貴女は奴隷が支配者に変わる瞬間を見るだろう
星をなくした子の手を放してはいけない
もう貴女は降りられない地の底に来ているのだから
季節は秋。葉が紅に色づき、森は美しく彩られる。紅葉を求め、登山道に足を踏み入れる人も多く、山の中は観光客でひしめいている。
しかし、今この時に限ってはそういった人はいなかった。それも当然。空は鈍色の分厚い雲で覆われ、全身を冷たい雨が濡らす。雷鳴も至る所で轟き、打ちつける風は立っているのも困難なほど。まさに嵐山。こんな悪天候の中で登山など自殺行為と言っていい。
しかしそんな自殺行為を進んで実行している2名がいた。
「お前はこなくてもいいんだぞ。むしろ帰れ」
「貴方1人にして何かあったらどうするの。主演が怪我でドタキャンなんてしちゃったら舞台そのものがポシャる可能性もある。それに言ったでしょ。今度は私の番だって」
「…………勝手にしろ」
名前は星野アクアと黒川あかねと言った。
▼
トンネルを抜けるとそこは、から紅に彩られた街だった。
車から降り立った星の瞳の少年は胸を大きく膨らませ、深呼吸する。自然が近くに溢れているだけあり、空気の良さは東京とは比べ物にならない。
けれど共通点もある。山の中だというのに人口の密度が結構高いことだ。
有名な観光地であるがゆえの、避けられない宿命。まして今は紅葉シーズン。平日であっても人の流れは存在し、多数の観光客が人波を作っている。
そんな山の中に星野アクアは訪れていた。もちろん観光などではなく、仕事だ。
「アクアくん、行こう」
「ああ」
今日は番宣。舞台東京ブレイドの宣伝。稽古場を離れ、ブレイドとシース、そして刀鬼と鞘姫をダブルキャストで演じる主演組は秋の京都を訪れていた。なぜこの場所かというと、東京ブレイド渋谷編における修行パート。ブレイドが盟刀の扱いを学ぶ場所のモデルが此処だからだ。
「オレこんな事してる場合じゃねーんだけどな」
刀鬼の衣装とメイクを施された星野アクアは嘆息する。頭の中は先日の稽古で言われた事でいっぱいだった。
『星野、やめろ』
この舞台稽古が始まってから、少し経つ。本の読み合わせも終わり、背景や音響に合わせての稽古が始まっていた。
より本番に近い稽古が始まってからしばらく、今まで一度も注意らしい注意をされたことがなかったアクアが初めて明確にやめろと止められた。
『形から入りすぎだ。音が入ったから音に合わせて演技してる。合わせようとするのをやめろ』
この辺りはかつてレンからも注意された、アクアの癖の一つだった。バンドマン時代、ドラムという伴奏役を務めることが多かったアクアは誰かの演奏に合わせるということに慣れきっている。確かに伴奏である以上、人に合わせる演奏は正解なのだが、アーティストとしてはそれだけではいけない。もっと自己主張をする演奏というのも必要になる。そしてそういう演奏がアクアは少し苦手だ。『もっと自分本位にやっていい』と何度も言われてきた。
『この風を巻き起こし、雷鳴を切り裂く衝撃はお前が発してる。発しているお前が音に従ってはダメだ。音がお前に従わなければいけない』
難しいことを言う、と思った。カメラ演技では経験しないことだ。ドラマなどでは音響など撮影の後で編集されるもの。自分が何か演じている時にわざわざ音を立てたりしない。むしろ逆。効果音や背景の音など撮影中に入ったら間違いなくカットされる。出来るだけ無駄な音は立てないのがカメラ演技だ。
『お前、自分が経験してない事できないだろ』
その一言に少しムッとする。そんなことはない。経験はなくてもイメージはできる。できていた。だから今まで俳優をやってきた。
『ブレイドも刀鬼も普通の人間じゃない。現実ではあり得ない超常の力を持ってる。いくら内側と向き合い続けてもイメージの力は育たない。お前に今必要なのは外側の想像力だ』
───外側の想像力って言われてもな…
