「おまえ、おれとくるか」
そうして手を差し伸べられたのは、初めてのことだった。
出るはずのない涙が作り物めいていたけれど確かに溢れて、このときから彼女は何があってもずっとこの人の傍にいる。
……
「だァからヤメロッつってんだろ!!」
「……命令でしたら」
「何回言わせる気だ!!」
もはや恒例と化しつつあるやり取りは、周囲の意識をさほど引くまでもなく、スパンダムの怒気とルッチの不機嫌を膨らませるだけで終わった。
「毎度毎度こうして主様に怒られて不機嫌になるってのに、何が君をそうさせるんだい」
「……お前にはわかるまい」
「そうかい」
フイと顔を背けてスタスタ去っていく寡黙な、すらりとした後ろ姿は、何にも教えてはくれない。
ましてやこのガラクタじみた目ん玉に人間の繊細な機微など読み取れまい。出来ないことは早々に諦めて成すべきことを全うせよ。有難いお言葉というのは、時に時間を持て余す暇人に意味を持ったりもする。
「主様もこれくらい許したら良いのに」
「ダメだ!」
「お気に入りのおもちゃを取り上げられるガキじゃあるまいし……」
「おれはお前と最後までいる責任があンだよ。お前がどう感じたであれ、アイツはモノの扱いってモンを知らない。オメーがいつまで経ってもうかうかしてッと、その腕やらをいつの間にか引き千切られてたって知らねェぞ」
「嫉妬は良くないよ」
「嫉妬じゃねェよ!!いいからお前はもうちっと警戒心ってモノをだな……!」
懇切丁寧に警戒心の必要性と性悪説を説くスパンダムだが、警戒心を持っていたって自衛の手段がなければ進退両難、どうにもできやしないのだ。
自分の力ではどうにもならないことは、心配するなとどこかのことわざにもあっただろう。
「いいよ。それは主様、君に預けたんだから。必ず助けてくれるんだろう?」
「そうは言っても……!」
「それに私は簡単には消えたりしない。主様なら知ってるはずさ」
「それはそうだが、それとこれとは別だろ!」
「別じゃないよ。間違えたって取り返しがつく。つまるところヘタをこいても簡単には死なないから安心して主様に危機管理能力を預けられる。ほらね?」
「ダーッ!!!小賢しいヤツめ!!」
「勿体なきお言葉」
舞台終わりの三方礼をする役者のような、深々としたお辞儀を見せればそのままスパンダムに頭を押さえつけられる。まさかそんなことをされるとは思ってもいなかったのか、彼女はバランスを取り損ねて両腕をコミカルに振り回した。
「はっはっは!!!イイザマだぜ!」
「危ないじゃないか!まったく!」
「……どうしてそう緊張感がねェんだか」
「失敬な!」
プンスコ、と言ってもいい具合だが凄んでいるらしい、これでも。精一杯の怒りのポーズを取っているという。
「確かにまあ、この程度の警戒心なんぞ、持ってたって変わりゃしねェか」
ものすごく失礼なことを言いながら、スパンダムはそのからだを抱き上げた。
その流れるような慣れた動作に異を唱えたのは、毎度のことながら他でもない彼女である。
「主様!いつも言いますけど、自分で歩けるって!」
「お前の歩みを待ってたら日が暮れちまうよ」
呑気に欠伸をしながらリズミカルに歩くスパンダムに懲りずに噛み付く。
「面白い冗談だね!ここじゃいつまでたっても日なんか暮れないだろう!」
「ドンクセェ上に鈍感ってか。救いようがねェらしい」
「うぐぐ……ッ!主様の意地悪!君だって七光りの癖に!」
「あァ!?どこで覚えてきたんだそんな罵倒!!おれァ教えた覚えはねェぞ!!」
突かれて痛いところだったのか、半笑いの表情から一転、ギュウウッと片耳だけ持ち上げるみたいに引っ張られる。声の勢いが凄くて、抱えてもらっていなかったら、きっとひっくり返っていたくらいだった。たぶん、スパンダムはそれをわかった上での見せかけの激怒なのだろう。昔から彼はそんな無駄な匙加減ばかり上手かった。
「アィエエ、みみッ、耳が千切れるっ!」
「ウルセェッ!もう千切れッちまえ!!片っぽ残ってりゃいいだろ!」
「やァだよ!」
それでたとえ耳を千切ったとしても結局スパンダム自身が直さなくちゃならないのだから。キャラキャラ笑う声を無視してスパンダムは全く恐ろしくない怒気を適度に散らした。ちょっとガニ股で廊下のど真ん中を歩いて、不意に立ち止まった。
不思議に思った彼女はもう一度自力で起き上がってスパンダムと同じ方を向いた。
「ああ……」
向いて動揺の声を漏らした。「うわっ」とかに近い失礼なタイプの感動詞である。彼女はどうにもアイツのことが苦手らしかった。思わずスパンダムの腕に顔を埋めるくらいには。
アイツ、ことCP9の最年少メンバー、カクはくりくりしたつぶらな瞳を黒々光らせてやってくる。危機感の欠如をどやされた彼女だが、カクを前にしては見ている側が首を捻るほど威嚇する猫のように毛を逆立てていた。
「ジョセフ、ジョセフィーヌ」
「主様、私いまならお風呂に進んで入ってもいい」
「言ったな?!」
「残念じゃな、ジョセフィーヌ。一緒におやつを食べようと思っとったのにのう」
「お断りだね」
「誰か!風呂の支度をしろ!!コイツの気が変わらねェうちに!」
近くを掃除していた執事然とした男が勢い良く振り返り、目の色を変えて「承知致しました!直ぐに整えてまいります!」と目にも止まらぬ早さで風呂場に直行した。剃もかくやあらむ。もしかしたらその手の隠れた才能の持ち主やもしれない。いや、司法の塔に勤めている時点で、特殊な訓練を受けた特別な仕事人なのかも。
「夕食こそは共にしてくれるかの?」
「主様に聞いておくれ」
「やあ、ご機嫌麗しゅう。我らが長官スパンダム閣下」
「ヤメロよ気色わりぃな!見ろ、サブイボ立った」
「これは失礼。ところで夕食の席を共にしたいのじゃが」
「どう見たってコイツ、イヤがってたろ」
「はて」
腹の立つほどすっとぼけた「はて」であった。彼女、ジョセフィーヌは思わずサブイボの立ったスパンダムの腕をさすりながら一層彼にしがみついた。もうカクの鼻の先っちょも見たくないといったふうだ。しかし目を離せば何をされるかわかったものではないと、イヤイヤながら目だけは逸らさなかった。
それをわかっていてか、カクは随分上機嫌に見える。
「あーあーわァったよ!時間が合えばな!」
「その言葉、たしかに」
「ああ、主様言っちゃったよ……」
こうなれば嫌でも時間を合わせてくるのがカクである。それは暇さえあればちょっかいをかけにくるルッチとどっこいで質が悪い。苦手らしい分、ジョセフにとってはカクのその性質は堪ったものではないだろう。
「とにかく風呂だ風呂!!」
そう言ってぎゅむ、とスパンダムはジョセフを抱え直した。