年齢を感じさせないほどの快活さを滲ませる老婆──―イノライ・バリュエレータ・アトロホルムは、提出された論文をつぶさに精査していた。
たっぷり時間をかけ、目の前に論文の主がいることも気に掛けず、重箱の隅を突くが如く目を通す。
そんな彼女に対して、眼前に立っている少年──年齢は十四歳くらいだろうか──は緊張した面持ちだ。
それも無理からぬことであろう。なにせ、目の前にいるのはただの老婆ではない。
魔術協会の一角を占める時計塔を運営する十三学部の一つ、
そんな大物相手に緊張するなというのは無理な話……と思いきや、どうやら緊張の原因は彼女と相対していることではないようだ。
では、緊張の原因は?
その答えは、すぐにやってきた。
「うむ、特に問題なかろう。この出来なら、術式の特許も間違いなく取得できるだろうよ」
「よっしゃああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
イノライからのお墨付きを貰い、少年はガッツポーズした。
「五月蠅い馬鹿弟子」
「あいたぁ!!」
「全く、師匠はすぐ手が出て困るよ」
未だにヒリヒリする頭を撫でながら、少年は愚痴を溢す。
「ただ喜びを声と身振りで表現しただけなのになぁ」
「いや、さすがに目の前で叫ばれたら誰だって不快なんじゃねーか?時と場所は選ぼうぜ」
ぼやく少年を、対面に座っている青年が嗜める。
「でもさぁ、表現したいものを素直に表現するのが
「知るか、
面倒くさそうに、獅子劫と呼ばれた青年は手を振った。
「それより、特許を取る魔術ってどんな術式なんだよ」
「えー、魔術師なのにそれ聞くって分別なさすぎない?」
「どうせ公開されるものなんだ。今聞いたって誤差だよ誤差」
「ま、他ならぬ獅子劫くんの頼みなら教えてやるのもやぶさかではない」
少年は傍らにある鞄から、師匠に提出した論文を取り出す。
「でもま、魔術師の原則は今も昔も変わらない」
「はいはい、飯奢れってことだろ?マスター、こいつにいつものを」
数十秒後、お気に入りのサンドイッチを頬張りながら、少年は獅子劫に解説を始めた。
「ま、効果としては単純なものだよ。魔法陣の自動速記術式。これさえあれば、面倒な手作業から解放される!」
「……こいつぁ驚いた。単なる術式の省略だけかと思えば、触媒に制限なしとはな」
「おっ、まだ少ししか読んでないのにそこに気がつくとは。さすがは将来
「周りが勝手に囃し立ててるだけだよ。……それより、この術式は凄まじいな。魔術と触媒には相性問題がついて回るが、それを無視するとはな」
「そう、そこが目玉なんだよ!死霊術式なら死骸、呪詛ならは呪物と触媒は限られるが、これを使えばその問題からは解放される!」
得意満面の笑みを浮かべ、少年は立ち上がり腕を広げる。その様子は、もっと褒めたまえと催促しているようだ。
「でもよぉ」
しかし、獅子劫は少年の望みとは裏腹に、冷や水を浴びせた。
「これ、ほとんど使用されないんじゃねーか?」
ピシリ、と少年が固まる。
「……やっぱそう思う?」
「その口ぶり、やっぱ理解してたか」
「師匠にも指摘されたことだしね」
どかりと少年は着席する。
「いくら術式の省略を行えど、これで出来るのは魔法陣を敷くことだけ。その後は全部自力でやらないといけない。現代の魔術師は研究者ばかりで効率を求めるが、実験する度に特許料を支払うくらいならその分の金を研究費に回すだろうね。だからと言って、戦闘を主にする魔術使いに売り出したとしても……」