『冒頭はできてた。表現力がちゃんと環境まで行き渡って、観る者にイメージを見せられてた。だがあれはお前が経験しうる事象だったからだ。異能の力を使う場面や戦闘のシーンになるとダメ。アレじゃ大きく動いてるだけだ』
迫がないんだよ、お前の殺意には
「監督も厳しーね。あそこまで言わなくてもいいと思うけど」
シースの格好をしたフリルがいつのまにか隣に立っていた。どんな格好をしてもコイツは綺麗だが、この女に従者は似合わねーなと感じる。何考えてたか読まれたことに関してはもう何も思わない。コイツは妖怪だ。
「妖怪はこんな事で悩まねーんだろうな。オレってほら、いたって普通の善良な人間だから」
「私の
「珍しくフリルちゃんに同意」
十二単のような和服に身を包む美少女が軽く手を上げて同意を示す。名前は黒川あかね。務める役は鞘姫。渋谷クラスタのトップ。姫と呼ぶに相応しい威厳と美しさを持つ鬼女。
流石に様になってはいるが、どっちかというとあかねよりフリルの方が鞘姫に合っている気がする。いや、フリルだけではない。オレもブレイドより刀鬼のような影のあるキャラの方がやりやすい。
───多分、その辺のギャップ狙ってるんだろうけど
合わない役。初めての舞台。そこに加え演技に迫がないと言われた。頭を悩ませずにはいられなかった。
「確かに難しいこと言ってたけど、金田一さんがあんなに厳しいのは見込みのある人だけだから。期待されてるんだよアクアくん」
「期待、ね」
模造刀を手に取る。撮影用に用意された小道具だ。刀の扱いは勉強した。少し離れるように手振りで指示する。刀の鯉口を切り、抜き放つ。袈裟斬り、切り上げ、しばらく振り続け、納刀した。
「おぉ〜」
「お見事」
パチパチと軽い拍手が起きる。そう、刀を振ることは出来る。この経験から刀の重さをイメージし、振った時の煌めきを思い起こし、演技することは出来る。
───だが、人を薙ぎ倒すような風を吹かせる刀を扱った経験はない。
その刀を人に向けて振るったことも。誰かに本気の殺意を抱いた事もない。まあ刀鬼はともかく、ブレイドは殺すまでは考えてなさそうだが。それでも振るえば間違いなく人に大怪我をさせる武器を振るった経験などない。イメージも難しい。原作読めば絵は見られるが絵と現実はやはり違う。リアルのイメージができなかった。
───芝居の中では盟刀・風丸も雷斬も自在に扱えなければいけない。
フリルは自分の魅せ方をわかっている。その表現力を演劇で通用するレベルに調整した上であのオレに鳥肌立たせた感情演技もモノにしてきた。
あかねは舞台経験豊富だ。ファンタジーも当然演じたことがある。空想の中に自分をリアルにイメージできる。結局経験に勝る武器はない。
だがオレは違う。
『今日あま』の時も、『今ガチ』の時も。今までオレはずっとリアルを演じてきた。だが今回の舞台は
「不知火さん、黒川さん、星野さん、撮影始めます。準備してください」
「はい」
「名前呼ぶのオレが最後か」
「悔しい?」
「ムカつく」
刀を腰に差す。ずっと同じ場所で待機していた姫川さんと合流し、宣伝用の撮影が始まる。4人それぞれで撮ったり、一緒にポーズ取ったりと、思ったより時間が掛かった。
▼
「はあ、まあそんな感じです」
撮影が終わり、雑誌記者から舞台に向けてインタビューが行われる。すでに終わったアクアやフリルは衣装を着替え、メイクを落とし、ひと段落していた。今は姫川のインタビューを遠目から見ていたのだが……
「インタビュー成り立ってんのか、アレ」
「ははは……姫川さん相変わらずだなぁ」
「インタビュアー泣かせだよねぇ」
ハアとかまあとか生返事ばかり。表情も能面。撮影の時はちゃんとしてたのに。カメラの前では人が変わるというのは役者にはある話だがこの人はちょっと極端だ。
「よくアレで芸能界生きていけるな」
「役者は芸術家だからね。ああいうキャラもウケる層にはウケるんだよ。才能があれば」
