天使の光に照らされるか悪魔との契約を受け入れるか
選択肢は二つに一つしかないだろう
美しくも醜いこの舞台で生き残りたいのであれば
「舞台の出演依頼?」
社長が唐突に持ってきた新しい仕事。それは東京ブレイド舞台化の話だった。役所は悪くない。あの東京ブレイドのメインヒロインならフリルの格には合っている。ダブルキャストという演出も面白い。すでに天才と呼ばれている不知火フリルと今注目を集め、天才を認められ始めている黒川あかね。2人を競わせるというのは一ファンとして興味深い。
問題なのはスケジュールだ。ただでさえゴールデンのレギュラーを掛け持ちし、映画やドラマもこなしているフリルのスケジュールはギリギリ。コレに長期間かつ長時間稽古の時間を取られる舞台の出演など不可能だ。一ファンとしては興味深くてもマネージャーとしては許可できない。社長もわかっているはずだ。
「断ったんですよね?」
「いいえ。約束したでしょ?仕事を受けるか否かはこの子に話を通してからって」
「フリル、貴女が仕事を断らない主義なのは知ってる。けど今回は物理的に不可能なの。断るけど、構わないわね?」
「…………社長。ダブルキャスト、男の方の主演は誰ですか?」
「ソレを聞かないでイエスノー決めて欲しかったんだけどなぁ」
社長からのその一言でゾッとする。半年前からフリルに付き纏い始めた…というのは身内視点の言い過ぎかもしれないが、あの美しい疫病神の姿が私の脳裏に過ぎった。
───そして、私が連想してしまったということは……
この聡明な美少女の頭にも当然浮かんでいることだろう。目の色が変わったことがそれを何よりも雄弁に語っている。
「ブレイド役は姫川大輝と星野アクア。このダブルキャストよ」
「出ます。白河さん、スケジュール何とかして」
「フリル!貴女いくらなんでも星野アクアにこだわり過ぎよ!彼が貴女の興味を惹くだけの才能なのは認めるけど好奇心でこれ以上無茶してどうするの!まだ『今ガチ』の爪痕も癒えたとは言い切れないのに!」
そう、あの時も相当に無茶をした。全てのロケに出演したわけではなかったけれど、できるだけあのリアリティショーを優先してしまったがために各所に借りを作ってしまった。今はその返済の真っ最中。完済したとは言い切れない状況だった。
「白河さん、ごめんなさい。でも私この舞台に出れなかったら絶対後悔する。アクアが主演の姿を見て、私の想像を超える演技をする彼を見たら……どうして私はあの場に立ってないんだろうって、どうしてアイツのヒロインが私じゃないんだって、絶望する。そんな感情引きずっていつもの仕事ができるとは思えない。アクアのためじゃない。私の将来の為だと思って、スケジュールなんとかしてください。お願いします」
タレントとマネージャー。あるところまではマネージャーの方が優位だと思う。けれどタレントに人の人生を変える力を持たれてしまえば、力関係はあっさりと逆転する。このセリフを言われてはマネージャーに出来ることなど、溜息を吐くくらいだった。
「レギュラーに幾つか穴開けるわ。あとレコ大用に書き下ろしてもらう予定だった曲、貴方じゃないグループに譲る。それでもいい?」
「全然構わない」
「貴方が構わなくても事務所が構うのよ。一体いくらの損失になるか…」
「いずれ私が絶対返すから。お願い白河さん、愛してる」
両手を合わせてウィンクする我らが看板タレントにマネージャーはもう一つ大きく息を吐いた。
▼
俺にとってこの舞台はかなり気に入らないものだった。
ララライが主体となって行われる演劇『東京ブレイド』。今日本で最も話題な漫画と言って過言でない作品。その舞台に鏑木さんのツテで呼ばれたまでは良かった。
不満なのはその後に発表された配役についてだった。