「わざわざ魔法陣まで使用する
「この術式思いついたときは売れると確信したんだけどねー」
がくりとテーブルに突っ伏す少年。
「でもよぉ、需要はあると思うぜ?覚えていて損はないものだし、世の中には触媒に困っている金持ちだっているかもしれない」
「ま、元は自分が楽するために開発した術式だしなぁ。特許料なんて二の次よ」
「そこで金に執着しないのは、さすが七代続くキュノアス家次期当主なだけあるな」
「代で言えば獅子劫家も同じでしょーが」
最後の一口を頬張り、少年は席を立つ。
「さて、俺はもう行くよ。これから植物科で講義があるからね」
「相変わらず手広くやってるな。頭パンクしないのか?」
「大丈夫。自分の限界はしっかりと見極めているつもり」
またなー、と少年は軽い足取りで去っていった。
植物科での講義を終え、全日程を終えた少年は下宿先であるバンガロウの門を潜る。
「ただいまー」
少年の挨拶は、むなしくバンガロウに響く。
実家なら両親や妹が出迎えてくれるのになー、と少し寂しい思いがよぎるが、それを打ち消すように少年は足を進める。
思う存分研究に打ち込めるよう、これだけ立派な一軒家を用意してくれたのだ。寂寥に耽る暇などない。
郵便箱に溜まっていた郵便物を仕分け、いらないものはゴミ箱に捨てる。
そして、部屋着に着替えた少年は晩ご飯の準備を始めた。
(そういや明日か……)
パスタを茹でながら、少年は先日師匠から出された指令を思い出す。
なんでも、日本から時計塔に短期留学してくる少女を空港まで迎えに行ってこいとのことだ。
もちろん、当初は拒否した。送迎だけなら使用人にでも任せればいいじゃないかと。
しかし、どうやらその留学生の家柄は高いらしく、使用人程度では失礼にあたるとのこと。
ならば家柄だけの暇人に行かせればいいじゃないかと反論すれば、これはお前の為でもあると押し切られてしまった。
全く、俺も暇じゃないんだがな。とひとりごちる少年。
まぁ、留学生に興味がないと言えば嘘になる。事前に師匠から訊いた情報によれば、同い年の十四歳でありながら既に
つまり、自分と同じ魔術師としての基礎を全て学べる環境と才覚を持ち合わせている天才ということだ。
いったいどんな人物なのだろうか、と少年は明日出会うことになる少女へと想いを馳せるのだった。
翌日、ヒースロー空港のターミナルに少年は立っていた。
ただし、その顔には不満がありありと見て取れる。
『イギリスでは珍しい日本人の少女なんだ。チケットはこちらが用意したものを使ってるはずだから到着時刻も解ってる。これも修行だと思って自力で見つけ出すんさね』
出発前、留学生の特徴を訊いた少年に対する師匠の回答だ。
全く、師匠は変なところでいじわるだ。
でもまぁ、確かにイギリスでは日本人は目立つ。それがビジネスマンでもない少女なら尚更だ。
案外簡単に見つかるかもなと楽観視しながら、少年はターミナルに視線を向ける。師匠から伝えられた時間はもうすくだ。
搭乗出口が俄かに騒がしくなる。どうやら手続きを終えた乗客がやってきたようだ。
読んでいた小説を懐に仕舞い、目的の人物を探すために目を向ける。
そこで、少年は師匠の底意地の悪さを思い知る。
(な、なんだこれは!?)
目線の先には、見渡す限りの人、人、人。しかも全員私服で年齢は同い年くらいの少女ばかりだ。
これは何事かと驚いていると、ふと先頭に立つ大人が持つ旗が目に入る。そこには『修学旅行』の一文字。
(あ、あんのババア!謀ったな!!)