役者にもコミュ力は必要。しかしそれと同じくらいキャラクターも大事だ。俺様キャラの人が急に遜った態度を見せればガッカリする人はガッカリするだろうし、普段ファンサービスが丁寧な人が塩対応をしたらSNSで悪口くらいは書かれるかもしれない。通常はマイナスの性質でも貫き通せば個性になる。
「今回はブレイドと刀鬼という正反対と言ってもいいキャラクターをダブルで演じられるわけですが、難しさとかはありませんか?」
質問が聞こえてくる。オレにはしてこなかった質問だ。主演に抜擢された感想は、とか不知火さんとはどういう関係なのかとか、どっちかというと私的な質問ばかりで、仕事に関することはあまり聞かれなかった。
───この舞台の主演はオレ達4人。だが主人公は違うってか。
主人公は姫川大輝と不知火フリル。そう言われたも同然だった。
屈辱感と興味が湧き上がってくる。オレがこの質問をされていたら綺麗に答えることはできなかったかもしれない。姫川大輝ならどう答えるんだろうと気になった。
「別に難しくはないです。そこに難しさを感じてたら俳優なんて一つの役しかできないでしょう」
さらりと答えた。続く。
「人間歳を取れば取るほど雁字搦めになる。子供の頃は何にだってなれるって誰もが信じていた。漫画の世界の主人公にも、悪役にも、なんでも。たとえ演技としては低いレベルだとしても本気でそう思っていた。だけど歳を重ねれば常識ってやつが身について、常識外のことはできないって思うようになる。俺は役を演じる時、そうならない事だけを考えてる。それができれば役者はなんだってできる」
芝居の世界に、限界はないのだから
目から鱗が落ちる気分だった。
オレはずっとオレであることに拘り続けてきた。星野アクアであることを心がけ続けていた。星野アクアならする事、しない事。星野アクアなら言いそうな事、言わない事。常に意識していた。だがそれはある意味自分で自分に制限を課していたようなものだった。
星野アクアという現実の常識の鎖で縛られたまま、
「───あ」
フリルの視線が外へ向く。窓にはいくつもの水滴がへばりついていた。撮影した時は晴れていた空がいつのまにか分厚い雲に覆われている。
「山の天気は変わりやすいってホントだねー」
「撮影終わった後でよかった」
日没も過ぎた時間だったし、薄暗くなっていることに誰も違和感は感じなかった。
───今日は、星が見えないな
ならきっとアイも今はオレのことを見ていない。らしくないことをするならいいタイミングかもしれない。
「オレ、今日こっち泊まる。あかね、明日の稽古はサボる。監督に言っといてくれ」
「は?アクアくん何言ってるの?え?どこ行くつもり!?」
スタッフにライターを借り、雨合羽を着て外へ出ようとするアクアの肩をフリルが掴んだ。
「何か思いついたの?」
「今日ならよく見える。自身の身体を薙ぎ倒すような風も、視界を埋め尽くす雷も、今夜ならたっぷり感じられる。感じたいんだ。盟刀で斬られる感覚を」
「宿の外で感じたら?」
「できるだけ人工物がない場所で感じたい。ブレイドや刀鬼と同じ場所を見てみたい。溺れてみたいんだ。頼む」
「…………ならせめて私も──」
「ダメよフリル。貴女はもうこれ以上仕事に穴を開けるのは許されない」
「でも……白河さん。私はこれを見る為に───」
「もうこちらは充分譲歩したわ。これ以上はプロじゃない。恋に狂った乙女のワガママよ」
白河さんが止めに入る。当然だ。稽古以外特に予定のないオレと違ってフリルは明日も仕事がある。ましてこの舞台に出る為にまた相当無茶をしたはずだ。これ以上のバカなマネが許されるはずがない。
「元々誰かを付き合わせるつもりはねーよ。お前らはサッサと帰れ」
「でも貴方に何かあった時のためのお目付け役は必要だよね」
「…………は?」
思わず間の抜けた声が出る。振り返ると雨合羽を着込み、完全防備を整えたあかねがオレの隣に立っていた。
「私も明日は稽古以外仕事無いし。姫川さん、私とアクアくんは一日欠席って伝えておいてください」
「いやお前、何言って───」
「順番が来ただけだよ」
