それは母となるための覚悟の時間
傷を受け入れ、傷つけることを覚悟するための時間
傷を絆にするための時間
アクアとあの旅行で再会して、別れてから、私は一週間後に退院した。
一度事務所に顔を出すと、社長は私の活動自粛の宣言と、アクアの移籍について語った。
「完全に活動休止って公表すると勘繰るやつも出てくるかもしれない。だから休止じゃなくて自粛にするわ。貴方も顔出ししないSNSの活動くらいならできるでしょう」
───話したんだ、アクア。社長に。
今後の方針を聞きながらも、私の頭の中はアクアの事でいっぱいだった。
アクアがウチに移籍すると言う事は、私達があの病院で出会ったことをアクアは社長に言ったということ。実質的な自首に近い行為。そのことをフリルは嬉しく思うと同時にとても悲しかった。
───どうして秘密にしてくれって頼んでくれなかったの?どうして責任なんて取ろうとするの?私関係ないって言ったのに。私の失敗だって言ったのに。貴方が黙っててって言うなら、私は口が裂けても貴方と出会ったことを社長には話さなかったのに!
そんなことができる男じゃないのはわかってた。貸し借りに厳しく、責任オバケな事も知っている。けれどそれでも、黙っていてくれと言って欲しかった。私に縋って欲しかった。特別扱いをされたかった。
「移籍に伴って、アクアには引っ越しをしてもらうわ。フリル、貴方も同じマンションに居を構えなさい。病院の個室並みの設備を整えるって、アクアと約束したからね」
出産の際、病院に行くのではなく、自宅出産をする事を私は決めていた。病院で産んだら誰の目に触れるかわからないし、知っている口がどうしても増えてしまう。この件に関しては社長とマネージャー。アクアと事務所と繋がりのある産婦人科医。必要最低限の少数だけにしか関与させたくなかった。
「関わる産婦人科医はこういった事態のためにウチとコネがある医者だし、念の為身元も洗ってあるわ。外に漏れる事はないし、漏れたとしても下手人はすぐ割れる」
「アクアと同じマンションにする必要は……」
「子供を産むにしても育てるにしても父親の助けってやつはどうしても必要なの。その辺りの協力は惜しまないって彼も言ってたわ。安全面と心情面の両方を考慮しても、これがベストよ」
このことにできるだけアクアは巻き込みたくなかったのだが、事務所も移籍し、同じマンションに住むとなると、もう巻き込まないは不可能だろう。これ以上は尽くしてくれる社長とアクアに申し訳ない。頼る時は全力で頼ろうとフリルも諦めた。
新しいマンションはすでに事務所が契約を結んでいた物件の一つなため、引っ越しにそこまで労力はかからなかった。医療設備に関しては素人が触れることさえ許されなかったし。
「…………すげぇな」
そしてアクアの引っ越しが終わってから、一度ウチに顔を出してきたことがあった。そして備えられた設備の凄さに感嘆していた。
「自宅出産するなら、これくらいは整えないとって」
「ほとんど病院と変わんねーんじゃねーのか?引っ越し業者の人変だと思っただろーな」
「医療設備に関しては技術者さんしか触ってないよ。素人がセットできるものでもないから」
「……まさか引っ越し立ち会ったのか?」
「ううん。白河さんがやってくれた。この部屋の名義も白河さんだし。私は身一つでここに来ただけ」
「そうか、良かった」
安心したように柔らかく微笑む。この件が発覚してから、アクアは私に妙に優しい。優しさは嬉しかったが、同時にちょっと寂しかった。私が相手であろうと物怖じせずに喧嘩を売ったり買ったり、煽ったり煽られたりする関係が好きだったから。
私を不知火フリルじゃなく、親友で、悪友で、ただの女の子として関わってくれるアクアが、大好きだったから。
「アクア」
