

 数多の男たちが、明かりに集まる蛾のように飛び回った。周囲から見れば、釣り合ってはいないと揶揄されるぐらいに、容姿の開きはあった。

 

 

 でも、彼は諦めなかった。

 

 

 そんな彼の熱意に絆され、『そこまで愛してくれるなら』と根負けした様子で……でも、彼女を知る女生徒からは『彼女もあんたに惚れたみたいよ』と言われたりもしていた。

 

 

 ……恋人となった幼馴染とは、喧嘩もした。

 

 

 だが、青少年から青年へと成った彼は、けして恋人の立場を降りることはしなかった。

 

 浮気さえしていなければ自分から離れる理由が無いと、本気で惚れぬいていたからだ。誰よりも、愛していたからだ。

 

 そうして、時は流れ……結婚という契約を経て夫と妻という立場を経て、青年は父となり、幼馴染は妻となった。

 

 

 夫の立場に成った彼は、幸せであった。

 

 

 子宝にも恵まれ、仕事も順調。自分も妻も病気に苛まれることもなく、すくすくと育ってゆく子供たちの姿と、子供をあやしている妻の姿を見るのが……そう、彼は本気で思っていた。

 

 だが……その幸せが……相思相愛の果てに形作られていたモノだと思っていた彼の幸せは……打算と妥協の結果でしかないことを知ったのは、妻が4人目の子を産んだ時であった。

 

 

 

 ──率直に言えば、血が繋がっていなかった。

 

 彼にも妻にも明らかに似ておらず……彼の知り合いである、とある男の面影を強く残した……そんな子が産まれたのが終焉への始まりであった。

 

 明らかに、その前に生まれ育っている二人とは違っていたのだ。

 

 それは関係性の薄い第三者ほど、一目で分かるぐらいの違い。偶然が引き起こした他人の空似では到底誤魔化せない……不貞の証であった。

 

 

 ……それからの日々は、正しく地獄としか言い表しようがないモノであった。

 

 

 当初、妻……いや、彼女は否定し誤魔化そうとした。

 

 何故なら、彼は彼女の両親とも仲が良く、時折二人で酒を飲み交わすぐらいに気心が知れた相手であり、彼が如何に努力を重ねてきたのかを両親ともが知っているからだ。

 

 だからこそ、彼女は必死であった。

 

 けれども、その誤魔化しもすぐに露呈した。

 

 何故なら、事情を知らない第三者……すなわち、不貞を働いている姿を……仲睦まじく間男と連れ添って歩く姿を目撃した人がいたからで……それが、生まれたばかりの『望まれぬ子』の運命を決定づける事となった。

 

 ──だが……それでもなお、彼は彼女を突き放すことが出来なかった。

 

 それは、彼が、裏切って騙し続けた妻を未だに愛していたからだ。だが、同時に彼は……どうしようもない憤りに心が壊れそうになっていた。

 

 

 彼は、知りたかった。

 

 

 どうして裏切ったのか。

 

 どうして、自分を騙し続けたのかと。

 

 

 けれども、妻は何も肝心の事を答えなかった。

 

 ぐだぐだと意味の無い言い訳を重ねただけでなく、自分は襲われて被害者だと言い放ち罪から逃れようとした。

 

 当然、そんなのが通じるわけもなく……彼の心に残ったのは、どうしようもない敗北感だけであった。

 

 彼は、自分が魅力的な見た目ではないことは自覚していた。

 

 

 だからこそ、努力をした。

 

 

 精一杯、彼女の愛を得る為に努力をし、彼女の両親に認められ、結婚を果たし、その後も泣き言一つ零さず、家族の為に頑張って来た。

 

 それが……結局のところは、彼女にとっては取るに足らない程度の事でしかなかったのだと、見せつけられた気分であった。

 

 時間を重ねて心を通じ合わせたと思っていたのが、所詮は一方的なものでしかなく、たった一夜で覆ってしまう程度の薄っぺらいものであったのだと。

 

 所詮は自分を夫に選んだのも妥協でしかなく、他に魅力的な者が声を掛けたらあっさり身体を開くのだと。

 

 どれだけ愛情を傾けても、己は彼女にとってはその程度の存在でしかないのだと。

 

 

 ……そう、愛した彼女の手で思い知らされた気分であった。

 

 

 もちろん、彼女は否定した。愛を語り、如何に夫を愛しているかを語り続けた。

 

 だが、言い訳を重ね続ける彼女の姿が、更に彼を惨めな気分にさせた。何もかもが、嘘に見えて堪らなかった。

 

 ……騒動は夫婦の問題から家族間の問題へと発展し……そのまま不貞の相手である間男とその家族を引きずり込み、泥沼の事態に陥った……後。

 

 

 結局、二人は別れなかった。

 

 

 それはまだまだ手の掛かる、己に似た我が子が二人いて、父親と母親の双方が必要だろうという、彼の妥協の結果であった。

 

 そうして、落とし所を見付け、気持ちに少しばかりの余裕が生まれた頃……問題となったのは、『不貞の証』でもある、生まれたばかりの『望まれぬ子』の事であった。

 

 

 ──はっきり言えば、彼は血の繋がらぬ糞餓鬼なんぞ育てる気は毛頭無かった。

 

 

 彼の両親も、彼女の両親も、ソレを強制する面の皮の厚さは無かった。彼が受けた心の傷の深さを思えば、『綺麗事』を押し付ける事なんて出来るわけもなかったからだ。

 

 だが……互いの両親が育てようと思ったところで、不幸にもタイミングが悪かった。

 

 彼の両親は高齢で足を悪くしており、日常生活を営む事は出来ても赤子を育てるのが難しく、何か有ったらどうにも出来ない。

 

 彼女の両親は比較的年若いが、母親の方が大病を患っていて、仕事と看病の為に、父親一人では、とてもではないが面倒など出来ない。

 

 親戚や兄妹筋を頼ろうにも、それは難しいだろう。

 

 肝心の親(彼とは血の繋がりは無いが)が生きているのに他所に預けようとする辺り、確実に理由を尋ねられる。下手に嘘を付けば、露見した際の影響は計り知れないだろう。

 

 かといって、事実をありのままに語るわけにもいかない。

 

 よほどの義理が有るならまだしも、『不貞の子』だと知って育てようと思う者はほとんどいないだろう。

 

 では、孤児院や寺に……なんてのも無理だ。

 

 何処も受け入れるのは原則『親無し』であること。育てたくないという感情論を許容出来るだけの余裕は、どちらにもなかった。

 

 

 それ故に……結局は、彼と彼女が面倒を見る事となった。

 

 