何かを言おうとしたアクアの口元に人差し指を立てて遮る。青みがかった黒髪の美少女は笑みを浮かべて左目を閉じた。右目に眩い星の輝きを放ちながら。
「そういえばまだお礼言ってなかったね。あの嵐の夜、アクアくんは私に会いに来てくれた。私と溺れてくれた。本当にありがとう。今でもすごく感謝してる。あの時星野アクアがいなければ私はもうこの世にいない」
これは比喩でも大袈裟でもなくその通りだ。あと一分、アクアが来るのが遅れていたらあかねは歩道橋から飛び降りて車がひしめく国道に叩きつけられていただろう。
───あの時、アクアくんは命を懸けてくれた
「今度は、私の番だよ」
フリルちゃんとキスをするアクアを見て、どうしようもなくこの人が好きだと自覚した時、誓った。どんなことがあってもこの人と一緒にいると。駆け上がる時も堕ちる時も運命を共にする、と。
俳優は人気商売だ。一つ一つの仕事が命懸けで、いつ芸能界から消されるかわからない。今星野アクアは東京ブレイドの主演であり、この舞台に懸けている。
もうアクアくんは舞台俳優としても一流だ。今の演技力のまま、本番を迎えたとしても、絶対に批判などされない。
しかし彼はそれで良しとしない。一流の上にいる
まだまだ上を目指し、殻を破ろうともがいているこの人を、尊敬している。
神様みたいなこの人を、心から愛している。
「行こうよ、溺れに」
手を差し出す。曇天の中でも眩く輝く黄金を溶かしたような髪をグシャグシャと掻きむしると、星の瞳の少年は諦めたように息を吐き、自身の彼女の手を取った。
▼
雨の中を歩き始めて数十分。登山道へと差し掛かろうとした時、私はついに彼の肩を掴んだ。
「アクアくん、ここまで。これ以上はダメ」
雨の登山は本当に危険だ。視界は悪いし足元も滑る。どちらか片方怪我するだけで済めばいいが、2人とも滑り落ちて大怪我するなんてこと余裕であり得る。山の麓の小川のほとりだって充分危険だがここは近くに洞窟もある。いざとなったらここに避難すれば一晩くらいは保つはずだ。
「…………頂上まで行くつもりだったんだけどな」
「それは明日雨が止んで日が昇ったらにしよう。これ以上は共演者としても彼女としても譲れない。自殺行為から自殺決行になっちゃう」
「わかったよ」
2人で洞窟に入り、濡れないようゴム袋の中に入れていた着替えやライター。火を起こす道具などを取り出す。雨具は一応着てきたが、この雨ではそんなものほとんど役に立たない。下着までグッショリと濡れていた。
───あの時と同じだな
違いは今回はちゃんと着替えがあるという事と寝袋などのキャンプ用品も借りられたこと。観光名所なだけあってその手の道具には困らなかった。
「お前は先着替えてろ。オレは外に出てる」
「…………山登っちゃダメだよ?」
「あかねの目の届く範囲にしかいかねーよ。心配すんな」
雨具を脱ぎ、外へ出ていく。少し歩き、小川の辺りで止まったのを確認してから着替えを始めた。
───あ…
着替えながらも、できるだけアクアくんから目を離さないようにしていた。油断すると彼は山に登りかねないから。すると雨の中でしばらく立ち尽くしていた蜂蜜色の髪の美男子は雨と戯れるように踊り始めた。
───綺麗……
秋とはいえまだ残暑が残る季節。身体を濡らす雨は中途半端なら気持ち悪いだろうが、あそこまで濡れると逆に心地良いだろう。アクアのステップとほぼ同時に雨粒が飛び散る。彼の髪を、服を、肌を滴る雫が舞い踊る。
綺麗だった。美しかった。
持ってきたカメラで動画を撮る。コレはフリルからの借り物だ。カメラが趣味の彼女はいつも持ち歩いているらしい。
『あかねお願い。アクアのこと、コレで撮ってきて』
出来れば生で観たいけど、できない以上コレがフリルができる最大限。気持ちはわかるし、私も綺麗なアクアくんをデータに残したかった。頼まれた雑用を特に不快には感じなかった。
「…………違うな」
ステップが止まる。かろうじて聞こえたその一言は私の頭に疑問符を生じさせた。
───何が違うんだろう?