主演級がララライの役者なのは仕方ないと思う。彼らが演者の半分を占めるんだし、メインどころが彼らになるのは必然だ。だから姫川大輝や黒川あかねが主人公とヒロインをやることについては文句ない。
不知火フリルに関しては言うまでもない。推しも押されぬ日本一のマルチタレント。歌って踊れて演技もできるのはプロの目で見ても明らか。彼女に文句を言える若手芸能人など、今の日本に存在しない。
気に入らないのは、この2人だ。
1人は星野アクア。最近やたらとその名を耳にするようになった俳優。共演するにあたって少しこの男の事を調べてみたが、やっていることは炎上商法に便乗商法。その都度話題の人間に乗っかって、安全圏から小賢しく立ち回る、いわゆる他人の褌で相撲を取るばかり。そんな男が2.5経験豊富なこの鴨志田朔弥を差し置いて主演級を演る。気に入らない。実に気に入らない。
けれど百万歩譲って、星野アクアはまだ許そう。今回の渋谷抗争編、ブレイドの前半の年齢設定は15〜6歳。22の俺がやるにはちょっと無理がある。それに『今ガチ』の動画も見た。星野アクアは確かに非凡な才能を持っている。異常な没入による感情表現はほぼ自己催眠の領域。故に繊細すぎて演劇で通用するかと言われれば微妙だが、多くの演出家が欲しがるだろう逸材だ。大きい役で使ってみたくなるのもわかる。
わからないのは、もう1人の方だ。
鳴嶋メルト。モデル出身の鏑木組。役はキザミというまあ大きい役ではないが、出演者の少ない舞台に置いて名前ありの役。しかも出番は物語の序盤。小さくもない。それなのに1人ハッキリと下手。挨拶後の軽く本読みしているのを見ただけだがそれだけで充分わかる。役を掴めてる掴めてない以前の問題。素人に毛が生えたかどうか程度の演技。
───マジ消えろ
大嫌いだった。なんの苦労もしないで顔だけで仕事を取ってくるやつ。俺だってあまり人に誇れるようなプライベートはしていない。自他共に認める女好きだし、同業者のなかでもチャラい方なのはわかってる。
けどプロとしてやるべきことはやっている。
今回の舞台、裏方や上の方の気合が入っているのはわかる。それもそのはず。あの東京ブレイドが原作だし、コケたら絶対脚本のせいにされる。そのプレッシャーのおかげか、台本も実に面白い。演じるのは大変そうだけど、やり甲斐を感じる良い脚本だ。そして役者達は皆非凡な何かを持っている人達ばかり。星野アクアは気に入らないが、大きな役で使ってみたくなる気持ちもわかる。それだけのポテンシャルを秘めた役者だ。
その中で、一つだけ、だからこそ目立つ不純物。
上手い人たち、今一流と呼ばれる人たちを相手に、最高の原作と脚本で、思いっきりできるの期待していたのに…
大嫌いだった。なんの苦労も努力しないで顔だけで仕事を取ってくるやつ。下手に合わせる演技をしなければいけない役者とも言えないクズが。
大嫌いだった。
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スタジオの廊下を歩いていると、一組の男女とすれ違う。俺はその2人に見覚えがある……どころではなかった。いつもテキトーにやってなんだかんだ上手く行ってた多分今までの俺の人生で、初めて敗北感を刻み込んだ2人の俳優だった。
「メルトくん、久しぶり」
「…………オス」
有馬かなと星野アクア。9ヶ月前ドラマで共演し、いろんな意味で引け目がある俳優。あまり会話したくはなかったが、挨拶くらいちゃんとしなければまた同じことの繰り返しになってしまう。それにこの2人にはおそらく助けてもらわなければいけない場面もある。
「この公演、外部キャストは鏑木Pが噛んでるらしい。つまり俺たちは鏑木組ってわけだ。よろしくな」