少年は全てを理解する。あの性悪師匠は、日本の学校が修学旅行に来ることを知っていて、わざと留学生に同じ便でやって来させたのだ。
帰ったら絶対文句言ってやる、と決意しながら少年は諦めの境地に入りながら視線を動かす。ここで本当に諦めないあたり、少年の根の良さが窺える。
しばらく探してると、ふとひとりの少女が目に留まる。
いや、留まるという表現は正しくない。
少年の目は、釘付けとなったのだ。
その少女は、日本人にしては珍しく赤毛を腰下まで伸ばしており、眼鏡を掛けている。傍らには巨大なスーツケースを携えており、オレンジ色のコートを身に纏っている。
それだけなら、ただの珍しい日本少女というだけしかない。少年の脳にも少し記憶されるだろうが、一日も経てば忘れ去られてしまうようなもの。
しかし、少年の直感は、彼女こそが時計塔に留学してきた天才少女だと告げていた。
しばらく見つめていると、少女もこちらに気が付いたのか、柔らかな微笑を浮かべ少年へと近づいていく。
「失礼、あなたが時計塔から派遣された案内人?」
「そういう君は、日本からの留学生か?」
意味のないことだと理解しながら、二人は形式的に質問する。
「どうやら、見る目があるようね」
「ああ、お互いにな」
少年が手を差し伸べ、少女は握手で答える。
「アルス・キュノアスだ。ようこそ時計塔へ」
「蒼崎橙子よ。これからよろしくね」
◆
「……夢か」
ソファーから身を起こし、眠気を覚ます為に伸びをする。
しかし、懐かしい顔だったな。
わが師であるイノライ・バリュエレータ・アトロホルムに、数少ない友人のひとり獅子劫界離。
時計塔から逃げ出す際のゴタゴタで連絡すら取れず、現在も音信不通だが、元気にやっているだろうか?
……うん、自分で心配してなんだが問題ないだろうな。
師匠に関しては弱ってる姿なぞ欠片も想像できないし、獅子劫もバイタリティの塊だ。彼女たちを心配する方が失礼かもしれない。
……あと、やっぱり少女時代の橙子は今とは違うベクトルで可愛かったな。あの頃の橙子は祖父と袂を分つ前で、性格の切り替えなんてやっていなかった時代。常にたおやかで淑女然としており、自信に満ち溢れている。言うなれば、眼鏡モードオンリーの蒼崎橙子。
幼さを残した面立ちは玲瓏で、その美貌はまるで妖精のようでもあった。
しっかし、なぜ今頃になって過去の記憶を夢として見たのだろうか?こんなこと今まで一度もなかったのだが。
寝ぼけた頭で周りを見渡すと、橙子の机の上に写真を見つける。
その写真には、四人の人物が映っている。
三人の男性に、ひとりの少女。
橙子に言わせれば、ロンドン時代のただ一つの過ち。
……ああ、思い出した。たしか、橙子が顔を思い出すためにアルバムからこれを引っ張り出したんだ。そのとき、アルバムに収められた写真を昨夜ひとりで眺めていたんだっけ。
たぶん、その行為が原因なのだろう。懐かしい顔を見て刺激を受けた俺の脳が、夢として記憶を呼び覚ましたという訳だ。
……過去に浸るのはここまでにしよう。橙子みたいに思い出すのは無駄な行為と断言するほどではないが、過去に囚われるなんてナンセンスなことだ。
それに、朝食準備を始めないと橙子の起床時間に間に合わなくなる。ああ見えて、ご飯を待たされることをなにより嫌っているからな。
という訳でアルスくんの過去をチラ見せ。
続きはまたいずれ……。
あと、今回からアンケートを追加しました。
気軽に答えてくれると嬉しいです。
矛盾螺旋編が終わった後、忘却録音編と殺人考察(後)編と続き空の境界編が終了。続いてロード・エルメロイⅡ世の事件簿編に移行しますが、矛盾螺旋、忘却録音、殺人考察(後)、これらのエピソードの間には約1か月ほどインターバルがあります。この間に閑話を入れるかどうかアンケートしたいと思います。
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矛盾螺旋と忘却録音の間に閑話入れろ
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忘却録音と殺人考察(後)の間に閑話入れろ
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どっちのインターバルにも閑話入れろ
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閑話いらねえ!早く事件簿編読みてえ!