黎明の軌跡 Break the Nightmare 作:テッチー
破片の一(11話~12話)
広間には玉座と呼ぶに相応しい椅子があった。誰も座っていない空の玉座だ。
その玉座の後ろにそびえる巨大な鏡に、ピシリと小さなヒビが走る。
たちまちに亀裂は深くなり、大きく幾重にも広がり、やがてその鏡を破砕した。
ばらばらと砕け落ちた破片が、玉座の周りに散らばっていく。
それら無数の欠片は、しかしまだ幾ばくかの力を宿していた。
分かたれた鏡面の一つ一つに、彼らの姿が映し出されている。
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《★肉球で繋がる同志だヨ★》
解放されたミシュラムエリア。観覧車近くのカフェテラスである。
「まずはこのような素晴らしいエリアを創造してくれたこと、心からお礼を申し上げるわ」
深々とエレインが頭を下げた。
「まったくだ。感謝の念に絶えない。この想いは言葉だけではとても言い表せない」
エレインに続いて、ラウラも頭を下げる。
「そんな……お二人とも顔を上げて下さい。私は迷惑をかけてしまった側なんですから」
ティオは焦って言う。
実際のところ自分自身、本当にそう思っていた。すでに記憶の混濁は収まり、ある程度のことが思い出せる。
ランディさんはずっとカジノにご執心で、それでつまらなくなった私は、別室にこもって小さなモニターで映画を見ることにした。
タイトルは《長靴をはいたみっしぃ》だ。作成年月が一年以上も後の1208年であることも、自らの置かれた境遇にさえも、なんの疑問も持たなかった。カルバードから来たというヴァンさんたちからは『それが“夢に囚われた状態”だ』と教えてもらった。
その《長靴をはいたみっしぃ》の視聴が全ての元凶になった。
主人公であるコナーの裏切りの連発に、これがみっしぃを題材にした映像作品なのかと、本気で目を疑った。
上映中、コナーの顔面にゼロ距離射撃のエーテルバスターをぶちかましてやりたい衝動に襲われたのは、一度や二度ではなかった。
しかしそれ以上に怒りと悲しみがこみ上げ、先にみっしぃの心を救いたいという想いが膨れ上がった。
その強い願望は霧を呼び、気づけばそこはミシュラム――鏡の城の最上階に私はうなだれていた。
「むしろ私こそエレインさんにお礼を言いたいです。傷ついたみっしぃの心を癒してくれたんですから」
「当然のことよ。それよりも問題は傷つけた側のコナーにあると思うの」
「まったくもってその通りですね。私利私欲のためにみっしぃを利用するなんて悪魔の所業です。言語道断。決して許されざる行いです。コナーは煉獄へ落ちるでしょう」
「落ちなければ落とすわ」
ティオとエレインの話を聞いていたラウラが言う。
「私はその映画を見ていない。……ずいぶんな酷評だが、見ない方がいいのだろうか?」
『当然っ!』
ずいっと二人の顔が寄せられる。
「ラウラさんはアルゼイド流の師範代だったわね。映画の中盤ぐらいで、今までに体得した全ての技をスクリーンにフルコースで叩き込むことになると思うわ」
「クロスベル警察の装甲車にありったけの爆薬を詰めて、ランディさんに映画館に突っ込んでもらいたいですね」
「それだとランディ殿も爆散するが……。しかしそんなにか。うむ……やはり視聴は控えることにしよう」
引き下がるラウラ。
エレインはきょろきょろと辺りを見渡していた。うずうず、と言った方が正しいのかもしれない。
「もしかしてエレインさんって、ミシュラムに来たことなかったんですか?」
「実はそうなのよ。ずっと来たかったのだけど、まあ、色々あって機会を逸してしまってね。……誰かさんのせいで」
小さなぼやき。しかし聞き逃されなかった。ティオの猫耳センサーが反応し、ラウラの目も鋭く細まる。
「ヴァンさんですね」
「ヴァン殿だな」
「え!? いえ、あの……?」
「お二人はどういうご関係で?」
「気になるところではある。エレイン殿が差し支えなければ」
「な、なに、その期待に満ちた目は? 別に大した話はないわよ? どうだっていいじゃない、そんなことは? それよりもティオさん! 主格者としての権能がまだ使えるんですってね?」
エレインは露骨に話題を逸らした。ティオは首をすくめて、
「大したことはできませんよ。たとえば――」
すっと手をかざすと、大観覧車が回り出した。さらには近くに煌びやかなパレードを出現させる。おまけに売店のラインナップに、《ロア=ヘルヘイム》限定のみっしぃストラップがずらりと並んだ。