仲間意識を持ってもらい、仲良くしようという意思を込めて挨拶したんだが……
「────」
「…………よろしくね」
無表情を決め込むアクアと、不安や心配がない混ぜになった有馬。返事にも変な間があった。
───『今日あま』の悪夢再び、とか思ってんだろうな…
不快だが、思われたとしても文句は言えない。この2人と比べられたら、俺なんて……
───絶対見返してやる
この9ヶ月で得た成長をぶつけてみせる。この微妙な顔と能面を驚愕に変えてやる。そんな決意と共にスタジオへ入り、深々と頭を下げた。
「キザミ役を務めさせていただきます。ソニックステージ所属、鳴嶋メルトです。よろしくお願いします」
▼
「キザミ役を務めさせていただきます。ソニックステージ所属、鳴嶋メルトです。よろしくお願いします」
腰を直角に曲げて頭を下げる少年を最後に、鏑木推薦組の挨拶が終わる。
今回の舞台は掛け持ちになる役者も多かったが、初顔合わせとなる今日、主要人物は全員揃っていた。
公演の責任者、雷田澄彰。演出家金田一敏朗。脚本家GOA。2.5次元俳優鴨志田朔弥。ララライの役者達。黒川あかね。姫川大輝。そして……
「不知火フリルです。よろしくお願いします」
───流石に顔合わせには来るか…
正直本格的に稽古始まるまでは顔見せないかと思ってたんだが。この辺りちゃんとしてるところがフリルが使われ続ける理由なんだろう。
「本当にフリルちゃんとやるんだね」
いつの間にか隣に来ていたあかねに耳打ちされる。その感想もわかる。あの不知火フリルとの共演など、若手芸能人なら誰もが夢に見る。事前にわかっていてもいざ目にすると信じがたくなるのも当然だろう。
「アイツとの共演は初めてじゃないだろう」
「今ガチとは訳が違うよ!今回は色んな意味でハッキリ敵対関係取るんだから!しかもこんな難しい台本で!うー、緊張する〜!!」
肩をすくめ、両拳を握りしめるあかねを見て、星の瞳の少年はフッと笑みを浮かべる。思ったより可愛らしい所作だった。
「流石のララライ若きエース様も不知火フリル相手はビビるか」
「アクアくんがいつも通りすぎるんだよ!あの姫川さんやフリルちゃん敵に回すっていうのによくそんな澄ましてられるね!」
「相手に合わせて演じ方変えられるほど器用な役者じゃねーからな。誰が相手でもオレができる事を頑張り過ぎねー範囲でやるだけさ。その代わり全力で。ベストを尽くして」
「アクアくんの一番優秀な才能はその腹の座り方だよね。どんな相手でも状況でもブレない芯があるっていうか、いい意味でマイペースを崩さないっていうか……自信の裏返しなんだろうけど、羨ましいなぁ」
「自信なんてねーよ。ただでさえオレって共演者無自覚に振り回すタイプらしーし、この大舞台が初舞台。しかも難易度激高のキラーパス台本。多分迷惑かけまくる。その時はフォローよろしく、相棒」
「──うんっ!任せて!相棒!」
甲高く手のひらを合わせる。笑顔でハイタッチを交わす姿は微笑ましくも愛らしい。
2人が彼氏彼女なことはこの場にいる全員が知っている。ほとんどがリアリティショーのビジネスカップルなどもっと表面的かと思っていたが……
「仲良いんだな、あの2人。付き合ってるんだっけ」
鳴嶋の感想はほぼ全員共通しているものだった。そのことに好感を持ちこそすれ、悪感情を持つものもいなかった。
たった1人を除いて。
「はっ!番組の演出上そうなってるみたいね?でもあくまでビジネスみたいよ?!そりゃキスまでした相手とすぐ疎遠になったらファン受け悪いでしょうし!」
「有馬さんはアクアとあかねの関係否定派?2人の役は前半主従で後半許嫁だけど、どっちもカップリング要素はある。狙ってのキャスティングは気に入らない?」