「なに?」
「私のこと、そんな壊れ物みたいに扱わなくていいよ。そんなに優しくしなくていい。私は別に病人じゃないんだから」
真っ直ぐに見つめられた星の瞳は驚いたように目を見開き、そしてまた柔らかく笑った。
「大きくなってきたな」
「うん、もう六ヶ月だし。時々動いてるのも感じる」
ソファに座り、腹部を撫でる。アクアも隣に座って私の手を取った。
「ごめん、フリル。やっぱりオレは今のお前と昔みたいに接することはできねーよ。あの時とは違う。オレ達の関係は変わった。オレだってあの時間は好きだった。あの関係が好きだった。けどもうあの頃のようにはできない。ただ親友でいる事は、もうできない」
そうだ。わかってた。あの頃と今では私たちの関係は変わり過ぎた。私たちの想いも変わり過ぎた。あの頃、一緒にいるだけで楽しかった能天気な時間は過ぎ去った。子供でいられる時間はとっくに終わった。
今は焦がれるほどこの人に恋をしている。この人に愛して欲しいと願っている。そのために努力し、美しくあり続け、そして子を宿してしまった。想いが変われば関係が変わるのも当然だ。まして見てわかる最大の変化がここにある。
「オレはお前を大切に扱うし、お前を慈しむ。お前が辛い時には傍にいたい。必ずできるとは言えないけど、それでも想いは寄り添っていたい。それだけが、今オレがお前にできる
「アクア……」
「好きだよ、フリル」
「私も、大好き」
泣きぼくろが艶っぽい目尻から雫が零れ落ちる。唇が重なるのと、お腹で何かが動いたのを感じるのは、ほとんど同時だった。
▼
アクアがウチに移籍してから、私はその活動を追っかけ続けた。最初はラジオとかバラエティのゲストとか、少しずつ顔出しをしていくという感じの内容で、そこまで無理なスケジュールは組まれていないことにホッとしていた。
しかし、とあるきっかけで、アクアの仕事内容は劇的に変わってしまった。
『リバーシ・アイドル』
こんなことにならなければ、私が主演を務めるはずだった作品。代役で白羽の矢が立ったのはアクアだった。
事務所のことを考えれば無理もない選択だったとは思う。ゴールデンタイム放送枠の主演。キャンセルするには惜しすぎる仕事。そして私の代わりができるとすればウチの事務所どころか、芸能界全て見渡してもアクアくらいしかいないだろうというのもわかる。
けれど、できれば起きて欲しくない事態だった。これほど大きな仕事を受けてしまい、アクアがその才能を手加減せずに発揮してしまえば、どうなるかは私にはわかりすぎるほどわかっていたから。
代役NG一切なしという題目の下、ドラマの撮影と放送が始まり、放送のたびにアカウントにはアクアが全て演じている証拠動画やメイキング画像がアップされ、毎週万バズが発生した。
歌唱力、ダンススキル、そして演技力。共演者を輝かせ、そして自分はさらに輝くオーラ。星を愛する星が、白日の下に晒される。そして大手の力で広告は日本全国に轟いた。
生まれ持った爪と牙。研ぎ澄まし続けた12年。そして翼を与えられた天才が、世界に認知されるのはあっという間だった。
そこからはもうノンストップだった。あらゆるドラマやバラエティには引っ張りだこ。音楽関係の仕事も増え、バズが新鮮なうちに新曲やMVも発表される。春が訪れる頃には、もうアクアは日本中が顔と名前を知る芸能人となっていた。
「星野アクアマジかっこいいよね!」
「イケメンで歌も上手でギターも弾けて演技は天才!この人一体何を持ちえないの!?」
「羨ましいなー、黒川あかね」
こんな会話が街中で巻き起こっている。そう、アクアは今もあかねと交際関係を続けている。そしてそのことに関して、私に不満は一切ない。寧ろあかねとは別れるな、と忠告したくらいだった。アクアはもはや芸能界で成功し、これからも長く活躍する事をほぼ約束されたマルチタレントだ。フリーだったら絶対変な女も寄ってくる。公式が認めるカップルがいると言うのは少なからず虫除けにはなるはず(それでも構わずくる女もいるだろうが)。