「こんなことくらいしか」
『か、神……!』
二人の羨望の眼差しがちょっと心地よかった。
ただ少し気になっていることがある。おそらく主格者としてミシュラムエリアと繋がっているからだろう、ほとんどの区画の状況が遠隔でも手に取るようにわかる。
しかしレイクビーチ方面だけが、なぜか把握できない。自分の力が及ばない。何かとぶつかって、権能が阻害されている感覚だ。
そもそもが謎の世界であるわけだし、あまり深く考える必要はないのかもしれないが……。
「縁あって出会うことになった私たちですから、ここに同盟を結成しましょう。クロスベル、エレボニア、カルバードという三国が集うのも不思議な因果を感じます」
「いいわね。私はミシュラム初心者だから、ぜひ色々教えて欲しいわ」
「では誓いを立てよう。我々は生まれた場所と時は違えども、共にみっしぃを愛し、その正しき普及に生涯を捧げるものとする!」
がっと三人の腕が交差する。観覧車が彼女らを祝福するかのように、派手にピカピカ光り出した。
みっしぃ愛好同盟、ここに結成。
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《★乙女の一撃★》
「稽古をつけて欲しい? 俺に?」
さすがのジンも戸惑っていた。
彼の前にいるのは、アニエス・クローデルだった。
「無茶な頼みなのはわかっています。でもそこを何とかお願いできないでしょうか」
「そう言われてもだな……。まずは理由を聞かせてもらえるか?」
彼女は後衛の魔導杖使いだ。女子高生ながら実戦も経験していて、意外にも戦いの場で立ち回ることができると、そうエレインから聞いている。もっともエレインは、学生に戦闘をさせたという一点でヴァンに怒っていたが。そこに関しては俺も同意見だ。
真面目な性格なのだろう。もしかしたらアニエスは先行きの見通せない《ロア=ヘルヘイム》で、少しでも皆の役に立ちたくて、戦闘技量の幅を増やそうとしているのかもしれない。
そう思っていたが、事情はちょっと違った。
「アーロンさんを知ってますよね」
「アーロン・ウェイだろ。もちろん」
「アーロンさんって勝手気ままと言うか、良くも悪くも自分のペースなんです。こんな異世界でもそれは変わりません」
「もう見た目からしてはねっ返りだからな。そこまで自分を貫けるのは、ある意味才能だと思うが」
「困るんです……!」
「な、何がだ?」
凄まじい迫力だった。
「《ロア=ヘルヘイム》って色んな人が呼び込まれてるじゃないですか。有名な方も多いですし、皇族や王族もいらっしゃいます。なのにアーロンさんってば、そういう方々にも普段通りなんですよ! むしろ馴れ馴れしい感じで! 私、もう気が気じゃないんです!」
「ははあ、なるほど」
「アーロンさんが粗相とかして偉い人たちを怒らせちゃったら、ヴァンさんの事務所なんて一瞬で吹き飛んじゃいますよ!」
「そうはならんだろ……」
皇族でいうならオリビエがそんなことで気分を害するわけもないし、王族のクローゼだって怒ったりなんかしない。
だがそれは俺たち特有の感覚で、普通は畏まって然りの立場の人間だ。アニエスが気を揉むのも当たり前なのかもしれん。
「事情はわかったが、それがなんでお前さんの稽古を見ることに繋がるんだ?」
「アーロンさんが失礼をしそうな時は、物理的に止めるしか方法はないと思うんです。だからそういう体術が必要と考えまして」
「素手での制圧術とか捕縛術とかか?」
「あ、いえ。発勁がいいんですけど」
「どんな女子高生だ……」
勁は体の内部に作用する。理合上は地に足がついてさえいれば、どんな場所でも、どんな態勢であっても打つことができる。何より本来のインパクトは決して派手ではなく、地味で目立たない。
確かにこの技なら誰にも悟られずに、アーロンだけを静かに仕留めることが可能だろう。いや、だからどんな女子高生だって。
「アークライドには相談したか? 多分、あいつも勁の基礎ぐらいは使えると思うぞ。そっちに教わる選択肢だってあるだろ」
「ヴァンさんには内緒にしたい……です」
「力技で解決する女の子には見られたくないと」
「~っ」
「すまん、失言だ。そう睨んでくれるな」
アニエスといい、エレインといい、アークライドのたらしめ。
まあ、発勁は流派特有の技ではないし秘伝というわけでもない。東方武術であれば初心者から習うレベルのものだ。多少の稽古に付き合うくらいならいいか……?
