燻り続けた真心が薄氷を溶かすだろう
退路を断つ覚悟を決めなさい
傷で成る絆を守りたいのであれば
完全に、油断していた。
絆が生まれて、もう半年以上の時間が経った。アクアがウチに移籍してからはもう一年が経とうとしている。そしてこの一年。アクアと二人きりという状況は、正直かなり珍しかった。
妊娠中は私の介護をしてくれる産婆さんやマネージャーが常にいたし、何よりお腹の中に絆がいた。
絆が生まれてからは、言わずもがな。アクアが私の部屋に様子を見に来てくれたことも、そこで肌を合わせたことも何度もあったが、それでもやっぱり絆の存在が最優先で。絆が泣けば私たちは何もかもを中断してあの子の元に駆け付けねばならなかったし、ハイハイをするようになり始めた最近は、とんでもないところに潜り込んだりするようにもなり始めた。
当たり前だけど、この一年の何もかも、最優先は絆になって。アクアと二人きりなんてこと、ありえないと言い切ってしまっても過言でない状態だった。比喩でなく少し目を離せば死んでしまう生命を傍らに抱えていて、目の前の愛する内縁の夫に全てを捧げられるはずがなかった。
だから、二人きりでいられる時、私は私でも信じられない行動をする事が増えてしまった。一度目は今年の夏コミ。テレビ撮影が終わった後のステージ舞台裏。キグルミを着て参加していた私は人気のないところにアクアを連れて行って自分の怒りと欲望をぶつけた。暗幕の裏でカーテンにくるまり、壁に彼を叩きつけ、キスをした。
そして二度目が今日。社長から長い前置きがされた後、アクアが倒れたと聞かされた。無事だと。生きていると。だから落ち着けと聞かされていたにも関わらず、目の前が真っ暗になった。膝に力が入れられず、立っていられなくなり、フローリングに手をついた。その状態のまま、白河さんがウチに来るまで、動けなかった。
「絆ちゃんの面倒は私が見ておいてあげるから。貴女はアクアの元へ行きなさい」
白河さんが絆の面倒を見てくれる。絆も最近は目の前の人物が誰か。見覚えのある人かそうでないかくらいはわかるようになり始め、産まれた時からベビーシッターをやってもらうことも多かった白河さんのことは認知していた。白河さんになら面倒を見てもらっても、抱きかかえられても、泣かないくらいにはなっていた。一日くらいなら問題なく留守にできるようになるまで、絆は成長していた。
変装もそこそこに、呼んでもらっていたタクシーへ飛び乗り、病院に駆けつけた。扉を開いた時、教えられた個室には一人しかいなかった。シミひとつなく清潔な、けれど殺風景な一室。物音ひとつ聞こえない静謐さと穏やかに目を閉じるその横顔はあまりに美しく、神秘的すぎて、背筋にゾッと寒いモノを泣きぼくろの少女にもたらした。
「あなたっ──」
側に駆け寄る。顔の前に耳を寄せると呼吸音が聞こえてきて、ようやく安堵の息が漏れ、再び膝から崩れ落ちる。どうやら生きてはいるようだ。白河さんから命に別状はないと聞いてはいたけど、やはり実際に確かめた場合とでは安心のスケールが違う。
30秒ほど崩れ落ちたまま動けなかったが、なんとか立ち上がり、手をかざしてみる。起きる気配はまるでない。普段のアクアは視線には敏感で、一緒の夜を過ごしても基本的にアクアの方が先に起きて朝の準備をしている事がほとんどだが、たまに私の方が先に起きていることもある。けれどベッドの中でみじろぎし、アクアの寝顔を見ようとした途端、彼はパチリと目を覚まし、その星の瞳で私を迎えていた。
それが今はまるで起きる気配はない。静かに、穏やかに、その寝顔を晒し続けている。普段は皮肉屋で毒舌クール。故に表情に乏しく、常に氷の美貌を貼り付けている事が多い。人を寄せつけない雰囲気を醸し出しながら、遠くを見つめるその姿はどこを切り取っても画になる。常に張り詰め、油断せず、凛とした態度を崩さない。それが星野アクア。完璧で無敵な一番星。身内には笑顔を見せることもあるが、その笑顔にもどこか陰があり、明るさの中に暗さがあった。そのアンバランスが魅力的だった。眠っている時でさえ、私の僅かな視線に気づくほど常に脳の一部を警戒させていた。
そのアクアが、今は完全に無防備な姿を晒している。晒し続けている。常に張り詰めて、寝ている時でさえ何かを警戒していたような態度は微塵も見られない。普段大人びている彼が、今は年相応以上に幼く見える。
───ねえ、あなた。一体何があったの?
