見習い商人の見るヒスイ 作:Cicla
ぱちり、と算盤を弾くと少女は玉を動かさないよう向きを変え、眼前のもっと幼い少年少女たちに見せる。
ずい、と覗き込む子供たちが玉を動かしてしまわないよう軽く制しながら、明るく「さて、これはなんでしょう!」と問いかけた。
ラベンが放牧場のポケモンを観察しようとムラを歩いていると、川縁で群れている子供たちの姿があった。何をしているのだろうかと通りすがりに覗き込んでみれば、そこにあったのは算盤。ショウが友人になったと話すイチョウ商会の少女が、ムラの子供たちに算盤の読み方を教えている様子だった。
百が二つある、いやもう五つあるぞと相談しあって少女が掲げる数字を考えているらしい。ラベンが玉を数えれば773。この分だと順調なようだと立ち去ろうとした時、イチョウ商会の帽子がクイと持ち上がった。
シクラと言ったか、少女の翡翠の目が驚きで少し丸くなったから「こんにちは」と声をかければ、それを細めて「良い天気ですね、博士」と答えた。
世間話でもしようかとラベンが口を開きかけた時、その時子供たちが口々に「七百と七十三!」と威勢よく叫んだ。どうやら正解が導けたらしい。
あまりに唐突に声量が変わったものだから、二人して「ワッ」と小さく声を上げる。少女は変わり身が早いのか、すぐに喜色満面になって「正解!」と幼年者たちを褒めた。
「みなさんよく学べていますね。シクラくんもありがとうございます」
やっと身が変わったラベンも続き、将来先生になってみては? なんて軽口を叩けばそこでようやく子供たちは彼に気づいたのだろう。「あ、がくしゃせんせーだ!」「せんせい!」などと騒ぎ立てる。
改めて「こんにちは」とそれぞれに挨拶をする男に、算盤の数字を崩しながら立ち上がった小さな先生は笑いかける。
「最近、休憩してるとどうにもせがまれちゃって。博士はこれから研究ですか?」
「はい、放牧場に。きみもそろそろ仕事に?」
それに少女は肯定すると、休憩終わりだからもう今日はおしまい、と子供たちに告げた。ぶーぶーと文句を言うが仕方がない。また明日と宥めても尚年長の少女にまとわりつく様子に眉尻を下げて乾いた笑いをする少女を見かね、ラベンが「では、ぼくがポケモンのことを教えましょうか」と提案すれば、軽々と子供たちはせんせー、せんせーとラベンの周りに集う。
申し訳なさそうに「ありがとうございます」と一礼して商会の露店の方へと駆けて行った。観察が碌に進みそうにないことを予感しつつも、こう言った教育は本来、本職の教師がいなければそこに住まう我々の仕事であり、彼ら行商人に頼りすぎてはいけないのだと自身に言い聞かせた。
「あ、博士。先日はありがとうございました」
後日。亜麻色の毛先を多少濡らした少女とギンガ団本部の廊下ですれ違えば、先日は助かりましたとあの日も聞いた礼を言われる。どうやら外は雨らしい。
ラベンは資料の山を両手に抱えていたのでその横から顔を出して返答しようとすると、バランスが悪かったのかそのままバサバサと束を落としてしまう。
即座にシクラに拾われたものだからラベンが謝罪を入れると、ついでだからこのまま持っていきますよと拾った紙束を抱えて笑った。ありがたいことこの上ない申し出に甘えて、男と少女は彼の研究室に入ることになる。
ラベンの研究室は作りとしては広いのだが、それを感じさせない程に資料、研究用の機器、あるいはポケモンのためのスペースに費やされている。限られた貴重な足の踏み場に一旦資料を積むと、その横に彼女も倣って書類を置く。
「いやあ、助かりましたよ」
「お互い様です。……あ、これガラルのマダドガスじゃないですか」
ラベンが運んでいた山の一番上にあった紙に目を止めると、それを手に取って眺める。本部の装飾で建築隊が使うからと、彼が昔撮った写真とスケッチを貸し出していたものだった。
少女のその目その声には、珍しいものを見た感動だとか、あるいは正面に作られた像と同じものだと気付いた驚きとかの感情とは無縁に、どこか懐かしいという感情が浮かんでいるようだったので「ガラルに行ったことが?」と尋ねれば、彼女は「出身なんです」とはにかんだ。
「ガラルの出身でしたか! あそこは……ナックル城とかが有名ですよね」
「ええ。すなあらしの中でもぼんやり見えるほどに巨大で、荘厳でしたよ」
ガラルの話に花が咲く。マダドガスのようにラベンがガラルでスケッチを残していたポケモンをいくつか引っ張り出して、ウールーの毛の丈夫さだとか、アーマーガアの大きさなどを語らう。
ヒスイではポケモンを両の手で数えられるほどしか知らない者もいるというのに、少女はラベンも驚くほどガラルのポケモンについて詳しかった。それでいてヒスイのポケモンの話をしても問題なく付いてくる。