 だが、それはあくまで世間体を悪くしないという程度の認識でしかなく……その後における赤子の暮らしは、誰もが絶句する程に酷い有様であった。

 

 彼は……一度として、赤子に愛情を向けることはおろか、笑顔一つ向けることはしなかった。

 

 いや、それどころか、名前すら付けることもせず、存在しないモノとして扱った。

 

 

 ──死ななければ、それで良い。

 

 

 彼にとって、その赤子の認識なんぞ、その程度のことであった。

 

 そして、それは当然ながら……針のむしろのような状況に陥った彼女もまた、同様であった。

 

 彼女には、逃げる選択肢など無かった。

 

 生活をする上でも、両親たちからの冷たい眼差しから逃れる上でも、彼女は夫に合わせ、自ら産んだ不貞の証を邪険に扱う事を選んだ。

 

 

 ……彼女は、自らの犯した行いの結果を受け入れる事が出来なかったのだろう。

 

 

 周囲が気付いた頃にはもう、彼女は『望まれぬ子』に対して強い憎しみの目を向けるようになっていた。

 

 それは時に、身体に痣が出来るばかりが傷痕が残るほどの虐待が行われるぐらいであった。

 

 

 ──お前さえ、お前さえ生まれて来なければ。

 

 ──お前さえいなければ、誰も悲しまなかったのに。

 

 

 その呟きを、いったい誰が耳にしたのか。

 

 それは、最後まで彼女自身には分からず……いや、分かろうとしない事であった。

 

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………そうして、辛うじて死なない程度に(見方を変えれば、何時死んでも誰も気にしない)は手を掛けられて育てられた子は……当然の帰結ながら、健やかな成長はしなかった。

 

 

 

 ……考えるまでもない。

 

 

 

 声を上げれば舌打ちをされるか平手を叩き込まれ、不用意に視線が合えば嫌悪感のこもった眼差しと共に蹴り飛ばされる。

 

 時折、不憫に思った祖父母が差し入れをしてはくれるが、見つかれば即没収の後に折檻だ。

 

 むしろ、死ななかっただけ御の字と言えるぐらいの日常。

 

 唯一の味方になってくれる可能性のあった母は、自らが許されたいが為に、自ら進んで暴力を振るってくる始末。

 

 結果、その子は……周囲から見れば何時も薄汚れていて痩せ細り、身体中に青痣を作った、関わり合いたくない子として見られていた。

 

 その子は……日々を過ごして行く中で、言葉には分からずとも、心で理解出来てしまっていた。『ああ、自分はいらない子なのだ』ということを。

 

 

 でも、その子は声を上げなかった。何故なら、死にたくなかったから。

 

 

 食べる物が無くなって飢えに苦しんでいても、文句一つ言わなかった。

 

 着る物がどんどん粗末な物になっていっても、文句一つ言わなかった。

 

 

 何故なら、死にたくなかったから。

 

 

 文句を言えば、やつらは喜々とした様子で、仕置きと称して山奥にでも捨て去りに行くだろう……それを、その子は理解していたからだ。

 

 

 だから……その子は、血の繋がらない父が戦死したと聞いた時、欠片も悲しくなかった。

 

 

 近所の人たちとかいうやつらが、焼夷弾に焼かれて火達磨になった時も。

 

 血の繋がらない兄が、紙切れ一枚と遺品と遺髪となって帰ってきた時も。

 

 空から落とされた爆弾の直撃を受けた姉の身体が、二つに分かれた時も。

 

 

 欠片も悲しくなかったし、精神を病んでおかしくなり始めた母を見ても、欠片の感情の揺らぎすらしなかった。

 

 

 ろくに物が食えず、痩せ細った末に息を引き取った妹と弟を見た時も。

 

 相次いで子供が亡くなって一線を越えた母が、入水自殺をした時も。

 

 たらい回しの果てに寺へと身を寄せたが、日夜続くうっ憤晴らしの暴力に耐えかねて逃げ出し、乞食となって街中をさ迷っている時も。

 

 

 少年は文句一つ言わなかった。

 

 

 文句など、言えるわけもなかった。言うだけの余裕が少年には無かったし、言った所で何かが変わるわけがない事が骨身に浸みていたからだ。

 

 生きる為に、少年は何でもやった。殺人こそやってはいないものの、それに近しい事は思いつく限りを何でもやった。

 

 

 故に、少年は……いや、彼は忌み嫌われていた。

 

 

 まともに文字が書けず、常識も知らない。食える物は何でも食い、相手が幼子であろうが必要と判断すれば荷物を奪って逃げることもあった。

 

 他にも彼と同じ立場に陥った者もいたが、彼はけして助けなかった。いや、むしろ、利用して騙す事などを当たり前のように繰り返した。

 

 

 ──彼の過去を思えば、同情の余地はあるだろう。

 

 

 だが、何の関係もない第三者からすれば、そんなモノは何の意味もない。町一番の乱暴者と呼ばれるのは、必然の話であった。

 

 ……そして、町を追われた彼は都会へと向かい……空襲のどさくさに紛れて火事場泥棒をしようと考えた。

 

 だが、それは、奇しくも最も酷い爆撃が行われた日でもあり……終戦の放送を耳にしのは、蝉の声が激しく鳴り響くとある日の午後であった。

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 

 ……

 

 

 …………幸いにも、彼がいた場所は米国の爆撃機の航路からは外れていた。

 

 

 だが、それでもなお、彼の身に襲った恐怖は……とうてい、言葉で言い表せられるものではなかった。

 

 

 何故なら、彼は全てを自らの暴力でもって物事を解決してきたからだ。

 

 虫でも何でも、彼は生きる為に何でも食べた。何でも盗んで、何でも奪い取って、とにかく大きく強く成ることだけを考え、そう動いて来た。

 

 だが……そんな、密かに抱いていた自信は、頭上より雨のように降り注ぐ爆弾によって、粉々に砕かれてしまった。

 

 あんなのは、初めてであった。周囲全てが火の海の最中、何処に行けば助かるのかが分からず右往左往する人々。

 

 北に爆弾が落ちれば南に、火が南に広がれば東西に。悲鳴が四方八方から響き渡り、夜空を飛び交う爆音の数々。

 

 生きた心地など、欠片もしなかった。気づけば、彼は泥棒なんぞ考えるよりも前に、とにかく遠くへと逃げ出した。

 

 

 ……まさに、地獄が広がっていた。

 

 

 これが地獄だと、彼は心から震え上がり、生まれて初めて……神や仏に助けを願って、走り続けた。

 

 爆撃機が東西に飛んでいる。川に飛び込み井戸に飛び込み橋の下に飛び込んでやり過ごそうとする人たちの真上に落とされる、爆弾。

 