アクアくんがやっていたことは多分自然現象を身体全部で感じ取ろうとしていたんだ。自身の経験から感情を思い起こし、憑依させるのがメソッド演技。自然のありのままを触れることによって盟刀が引き起こす超常現象を再現しようとした。間違ってないはずだ。それなのに彼の中では何かが違うらしい。
「コレじゃあただ雨に降られてるだけだ。オレが雨を降らせねぇと」
アクアくんの手の中に溜まった雫を振り払う。水飛沫は雨音でかき消された。
「アプローチの仕方は間違ってないはずだ。コレをもっとデカいスケールで、イメージする………」
開いた拳を握りしめ、じっと見つめる。何を想像しているのか、外側から見ているだけではわからなかった。
「あかね、お前はどうしてる?」
「どうって?」
「この世にあり得ない空想をイメージする時、どうやってる?」
「…………そうだね。私の場合は資料を読み込んだり、実際現地に行ってみたりして映像を目で見る。アクアくんが今やってることだね。そのあとは……実際に口に出してみるかな」
「実際に?」
「そう。例えば舞台が天空だったら、今私は雲の上にいて、それで──」
天空にいる私の身体中を風が取り巻いてる。
地に足はついてない。空を飛んでるから。
目の前は雲海が広がっていて、その上は真っ青な空。
太陽が輝き、太陽の下にはシンデレラ城みたいな城が飛んでいる。
「───実際に口にしてから目を開くとね。一瞬。ホント一瞬だけど、そんな世界が広がってる気がするんだ」
自己催眠。アクアは無意識のうちに、あかねはプロファイリングを重ねることでコレを行い、役に入り込んでいる。それはそれで凄いことだ。本番では台本にない言動は一切できないのだから。役者としては正しい。
が、実際に音に出すのとそうでないのとではイメージの鮮烈さに大きな差が出る。
ピグマリオン効果で実証された、優秀だと言われ続けた人間は本当に成績が上がるように。
酸っぱいものの話をされると口の中に唾液が溜まるように。
自己催眠を自己暗示の領域に押し上げることで、あかねは空想を強く具現化してきた。
「アクアくん、目を閉じて」
貴方は超常の力を宿す刀を手にしている。
その刀は風を巻き起こし、雨を降らせ、雷鳴を轟かせる。
風が貴方を包み込む。それは剣が織りなす息吹
風が立ち上り、打ち上げられた熱気は世界を曇天に変える雲
全身を濡らす雨は剣の光に誘われ、剣の熱を冷やす為に貴方が落とす雫
───さあ、目を開いて
心の中で口にする。聞こえたのだろう。他の誰に聞こえなくても彼には聞こえたはずだ。正しくイメージができているなら。
閉ざされた青い瞳がゆっくりと開かれる。星の光は目の前の光景をどう捉えているのだろう。わからないが、少なくともただ雨が降り頻る小川ではないはずだ。
何かを掲げるようにアクアくんが手を握る。それが何か、私の目には映った。
───刀だ
ブックカバーを見れば、中身がなくともその本の厚さがわかるように。
包丁ケースを見れば、中身がなくともその刃渡りがわかるように。
一流のパントマイマーがジェスチャーだけで観客に幻影を見せるように。
アクアくんの所作だけで、私には彼が刀を構え、大上段に振り上げている姿が見えた。
───ここまでは以前のアクアくんでもできていた。
問題はここから。今現在降っている雨を、彼が降らせていると私に思わせられるかどうか。刀を振り上げたまま静止するアクアくんの姿を、握りしめたカメラはしばらく映し続けていた。
───動かない?