それに彼女がいる男というのは女の目線で見れば意外とわかりやすい。清潔感とか、肌の艶とかでなんとなくわかる。あかねと別れたとしても私との関係がある以上、女の匂いを消す事はできないだろう。そしてその香りにマスコミは異常なほど敏感だ。嗅ぎつけたら全てを暴露するまで彼らはあらゆる手を使う。そうなった時、この子の事が露見する可能性はゼロとは言えない。
───それに私が身動き取れないこの状況では、今のアクアの目的に寄り添えるのはあかねしかいないと私も思うから
『いいのか?』
一度だけ、アクアが尋ねてきた事がある。このままあかねと交際関係を続けていいのか。恐らく公私共にあかねを優先することになり、フリルのことは二の次になってしまう。出産という大事業を抱えていながら、自分は真っ先に駆けつける事ができないかもしれない。あかねを優先する事があるかもしれない。それら全ての意図がこもった一言。いつもの綺麗な、澄まし顔の彼とはまるで違う。眉間に皺を寄せ、身体の一部が裂かれているかのような苦悶の表情を見せ、絞り出すような声で紡がれた一言。
アクアは基本的に嘘八百。口八丁手八丁の八方美人だけど、真性のクズではない。人並み程度には良識を備え、良心を持ち、人を裏切ることや人が傷つく事を嫌う。だからこそあかねを炎上から助け、有馬かなを舞台で救い、そして私にこうして気を遣ってくれる。
いいのか、と。
私はアクアの笑顔が好きだ。
自信に溢れ、追い詰められても余裕を崩さない、ニヒルな笑みが好き。
目的のためなら使える物なんでも使うスタンスが好き。
それなのに意外と人間臭いところもあって、いざという時は楽な道より困難な道に挑む背中が好き。
チャンスもトラブルも、どんな時も楽しそうにこなしてしまうこの人が好きだ。
だから、こんな顔は見たくない。
こんな辛そうな顔は、こんな苦しそうな顔は見たくない。
見たくない、はずなのに…
あかねのためじゃない。家族のためでもない。私のために、こんな辛く、苦しく、美しい顔をしてくれる事実に、今までの人生で経験した事がないほど、私の中の『女』が昂ってしまった。
身体が熱くなり、喉が渇き、飢える。目の前で火花が散る。世間に嘘をつき、彼女に嘘をつき、完璧で究極な星野アクアを演じ続けてくれる事が、そのいじらしさが、その愛が、愛おしくてたまらない。
「いいよ、アクア。私のために、この子のために、こんなに苦しんでくれてありがとう」
これだけで彼には全部伝わるだろう。私が彼の一言で全て伝わったように。
私はアクアの隣にあかねが侍っていても、構わない。
彼女とか、結婚とか、そう言った肩書は全部いらない。
そんなものが本物の絆にならないことを、私は誰よりもよく知っている。
あかねは何も知らず、恋人を続ければいい。
結婚だってすればいい。
子供だって作ればいい。
スポットライトの下で彼の隣にいる事で満足するなら、そうすればいい。
そんなものは、全部貴女にあげる。
その代わり、この人の一番大きな傷は、私のものだ。
───この子の名前………勿論アクアにも相談するけど。
この子の名前は、絆にしたい。
男の子でも女の子でも、絆にしたい。私とアクアの関係を本物にする子。私たちの一番大きな傷。私とアクアの傷で成る子。
故にキズナ。私とアクアの子供。傷で成る絆。
この
アクアはきっと、これからも傷を増やすだろう。一度嘘をついて仕舞えば、その嘘を隠すためにまた嘘が必要になる。嘘をつくたびに傷はきっと増える。生々しく、痛ましく、甘美なその傷は私が癒す。私が愛する。
