それはシンデレラの魔法が解ける時
かつて彼女を救った天使の祝福が
悪魔の呪縛に変わる時
「もしもし……ええ、私よ。いい?落ち着いて聞きなさい。とりあえず無事よ。生きてるわ。命に別状はないみたい。まずはそのことを認識しなさい」
救急隊員から白河へと、星野アクアの入院の連絡が入った。当然マネージャーはそのことを社長へ連絡した。社長はそのことに関して驚きはあれど、動揺はなかった。事前に彼から聞いていたからだ。
『近日中に、オレが負傷か、最悪殺された、なんて連絡が来るかもしれません。殺された場合、犯人はカミキヒカルです。その前提で動いてください。病院に運び込まれたくらいだったら、多分オレの計画は上手くいってます。この1週間程度はオレがいなくても問題ないようにしておくつもりですが、もし1週間を上回る場合は、対応の程をよろしくお願いします』
危ないことをするつもりなのだということは知っていた。そのために最大限リカバリーを整えていることも。しかし絶対ではなく、自身の死すらこの男が計画に入れているであろうこともわかっていた。本来なら止めるべき立場だ。もはやこの男の命はこの男だけのものではない。日本国民誰もが知る若手ナンバーワンのスターになった今、比喩でなく彼一人の芸能活動に数多の人間の人生が掛かっている。この命が無計画に、突然に失われるようなことになれば、それこそ何人の人間が路頭に迷うことになるか、わからない。
事務所の社長として、この才能を守らなければいけない立場の人間として、彼がやろうとしていることは止めなければならない。
───けど、これを無理矢理止めたりしても、それは星野アクアの死と同義なのでしょうね
アクアの芸能活動は、基本的に全て自分のため。自分が愛する者達のためだけの活動だ。顔も名前も知らないその他大勢がどうなろうが正直どうでもいい。そして今、彼の前に最もやりたいことが…やらなければいけないことが迫っている。そのためだけに彼は13年間芸能界という狂気の世界で戦ってきた。その彼から原動力を無理矢理奪うようなマネをすれば、それは星野アクアが死ぬこととほとんど変わらないだろう。
彼の愛は自分が愛する者達だけのために。正直芸能人としては不純。傲慢。利己的だ。失格と言ってもいいかもしれない。圧倒的多数のためでなく、両手の指で数えられる程度の少数の方が彼にとっては重要なのだから。不純で、傲慢で、利己的。エゴイストだ。
しかし、愛の形としてはこれ以上なく純粋で、謙虚で、滅私に溢れている。
頑張らなければできないことなんて、やらない方がいい。自分にできることだけを。ただし全力で。ベストを尽くして。なんの混じり気もない星野アクアの行動指針。適度に緩め、適度に詰め込み、適度に努力する。
まあ常人から見れば詰め込みすぎだし、努力し過ぎだし、もっと緩めても良いとさえ思うのだが。
それでもアクアは頑張りすぎることはしないように心がけていた。
『やれること全てやっていれば、オレは完璧だから』
彼の努力は自分を疑わないための努力。
彼の最も非凡な才能は、自分を疑わない才能。
だから彼は迷わない。常人なら躊躇ってしまうようなことでも、自分の判断に即座に身を委ねられる。一瞬の迷いが致命傷になることを誰よりもよく知っている。
純粋だから。謙虚だから。滅私に溢れているから。星野アクアは美しかった。純粋だった。透き通っていた。誰であろうと嘘をつかないから、皆星野アクアに魅了された。
愛の源を奪って仕舞えば、なるほど確かに目の前の死からは逃がしてやれるかもしれない。
けれど、アクアから愛がなくなれば、その心が一気に濁ることが、わかっていた。
透き通る美しさが死ぬと知っていた。誰よりもアクア自身が。