 火の手が、四方八方に点在する家屋を燃やしてゆく。大事なモノを抱えて逃げ出す者、着の身着のままで逃げ出す者……を貫く、銃弾。

 

 

 男も女も関係ない。大人も子供も関係ない。

 

 

 炎に鈍く照らされた戦闘機が彼の視界の端を掠めた直後……パパパンと耳元で何かが弾けたと同時に飛び散る、血飛沫。

 

 

 誰かが悲鳴を上げる。

 

 誰かが泣き叫んでいる。

 

 

 そこに、違いは無い。

 

 

 有るのは、狙いやすいか狙い難いか、目に留まったか留まっていないかの、二つに一つ。

 

 ハズレを引けば、待つのは死、ただそれだけ。

 

 

 銃声が鳴り響いた。彼は、死に物狂いで走った。

 

 

 斜め前方を走っていた女の頭が打ち抜かれ、落とした西瓜のように中身が弾けたのが見えた。

 

 腹の奥底に響く重低音。彼は、死に物狂いで走って、光と熱と衝撃に身体を押されて転ぶ。

 

 汗だくの頭をどうにか持ち上げて見やれば、肉片となった人間だったはずの物体が、突如出現した穴ぼこの傍を散らばっていた。

 

 

 ──ごえっ、と。

 

 

 考えるよりも前に、彼はこみ上げてくる嫌悪感と恐怖に吐いた。

 

 その瞬間、心底……そう、生まれて初めて、彼は圧倒的な暴力というものを叩き付けられ……心が砕けてしまった音を聞いた。

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………そのまま、何処をどう走って、何処をどうやって逃げたのか、彼は覚えていなかった。

 

 

 

 ようやく我に返った時、夜は明けていた。

 

 

 

 何故かは分からないが、何処からか持ってきていた仏像を抱き締めたまま、木々の隙間に息を潜めるようにして寝転がっていた。

 

 

 ……空襲は、終わったのだろうか。

 

 

 辺りを見回せば……何となくだが、見覚えがある。

 

 記憶が確かなら、都会に出る時に通った道だ……そう、そうだ、この仏像……頭にヒビが入っているコレには見覚えがあった。

 

 ならば……都会から、山間の方まで逃げ続け……力尽きて、ここで気を失っていたのだろうか? 

 

 可能性としては、それが一番高いように彼には思えた。

 

 その証拠に、目覚めた己の身体は、まるで鉛を括りつけたかのように重い。

 

 まあ、いくら体力と腕力が唯一の取り得であるとはいえ、この仏像がある場所までは、走って1時間以上はある。

 

 一晩寝たぐらいでは、早々に疲れなど取れる訳もない……で、だ。

 

 とりあえずは、仏像を傍に置いといて……自分のモノとは思えないぐらいに重い手足を動かして、木々の枝葉を押し分け外に出て……彼は、絶句する他なかった。

 

 

 ……全てが、焼け野原になっていた。

 

 

 少しばかり登った位置に居るから、彼にはそれがよく見えた。昨日までに有った全てが、そこにはもう無かった。

 

 有るのは元が何だったのかわからないぐらいにバラバラになった瓦礫の山と、陽炎のように立ち昇る昨夜の熱気。

 

 それが、遠目にも分かるぐらいにはっきりと彼の目にも見えた。

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………山を下りて、都会だったはずの場所へと彼が舞い戻ったのは、お日様が西の空へとかなり傾いた頃であった。

 

 辛うじて無事であった家屋……など、一つもない。丁寧に、それでいて綿密に。

 

 徹底的に壊されたのだということが一目で分かる有様の数々を横目に、彼は……行く当ても無いまま、昨日まで見覚えがあったはずの道を、とぼとぼと歩き続ける。

 

 

 ……道中、野ざらしになっている遺体がちらほら目に留まったが……もう、彼は慣れてしまっていた。

 

 

 とはいえ、さすがに子供の遺体を目にする時は嫌な気分になる。

 

 まるで、あの頃の自分が……一歩違っていたらそうなっていたかもしれない自分を、想像してしまうから。

 

 

 ──だから、彼はその遺体には何もしなかった。いや、遺体だけじゃない。

 

 

 辛うじてではあるが、虫の息ではあるが、生き長らえている者もいた。

 

 けれども、彼は何もしなかった。

 

 手を合わせることも、人を呼ぶこともせず……黙って、そいつが息を引き取るのを見つめた。

 

 それを、何度も繰り返す。どうして、そんなことをやっているのか……彼自身にも、よく分からなかった。

 

 只々、黙って命が終わるのを……死を迎える瞬間を、見つめる。

 

 ぷかぷかと川下に流されている亡骸を見やり、焼け爛れた肉の塊となっているモノを見やり、血反吐へとうずくまるようにして死んでいる者を見やり……只々、歩き続ける。

 

 

 ……一昼夜が経ったのに、未だ、火が燻っている。

 

 

 チラリと視線を向ければ、家屋が有ったと思われる場所の幾つかに、ブスブスと赤い光が見え隠れしているのが見える。

 

 特に思う事もなく、地面の土を投げ入れれば……しゅう、と熱が飛び散った。

 

 

(……なーんも、無くなっちまったな)

 

 

 そうして、ぼんやりとした頭で、少しばかり高台みたいになっている、土手の上に腰を下ろし……改めて、街並みを見やった。

 

 ……何もかもが瓦礫と灰になってしまった焼け跡。もう、かつての原形すら……それを見て……涙を流している事に、彼はしばらく気付けなかった。

 

 それは……言葉にはどうにも言い表せられない……圧倒的なまでの、無力感。それは、これまでずっと己を支えてきたナニカの喪失であった。

 

 

 彼は、子供の頃から『  』に飢えていた。

 

 自分が常に、『  』を求めていることを自覚していた。

 

 だから、彼は少しでも早く大人になることを望んでいた。

 

 

 大人に成りさえすれば、ご飯を食べられる。

 

 大人に成りさえすれば、暴力を振るわれずに済む。

 

 大人に成りさえすれば、機嫌を伺ってへりくだる必要も無くなる。

 

 

 教育らしい教育をされなかった彼は、何時もそう考えて耐え続けてきた。虫でも蛇でも何でも捕まえて、少しでも早く大きくなる為に色々な事をやった。

 

 

 その結果、大きくなった。

 

 

 痣だらけだった身体には筋肉が付き、今では視線を向けるだけで誰も彼もが怯えたように目線を逸らすようになった。

 

 

 飢えることも無くなった。

 

 