「あなた、愛してる」
真一文字に結ばれたその唇に向かって、私は少し背伸びをした。
▼
リバドルがクランクインを迎えて少しすると、アクアの仕事が一瞬落ち着く。ドラマの撮影期間など諸々を事務所が配慮した結果の落ち着き。と言ってもこれはまさしく嵐の前の静けさというやつ。タレントなら必ず経験する唐突にぽっかり空く時間帯。
この束の間の空白期間が終われば、またアクアにオファーが殺到するだろう。その前の一瞬の骨休めの時間。アクアはあかねとの付き合いを継続しつつも、私のケアを怠らなかった。どんな時間になっても1日に一度はLINKで私の様子を聞いてくれたし、時間を作って会いにきてくれた。
私の方ももう完全に安定期に入り、お腹の中に命を抱える生活にも慣れ、後は予定日を待つばかりと言えるくらいに落ち着いた時間になっていた。
だからだろうか。私のLINKに、こんなメッセージが送られてきたのは。
【一度実家に顔を見せなさい。星野アクア君と一緒に】
今回私に起こってしまったこと、社長とマネージャー、アクア以外にもう一つ。私の家族にだけは伝えていた。本当は黙っていたかったが、私もアクアも未成年であることからは逃れられない。法律上親権は持てず、持つのは子供の母方の実家。今回の場合は不知火家になる。親権を持つ家が子供のことを知らずに話を進められるはずがない。他の誰にも言えないが、両親にだけは伝えざるをえなかった。
『…………そうか』
事の顛末を話し、絶対に堕す事はしないと伝えると、父は意外に穏やかだった。コレは不知火家を取り巻く環境が良かったと言えるだろう。
不知火家は芸能で財を成した家系。こういった事態に対する免疫は普通の家よりはるかに高く備えていた。そして娘2人とも芸能界に入っている。そういう事が起こるのも父にとっては想定内だったのかもしれない。
ちなみに姉は喜んでくれた。私と違い、難しい事とか複雑な事はあまり考えない大らかな性格の人だ。あけすけな物言いで不思議なキャラに捉えられることも多いが、単に裏表がないだけ。顔立ちはともかく、性格的にはあまり似通っていない姉妹。
だから私は姉が好きだった。
あと少し前に姉の学校でも似たような事があったらしい。
『富裕層でも芸能界でも、思春期の男女がやっちゃう事なんて大差ないよね。私は祝福するよ。おめでとう』
今後の参考にするために少し詳しい話を聞いて、アクアとも共有したが、子供の名前付けの経緯で2人とも結構しっかり引いたのはまた違う話。
そこから父と母は私に関してノータッチだった。責めもしない代わりに援助もしない。全て私の判断に任せていた。公表するなら受け入れるし、隠すというなら家もそれに従う。そのスタンスを崩さなかった。
私の新生活が始まり、アクアも新天地での仕事をこなし、私も彼も一段落がついた頃、見計らったかのように──いや、見計らったのだろう。父ならアクアのスケジュールを把握することも訳ない。
一度実家に顔を出せ、と。星野アクアも連れてこい、と。
最初は私も抵抗した。用があるなら私だけを、と。アクアに要件があるなら私から伝えるとも。けれど父は譲ってくれなかった。
「そりゃそーだろ。オレが親でもそこは譲らねー。五、六発殴られても文句は言えねー。てかオレなら殴る。下手したら殺す」
LINKを送ったその日にアクアは私の部屋に来てくれた。ごめんなさい、と謝る私に彼は当然だと言い切った。
「親御さんはどこまで知ってるんだ?」
「妊娠した事以外は何も話してない。けど、芸能界では顔が利く人だし、私の活動は全部チェックしてる。この子の父親がアクアだってことくらい、あの人なら見当がついても不思議じゃない」
「………そうか」