だからアクアは自分を曲げない。誰が相手でも。親友でも、恋人でも、家族でも、この世の全てを司るような神様でも。決して譲らないだろう。曲がらなかった結果、自分が死ぬというならその時は死に殉ずる。曲げたところで自分は死ぬと知っているから。
───自分を雇ってる社長なんて、なんの重石にもならないでしょうね
だから、せめて重石になりうる人にチクってやろうと思ったのは、ちょっとした反骨心と悪戯心。そして二人への愛だった。
「アクアが倒れた。運び込まれた病院はLINKで知らせる。絆ちゃんのことは白河ちゃんに任せていいから。行ってあげなさい」
▼
「さあ、話してもらうよアクアくん。嘘ついても無駄だからね。見破るよ」
ルビーが帰った後、あかねにも事情の説明を求められた。お淑やかに座っているが、その目には強い光と熱があり、心の奥底で燃える怒りが感じ取れる。
まあそこまで脅されなくても説明はするつもりだった。利用してしまった分や巻き込んでしまった手前、コレくらいのことは話しておく責任がある。
それにルビーが見破った嘘を、あかねが見破れないとは思えなかったから。
嘘偽り一切なく全てを語った(いくつか隠し事はあったが)。実は名簿を手に入れていたこと。あかねから手に入れたリストと照らし合わせ、その日のうちにカミキヒカルに辿り着いていたこと。あかねが嘘をついてることに気づいていたこと。最悪あかねがカミキ側に付いているかもしれないと疑っていたこと。渡したGPSを利用してあかねの足跡を調べていたこと。ここまでに至る全てを。
説明が終わると、しばらくあかねは口を訊いてくれなかった。責めるでも怒るでもなく、ただ無言で座っていた。露出の多い舞台衣装姿で、外套を一枚包んだだけの、今のあかねは、人間には見えないほど神秘的だった。
この時のあかねの目は、多分一生忘れられないだろう。
ギュッと引き締めた唇。僅かに歪んだ形のいい眉。そして瞳から溢れ出す静かな怒り。流れ落ちる雫は無言の刃となってアクアを責め続けた。
いっそ殴られた方がまだマシだと、本気で思った。
「その、あかねさん……何か喋って欲しいんですが」
「……………………」
「名簿手に入れてないって嘘ついてたことは謝るよ。でもお互い様だろう。あかねだって嘘ついてたんだから。オレを思いやっての嘘だってわかったから今まで何も言わなかったけど、最悪──」
「そんなことを怒ってるんじゃない」
嘘をついていたことはお互い様だ。そしてその嘘はお互いのためだったと理解している。怒っているのは嘘をつかれたことではない。
「今日のアクアくんのGPS」
ピクリと眉が動く。そう、隠していることはもう一つあった。
「適度に動いてた。けど山歩きなんか、まったくしてなかった」
「…………」
「どうしてたの?」
「マネージャーに預けてた。オレから連絡が行くまで、いつものように適当に外回ってくれって」
今日だけではない。カミキヒカルについて調べる時、アクアはいつもGPSをマネージャーに預け、ダミーの動きをしてもらっていた。あかねにオレがまだ辿り着いていないと思わせるための撹乱。その作戦は功を奏していた。いつかバレる日が来ることもわかっていた。今日まで引き延ばせたのなら、アクアの策は成功だったと言える。
しかし、引き伸ばした分、あかねの怒りボルテージが高くなることもまた必然だった。
「私、言ったよね。無茶はしないでって」
「…………無茶せずなんとかできる相手じゃなかった。それくらいわかるだろう」
「死ぬ時は二人一緒だよって言ったのに。約束したのに」
「…………」
それこそ無茶だってことは。ほとんど不可能に近いことだっていうのはあかねだってわかってる。幻想だと。
だが、女の幻想を現実にしてやることこそが、男の甲斐性というものだ。
「ごめん、あかね」
抱き寄せる。一瞬身体を硬くしたが、あかねはなんの抵抗もなくアクアの腕の中に収まった。嗚咽を漏らし、胸に顔を埋め、入院着を涙で濡らした。