 やる事さえやれば相手が誰だろうが報酬を出すという仕事は幾らでもあったし、何なら適当なやつをぶん殴って奪い取ることもあった。

 

 

 それもこれも、大人に成ったから。

 

 

 大きく強くなれたから、ご飯を食べられるし誰かに怯える必要もないし、機嫌を伺う必要も無くなった。全て、思うがままに得られるようになった。

 

 ……そう、彼は思っていた。

 

 実際、昨日までは……本気で、そう思っていた。

 

 

「…………腹が、減ったな」

 

 

 でも、そうじゃなかった。

 

 ぐう、と鳴り響く己の腹を押さえた彼は……荷台に遺体を次々に乗せている姿を……遠目から眺める。

 

 

 ──どれだけ強かろうが、どれだけ大人に成ろうが、死ぬときは死ぬ。たった一発の、誰が撃ったのかすら分からない弾丸で。

 

 

 何時死ぬのか、どうやって死んだのか分からないまま、一瞬にして命を奪われ、そのまま大勢の内の一つとなって、荷物のように運ばれて……終わる。

 

 

 それが、ここには沢山ある。

 

 

 そして、一歩間違えていれば、己もまたその内の一つになっていた。

 

 名前も分からず、顔も分からず、身元不明の亡骸として……まとめて燃やされ、はいお終い。

 

 何と、ちっぽけな生き物なのだろうか。

 

 自分が如何に小さい存在であるのかを、嫌という程に思い知らされた……そんな地獄の一夜だった。

 

 

「──お腹空いたの?」

 

 

 と、不意に。

 

 前触れもなく背後より掛けられた声に、彼は思わずギクリと身体を硬直させた。「──誰だっ!?」一拍遅れて振り返った彼は──その瞬間、言葉を忘れた。

 

 そこには……1人の女が立っていた。己よりも、幾らか年上の女であった。

 

 だが、普通の女ではなかった。

 

 はっきり言えば、彼が今までお目に掛かった事のない凄い美女で……彼は、言葉どころか意識すら少し飛ばすぐらいであった。

 

 

「……ねえ?」

 

 

 見た目に似合う、優しい声色。

 

 生まれて初めて掛けられる、その優しい問い掛け。

 

 

「え、あ、え?」

 

 

 彼は、普段の粗暴さをすっかり忘れたかのように、目線をさ迷わせる事しか出来なかった。

 

 

「……怯えなくていいわ。貴方に何かをしようだなんて、思っていないもの」

 

 

 そんな彼の反応の、何が彼女の琴線に触れたのか。それは、当の彼には分からなかった。

 

 分からなかったが、何処となく楽しげな様子で微笑む彼女を見て……彼は生まれて初めて、胸の奥を掻き毟りたくなるようなむず痒さを覚えた。

 

 と、同時に、彼はこうも思った。

 

 

 この女は、どうして己に話し掛けたのだ……と。

 

 

 はっきり言って、覚えは無い。なので、視線で理由を問い掛けた……つもりだったのだが、通じたのか、通じていないのか……分からない。

 

 継ぎ接ぎだらけの衣服を身に纏った彼女は、語彙の無い彼の頭では到底言い表せられないぐらいの美貌に笑みを浮かべたまま……有無を言わさぬ様子で、するりと彼の隣に腰を下ろすと。

 

 

「はい、どうぞ」

 

 

 スッと、彼の眼前に差し出されたのは……笹の葉で包まれた握り飯であった。

 

 思わず面食らう彼を他所に、「……喉も、乾きましたでしょ」同じように差し出された水筒に……彼は、心から困惑した。

 

 何故なら……彼は己の人相の悪さというか、如何に周囲に威圧感を与えるかを理解していたからだ。

 

 加えて、彼はもう子供じゃない。身体は大きく、見た目はヤクザ顔負けだ。間違っても、騙しに掛かろうとするなら相手を間違えているだろう。

 

 それを、女が……それも、初対面であるはずの美女が、いったい何をどうして握り飯と飲み水を渡そうとしてくるのか……彼にはその理由が、欠片も想像出来なかった。

 

 だが、彼の内心は別として、身体は素直であった。

 

 思い返せば、彼は昨日の夜から……いや、正確にいえば、昨日の昼過ぎから水ぐらいしか飲めていない。それから今の今まで、死に物狂いで走り回って……腹が減って、当たり前だろう。

 

 

「……ふん」

 

 

 怪しくは思ったが、空腹には勝てない。何せ、握り飯を目にした瞬間、はっきり分かるぐらいに腹が音を立て始めたのだから。

 

 ……不審な部分が有れば、ぶん殴って落とし前をつけてやろう。

 

 そう結論を出した彼は、半ば奪い取るようにして水筒の水を喉奥へと流し込む。次いで、握り飯を手にして一口、二口、三口、貪るように齧りつき……え? 

 

 

「……うめぇ」

 

 

 思わず、彼は食べるのを止めた。

 

 そうしてしまうぐらいに、女が差し出した握り飯は美味しく……たった数回噛んだだけで、使われている米が配給で回ってくるような粗悪なモノでないのが分かった。

 

 気付けば……彼はあっという間に彼女が手にしていた握り飯を全て平らげていた。自然と、彼の視線が彼女の全身に向けられた。

 

 これまで異性に対して似たような事をした時、一人の例外もなく嫌悪感を露わにした。

 

 だが、「ごめんなさいね、もう無いの」彼女は気にした様子もなくそう答え……彼は、そうか、と落胆するしかなかった。

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そうして、だ。

 

 

 意図が有るのかどうかはさておき、少しばかり腹も膨れたおかげか、あるいは貴重な白米を譲ってもらったからなのかは分からない。

 

 何にせよ、当初よりも幾らかではあるが、彼女に対する警戒心が緩んでいるのを彼は自覚していた。

 

 何と言えば一番しっくり来るのか……いまいち彼自身にも説明出来ない事だが……強いて理由を挙げるとするなら、彼女から感じ取れる雰囲気ではないだろうかと、彼は思った。

 

 はっきり言えば、彼女からは敵意が無いのだ。それでいて、嫌悪感も無い。

 

 こちらに対し警戒した様子も無ければ、哀れに思って施し……というようにも見えない。

 

 無関心……いや、有り得ない、逆だ。

 

 胸中にて、彼は首を横に振る。

 

 理由は分からないが、彼女は何故か……己に対してナニカを向けている。

 

 それが何なのかは分からないが……どうしてか、彼はその事が少しばかり嬉しいと思えてならなかった。

 

 

(……こいつは、誰なんだろうか?)