「当然でしょ!役者のリアルと板の上をリンクさせるってノイズになるし!基本的に観客が持つ情報は一律な方が広く刺さるのに!プロモ側がそういう意味あるかわかんないちょい足し好きなのは2世紀前から変わらないのよね!あーやだやだ」
「2世紀は言い過ぎじゃない?せめて半世紀くらいだよ」
「…………お前、よくそんな言葉遣いできるな」
「は?」
言葉の意味がわからず振り返る。するとゾッと血の気が引いた。鳴嶋に向かって話しているつもりだったのに、背後にいたのは泣きぼくろの美少女。不知火フリルだった。
「あ、あのっ。そのっ──」
「気にしないで。私の方が年下なんだし。素の有馬さんで接してくれたら嬉しいな」
「あ、りがとう、ございます」
「敬語もいらないのに。まあ好きなように話しかけてね。さて、私もあの2人邪魔してこよーっと」
足早にアクア達の元へと向かっていく。アクアの背後から丸めた台本で蜂蜜色の頭を叩く。眉間にシワを寄せたアクアが二、三言話すとアクア自身も台本を丸め、殴ろうとしたが防がれる。そのままチャンバラが始まってしまったが、2人の間にあかねが割り込んで小競り合いを止めていた。
「…………不知火フリルがアクアを好きっての、マジなのかな」
「アイツってホントややこしい女にばっか好かれるわね」
「………………」
「なによ?」
「別に」
「それにしても、アンタあの時とはずいぶん雰囲気変わったわね。挨拶もちゃんとしてたし。ちょっとは痛い目にあった?」
「…………あったよ。ちゃんと」
目を逸らしながら嘆息する。あの地獄から9ヶ月が経った。酷評を見る機会も自分の演技を振り返る時間もたっぷりとあったはず。そりゃ少しは変わりもするか、と心中で納得した。
「───お前ら2人の演技、見たからな」
「私達?」
「……今日あまの時、最終回以外ワザとヘタにやってたろ」
「──へぇ、気づいたの」
「最終回との差を見りゃイヤでも気づくさ………最初からあんなふうに演ってくれてたら、俺だって……」
「変わってたと思う?」
「…………思わねーけどさ」
───思ったより客観的に自分を見れてるわね
正直彼がキャスティングされているのを見た時、『今日あま』の悪夢再び、と思わずにはいられなかった。アレが初めての演技だったとか、そんなことはプロである限り言い訳にならない。今もあまり彼の演技に期待してはいないが、かつては自分も通った道。少しは暖かい目で見てやろうという気にはなった。
「前半はアクアがブレイド。私との共演も多い。ちょっとアイツがどんな感じで役作りしてるか聞いてくるわ。貴方は見学してなさい」
「見学って……アクアの真似して盗めっていうのかよ」
「言わないわよそんな無茶な事。真似する必要はないわ。でも、知っておきなさい。ああいう才能もあるんだって事。いつか必ず役に立つはずだから」
台本片手にフリルとあかね、アクアの3人で話しているところに突撃していく。自分も行きたかったが、それを実行するには自身が非力過ぎることくらいはもうわかっていた。
▼
「あんた達いつまで遊んでんのよ」
いきなり頭叩かれて喧嘩売ってきたフリルとチャンバラしているうちにいつの間にか有馬も近くに来ていた。台本片手に自身の肩を叩いている。
「雑談も結構だけど本読みの準備くらいしたらどうなの?アンタ達ちゃんと演じるキャラ掴めてる?」
「大枠」
「当然」
「私も、自分なりに」
「どうだかね。確かめさせてもらうわ。アクア、打ち合わせするわよ」
「え。オレだけ?」
「当然でしょ?前半は私達共演シーン多いんだから」
「それはあかねもだろう」
「…………アンタも来る?」
「もちろん!」
「ならサッサとやるわよ!準備して!」
「はいはい……ったく、めんどくせーな」
「演技への情熱すごいねぇ。流石は元天才子役」