少し考え込む様子を見せたが、一度天を仰ぎ、大きく息を吐く。諦めか、決意か、わからないが、私に視線を戻した時はもう迷いのない目になっていた。
「わかった。一度会おう。予定は早い方がいい。スケジュール送るから、フリルの都合のいい日にセッティングしてくれ」
「…………間違いなくアクアはロクな目に遭わないと思うよ?」
「骨折くらいは覚悟しとく」
▼
あっという間に当日。マンションの駐車場に乗り入れた事務所の車に表面上はアクアが乗り、足元にフリルが伏せる。コレでマンションにマスコミが張り付いていたとしても事務所がアクアを迎えにきただけに見えるし、出てきたところを撮られたとしてもアクア以外は映らない。日が暮れてからの時間帯を選んだのも、少しでも視界の悪い状況で行動するためだった。
「大丈夫か?」
「モーマンタイ」
スーツに身を包んだアクアの腿に顎を乗せる泣きぼくろの少女。星の瞳の少年の心配に笑って答える。お腹は重いが負荷はかかっていないし、アクアにもたれ掛かる事のできるこの状態を少女は楽しんでいた。
「…………着いたわ」
電気じかけの門扉が開く。車が通っても余裕でスペースのある広い庭を突っ切り、ガレージへと進む。もう部外者が侵入する事は不可能だ。
「アクア?どうしたの?緊張してる?」
少し表情が固く、顔色も白い少年を、今度はフリルが心配する。座席から身体を起こし、伸びをした後、節くれだった手を取った。
「そりゃ、緊張はするさ。撮影の方が遥かに楽だ」
───あかねの家も大概リッチだったが…
目の前に広がる光景はあかねのソレを遥かに超える。広大な庭。外観からでも広さのわかる邸宅。家というより屋敷。富裕層などという括りでは収められないほどの財力をまざまざと感じさせられる。アクアは高層マンションとかに訪れた経験はあったが、こんな邸宅に来たのは初めてだった。
───考えてみると、オレが関わる女って結構金持ち多いな
ハルさんもナナさんも実家は金持ちだった。アビ子先生は自身の才覚で財を成した。ロックの世界で売れてる人も今や中流以上の家庭出身がほとんど。
そして才能とは遺伝する。
貧困な家庭環境で突然変異的に才能を持って生まれる人もいるかもしれないが、才能を目覚めさせるにはやっぱりある程度金が必要で、そして才能ある人は金のある人と関係を持って、才能を遺伝させていく。才能は金で買えないとはよく言うけれど、長期的に見るなら買えるものなんだなぁとなんとなく思った。やはり、この世は金がある人間が勝つように出来ている。
───オレ1人この世から消すくらい、不知火家なら息を吐くほど簡単だろうな
この邸宅に一歩足を踏み入れた時点で、もう品定めは始まっているだろう。緊張を解く事はできなかった。
「大丈夫。私がいる」
キャスケット帽を目深に被ったまま、けれども眼の光の強さは伝わってくる。握りしめられた手に熱が籠る。凍りついていた背中が少し溶けた気がした。
「行くか」
「うん」
アクアがフリルの腰に手を回し、空いた手でエスコート。フリルもさらに力強く手を握る。お互いがお互いを支え合いながら、邸宅の扉を開いた。
▼
「おかえりなさいませ、お嬢様」
「元気そうね、遠山」
メイドと思わしき服装の女性が恭しく頭を下げて出迎える。歳は50を過ぎたくらいだろうか。そこそこ古参なのだろう。フリルも当然面識があるらしく、澄ました態度で、けれど品よく挨拶を返した。
「衰える一方でございますよ。お部屋の用意はできてございますが……そちらが?」
訝しげな、敵意さえ篭った目で隣に立つ蜂蜜色の髪の少年を睨む。礼を尽くすのはフリルにだけでアクアは完全に別のようだ。
「私の親友です。無礼のないようにお願いします」
「彼の部屋は用意しておりませんが」
「構わないわ、私と同室で」
「異性と同じ部屋で過ごされるのは……」