 

 

 生まれて初めて……おそらくは、だ。

 

 物心を付いてから初めて、彼は他者の事を知りたいと思った。

 

 それは、どうして自分に対して優しくするのかという、純粋な疑問を解決したいという思いもあった。

 

 

「あんた、俺に何か用があるのか? してほしい事でもあるのか?」

 

 

 回りくどいのが嫌いな彼は、単刀直入に理由を尋ねた。

 

 

「特に、何も」

 

 

 すると、返された言葉がソレであった。

 

 

「そんなわけないだろう。お前、俺をおちょくっているのか?」

 

 

 当然、そんな言葉で納得出来るわけもない。

 

 自然と荒くなる口調と共に、彼は立ち上がり……彼女を見下ろすようにして睨みつけた。

 

 

「用件を言え。でねえと、その綺麗な頬に痣を付けることになるぜ」

「そう言われても……特に用件など、無いのですけれど──っ」

 

 

 そこまで彼女が口にした時点でもう、彼の手は動いていた。

 

 ぱん、と青空に響く平手の音。体勢を崩し、じんわり赤くなった頬を押さえた彼女を前に、「──で、用件は?」彼は何時ものように問い掛けた。

 

 

 ……そう、これは何時もの事である。

 

 

 彼は何時も、話をはぐらかしたり、はっきりしない物言いをされたり、そういう面倒臭い相手には、何時もこうしてきた。

 

 特に、女に対しては、よりそれが顕著に出た。

 

 何故なら、彼にとって『女』とは『ろくでなしの母親』の若い頃でしかなくて……幼い頃より、八つ当たりで己を苦しめてきた存在でしかないからだ。

 

 故に、自分よりもはるかに華奢で小さい女に暴力を振るう事に、彼は何の良心の呵責も無かったし、それが悪い事だとも思っていなかった。

 

 

 ……むしろ、逆だ。

 

 

 怯え、恐怖に涙を滲ませるその姿を見る度に、彼は胸がスカッとする感覚すら覚えていた。

 

 幼い頃に晴らせなかった恨み辛みを、他の女を通してやりかえしている気分になるからだ。

 

 ……が、しかし。

 

 

「……いいんですよ」

「は?」

「もっと、叩いても。それで貴方の気が晴れるのであれば、私は喜んで貴方にもう片方の頬を向けましょう」

「……は?」

 

 

 まさか、女の方から『もう片方も叩け』等という世迷言を言われるとは、さすがの彼も想像すらしていなかった。

 

 

 ……過去に、同じようにもう片方も叩けと言ったやつはいた。

 

 

 しかし、そいつは男で、虚勢の意味合いが強かったし、そのつもりであるのは鈍い彼にも分かることであった。

 

 

 だが……眼前の女は違う。はっきりと、彼はそう思った。

 

 

 何故かは分からないが、眼前の女は受け入れている。それが、彼には分かる。

 

 頬に赤みが出る程の力で叩かれる事を、言葉通り、喜びを持って受け入れようとしている。

 

 

 ──まるで意味が分からない。率直に、彼はそう思った。

 

 

 しかし、叩いても良いと言われて怖気づいては、何だか負けた気がしてならない。

 

 特に、女にだけは……最後まで自分勝手だった『母』と同じ、女にだけは……負けるわけにはいかないのだ。

 

 

 ……と、考える時点で、だ。

 

 

 実のところは色々と怖気づいているのだが……その事に気付いていない彼は、先ほどと同じく……いや、先ほどよりも幾らか強い力で、眼前の女の頬を張った。

 

 ……当然ながら、眼前の女は彼よりも小柄だ。

 

 腕や足の細さもそうだし、彼から見れば全身が華奢な……その女が、衝撃でたたらを踏まないわけがなかった。というか、勢いのあまり尻餅を付いたぐらいの威力があった。

 

 

「……さあ、もう一度」

 

 

 だというのに、彼女は気にした様子もなく立ち上がり、彼の前に立った。

 

 その頬には、叩かれた痕が色濃く残っている。叩かれた時に口内を切ったのか、唇の端に血が滲んでいる。鼻血だって垂れているし、目尻に涙も浮かんでいる。

 

 なのに……彼女は一歩も引かない。笑顔のままに、心から嬉しそうに、両手を広げて迎え入れようとしている。

 

 

 ……正直に言おう。彼は、生まれて初めてかもしれない、気味の悪さを覚えた。

 

 

 そうだ、全くの未知だ。彼がこれまで培ってきた常識の中には存在していない、未知の存在。

 

 体格も力も劣っているだけでなく、心より嫌悪している『女』に対して……彼は、思わず一歩退こうと……した。

 

 

「──逃げないで」

 

 

 途端、まるで内心を読み取ったかのように、先手を取られた。それは、けして恵まれた生き方をして来なかった彼にとっては、禁句とも呼べる言葉であった。

 

 何故なら、彼は一度として逃げた事はないからだ。

 

 彼にとって、何時も目の前の事から目を背けて逃げ続け、その責を何の罪も背負っていない赤子に押し付けたのは『母』であり『父』であり、『家族』であった。

 

 その中でも、彼にとっては最も罪深い卑怯者のろくでなしである母と同じ『女』から逃げるな等と……とてもではないが、聞き捨てならない言葉でしかなかった。

 

 

「お願い、逃げないで。私から、逃げないで」

「あ、あんた……っ!?」

 

 

 だが、しかし。

 

 

「殴ってもいい、罵声を浴びせてもいい。でも、逃げないで……もう、私から逃げないで……」

「……何で、泣いているんだよ」

 

 

 瞬時に沸騰しかけた彼の頭も、いきなり涙を流し始めたその姿を見て……瞬く間に消沈してしまった。

 

 女の機微に対して微塵の配慮も掛けるつもりのない彼ですら、すぐに分かった。

 

 眼前の女は、頬を叩かれて泣いているのではない。

 

 その程度、この女にとってはどうでもよくて……涙の理由は、もっと別のナニカであるということが。

 

 

「……話してみろよ」

「えっ……」

「俺は頭がわりぃからわかんねえけどよ……あんたが、こう、悲しくて泣いているぐれーは分かる。誰かに話せば、少しはスッキリするんじゃねえのか」

 

 

 気付けば、彼はそんなことを口走っていた。

 

 そんな言葉を掛けていること事態が初めてのことで、彼自身も……どうして、そんな言葉を掛けてしまったのかが分からなかった。

 

 普段の彼ならば、反射的に怒鳴りつけるばかりか、拳の一つや二つは叩き込んでいただろう。

 

 実際、以前にも似たような言葉を掛けられた時には、相手が女だろうが前歯を殴り折ってやった事があった。

 