少し離れた隙に小声でぼやく。有馬には聞こえていなかったようだが、感覚器官がオレ以上に優れた泣きぼくろの少女の耳には届いていたらしい。
「……細かいことグチャグチャ言われそう」
「アクアって演技の話は苦手?」
「苦手とまでは言わねーが……オレの話って、理解されないことがほとんどだからな。ふざけてるとか馬鹿にしてるとか誤解される事も多い」
「バード・アイの持ち主はこの世界でも
「トリップはともかく、バード・アイ?」
「鳥瞰視点。雲の上から全体を俯瞰してるような感覚。アクアにもあるでしょ?」
ある。調子のいい時に限って見える、天の星から見下ろしているような感覚。他人に話しても理解されなかったこの感覚に名前があったとは知らなかった。
「アクア!何してんの!始めるわよ!敵とベタベタしてないでサッサと来なさい!」
「はいはい」
「はいは一回!」
「やっぱめんどくせぇ」
「面倒な女、好きなくせに」
「うるせ」
有馬とあかねとオレ、そして何故かまだ出番は先のはずのフリルまで交えて談義に入る。いちいち細かいと思う事もあったが、意外と有意義だった。
▼
「それじゃあ、本読み入るぞ。全員集まれ」
演出家の金田一さんの集合がかかる。雑談や仕事、舞台の話をしていた面々は一度切り上げ、スタジオの中心に集まる。もちろんアクア達も例外ではない。
「行くか」
「ちょっと待って……」
───あ、変わった
目を瞑るあかねの雰囲気が変わる。健気で儚い、けれどどこか高貴な風格。ブレイドの巫女として厳格に育てられたシースに相応しいオーラ。
「行きましょう」
「ああ」
───はいったな。憑依の前に一度目を瞑る、か。トリガーを作るっていうのは良いかもしれない
オレは気がついたら勝手に潜ってるタイプだから、意識的に憑依りこむってのはあまりしたことがなかった。けれど今回は二役。ブレイドと刀鬼、それぞれで没入しなければいけない。今までのオレのやり方ではブレイドに憑依りっぱなしになってしまいかねない。
「次、星野。ブレイドが初めて刀を手に取るシーンから」
声がかかる。返事の代わりに目を閉じ、ブレイドのキャラクターに想いを馳せる。
東京ブレイドは主人公が一振りの刀を手にするところから始まる。異質な力を持つ極東に集った21振りの刀【盟刀】。持ち主に様々な力を与える異能の武器。全ての【盟刀】が最強と認めた剣主には国盗の力がもたらされるという。
この時のブレイドはまだ盟刀を持っていない流離の旅人。剣の心得はあれど、戦士としての気構えはない状態。新しい力に夢と希望しか持っておらず、まだ何も背負っていない天真爛漫な青少年。鮮明にイメージできる。東京ブレイドの考察に関してはこの場にいる誰よりも深い自信があった。潜るのは難しくない。問題なのは浮かび上がる事。
あの養護施設で掴んだ、そしてアレから一週間訓練し続けた感情表現を意識する。ブレイドの初登場シーン。どんな感情を表現すれば喜んでもらえるか。観客、共演者、監督、環境、感情の源である愛を周囲全てに捧げる。
───うん、こうか…
暗闇から放たれた世界はすでにありふれたスタジオなどではなく、風荒び草木茂る広野だった。
▼
真っ先に異変に気づいたのは有馬だった。渋谷抗争編冒頭。盟刀をシースから受け取ったブレイドは偶然居合わせたつるぎと戦うシーンから始まる。
───えっ
星の瞳が見開かれる。同時にアクアの蜂蜜色の髪が揺れた。スタジオという密閉空間。風が吹くなどあり得ない。だけど有馬は確かに風を感じた。
ブックカバーを見れば中身がなくとも本の厚さがわかるように。
ケースを見れば包丁の刃渡がわかるように。
アクアの……いや、ブレイドの所作、身体の揺れ、佇まい、服のたなびき、そして揺れる髪が、あるはずのない風を連想させたのだ。
───コレが、今のアクア?