同じ商会のウォロと以前語らった時、ヒスイの遺跡や歴史に対してかなり造詣が深いことに驚いたのが記憶に新しい。彼女はそれほどの深みはないものの広く知識を揃えているようで、ショウやテルと変わらぬほどの子が、と内心舌を巻いた。
「博士、ガラルのポニータはご存知ですか?」
「いえ、あの燃え上がる駿馬はガラルでは見たことがありませんね」
シクラは、ギンガ団以外でラベンのことを博士と呼ぶ数少ない人間だ。博士という称に慣れぬヒスイの人々は、彼のことを名前で呼んだり、学者先生と呼んだり、あるいは単に先生と呼ぶ。それにこだわることはないが、博士という響きは彼に気を引き締めさせる。
「ガラルのポニータは燃えないんですよ。エスパータイプなんです」
「なんと! それは興味深いですね」
メモ用紙を取り出し、詳しい話を催促する。
曰く、空色と薄紫が混ざり合った毛は真綿のように心地よい。
曰く、人の心を読むことができ、邪な心の者には近付かない。
曰く、傷を癒す力を持っている。
これくらいで、と腰ほどの高さに手を掲げるのと既に完成していたヒスイのポニータのページを見比べれば、ガラルのそれの方が小柄らしい。
「ありがとうございます。とても詳しいようですが、ポニータを手持ちとしていたことがありますか?」
「いいえ。けれど、友人のポケモンとしてよく見ていたんです」
後学のためにとメモを書き上げ、感謝の言葉を告げればそれを少女は興味深そうに覗き込んでいた。
ラベンは本心から少女は研究者になる素質があると告げたが、シクラは男のそれを世辞と受け取って「お上手ですね」と返した。彼女の友人が手懐けているらしいそれとはいえ、恐れず近寄り、ここまでの情報を得るのは並大抵ではないというのに。
「わたしは純粋にポケモンについて知りたいとか、そんな高尚な気持ちはこれっぽっちもありません」
茶目っ気を出しながらも本音からそう言い切った少女は、ラベンには少しの遠慮のように映る。
「ではなぜ詳しいので?」と問えば、それは簡単だと言わんばかりに大きく一つ「知識は助けになりますから。いかようにも」と胸を張った。それは幼くして得た真理のようにして、経験則のようだった。
ラベンの部屋で寛いでいたミジュマルが小さく鳴いた。何かを訴えるように水槽から身を乗り出すのをシクラは不思議そうに見ていたが、その横で彼は手を打った。
「もう給餌の時間ですか。早いですね」
いつも夕餉より先にあげているんですよ、と言えば、なるほどと少女も合点がいく。と、一瞬遅れてあ! と大きな声を上げたものだから、驚いてミジュマルは水の中に潜ってしまう。それも気にしていられないほど焦った様子でシクラは口走る。
「仕事の続きがあるんでした。また今度お話ししましょう!」
彼が挨拶を返すことすらできないほどの速さで廊下に飛び出し、そのまま少女は表に出ていく。しばらくしたら表の露店で怒られている彼女が見られるのだろうと思えば、引き留め過ぎたことへの慚愧に堪えなくなる。
今度謝罪をしなければと考えていれば、静寂がまた訪れた部屋でミジュマルがチラリとこちらを伺うのと目が合う。ラベンは苦笑して今準備しますよと伝えれば、目敏いもう一匹と同時にがばりとこちらに身を乗り出した。
*
「──ってことがありましてね」
シクラくんには悪いことをしました、とラベンは帽子のまま頭をかく。先が赤くなった指が動くのを見ながら、至極どうでもよいものを多少取り繕いながらもウォロは「そーなんですね」と相槌を打った。
「ジブン、その時はムラの外にいたので見ていませんが、普段とそう変わらない様子でしたしそんなにこっ酷く怒られてもないと思いますよ」
心配いりませんよ、と笑みを向ければほっと男は胸を撫で下ろす。それと同時に吐いた息が白く漏れ出るのを見て、ウォロ自らも息を吐く。
今日の凍土は一段と冷え込み、さほど慣れているわけではない者にとっては厳しいほどだ。一方でラベンが送り出したショウも、ウォロが見送ったシクラも、きっと少年少女特有の快活さでそれに負けず──後者に至ってはむしろ一等元気に──駆け回っているのだろうが。
シンジュ団のカイほどではないにしろ、彼女からは寒さという感覚が抜け落ちているように見られた。
「しかし、彼女の見識には目を見張るものがあります。算術に、ポケモンの知識。雪中での活動方法やバトル……さぞ高名な師がいたのでしょうね」
ご存知ですか? と問われ、首を横に振る。ウォロとシクラは度々共に仕事──体裁としては見習いに対しての教育──をするし、語らったことも少なくはないが、お互いの個人的なことは何一つ共有しなかった。
そも、商会の者同士で過去を詮索し合うことすらない。生まれ育った集落を離れ、行商などという道を選ぶのは大概が訳ありなのである。自分が突かれて痛いものは他人のそれも触らない。
痛みを感じる閾値の個人差によってたまに行き違うこともあれど、基本的な不文律はそれだった。そして、彼もシクラも商会の中で、一等に過去を探りたがらない──探られたくない部類だ。