 けれども、眼前の女に対しては……どうしてか、そんな気にはなれなかった。何故かは、今の彼には分からなかったけれども。

 

 

「……いいの? とても、暗い話になるわよ」

「駄目なら聞かねえよ」

「……初対面よ、私たち」

「その相手に、いきなり握り飯をくれたのは誰だよ」

「……ふふ、それもそうね。初対面の相手に、今更よね」

 

 

 泣き笑い……言葉にすればそれだけだが、どうしてか彼はそれを目にした瞬間、耳の後ろが熱くなる感覚を覚えた。

 

 

「──ほら、ここに座れ」

 

 

 よく分からないが、どうにも落ち着かない。何かをされているわけでもないのに、こう……背筋がむず痒くて堪らない。

 

 でも、嫌ではない……そう思いつつ、再び腰を下ろし、ぶっきらぼうに隣を促せば……女は嬉しそうにそこへ腰を下ろした。

 

 

 そうして改めて分かる、名も知らぬその女の器量の良さ。

 

 

 本当に、綺麗で。女に対して欠片の興味すら抱かなかった彼ですらも、美人だと瞬時に思ってしまう顔立ち。

 

 加えて、間近だからこそ余計に分かる、匂い立つような色気。

 

 同じ人間とは思えない、白くて細い首筋に目が留まり……生まれて初めて、彼は気恥ずかしさを覚えると同時に。

 

 

「私は、遠阪ゆめって言うの。貴方は?」

「……知らねえ。昔はあったかもしんねえけど、おいとかお前とかしか呼ばれねえから、もう忘れたよ」

「あら……じゃあ、タクマくんって呼ばせてもらうわね」

「タクマ……何だそりゃ?」

「逞しくて立派な身体をしているから、タクマくんよ。あんたとか、お前とか、そういうふうに呼ばれるのは嫌でしょ」

「……まあ、な」

「だから、私のことはゆめって呼んでね。私は、タクマくんって呼ぶから」

「……おう」

「はい、決定。それじゃあ……ここから……そうね、もう焼けちゃって無くなっちゃったけど、私は『夢華屋』っていう娼館で働いていたの」

「しょう……あー、それって……」

「そう、身体を買ったり売ったりする場所。貴方は……ふふ、その様子だと、そういうお店には行った事はないんでしょ?」

「──っ、うっせぇ!」

「恥ずかしがらなくてもいいのよ。でも、恥ずかしがっちゃうのが男の子だものね、ごめんなさいね」

「──いいから、さっさと話しやがれ!」

「うふふ、ごめんなさい……ああ、話を戻すわね、そうね、まずは、私がどうして貴方に話しかけたのかってところからにしましょうか」

「……おう」

「昔にね、子供を失くしたの。貴方よりもずっと小さくて、でも、とっても元気な……大事な大事な、私の赤ちゃん」

「……それが?」

「不思議よね。何もかも違うのに、どうしてか……貴方が、今はいない私の赤ちゃんに見えたのよ」

「……俺が? そんなに似ていたのか?」

「私にもよく分からないけど、雰囲気がね……まるで、あの子が大きくなって私の前に現れたかと思ったの」

 

 

 つらつらと……昔を思い出しているのか、虚空を眺めながら話し始める、その姿を前に……何となく……本当に何となくではあるが。

 

 

(……こいつは……何か、違う気がする)

 

 

 この人が自分の母だったら、己はどうなっていただろうかと……そんな事を考えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──確実に空襲は来るだろうと予測していたが故に事前に用意しておいた、地下室という名の防空壕。それは、一部の者以外では存在すら知られていない……閉ざされた秘密の部屋。

 

 

 ……ふう、ふう、ふう。

 

 

 その、暗闇の中に、申し訳ない程度に灯されたランタンが一つ。常人であれば三日と持たずに発狂するであろう静まり返ったその空間に、何者かの呼吸音が響く。

 

 その呼吸の主は……裸の女であった。だが、ただの女ではない。

 

 10人中9人が文句なしの美人だと称し、1人は好みではないが美人だと称される美女。加えて、その身体は……異性同性問わず、思わず視線を向けてしまうぐらいのモノであった。

 

 まるで、闇の向こうより生まれ出る夢魔……男たちの精力を貪るサキュバス。

 

 額縁に飾られた絵から抜け出て来たかのように、その肌は暗がりの中でもはっきり分かるぐらいに滑らかで、艶やかであった。

 

 

 ……その、女を囲うようにして立ち尽くす……女が数名。

 

 

 彼女たちは、一人の例外もなく美女であり美少女であった。

 

 巷を歩けば、声の一つや二つは掛けられるであろう風貌に加え、何というべきか……見に纏った雰囲気が、常人とは異なっている。

 

 いったい、何がどう異なっているのか……それはおそらく、勘の鋭い者にしか分からなかっただろう。

 

 そんな、彼女たちの視線は……ただ一人、自分たちが囲っている裸の女へと向けられていた。

 

 

 ……さて、だ。

 

 

 誰が見ても異常な空間だと思う中で、その美女は……息を荒げながら、酩酊しているかのように赤く染まった頬を震わせ、己の腹を摩っている。

 

 頼りないランタンの明かりでは、上手く見えない暗がりの向こう。目を凝らせば、ぼんやりとだが見て取れるその女の腹は……誰が見ても一目で分かるぐらいに、大きく膨らんでいた。

 

 

 ……妊婦だ。それも、出産を間近に控えた……と。

 

 

 不意に、その女は唇を噛み締めた。固く目を瞑り、虚空の……いや、よく見れば壁に取り付けられた鉄棒を握り締めたその女は、大量に敷き詰められて小山になったクッションに背を預ける様にもたれ掛る。

 

 次いで、何かを堪えるかのように数回ほど、大きく深呼吸をした後……膝を立てて大きく股を開き、しばしの間を置いて……そして。

 

 

「──んんん!」

 

 

 噛み締めた唇から血が出んばかりに女がイキんだ──その直後。

 

 ぷしゃり、と水飛沫が床を濡らしたかと思えば……その上に、するりと赤子が産み落とされた。

 

 

 ──生まれた子は、女の子。時間にして、陣痛が始まってから5分と掛かっていない安産であった。

 

 

 仮に、第三者(特に、医療関係者)が、この女が赤子を産み落とすに至るまでの一部始終を見れば……あまりに苦労なく生まれた事に、さぞ驚いたことだろう。

 

 何せ、この女……悪阻を始めとして、妊娠中や出産の際に起こりやすい(あるいは、発症しやすい)諸症状を何一つ経験する事無く、順風満帆としか言い表し様がないぐらいに順調に出産を終えたのだ。