「すっごく怖かった」
「ごめん」
「アクアくんが倒れたってミヤコさんから聞いた時。心臓が止まるかと思った。アクアくんじゃない。私のだよ?私の心臓が止まるかと思った」
「ごめん。本当に」
「ううん。私だって同じことしてたんだもん。アクアくんに嘘ついて、隠し事して、カミキヒカルを追ってた。直接的に何かする段になったら、私だってGPS外してたと思う。この間護身用にナイフとスタンガン買っちゃったし」
「あかねも結構攻撃型だよな」
「アクアくんほどじゃないよ。さっきの説明聞いてて、また心臓止まりそうになったもん。自分を囮に使うって。なんて危ない橋渡るの」
「ちゃんと頭を胸も腹も守ってたし、救急隊員も呼んでた。できる限りのリカバリーはしたつもりだ」
「アクアくんってさ、頭も回るし、すごく慎重だし、軽率だなんて思ったこと、一度もないけどさ。いざ攻めるとなったら積極果敢っていうか、電光石火っていうか。『ガンガン行こうぜ』しかしないよね」
今ガチでも、舞台でも、そしてその他芸能活動でもそうだった。リスクリターンを考え、常に最悪を想定し、慎重に行動するが、動くと決めると0か100。ハイリスクハイリターン。目的まで妥協なく突っ走るのがアクアのやり方だった。
「言っとくけど、アクアくんが死んだら、私泣くよ?大泣きして、世の中に絶望して、いつまでも忘れられなくて、最後には自殺しちゃうから」
「…………あかね」
「だから、だからね……」
両目いっぱいに涙を湛える自身の彼女を抱きしめる。労わるように、優しく、その透き通った黒髪を撫でた。
「もう二度としないから。少なくともこんな物理的に危ないことするのは今回で最後だから」
「ホント?」
「ほんと」
「ホントにホント?」
「ほんとにほんと」
「信じられない」
「信じろって」
「じゃあ証明して」
少し困った顔を浮かべてしまう。真実の証明。感情の証明。悪魔の証明。今まで幾度となく女から求められてきたことだったが、未だ正確な答えは返せた記憶はない。基本キスして、抱いて、ごまかしておしまいだ。流石にこの場でそれはできない。どうしたものかと悩んでいると、あかねの方から解決策をくれた。
「好きって言って」
「…………あかね」
「私のこと、好きって言って。誰よりも好きだって。かなちゃんより、ルビーちゃんより、フリルちゃんより、愛してるって、言って」
「あかねが好きだよ。誰より好きだ。フリルより、有馬より、ルビーより。あかねを愛してる」
アクアの胸の中で噛み締めるように言葉を聞く。心音も聴かれていたかもしれない。けれど構わない。今のアクアは、この言葉を限りなく嘘ではなく言うことができる。嘘発見器だって反応させない自信があった。
「あかねこそ、オレのこと好きでいてくれるのか?」
「どういう意味」
「多分、あと3年もしないうちに、オレは芸能界を引退すると思う」
「…………そっか」
動揺も狼狽も見せず、安堵したかのような息と共に、小さな声であかねはアクアの衝撃の引退宣言を受け入れた。
「驚かないのか」
「ホッとしてる。最近のアクアくん、頑張りすぎてるのが丸わかりだったもん。みんなの理想の星野アクアでいることが、すごく辛そうで、このまま芸能界にいたら壊れちゃうかもって思ってた」
映画賞の時から、限界が近いことはわかっていた。長く芸能界にいない方がいいとさえ思っていた。確かにこの才能が表舞台から消えるのは惜しすぎるほど惜しいことだが、それ以上にホッとしていた。
「ただの星野アクアになったとしても、あかねはオレのことを好きでいてくれるか?」
「どんな貴方でも愛してる。二年以内に貴方に追いつく。貴方が背負っているもの、全部私が背負う。だから、アクアくんは安心して」
胸に埋めていた顔を上げる。泣き笑いの表情で、アクアの首に腕を回し、背伸びをした。