異常な没入。人格からすでに別人と化してるのが、この段階でわかる。深く潜り、戻ってくる。水面から全身が浮かび上がる、どころではない。周囲の環境すら動かす、表現力。
───見える……聞こえる……
高原に吹く風の音。剣を手にした動揺。重さと鈍さ。そして──
『なんだ、これ……光って──』
少年の瞳が映す、鞘から放たれる剣の輝きが、見える。
───あの時とは、まるで別人……
有馬かなに動揺が走る。今ガチの時に見せた神がかり的演技。アレがアクアの最高値だと思っていた。リアリティショーなどで演技力が上がるはずがないし、あかねの救済動画も見たが、客観視を身につけたくらいで、あとは『今日あま』の時と大きく変化はなかった。
アレから数ヶ月。何かを身につけるにはあまりに短い時間。その短期間でチューンアップしてきた。演劇という舞台で通用する表現力を。
───俺を差し置いての主演、ムカつくと思ってたけど……
鴨志田朔弥も、認めざるを得なかった。ポテンシャルで言えば自分など遥かに凌ぐ、姫川大輝に肩を並べうる大器だと。
───何者だ、アレは
監督金田一敏朗の背筋に冷たいものが宿る。才能にはいくつか触れてきた。有馬かなや黒川あかねがソレだ。才能を数値化するなら星野アクアは彼女らと大きく変わらないだろう。
なのに、彼からは有馬や黒川からは感じない何かを感じる。人の心を掴み、暴力的なほどの力で奪う何か。オーラ?カリスマ?間違ってはいないが正解ではない。何かがあるのではない。きっと何かが欠けている。その欠けた隙間に人の心を吸い込むのだ。
───恐らく姫川やフリル……あの女と同種だろう。噛ませとはいえ、主演に抜擢されるのも頷ける。その価値がある才能だ
「…………なんだよ」
鳴嶋メルトは唇を噛んでいた。目の前の男と自分との差。この9ヶ月、自分なりに勉強してきた。あの頃よりは上手くなった自覚がある。俺とアイツの差は縮まっていると思っていた。
まるで違った。
この9ヶ月で進歩するのが自分だけなはずはなかった。俺みたいな怠けた亀が今更急いだところで、勤勉なウサギとの距離が縮まるわけがなかったんだ。
『真似する必要はないわ。でも知っておきなさい。ああいう才能もあるんだってことを』
真似なんてしない。しようとも思わない。だって出来ない。時間の無駄だ。それくらいはわかる。
───でも、どうすりゃいいんだよ
同世代の若手俳優。この舞台に限らず、彼とはこれからも争い続けなければならない。ソレはわかってる。でも、どうすればいいかわからない。こっちが十進んでる間にあっちは百進む。こっちが一休んでる間にあっちは千進む。俺が戦わなければいけないのはそんな怠けないウサギ。
───どう戦えばいいんだ。あんな天才と。
「あはっ……」
亀がウサギを恐れる中、ウサギと同種の、そして現時点でアクアの遥か先を走るウサギは歓喜に笑う。今は本読み。出番がある人間以外が声を出してはいけない。そんな事、百戦錬磨の不知火フリルは誰よりもわかっている。だけど止められない。溢れる笑みが抑えられない。震える身体が静まらない。腹の底から興奮と恍惚と言葉にし難い何かが湧き上がってくる。
───コレがあの後、あかねとの
「素敵」
スケジュールを押してでも。いくつかのゴールデンのレギュラー番組を休んででも。大御所プロデューサーがレコ大向けに書いた歌唱曲の担当を蹴ってでも、この舞台に立つ事を選んで良かったと、心の底から思う。
本読みの段階で私の想像など遥かに超えた。本番ではどこまで化けるかわからない。今までの成長を見過ごしただけでも既に悔しいのに、そんな過程を間近で見る機会を自ら失うなど、考えただけで惜しすぎる。
「…それでこそ、それでこそ私の、
この感情を忘れない。歓喜、狂喜、興奮、後悔、嫉妬、そんな言葉では片付けられないこの想いを忘れない。
───きっといつか、私をより美しくしてくれる。そのために必要なモノのはずだから。
ほっそりとした美しい指を顔の前で合わせ、両手を組む。一挙手一投足を見逃すまいと日本最高のマルチタレントは前のめりになった。
誰もがアクアの豹変に動揺していた。恐怖、嫉妬、歓喜、感情は様々だったが、心が揺さぶられていた。
ただ2人。
『貴方様こそ神託の剣主。【盟刀・風丸】に選ばれたお方。わたくしの主様でございます』
彼に侍る『剣の巫女・シース』が憑依している黒川あかね
『風丸が渡ったか……ならばいずれその者と雌雄を決する日が来るだろう。俺がこの【盟刀・雷斬】を持つ限りな』
ブレイドの宿敵『姫の懐刀・刀鬼』として振る舞う姫川大輝だけだった。
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