 

 味覚の変化から来る過食や拒食がなければ、ホルモンバランスの変化から来る不眠や過眠もなく、情緒不安定どころか精神状態は常に安定し、むしろ赤子が大きくなるに連れて良くなっていた。

 

 正に、教科書に載せられるぐらいの好例である。

 

 そりゃあ、医療に携わっている者からすれば、信じられないと思っても、何らおかしい事ではなかった。

 

 

 ……が、しかし。信じられない光景は、この後に起こった。

 

 

 まず、羊水の上に産み落とされた赤子と、母体である女の胎とを繋ぐ臍の緒がか切れた。誰も触れてはいないのに、まるで解けて溶けたかのように、するりと二人が分離する。

 

 

 次いで、女の身体に変化が起こる。

 

 

 ぶしゅり、と、胎内に残っていた羊水が一気に噴出されたかと思えば、出産に合わせて変形していた身体が、出産前へと戻り始めたのである。

 

 まるで、そこだけ時が巻き戻っているかのようで……けれども、驚くべきことに、赤子の方は、その逆だ。

 

 小さく頼りなかった手足が、瞬く間に大きくなってゆく。身体もそうだが、顔つきもそうだ。

 

 それこそ、赤子だけ時を早送りしているかのように、赤子は5分と経たぬ内に……十歳前後にまで大きくなった……と。

 

 

「──次は私です。さあ、女王よ!」

「いいえ、私だ! もう3か月は待っているのだぞ!」

「待て、順番は決めただろ、次は僕だよ」

 

 

 もはや何処から気にすればいいのか分からない状況となっている光景を前にして、実際に向けられるのは称賛ではなく……早く次を産み落とせという、彼女たちからの催促であった。

 

 

「……『委員長』、これで何人目だ?」

 

 

 だが、その程度は女も……いや、女王と呼ばれたその者にとっては、慣れた言い争いであった。

 

 何せ、『赤子を孕める身体』にしてもらいたいのは、彼女たちだけではない。数百年も以前から求め続け、遂には手にした『女王』の悲願でもある。

 

 この程度の言い争いなんぞ、可愛いモノだ。中には文字通り、血で血を洗うような争いに発展しかけたこともあるから、余計に。

 

 なので、女王と呼ばれた彼女は、特に気にする様子もなく、喚く『分体』たちに一瞥だけくれて、黙らせる。

 

 それだけで、自分たちが性急すぎるのを察した彼女たちは、居心地悪そうに唇を閉じた……ので、タオルを持ってきた、『委員長』と呼んでいる己の分体に尋ねた。

 

 

「そいつで、ちょうど300人目です。残りは2111人ですね」

「おお、もうそんなになるのか……で、『私たち』は今のところはどれだけの子を産めたんだ?」

「現時点で、1296人です。私たちの子供たちが、きっかり500人、796名は……それはそれは愛らしくて逞しい男の子でございます」

 

 

 なるほど、と。頷いた。

 

 

「やれやれ、どいつもこいつも時々回線を閉じて楽しむから、正確に把握できていない実数が増えるばかりだ……で、お前は?」

 

 

 視線を合わせる為に屈んでいる委員長を、チラリと見やる。「は、私ですか?」訝しんだ様子で小首を傾げる委員長に、「お前は本当に……」女王は苦笑しながら……魔法で、委員長の着物の裾をふわりと捲り上げた。

 

 

「──さて、白い液でベタベタに濡れた股の言い訳は何だ?」

「……お、オリモノです」

 

 

 自分でも、見苦しい言い訳だとは思っているのだろう。

 

 視線を逸らしながら蚊の鳴くような声は、傍目にも信用性に欠けていた。

 

 

「液はおろか臭いすらほぼ100%内側に抑え込む魔法を使っておいて、オリモノと来たか。なら、そのオリモノは女王の権限で舐めとっても良いのだな?」

「──だ、駄目だぞ! これは朝一番にタッくんが頑張ってくれたやつだぞ! 3人目として胎に仕込むつもりだから、女王とはいえ、抗議するぞ!」

「そう怒るな、そんな悪趣味な事をするつもりは端から……というかお前、本当に『彼』を溺愛しているんだな」

「タッくんは私の『番(つがい)』だ。女王や『私たち』への浮気は許すし仄暗い屈辱感が堪らないけれども、それ以外は許さんし、子供を作るのも許さん。彼の子は全て、私が産み落とす」

「……改めて実感するが、子を産めるようになると遅かれ早かれお前みたいな考え方になっていくのは何でだろうなあ……童婆のやつも、気付けば5人も子を産んで親馬鹿みたいになっているし……」

 

 

 タオルと同じく、委員長より手渡されたカルピスをぐびりと喉奥に流し込みながら、しみじみといった様子で……渾名というか通称というか、名を持つ分体たちの事を思い出す。

 

 

 ……さすがの女王も、出産を終えた後は幾らかの休憩を挟む必要がある。

 

 

 慣れもあってかつてより負担は軽減されているが、そんな簡単な話ではない。なので、この場合における雑談に関しては、委員長も気難しそうな顔はしないのであった。

 

 

「……ふん。言い換えれば、全てが順調というわけだ。この調子で行けるなら、10年後には私たち全員が子を産めるようになる」

「いや、さすがの私も10年ぶっ通しは辛いよ。いや、まあ、擬似的にとはいえ、出産の快楽も癖になってきたから、嫌じゃないのは確かなのだけれどもね」

 

 

 そこまで呟いた辺りで……ふと、女王は……否、『私』は……考える。

 

 

(10年……ふむ、順調に行けば10年後には全ての『私たち』が子を産めるようになる……か)

 

 

 だがしかし、不確定要素というか、不安な部分はある。

 

 それは、私の手で生まれ変わった委員長を含めた『私たち』が、『魔法』を使わずに自らの胎を使って産み落とした子供たちの事だ。

 

 私が直接産み落としてきた、分体である『私たち』とは違い、『私たち』の胎から生まれた子供たち(見方を変えれば、孫たちなのだろう)は、私や『私たち』ほどの『力』を有していない。

 

 全く使えないわけではないのだが、明らかに『力』が弱いのだ。

 

 しかも、何とか魔法を発動できたとしても、その規模は……という程度しかないのだ。

 

 

 ……何故かは、今でも分かっていない。

 

 

 分かっているのは、分体としてではなく子供として産み落とした場合……どうやっても相当に『力』が落ちた状態で生まれてくるということだけだ。

 

 

 これには……正直、私たちも困ったぞと思った。

 

 

 何故なら、子が産めるようになったとはいえ、私たちはまだまだ少数だ。

 