「今更よ。知ってるでしょう?」
老婆の相貌が険しくなる。フリルの膨らんだ腹。エスコートする手。親密さを隠そうともしない。確かに今から同じ部屋で過ごすのは、などという配慮は無駄だろう。もう事は起こってしまった後だ。
「…………お通しします。こちらへどうぞ」
「案内はいらない。貴方も関わりたくなければ関わらなくていい。むしろ極力関わらないで」
案内を袖にして邸宅内を迷いなく歩く。フリルに従い、手を取りながらアクアも足を進めた。
「ふうっ」
扉を閉め、鍵をかけると同時にフリルが息を吐く。柔らかそうな長掛けのソファに座ろうとするフリルを支えた。
「あー、やっぱりこの家肩凝るね。アクア、鍵閉めてもらっていい?」
「ああ」
扉の鍵を掛ける。振り返るとこっち来いと手招きされた。
ソファに座ろうとすると首に腕を回され、そのまま身体を預けられる。小刻みに震えていたのがようやくわかった。
「人の目が怖いのなんて、初めて。胎教に悪そう」
屋敷の中に見えるだけでも人はたくさんいた。多分見えないだけでオレ達の様子を見ている人はこっちが思っているよりいるだろう。その視線をフリルは全て受け止めていた。受け止め、陰口を叩かれ、あることないこと好き勝手言われ、日常の一興の肴にされていただろう。
その全てを、この聡明な少女は理解していた。覚悟して、理解して、受け止め、恐怖していた。
───そうだよな。ビビってるのが、オレだけのはずがねーよな
今までの人生で、失敗というものをしたことがなかった女がしでかした、大失敗。未知の経験と未来に恐怖しないはずがない。ビビらないはずがない。
「慰めて」
抱きしめたまま、濡羽色の黒髪を梳く。震える少女は撫でる手に頬を寄せ、甘えた。
「あなたの手、好き」
「指先とか硬くて撫でられ心地悪いだろうに」
「そばにいてくれるだけで、心強い」
「──オレもだよ」
フリルがいなければとっくに逃げ出していただろう。お互いがお互いを支えにしているのは身体的な意味だけではなかった。
「お前、家だと言葉遣い違うんだな。堅いっていうか、厳かっていうか。お嬢様も板についてるとは思うけど」
「身内だからこその堅さはどうしてもね。物心ついた頃から、父にも母にも敬語が当たり前だったし。気さくに接することができたのは姉さんくらい」
自分とは違い、かなり天然が入った姉だけが、フリルが壁を作らなくていい人だった。
「実家のネームバリュー。資金。見た目。そういったキラキラした飾りに目が眩む人。飾りを取ろうとする人ばかりだった」
裕福ではあった。生活に不自由はなく、授かった才能を存分に伸ばすことができる環境だった。だからこそ発生する義務と権利。厳格さが求められることもまた、フリルにとっては当たり前だった。
「気を許すな。家族さえ内通者とも限らない。顔に鉄仮面を。心に鎧を纏え。父の口癖だったわ」
「フリル……」
「だからあなたが好きなの。私は私のままでいいって言ってくれる。他の人たちと違って、あなたの言葉は上辺なんかじゃなかった。私が誰かを知っても、何をやっても、あなたは態度を変えなかった。対等の親友として接してくれた」
「この子を身籠ってからは、ちょっと壊れ物扱いされてるけど」と、膨らんだお腹に手を当てながら意地悪な笑みを浮かべてつけ足される。しかしコレは遠慮や気遣いだけでなく、何より優しさから来ている事はフリルだってわかっていた。
「気持ちと身体を切り離さなくていい相手と巡り会える事は幸せだって教えてくれたのは、あなただけだった」
心を殺すことが当たり前だった。虚勢を張るのが日常だった。アクアもフリルも処世術というものをイヤというほど身につけている。弱いところを見せたらつけ込まれる。だからいつだって強くある。強くあるように見せかける。