「そうですね、ジブンは彼女についてほとんど何も知りませんが、一つ言えることは……並ぶものが少ないくらい遠いところから来たという点でしょうか」
「ええ、ガラルと聞きました」
ラベンの相槌に否定も肯定もせずに続ける。
「ですから、ジブンたちとはものの考え方がかなり違うのでは? 算盤を弾いて、ポケモンに触れて、雪原を歩き、さまざまなものを知る──それが、彼女にとって"普通"なことなのかもしれませんね」
ムラの中で、憂い何一つなく仲間と友誼を深めるのがあなたたちの"普通"であるように。これは、意図せずウォロのちょっとした皮肉も混じっていた。とはいえ対面の男が気付くこともなく、確かにと頷きを繰り返していた。
「ところで、ジブンたちイチョウ商会の"普通"は、機会があればなんでも売り込むことなのですが……昨晩は辛いもので身体を温めたとか。偶然マトマのみをいくつか持っているのですが、いかがですか?」
身体が十二分に温まりますよと笑いかければ、ラベンはお上手ですねとその手に乗った。
「そんな次第で、いい儲けが出ましたよ」
しばらくサボれますねと長身の男が愉快そうに笑うのを、小柄な少女は呆れた目をして見ていた。夜も更け、世界は色を失っていく。しかし白銀だったその大地は月明かりをわずかに反射して、雪のない地ならば失っていたであろう輪郭を辛うじて繋ぎ止めていた。
「儲けが出るほど買わずとも、少量でもとても辛いものを……詐欺師に金を毟り取られるなんて、博士も可哀想だわ」
よよよ、と目を覆うが、その影に見える口元は愉快そうに歪められていた。悪戯好きには、それが大層面白く聞こえたのだろう。あるいは、ウォロが後日「おっと伝え忘れていましたね!」などととぼけるところまで想像したのかもしれない。
それに痛快さを覚えないわけではないが、性格の歪んだ少女に詐欺師とまで言われるのは本意ではなかった。
「商人ですが。不出来な見習いに灸を据えましょうか?」
「おっと。それはバトルのお誘いで?」
少女が目を合わせる。夜な夜な繰り広げる腕比べの直前に、彼女は決まって視線を合わせる癖がある。数瞬の後、ウォロはボールに手をかけ、最近進化したトゲチックを繰り出す。
「トゲチックになったんですね」
手合わせをするのは久々だった。少女がムラで幼子に囲まれている一方で、男は山嶺にまたフラフラと誘われていたのだと本人から、そしてショウからも聞いた。だから暫くぶりに見るウォロのポケモンが進化していたことに驚きの声を漏らす。
「ええ、少し目を離せばこんな姿に」
「……いいじゃないですか。おめでとうございまーす」
シクラは博識だった。この世界のこと、ガラルで得た知識。スクールでは誰よりも勉強のできる子供として育った経験がある。
だから少し考えてそのポケモンの進化条件に思い至り、この男も隅に置けないなと笑った。と同時に本人には絶対にそれを伝えないことを決意して、トゲチックと目線を合わせる。
「ねえ、あなた。もっと強くなりたい?」
主人を守りたいか。幸せにしたいか。そのために力を求めるか。
そんな種類の問いかけに元気よく答えるトゲチック。その目を見て少女は満足そうに数回頷いた。
シクラは基本的にはポケモンが大好きである。何があっても、嫌いにはなれなかった。そういう性分だろうと彼女は諦めていた。
だから、人間に好意的なポケモンに対しては全力の好意を贈りたいというのが少女の信条であったのかもしれない。
「じゃあ、強くしてあげるね。もっと、もっと」
ボールが開発されるまで、ヒスイの人々はポケモンをほとんど使役しなかったし、そうされているポケモン同士で戦うなんてことは絶対になかったと聞いた。
それに比べて、生まれる遥か前からそれが当たり前だった世界で生きてきたシクラや、あるいやショウや記憶こそないがノボリの実力は、この時代の人の何者よりも洗練されている。ノボリのような現代でも明らかな強者だとしても、虚勢こそ張っているがなんとかバッジを集めた程度のシクラでも、等しく強いと思われているのが詳細なところだが。
とまれ、ポケモン慣れしてるのは事実だ。それを見越したウォロから「是非ポケモンの戦わせ方を教えてください!」とせがまれ、渋々胸を貸していた少女だったが、献身的な手持ちには答えてあげようと、本腰を入れて取り組むことを決意する。
「始めようか、バトルを」
焚き火はとうに消していた。明かりで野生のポケモンに気取られたくないし、何より暴れ回るのだ。ほのおタイプを扱うわけではないのだから、火なんてものは邪魔になる。
少女が背に隠し持っていた紅白のコントラストを取り出せば、それは一筋の光を反射していた。
投稿する話の時系列と書いてる順番があべこべなのに、あっち出さなきゃこの話出せないな~みたいなのありすぎて困る ので不定期投稿です