倒れて病院に運び込まれた。そこまでは聞いたが、詳しい内容や倒れた経緯までは聞いていない。きっと過労で倒れた、というだけではない。アクアが芸能界に来て、ずっと追い続け、警戒していた何かに、何かをした。それはきっと、無防備に眠る事ができるだけの何かだったのだろう。だからアクアは今も憑き物が落ちたような顔で眠り続けている。
「起きたら、全部聞かせてもらうから」
頬に手を添え、少し開いたその唇を奪おうとする。しかしその瞬間、動きが止まった。
───足音…
それも複数。どんどんこちらに近づいてくる。多分アクアの家族……ルビーとミヤコ、そしてあかねだ。彼女らの元に連絡が行くのも当然といえば当然。別に今の姿なら見られても言い訳は何とでもなるが、この部屋から出ていかざるをえなくなる。それは嫌だったため、病室に備え付けられていたロッカーに身を潜めることにした。
───私が、身を隠すなんてことを2回もするなんて…
苛立ちもあったが、それ以上におかしくて笑ってしまう。歪な形でしか愛し合えない私にはお似合いの場所だと自嘲の笑みが漏れたのだ。
そこからは少し苦行の時間だった。
病室に現れたのはやはりルビーたちだった。流石に複数名に病室に入り込まれ、耳元で名前を呼ばれたアクアは目を覚ました。
そこからいくつか会話があって、ミヤコさんとあかねは出て行った。病室に残されたのはルビーとアクアの二人だけ。
ロッカーのスリットから二人の様子を覗く。ルビーがアクアに抱きつき、至近距離でボソボソと何か会話している。流石に距離があり、ロッカーの壁が遮音壁の役割を成し、内容は詳しく聞こえなかった。
それでも、表情は見える。鎮痛な面持ちで何かを話すアクア。その内容に驚き、微笑み、縋り付くルビー。その姿は兄と妹と呼ぶにはあまりに男女の匂いが強烈に香ってきた。
唐突にルビーが立ち上がった。大きく手を広げ、クルッと一度踊るようにターンし、そして高らかに宣言した。
「せんせーは、私の推し!」
その一言は流石に聞こえてきた。そして内容の意味がわからなかった。
───せんせー?アクアのこと?アクアがルビーにとっての先生?ダンスや歌教えたって言ってたから、そう呼ぶのも理解できなくはないけど…
それでも兄をせんせーと呼ぶルビーの心情をいまいち理解はできなかった。
再びアクアの元へと縋りつき、何やら言葉を交わす。二、三言何かを言い合ったと思ったら、ルビーがその場で小躍りし、何度も軽くジャンプした。
「せんせ!好き!結婚して!」
───私、お兄ちゃんと結婚するってヤツ?それを言うにはルビー、流石に……
次の瞬間、思考が吹き飛ぶ。アクアの頬を掴み、至近距離に寄せたルビーはそのまま彼の唇を奪った。
自分がさっきできなかった事を誰よりも早くやられた事実は、フリルの手のひらに強く爪を食い込ませた。
ルビーが出ていってから1分も経たないウチに今度はあかねが入ってきた。あかねは座椅子に座り、アクアに何やら詰問する。話が終わった後、ボロボロと涙をこぼすあかねをアクアが抱き寄せた。
「心臓が止まるかと思った。アクアくんのじゃないよ?私の心臓が、止まるかと思った」
この言葉だけは、やけにハッキリと聞こえた。
そしてもうひとつ。
「あかねが好きだよ。誰より好きだ。フリルより、有馬より、ルビーより。あかねを愛してる」
自身の夫に抱きしめられ、頭を撫でられながら、いつも以上に甘く優しい声で紡がれるその声だけは、やけによく聞こえた。
───やきもちで眩暈がしたのは、初めてね
できる事なら今すぐこのロッカーの扉を蹴破りたかった。蹴破って、あの二人の前に現れて、アクアを引っ叩いた後にあかねを殴って、部屋から追い出したかった。その後私はあかねに全てを告げるのだ。私とアクアは内縁関係にあることを。セックスだってあかね以上にしていて、子供までできて、産んで、二人で育てていると。決して癒されることのない、傷で成る絆が私達の間にはあるんだと。全てをぶちまけたかった。
───それは、できない
そんな事をしても一時的に自分の気が晴れるだけだ。アクアのためにも、絆のためにも、何より私のためにならない。
だから───