───けど、多分この世に強い人なんて、いねーんだと思う
腕力とか、権力とか、そういう強さの一種を持っている人はいるだろう。けれど多分強さというのは、そういうわかりやすいのではない。
誰もが弱さを抱えてて、大なり小なりどこかしら病んでいる。弱さを持たない人間なんていない。強くあることが弱さの排除だというなら、この世に強い人なんて、きっといない。いるとすれば、隠せる人と隠せない人だ。
そしてオレもフリルも隠せる人。しかも人より何倍も上手く。
完璧で、嘘つきで、弱点なんて見当たらないように振る舞って、唯一無二であり続けている。あり続けることができてしまう。
───そうしてるうちに、いつか自分でも、自分自身がわからなくなる
ソレはとても怖いことだとアクアはよく知っている。自分がそうだから。あの雪の夜に目覚めてから、何度も経験している。自分が何者かわからない。記憶を失い、星野アクアを演じ続け、それが当たり前になっても、ふとした時に思う。鏡の中の自分が話しかけてくる。
『お前、一体誰なんだよ』
背筋が震える。身体がすくむ。呼吸が難しくなる。心臓が凍りつくあの感覚。よく知っている。この冷たさを誤魔化す方法はアクアが知る限り、誰かから暖かさを貰うしかなかった。
───今フリルがそうしているように
オレの首に腕を回し、身体を押し付け、肩に顔を埋め、首筋を舐める。
「アクア」
「なに?」
びっくりするほど心細い声だった。極力優しく返したつもりだったが、この妖怪がどこまで読み取ってしまったかはわからなかった。
「これから父も母もきっと貴方に酷いことを言うし酷い態度を取ると思う。私はできるだけあなたを庇うつもりだけど、それでも守りきれないときはあるかもしれない」
明らかにこちらに非があるのは避けようもない真実。芸能界で嘘は武器だし、その扱いにアクアもフリルも長けているが、真実の暴力には勝てない。結局真実に勝る武器はない。
「でも、お願いだから嫌いにならないで」
か細い声のまま、震える身体を隠そうともせず、オレの肩に顔を埋めた。
「私はそれが一番怖い」
震える少女を抱きしめながら、困惑する。なんと言葉を返していいか、わからなかった。この切実な訴えに比べれば、どんな言葉も軽くなってしまう気がした。
だから、伝えたい事をただ一つだけ紡いだ。
「信じろ」
「………うん」
涙を拭い取り、キスをする。震えがようやく止まった。恐らくオレの震えも。心に棲みついた氷が、やっと溶けた気がした。
「早く三人でウチに帰りたいね」
「まだ来たばっかだろ」
とゆーか、ここがお前のウチだろ、というツッコミはやめておいた。こいつにとっての家は、もう此処ではないのかもしれない。
「お嬢様」
ノックの後、老婆の声が部屋に響く。続いた。
「旦那様と奥様がお呼びです。よろしいでしょうか」
「わかった、すぐ行く」
顔を上げた時、もう声に覇気が戻っており、相貌には美しさが張り付けられていた。
「行こう」
「ああ」
身体を支え、エスコートの手を取る。けれどもう2人ともお互いに寄りかかってはいなかった。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
フリル視点の半年間でした。いかがだったでしょうか。と言ってもまだ途中ですが。絆ちゃんは当て字でカムフラージュでした。ホントは傷成。星をなくした子の娘は傷で成る子。今後の四行詩で『傷で成る子』と書かれていたら絆ちゃんのことです。
フリルとアクアの時間が合流しました。次回、不知火家で面談。そして遂に出産。果たしてどうなるのか。
それでは励みになりますので、感想、評価よろしくお願いします。面白かったの一言でも頂ければモチベーション爆上がりです。時間がかかっても感想には必ず返信します