「私だけが、星野アクアの彼女なんだから」
最後に一度だけ。互いの肌と肌が触れ合い、体温を感じながら、溶け合うようなキスをした。
▼
キスをして、それ以上のことをしようとしたところで、あかねの理性が働く。今彼女は撮影から抜け出してきたところで、華美な衣装を纏っていた。流石にこれを汚すことは出来ないし、簡単に着脱できるようなものでもないため、それ以上の行為は諦めざるを得なかった。この辺りは二人とも流石のプロ意識と言えるだろう。
「検査が何事もなかったら、二人で休み合わせて、色々しようね」
「約束」
「約束」
小指を絡め合い、最後にもう一度軽くキスをする。呼んでいたタクシーはもう病院に着いていた。
あかねを見送った後、病院に備え付けてある電話から、事務所へ連絡する。
「はい。身体はなんともありません。けど一応頭を打ってるので。検査入院だけすることに……はい。はい。それと、今後のオレの芸能活動についても話をしたいので、お時間を作ってもらえたら……はい。はい。ご迷惑をお掛けします。よろしくお願いします」
電話を終えると、すぐに病室へと戻る。今日は一晩休息で、本格的な検査は明日の朝から始まるらしい。久々にゆっくり眠れると身体を伸ばし、病室の扉を開く。
すると、本来誰もいないはずの部屋の中にいたのは───
「終わった?」
不知火フリルが、ベッドに腰掛けていた。
「───は?」
見渡すと病室のロッカー。掃除道具などが入っている場所の扉が開けっぱなしになっている。
───まさか、いたのか?一体、いつから……
驚愕に包まれながらも、アクアの頭脳は回転する。そう、今回の事件。事務所に連絡が入ったのなら、事務所が真っ先にこのことを報告する相手は誰になるか。無論オレの家族だ。救急車に運ばれ、そのまま入院となれば、家族に連絡が行くのは当たり前のこと。
だが、事務所にとって最優先すべきオレの家族とは一体誰だ。
オレの事情を。オレの家庭環境を。オレの内縁関係を。知っている人間であれば。フリルに甘いあの社長であれば。真っ先に連絡するのは誰なのか。少し考えればわかることだった。
「さてと、色々と言いたいことはあるけど──」
ベッドから飛び降り、立ち上がり、オレの目の前にくる。いつもの無表情だが、それ故に怖かった。この仮面の下で何を考えているのかわからないことに恐怖した。
「まず第一に。もう一回言って」
「は?」
「あかねに言ったこと。もう一度聞きたい。一言一句、そのまま」
具体的な説明はされなかったが、なんのことを言っているのかはわかる。わかってしまう。その程度には洞察力があり、その程度の洞察力はあると泣きぼくろの少女は内縁の夫を信じていた。
「あかねが好きだよ。誰より好きだ。フリルより──」
中断を余儀なくされる。視界に稲妻が走った。数瞬遅れて痛みと熱も。首が左に捩れていると知覚して、ようやくフリルにビンタされたとわかる。とてもいい破裂音が病室に響き、耳の奥でシンバルがわんわん鳴り、口の端が切れて血が出てきた。
───そういえば、フリルに殴られるの、初めてだな
他人に殴られたことは無論初めてではない。何かと勝手な行動をとることも多いオレだ。レン先輩やハルさんにナナさん。ミヤコからも、罰として一発ゲンコツ貰うくらいのことは何度もあった。
けれど、顔を殴られたことは一度もなかった。
───人生で初めての顔面ビンタが、不知火フリルかぁ
焼けるような熱さが頬を襲う最中だというのに『ある意味、贅沢の極みなのかもな』と、少しおかしくて笑ってしまいそうになる。だが笑うわけにはいかない。そんなことをすれば、次はグーが来ても文句は言えない。
あの夜にも。あの病院でも。理由も機会も今まであったはずのフリルから。オレを殴るなんて直接的な感情をぶつけられたことは初めてだった。