「わかった。《ロア=ヘルヘイム》探索の合間でいいなら」
「ありがとうございます! これでアーロンさんを止められます」
「わかってると思うが、使えるようになっても人体急所には打っちゃならんぞ」
「前向きに検討します!」
「そこは約束しろ……」
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《★紅と蒼のノクターン★》
「あなたと一緒にお酒を飲むのは何気に初めてじゃない? こうして飲み交わせる日が来るなんてね」
完全に同意見だった。オスト地区にある半地下のバー。グラスを傾けるスカーレットに、クロウは言う。
「そりゃあ《C》やってた頃は未成年だったからな。飲めねえだろ」
「よく言うわ。ヴァルカンと一緒に《パンタグリュエル》のバーカウンターに座ってるところ、何度も見てるからね」
「いやいや、あいつはそういうとこ意外に固いんだよな。一口だけって言っても『お前が成人したらな』の一点張りでよ」
「猟兵ってアウトローな生業だけど、それだけに社会一般のルールは厳守させる集団が多いそうよ。表のつまらない事で逮捕されたら、芋づる式に裏のあれこれまで露呈しちゃって組織が共倒れになるって理由で」
「そういう習慣か。ヴァルカンのやつ、いつまで前職を引きずってたんだか」
「あなたはどうなの?」
「俺?」
「《身喰らう蛇》の執行者。やめないの?」
「ああ……」
十月戦役が終わってから、身の置き所としてヴィータに誘われたのが結社だった。それに応じて、クロウは執行者№XIIIとなった。
薄暗い天井照明が、グラスの氷を鈍く光らせる。
「抜けるさ、その内な。今も昔も所属にこだわりはねえ。自由にさせてもらえるってのはありがたかったが」
そもそもヴィータ付きの執行者みたいなところがあったが、そのヴィータが結社の方針に従わないことが多く、まもなく正式に《身喰らう蛇》を抜けることが決まっている。秘匿事項さえ守れば、脱退に関するペナルティは特にないらしい。相変わらずよくわからない組織だ。
とにもかくにも、そうなってくると俺がそこに居続ける意味もないわけで。
「でもなあ……」
「日の当たる場所は生きづらい?」
「いずれ戻れればとは思っちゃいたが、やっぱ今さらって感じはするぜ。マジで猟兵になるくらいしか生計を立てる道がなさそうなんだよな……」
「それはやめときなさいよ、似合わない。悩んでるなら私を見て」
カジュアルな教官服に身を包み、かつて付けていた眼帯は取り外した彼女の姿。
よくわかる。新しい人生が充実しているのだろう。でも簡単じゃなかったはずだ。
腫物に触るような周りの目があって、元テロリストのレッテルを張られ、責められることもあったはずだ。
スカーレットのことだ。何の言い訳も一切せず、自分に投げつけられる非難を全て受け入れたのだろう。
その結果、彼女の今がある。
「なんなら、あなたも教官にならない? エリゼたちが卒業して、まもなく私もバルフレイム宮勤めになる。臨時教官としての席は残してくれるそうだけどね。なんにせよ、私の後釜が必要なのよ」
「俺がトールズの教官? 冗談だろ」
「卒業証書はあるんでしょ。あとは実習単位さえあれば教官免許は取れるし、どうとでもなるんじゃない?」
「気軽に言いやがって」
「灰の騎士のリィンが分校の教官で、蒼の騎士のクロウが本校の教官。年一で対抗試合とかしたりしてね。いい刺激にもなるし、楽しいと思う。立ち合いは紅の騎士として私がやるから」
不覚にも面白そうだと思う自分がいた。
いいのだろうか。光の差す場所に踏み出しても。ヴァルカン、ギデオン。お前らなら俺になんて言う?