そう思った次の瞬間だった。
世界が真っ白に染まる。反射的にあかねは怯み、眩しさに目を閉じてしまう。それとほぼ同時、地を揺るがす雷鳴がこだました。落雷したのだと頭が理解したのはしゃがみ込んでからだった。
このあかねの行動は人間として当然の反応だろう。フェンスにボールがあたれば誰だって身をかわす。膝を何かで叩かれれば無意識に足は上がってしまう。誰しも人間の反射からは逃げられない。
もしこの場で近くに落ちた落雷に動じないものがいるとすれば───
感情のない、あかねの手から滑り落ちた
この雷を落とした
一瞬だったが、あかねも見た。世界が白で塗りつぶされる中、僅かの反射も見せず、手にした刀を振り下ろすブレイドを。
地に落ちたカメラは捉えていた。雷が落ち、雷鳴が轟いても、まるで動じず、目も閉じず、自身を守るような挙動を微塵も起こさない星野アクアを。
まるで、この雷を、本当に彼が落としたかのように。
───アクアくんの芝居は、自らの経験を呼び覚まし、感情を作り出す。地味で、繊細で、あまりにリアルだからこそ背筋を凍らせる迫力のある芝居
不知火フリルは自分の魅せ方を心得た芝居。誰よりも眩く、美しく、規格外の存在感を放っている。
姫川大輝は迫力の芝居。役には憑依りこみながらも大袈裟でわかりやすい。その上で強烈な存在感で『俺を見ろ!』と言わんばかりのオーラを放つ怪物。
誰が優れているとは簡単にはいえない。けれど
───今のアクアくんがやったことは少し宗教的……狂信的といってもいいかもしれない。思い込みの極地
いま降っている雨も、自分が降らせたと思い込む。
偶然の落雷も、自分が落としたと思い込む。
世界に存在しない、少なくとも目には見えない幽霊や神様を、存在すると他者に芝居で訴えかけ、芝居で他者に信じ込ませる。
───凄い
洞窟に吹き込む風が、まるで彼が操っているかのように見える。実際はもちろん違う。風の流れに身を委ね、身体を動かしているだけだ。
しかしその動かし方が風とあまりに同化しているせいで。風よりも先にアクアが動いているせいでそう見える。そう見えてしまう。
『シース、何してる。火を起こせ。風邪ひいちまうだろうが』
『はいっ、申し訳ありません』
修行編の折、ブレイドの裸体に見惚れたシースへのセリフ。ゾクっと震える。初めての体験だった。私の意思に関係なく、まるで無理矢理シースに憑依りこませられたかのような錯覚に陥った。
───いや、今のは錯覚じゃないかも……
火を起こそうとする私を見て、アクアくんがフッと笑う。同時に手にしていた刀も消え失せた。
「なにマジで答えてんだよバカ。冗談だ。貸せ」
慣れた手つきでライターを扱い、小枝や新聞紙を集め、火をつける。炎が安定したのを確認すると濡れた服を脱ぎ、身体をタオルで拭いた。
「明日、雨が止んだら、朝イチで頂上まで登ろう」
「…………なんで?」
「今のオレなら、テッペンから見える景色、全部自分の意のままに動かせる気がするから」
そのセリフを傲慢と思えなかったのは惚れた弱みだろうか、それともまだ彼が創り出した
フリルちゃんから渡されたカメラを落としてしまっていたと気づいたのは、翌朝になってからだった。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
アクア覚醒。沼に沈むあかね。またも見逃すフリル。我ながらよくもまあこんなドロドロさせられるな、と思います。でも安心してください。まだまだトラブルは本気出してません。
それでは励みになりますので、感想、評価よろしくお願いします。面白かったの一言でも頂ければモチベーション爆上がりです。時間がかかっても感想には必ず返信します。