まして顔。タレントの商売道具。最も傷つけてはならない場所だとオレなんかより遥かに熟知しているはずのフリルが。オレの顔を血が出るほどの勢いで引っ叩いた。以前のステージ裏暗幕で壁に叩きつけられた時とは訳がちがう。あの時も結構痛かったが。痛みの度合いは関係ない。痛みの場所が問題。問題があるとオレなんかより百も承知の上で、それでもそこを殴ったということが問題。
顔を元の位置に戻した時、案の定、今まで見たこともないほどの。見ただけで目眩を起こすほどの問題が。爆弾が、導火線に火がつき、起爆寸前の状態で横たわっている。
内縁の妻は涙を両目に湛え、夫を睨みつけていた。
「嘘でも、二度と言わないで」
▼
ベッドを起こし、背もたれにして、体を預けながら座る。フリルもベッドの上へ上がり、オレの身体に腕を入れ、体を預け、抱きしめる。その態勢のまま、しばらく口は利いてくれなかった。時折ギュッと抱きしめる力を強くしたり、はだけた入院着の中に顔を入れ、オレの肌を噛んだり舐めたりする。相当怒っているのはわかる。が、見たことないタイプの怒り方だ。どう対処していいか、わからない。
「フリル……その、そろそろ顔離してくれねーか?」
「なんで?」
「…………オレ今日朝から山歩きしてたし。汗かいたし。シャワーも浴びてないし」
「今更なにいってるの。アクアの汗の味も男の匂いももうとっくに知ってる」
胸に埋めていた顔が上がり、首や胸元を舐め始める。ゾクゾクとした快感が背中に走る。震えないよう堪えていると、フリルの湿った吐息が肌に当たる。首筋に顔を埋め、スーーっと静かに。けれど大きく呼吸した。
「臭いだろう」
「癖になる。頭バカになりそう」
ピクリと眉が動く。そういう女はもちろん初めてではないが、まさかフリルからこんなセリフが飛び出すとは思わなかった。
「困った顔、やっぱり素敵」
もう一度、大きく深呼吸される。くすぐったさと快感で下半身に血が血が回る。疲れと死に瀕した身体が、フリルから与えられた情欲と本能で生命活動を活性化させていた。
「………ふふ、あつ」
自分の下腹部に当たる熱く硬い何かが何であるか、フリルはとっくに知っている。何度もコレに泣かされ、慰め、鳴いてきた。他の男性は一切知らないが、彼女にとってはこの一人だけで充分だった。
「しないぞ、言っとくけど。病院に迷惑かけられない」
「私が洗濯しとくよ」
「顔バレしたらどーすんだ。もう面会時間も終わる。お前ももう帰れ」
蕩けていた顔がいつもの無表情に戻る。同時に変わりかけていた情念の炎が怒りの焔に戻った。
「なにがあったかはちゃんと説明する。その上で謝る。何度でも地べたに頭叩きつけてやる。だから今は──」
「私だって、心臓止まるかと思った」
アクアが倒れたと社長から連絡が入った時、心臓が止まるかと思った。アクアのではない。自分のだ。立っていられず、崩れ落ち、フローリングに手をついたまま、動けなかった。
「白河さんに絆を見てもらうように頼んで、真っ先に病院へ向かった。私が一番乗りだった」
「…………」
「病室に着いた時、あなたは眠ってた。微かに胸元が上下してたから、生きてるってわかって、また立てなくなった。なんとか足に力を入れて、立ち上がって、あなたの傍に寄り添った」
「…………フリル」
「確かに寝てるのに。間違いなく生きてるのに。あなたの寝顔は私が今まで見たことないほど穏やかで。静謐で。憑き物が落ちたみたいで。美しいけど、同時に生気も感じられなくて。本当に生きてるのか、何度も不安になった」
「…………」
「そしたら足音が聞こえてきて。誰か来るってわかったから、あのロッカーに隠れた」
その後は、一部始終を間近で見せられた。ルビーと寄り添い合う姿も。あかねとキスする姿も。会話の内容はロッカー越しでイマイチ聞こえたり聞こえなかったりだったが、何をしていたかは全て見ていた。