「ま、頭の片隅に選択肢の一つとして入れておいてちょうだい。教官職も悪くないってね」
そう言われて、クロウはカウンターの端の席に視線を送る。
依然として霧に囚われ続け、飲み潰れるサラがそこにいた。「彼氏欲しいわ~……」とつぶやきながら、突っ伏している。
「トールズの教官になるってことは、あれの系譜に組み込まれるんだよな……」
「見ちゃダメ」
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《★グルメハンター・一狩り目★》
大役を仰せつかった。ならばそれに見合うものを用意せねばならない。
幻想の異世界とはいえ、街に繰り出せば一般的な食材は店から手に入る。食料の再現もされていて、食べる分にも問題ない。しかしそんなありきたりな物で、オリヴァルト殿下のご期待に応えられるのだろうか。
「ふーむ……」
適当な商店の食材を眺めながら、ラウラは思案する。
シェラザードとセドリックの微妙な空気感を解消するためのイベントとして提案した食事会。もちろんフルコースを用意する。
しかしイメージするコースを実現しようとすると、どうしても食材が足りない。市場には稀にしか出回らないようなレアな食材が必要なのだ。
そうだ。無いなら狩ればいいではないか。
そう思い立ち、足を運んだのはヘイムダルエリアの地下水道だった。
「付き合わせてすまないな、フェリ」
「ラウラさんのお役に立てるなら嬉しいですっ」
フェリとは地下水道の入口付近で偶然に出くわした。
地下に入ろうとしたら心配されたから、事情を話してみたところ、自分も手伝いがしたいと同行してくれたのだ。
なんと素直な子だろうか。あのフィーが猫可愛がりしているというのもわかる気がする。
二人で薄暗い通路を進む。
ひんやりした空気。充満する湿った臭い。足元は苔で滑りやすい。幻影の区画のはずだが、ここまで精細に構築されるものなのか。
「あの、ラウラさん……」
「どうした? やっぱり戻りたいか?」
「そうじゃないですけど」
フェリはおずおずと口を開く。
「わたし、ラウラさんには嫌われているかもと思っていました」
「寝耳に水だな。なぜそんなことを思う?」
「道場を任されるような立派な剣士の方って、猟兵の在り様を認めてくれない人が多いんです。だからてっきり、ラウラさんもそうなのかと」
「ああ……」
子供らしいストレートな問いかけだ。
そんなことはない、と言いかけて、自分もかつてはそうだったと思い出す。誰あろうフィーに対して、態度を硬化させてしまったのはもう何年前の話だったか。
かつての自らの見識の狭さをしっかり噛みしめつつ、改めてラウラは腰をかがめてフェリと視線の高さを合わせた。
「そんなことはない。猟兵とは生き方の一つだ。他者を無用に傷つけることを生業とする者は嫌いだが、そうでない者もいると知っている。フェリのことを嫌いになどならない」
「えへへっ、嬉しいです!」
可愛い。この辺りの愛嬌はフィーにはない。
「ところで食材集めですよね? 釣りでもするんですか?」
「魚なら地上でも手に入る。私が求めているのは――おお、いたぞ」
進路の先の開けた空間に、異常に肥大化したハサミを振り上げるクラブ系の魔獣がいた。ラウラの身長より遥かにでかい。
良かった。魔獣も再現されている。
「ちょうどカニが欲しかったのだ。あれはいいダシがでる」
「わあ、大きいです。ちょっとがんばらないといけませんねっ」
問答無用の奇襲。滅多撃ちの滅多切り。その魔獣は五分と経たずに食材と化した。
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《★皇女様は仕掛けたい★》
「ではこの部屋をお使いくださいね」
「いえ、あの……ここはあなたの私室では……?」
さすがのデュバリィも即決で受け入れることはできなかった。