 だから、最初の頃はどうにか出来ないかと考え、色々と手を尽くした。魔法の事を、魔法で調べるという無茶もやった。

 

 けれども……そんな無茶をしてまで分かったのは……どうにもならないという無慈悲な答え。

 

 つまりは……分体ではない子供たちは、変異体サキュバスである私たちの性質の幾らかを受け継いではいるが、その肉体はサキュバスよりも人間寄りであった。

 

 故に、『力』が劣るだけでなく、私たちのように不老を維持することは出来ない。若さを保つことは出来ても、寿命そのものは愛しき彼らとそう変わりないし、肉体機能もそこまでではない。

 

 傷を瞬時に癒す事は出来ないし、愛しき彼らを惑わせるサキュバス特有の魔法とて、比べ物にならないぐらいに弱い。

 

 もはやサキュバスというよりは、サキュバスの血を引く、少しばかりサキュバスの特徴を持った人間と言った方が近しいぐらいであった。

 

 

 ……とはいえ、だ。そう多くはないが、良い意味での収穫は有った。

 

 

 たとえば、不幸中の幸いというべきか……子供たちに備わった『力』は、ある一定値にまで落ちるだけで、『力』そのものが失われるわけではないということ。また、世代を重ねてもそこは変わらない。

 

 加えて、子供たちが私たちに匹敵するだけの『力』を有し、かつ、それに見合う魔法の習得が不可能になるだけで、か弱い魔法ならば変わりなく使えるというわけだ。

 

 他にも、私たちの間では標準的に備わっている『回線』を生まれながらに得ている。非常に微弱な事しか出来ないが、肉体を自らの意志で少々弄る事も出来る。

 

 まあ、私のように、さすがに身長や体格を瞬時に作り変えるなんてのは無理なので……年単位で、肉体が成長する方向性を意図的に操作するぐらいは、子供たちでも可能だろう。

 

 

(だが、それでは弱い。数は圧倒的に『敵』の方が多いから、今はまだ表だって動くには早い)

 

 

 『数の力』というのは、何時の時代も強大だ。

 

 蟻が象を殺す事があるように、ある意味では魔法よりもよほど厄介であり、私たちですら陰でコソコソ動き回るしかなくなる。

 

 まだまだ少数でしかない子供たちが魔法無しで、『敵』たちが居座っている、その地位を奪い取るのは難しいだろう。だから、今は耐え忍び、子供たちの数を増やしていく他ない。

 

 ……そこで問題になるのが、私たちの数少ない武器でもある『魔法』が、子供たちがほとんど使えないという点なのだが。

 

 

(……やり方を変えるべきだろうな。かつてとは違い、これからはどんどん時代が移り変わる……今まで通りのやり方では、足元が掬われるやも……)

 

 

 少しばかり要点を整理するうえで、視点を変えよう。そう、私は思考を切り替える。

 

 

 まずは……そうだな。

 

 

 子供たちは、基本的に私たちのような魔法が使えない。使えはしても、私たちのような事は不可能……まず、大前提がソレだ。

 

 不完全ながらサキュバスとしての特性(回線など)を受け継いではいるが、その肉体は人間寄りなので、私たちのような無茶は出来ない。

 

 だから、これまでとは異なる、新たな武器を作り出さなければならない。

 

 子供を生めるという、『敵』たちが持っていた最大の武器を子供たち(『私たち』もだが)は手にしたが、その代償はけして無視できない。

 

 

 それに……脳裏を過る懸念事項に、私は内心にて顔をしかめる。

 

 

 人間と同じような速度で成長する子供たちは、その精神もまたソレに近しくなる。つまり、私たちのように、生まれながら精神も知性も成熟しているわけではないのだ。

 

 なので……これは憶測だが、おそらくは『私たち』以上の個性が子供たちの間には芽生えると私は考えている。それこそ、愛しき彼らと同じように。

 

 

(可能性としては、子を産めるようになった『私たち』に発現した『番』という感覚とやらも、子供たちの方がより強くなるやもしれんなあ……)

 

 

 あくまで可能性の段階だが、そうなる前は誰一人発現しなかった部分だ。弱くなるよりも、その性質が強くなると考えた方が妥当だろう。

 

 というか……『私たち』や子供たちから、回線を通じて伝わってくる感情やら光景やらを体感しているので、むしろ、そうならないと考える方が不自然……ん? 

 

 

(……『番』、ふむ、『番』か……彼らではなく、たった一人の彼と、その彼の血を継いだ子供たちだけ……そう、そうだ、私とは違って、子供たちは、『番と定めた彼』とその子供しか愛せないのか……ならば、そうか──)

 

 

 それは……正しく、天啓だったのかもしれない。

 

 

(時代が移り変わるのならば、彼らも『敵』もそうだ。今までとは異なる、新しい価値観が主流になる。機械技術も発達してきているから、いずれはこれまでの常識は古臭いモノとして、見向きもされなくなる)

 

 

 そうとしか言い様がないぐらいの閃きが、前触れも無く私の脳裏で渦巻いていた思考を吹き飛ばす。

 

 

(仮に……仮に、だ。子供たちにとっての『番』が、見た目の良さや能力や生命力ではなく、己の感覚……フィーリングだけで選ぶのだとしたら……だとしたら……)

 

 

 その後に出て来るのは……最後の一手。

 

 詰みへと至るまでの、致命的な王手への道筋。

 

 

(……ああ、そうか。そうだったのか……なるほど、あの方は、こうなることを予見していたのか。だから、あんなことを……)

 

 

 そして、道筋が私の中に生まれたと同時に、私の中に……フッと、姿を見せたのは。

 

 

 

 

 

 ──男と女、彼らと彼女らが互いに手を取り合っている間は何の問題も無く、所詮はその程度の話……か。

 

 ──なるほど、全ては貴女の言う通り。

 

 ──結局のところは、それ以上でもそれ以下でもない……単純な話でしかなかったというわけか。

 

 

 

 

 

 遠い……今はもう何百年も前になる、偉大なる魔法使い……私に『魔法』を授けてくれた、あの方が……『四腕』が最後に私に告げた……その言葉であった。

 

 

 

 




コマの数というか、手札は同数になりました


ただし、相手側は1ターン進むことにカードが補充され、そのカードもこちら側よりも基本的に強いカードとなります。また、相手側はこちら側の手札を定期的にのぞき見することができます

大して、こちらは1ターンごとに1枚ずつカードが破棄されていきます。低確率で強力なカードが出ますが、一定確率でデバフが掛けられ、状況によっては相手側より強制的に破棄になります


さて、これでこちら側に勝機があるのだろうか……?
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