全て、見せつけられた。
「ごめん」
アクアが謝ると、妻は首を横に振った。まだ血が滲む口元に手が添えられる。
「痛い?」
「多少は」
「でも私はもっと痛かった」
「ごめん」
「ごめんなさい。顔を叩くなんて。私どうかしてた。ごめんなさい」
「これぐらいお前の当然の権利だ」
「何してもいいって言ったのに。あかねとはいい彼氏をやって。妹には好かれるお兄ちゃんでいさせてあげるって。上書きできれば、それでいいって、言ったのに」
「言ったこと全部守るなんて誰にもできねーさ。感情が理屈を上回ることなんて、オレにだってザラにある」
「でも──」
「フリル」
まだ何か言おうとするフリルを止める。手を取り、まっすぐに彼女を見つめ、腰を抱き寄せた。
「好きだよ」
唇を合わせる。泣きぼくろの少女は一瞬驚いたように身体を硬直させたが、すぐに力が抜ける。唇を押しつけあい、甘く噛み、舌を入れる。小さな個室で水音が鳴り響くたびに口づけは繰り返され、キスの深度は増していく。
これが、よくなかった。
お互いがお互いのことしか見えていない。意識できない状況。終わりに差し掛かりつつあった面会時間。お互いへの深い愛。様々な条件が二人から常に備えているはずの警戒を緩めてしまった。
駆け寄ってくる小さな足音に気づけなかった。
「よっしゃあ!面会時間ギリギリ間に合ったぁ!アクア!聞いたわよ!倒れたって!?アンタだいじょうぶ……な、の」
勢いよく扉が開く。開けた先の光景に広がっていたのは、アクアとフリルの、キスシーン。
お互い瞬間的に身体を離したが、それでも抱きしめ合っていた事はわかるシーン。
赤い髪をショートボブに切りそろえた童顔の少女、有馬かなは、あまりの情報量の多さに現実を受け入れられず、思考回路は完全にフリーズしていた。
「…………なにしてんのよ」
それでも、脳を動かさずとも、彼女がこの状況で、口にできる言葉が、一つだけあった。
「アクア、なにしてんのよ!!」
最後まで読んでいただきありがとうございます。
…………改めて。改めて読み返してみて思う。ホント人の心ないな筆者。重曹ちゃんの事はちゃんと好きなんだけどな。どうしてこう曇っちゃうのかな。
でも何度イメージしてもこうなってしまうのです。
社長がアクアが倒れたと知らせるなら一番は絶対フリルだし。
そんなことフリルが聞かされて駆けつけないわけないし。
重曹ちゃんやMEMちょは知るの身内の中ではどうしても後の方になっちゃうし。
MEMちょは無事だと聞かされたら面会時間間に合うかどうかの時間にわざわざ来ないだろうし。でも重曹ちゃんは行っちゃうし。
どうシミュレーションしてもこうなる未来しかイメージできなかった。
というわけで犯人捜査編が終わり、スキャンダル編です。人の心とか考慮しなければ冒頭としては最高のスタートだったのではないでしょうか。アクアとフリルの関係を真っ先に事実として確認したのは重曹ちゃんでした。果たして絆にまで辿り着く日は来るのだろうか。
以下本誌ネタバレ
罪悪感につけこんでカミキを逃がさないようにする愛莉。
罪悪感を抱え込み、アクアを解放してあげたい、けれど愛ゆえにできないフリル。
拙作でフリルが愛莉を演じる時、一体どんな気持ちになるのか。今からドキドキが止まりません(筆者はSではないはず)。
重曹ちゃんは本誌では幸せそうでよかったです。拙作では地獄の奈落に転落中ですが。
そしてやってくる例のあの人。拙作はできるだけ星野アクアの物語にしたいのでさっくり逮捕しましたが、アイの物語である本誌であの人は一体どうするのか。そしてどうなるのか。ルビーが無事でいてくれることを願うばかりです。
それでは励みになりますので、感想、評価よろしくお願いします。面白かったの一言でも頂ければモチベーション爆上がりです。時間がかかっても感想には必ず返信します。