あかねを見送るためにアクアがベッドから立ち上がる。少しふらつく彼を青みがかった黒髪の少女が支えた。お互い顔を見合わせ、笑い合い、部屋から出ていく。
ひたひたと足音が遠くなって、聞こえなくなったのを確認して、ようやく私はロッカーから出た。閉じられた扉の前に真っ直ぐ向かい、しばらく立ち尽くす。目を閉じると、あかねに肩を支えられながら歩く夫の姿が鮮明に蘇った。
「────痛」
ジンジンと足に鈍い痛みが響く。思い切り蹴り上げた病室の扉は衝撃でしばらく振動していた。
痺れる足を引き摺りながら、アクアのベッドの上へと倒れ込む。大きく息を吸うと、彼の匂いが鼻腔を埋め尽くす。そして遅れて別の匂いも。
───ルビーとあかねの匂いって、こんな感じか…アクアはどっちも知ってるのかな。私の匂いはどんななんだろうな。あの人はどの女の匂いが一番好きなのかな
枕に顔を埋めながらそんな事を思う。結構時間は経っていたんじゃないだろうか。怒りが鎮静化し始め、半分微睡んでいた頃、足音が聞こえてくる。誰の音かはよくわかる。この足音を一年以上何度も聞いてきた。ベッドから飛び起き、座る。髪を整え、表情を作る。いつもの無表情に、噴火寸前の感情が控えている顔へと、作り変える。
「終わった?」
これだけであの人には全て伝わるはずだ。
「───は?」
目の前の現状が信じられないという顔。目を見開き、口も開いて、まっすぐに私を見つめている。2年間、結構密に付き合ってきたが、初めて見る顔だった。間の抜けた顔も星野アクアというフィルターを通せば可愛く見えてしまうのだから、恋というのは不思議だった。
もう少し眺めていたかったけど、聡明で頭の回転が速い私の旦那様は現状をほぼ把握しつつあり、いつもの美しさを取り戻し始めていた。動揺状態を失わせるのは惜しい。私はすぐに行動に移す。
「さてと、色々と言いたいことはあるけど──」
もう一度、言って。と頼んだ。
「あかねに言ったこと。もう一度聞きたい。一言一句、そのまま」
どの言葉のことか、私の旦那様ならわかるだろう。実際ちゃんと聞きたかった。あんなロッカー越しではなく、直接。何と言ったのか。それを直接言われて、私がどんな感情になるのか、知りたかった。
けれど、同時に。同じくらい聞きたくなかった。
そんな私の心の機微を知ってか知らずか。アクアは正直に、あかねに言った事を再現しようとする。
「あかねが好きだよ。誰より好きだ。フリルより──」
頭が真っ白になった。
葛藤も、ジレンマも、全て吹っ飛ぶ。それ以上何も聞きたくなくて、『聞きたくない』しか私を支配するものは何もなかった。
気がついた時、私の右手に衝撃が走っていた。痺れる熱が右手を焼いていた。アクアの顔が左に捩れているのを見て、ようやく私が殴ったんだとわかった。
あれ以上聞きたくなくて。あれ以上聞かないために。アクアの声を無理矢理止めたんだ。
口の端に血を滲ませる内縁の夫がゆっくりと顔の位置を戻していく。何がおかしいのか。口元が笑いそうになっていることに気づいた時、私の両目から涙が滲んでいた。
「嘘でも、二度と言わないで」
そこからは何も考えず、アクアに抱きついた。
さっきルビーがしていたように。さっきあかねがやっていたように。何日振りかの夫の感触を全身で味わった。アクアをもっと味わいたくて。感じたくて。腹を舐め、胸を舐め、首筋を舐め、首に顔を埋め、深呼吸する。
首筋からはアクアの匂いだけが鼻腔を埋め尽くした。
「癖になる。頭バカになりそう」
比喩でなくそう思う。彼の匂いはまるで麻薬だ。あっという間に私の理性を蕩けさせ、タガを壊し、意識が飛ぶ。
───この匂いを吸ってなくちゃ、死んじゃいそう。
久々に子供から解放され、嫉妬と羨望と色欲に埋め尽くされた美女の野獣は、飢えた身体を持て余していた。この飢えを満たせるのは星の瞳の少年だけだった。
───そして、彼の飢えを満たせるのも…
「ふふ、あつ」
慣れ親しんだ熱と硬さが下腹部に当たる。こんな時でも。すでに二人の美少女と身体をくっつけてキスすらしていたくせに、すぐに次のご馳走が食べたくなるのだから、男とは本当にしょうがない生き物だ。
けれどアクアが獣だとか、理性が弱いなどと思ったことは一度もない。弱冠17歳という年齢で、自分を律する力を備え過ぎるほど備えている。そういう行為に及んでも構わないという空気を私が出しているにもかかわらず、鉄の精神で拒んだ。
ムカつくので体ではなく精神を責める方へと切り替える。倒れたと聞かされた時、私の心臓も止まるかと思ったこと。一番乗りでずっと寄り添っていたのに、ルビーとあかねのやり取りを見せつけられ続けたこと。一つ一つを丁寧に語った。
「ごめん」
謝るアクアにちょっとだけ胸がすく。そして同時に罪悪感が蘇った。私もこの人にしてはいけない事をした。商売道具である顔を血が出るほどの勢いで殴ってしまった。
「フリル、好きだよ」
キス。キス、キス、キス、キス──息継ぎする間もないキスの嵐が二人の間で交わされる。二人とも許しを乞いながらも、その深度はどんどん深くなり、タガが外れたように大胆になっていく。舌が絡み合い、唾液を飲ませ合い、奪い合った。頬の内側の肉の柔らかさ。歯の意外なほどに硬く鋭い感触。快感に身体を震わせながら、全てを味わっていた。
もっと一つになりたい。奥底から込み上げてくる何かを吐き出すように、アクアの病院着に手を掛けた、その時だった。
「よっしゃあ!面会時間ギリギリ間に合ったぁ!アクア!聞いたわよ!倒れたって!?アンタだいじょうぶ……な、の」
氷水でも浴びたかのように、燃え盛っていた激情が縮み上がる。
お互い瞬時に身体を離したが、時すでに遅し。チラリとアクアを見ると、ヤバい、という顔をして、ヤバい顔した自分がヤバい、という表情になっていた。
───見覚えがある。私も、そして恐らく彼女も。
乱入してきた少女、有馬かなもかつて一度、この顔を見ているはずだ。
───しょうがない、か。
ベッドから降りる。我ながら完璧な無表情を作れていると、何となくわかった。
▼
薄暗い病院の廊下を走る。アクアのことで頭をいっぱいにして。病室の番号を見ながら、目当ての部屋まであと少しであると確認しながら、走る。
───面会時間終了まで、あと5分!
なんとか間に合った。恐らく会えてもろくに会話する時間はないだろうが、それでもいい。会って、無事なのを確認するということが大事。
私が会いにきた、と、あいつに知ってもらうことの方が大事なんだ。
ようやく目当ての部屋まで辿り着く。タクシーも、自分の足も、使えるもの全て使って、なんとか間に合った。が、流石になりふり構わなすぎた。衣服も乱れ、髪型もおかしくなっている。手鏡を取り出し、簡単に整える。一度大きく深呼吸し、息を整えると、勢いよく病室の扉を開いた。
「よっしゃあ!面会時間ギリギリ間に合ったぁ!アクア!聞いたわよ!倒れたって!?アンタだいじょうぶ……な、の」
目の前の現実を受け入れるのに時間がかかる。乱れた病衣。はだけた胸元。寄り添い合う男女。ベッドの上。そこに重なり合う、星野アクアと不知火フリル。
星野アクアは、私に現場を見られて、ヤバい、という顔をして、ヤバい顔した自分がヤバい、という顔をしていた。
「…………なにしてんのよ」
正常に働いていない脳だったけど、心の底から出たその言葉だけは、脳をつかなくてもこぼれ出た。
「アクア、何してんのよ!」
「有馬、待て。違う。これは──」
「違う?何が違うの!?男と女が!ベッドの上で!服崩して重なり合ってる姿の、何が違うっていうのよ!」
「だから、それは──」
何かを言い募ろうとするアクアを制するように、泣きぼくろの少女がベッドの上から飛び降り、悠然と有馬かなの前まで歩く。その姿は激昂していた赤い髪の少女を黙らせるほど美しかった。
「芸歴長い割に、意外と子供だね。有馬さん」
「───は?」
「私もお見舞いに来たんだよ。ついでにちょっとからかっただけ」
手から取り出したのはオモチャのナイフ。押せば刃が引っ込むモノ。本来の用途はフリルが常に持ち歩いている、護身用のハッタリナイフだった。
「無茶して、自分のキャパわかってなくて、倒れた事務所の後輩にちょっとした罰とからかい。このナイフで脅してたの。直に肌に触れさせたかったから、ちょっと脱がせてね。まあ、でも確かにやり過ぎたかも?いくら親友だからって」
けど、もういいや。シラけた。とオモチャのナイフを手の中でもて遊ぶ。つまらなそうに。だるそうに。
「帰るね。修羅場とかめんどくさいし。あと、ちょっと邪魔されてムカつくから言うんだけど、別に私とアクアが遊んでても有馬さんに文句言われる筋合いなくない?あかねならともかく」
「───それは…」
「二人は恋人でもなければ、もう同じ事務所のタレントですらない。芸能人が彼女以外と遊ぶなんて、星の数ほどある話。アクアがその一人だったとしても、有馬さんは責める資格も、嗜める立場でもないよね」
「……………………」
客観的な事実を並べ立てられ、有馬かなが黙り込む。唇を噛み締める以外にできることは何もなかった。
「私はアクアの親友。事務所も同じだし、苦労も楽しさも分け合ってる。そしてアクアのこと、まだ諦めてない事も世間は周知の事実。ちょっと遊ぶくらいよくある事だから。だからこの事、あかねに言っても全然構わないから。じゃあね」
帽子と眼鏡で軽く変装し、颯爽と病室から出ていく。取り残された二人は何も言えなかった。
「───倒れたんだって?」
「…………ああ。ちょっと無茶し過ぎたな」
「大丈夫なの?」
「明日精密検査は受けるが、まあ問題ない」
「そ」
努めていつも通りに。いつもと変わらない声音で会話する。すぐに有馬も病室から出ていこうとした。
「───ねえ、アクア」
「なに?」
「アンタって───」
星の瞳の少年に背を向けたまま、何かを言おうとするが、震える背中はそれ以上何も口にできなかった。
「ううん。何でもない。突然押しかけてごめんね」
「有馬……」
「私、馬鹿だから……全然気付けなくて………ごめん、アクア」
部屋から出ていく。涙で震える声だけが病室に虚しく響いた。
───また、守られた……
病室に一人、取り残されたアクアは唇を噛み締め、天を仰ぐ。無機質な病室の天井すらも見たくなくて、目を閉じた。
自分の不甲斐なさが。注意力の薄さが。最大の危機を乗り越えたことの安堵と油断が、二人を傷つけた。
有馬も、フリルも。
───何もできなかった…
あの状況では何もしない事こそが最善だった。それはわかってる。そうしなければフリルが悪役を買って出た意味がない。あの場で全ての真実を吐露して、楽になるのはオレだけだ。フリルの覚悟も機転も全て台無しにしてしまうわけにはいかなかった。
───本当に?
我が身可愛さはなかった。それは断言できる。オレなんていつ破滅しても良いと本気で思ってる。
それでもオレが動けなかったのは、あの目を見てしまったから。
悪役を買って出たフリルが一瞬こちらに送った視線。その目は「良いから、黙ってて」「私と絆のためにも」と訴えかけていた。
あの目にオレは気圧されたのだ。家族を守る、我が子を守る、母親の目。殺意すらこもっていたかもしれないあの目にオレはビビった。ビビって、動かなくなっている間に、事は終わっていた。詭弁と事実と正論を交えて。
動かなかった。喋れなかった。動かなかった。
───あんなフリルも有馬も、初めて見たな
2人の女の激情に晒され、オレは何もできなかった。
「クソっ」
やっと一つ片付いたと思ってたのに。これからは緩やかに終わりに向かえると思っていたのに。
ここ数週間はカミキのことに夢中になり過ぎた。やらなければいけない事は、まだまだ残っていると、今更ながら知った。
フリルに殴られ、有馬に泣かれ、やっと開けた視界。雨が降り出しているとようやく気づいた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
スキャンダル編不知火フリル視点でした。いかがだったでしょうか。散々見せつけられた憎しみ。瞬時に悪役になりきる献身。愛と憎悪は表裏一体ですね。次回は重曹ちゃん回の予定です。爆弾がまた増えます。
以下本誌ネタバレ
よかった。カミキはやっぱり往生際悪いタイプじゃなさそうだった。拙作で逮捕した時、あんまり抵抗しなかったのでそうなのかな、とは思ってましたが、解釈一致で一安心。けれどこちらではスピード逮捕だったからできなかったことが本誌では爆発しそう。あとあかねはやっぱり凄いよ。アイを除けば作中最チートだよ。
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