アークライド事務所から滞在場所を移すことなった同行者たち。デュバリィは第三学生寮――正しくはラウラの料理――から逃げて、バルフレイム宮にやってきていた。
そこでアルフィンに案内されたのは、アルフィン自身の部屋だった。
「いくらなんでも皇女様の部屋なんて使えませんわ! もっと普通の……普通の感じの客室とかあるでしょう!?」
「普通の感じとは難しいですね。わたくしの普段使いの部屋ならまだありますし、ご自由に
「き、着れるわけが……」
「あっ、クローゼさんとお城の探検をする約束があったんです。ところどころ構造が変わっているみたいで。良かったらデュバリィさんも一緒に行きませんか?」
「……謹んで遠慮致しますわ」
「ではまた後ほど。服はクローゼットの中ですからね」
「だから着ないと――」
言いたいことを言うだけ言うと、アルフィンは行ってしまった。なんてマイペースな皇女だろうか。天真爛漫で有名な彼女だが、あれは素の性格のようだ。
一つ嘆息し、デュバリィは部屋を見回す。格式高い紋様の刺繍が入った絨毯、凝った装飾の照明器具、天蓋付きのクイーンベッド。全体的に赤色で統一されているのは、エレボニア皇族のカラーゆえだろう。
寛げるわけないでしょうが。あのベッド、本当に寝転がっていいのですか? でも皇女の部屋を使う機会なんて、今後の人生で二度とあるわけもないし。
「少しだけなら……」
お尻のほこりを丁寧に払って、遠慮気にベッドの端っこに座ってみる。ふっかふかだ。最高品質の低反発。これが超絶ロイヤルなベッド……!
落ち着かなくなって、すぐに腰を上げる。
次は化粧台まで移動して、鏡の前に立った。
「あ、肌……ちょっと荒れてますわね……」
そんなことを気にしていては、鉄機隊の筆頭など務まらない。戦いに身を置く者としては当然だ。
今まではそうだった。でもこれからは違う。
《黄昏》を終え、リアンヌ様は結社を抜けた。武器も手放した。あとは静かに生きることを望んでいる。
セントアークに開店したサンドロット薬局は細々と営業中だ。事情を知っているレグラムの者どもがしょっちゅう買い付けに来るから、暇はしていない。
売上の面では助かっている部分もあるが、お供え物のごとく山積みの土産を持ってくるのはやめて欲しい。薬を買うよりも、置いていく献上品の方が遥かに多いのはどういうことなのか。
鉄機隊の三人も薬局の売り子として店頭に立っている。リアンヌ様は『もう私に仕える必要はない。それぞれの人生を歩むように』と仰ったが、それでもそばにいるのは自分たちの意志だった。
接客業をする以上、身なりには気を遣わねばならない。
視線を落とすと、台には化粧水の入った小瓶があった。
自由に使っていいとは言っていたが……。
「少しだけなら?」
手のひらに少量の液をなじませ、軽く顔にハンドプレス。
「お、お肌に浸透するっ……!」
恍っ惚。これが皇族の化粧水。これがロイヤルスキンケア。染み渡りますわあ……。
我に返って、首を振る。ふとクローゼットに視線が留まった。
「あ、服……」
そういえば、わたくしに似合うと言っていた。どんな服だろう。興味が、これも少しだけ。
クローゼットを開けて、たくさんある衣装の中から目についたものを手に取る。フリルのついた可愛らしいカジュアルドレスだ。
「いえいえいえ、こんなのわたくしには絶対似合いませんわ! 甲冑が普段着みたいなところもありますし? こんなの防御力ゼロですし? ねえ?」
独りごちつつ、ドレスを持ったまま鏡前へ。
「~っ!」
そっと合わせてみる。
本当は好きだった。こういうのが。
元々は下級貴族とはいえ領主令嬢。幼い頃は好んでひらひらの服を着ていたし、社交界の煌びやかなドレスに憧れもした。とっくに過去に置き去りにしてきた感情だったはずなのに。
リアンヌ様は『普通に生きなさい』とも言った。
いまさら普通の娘として生きていく。そんなことが……。
その時、がちゃりと扉が開いた。
「アルフィン、入るよ。まったく用事があるなら、もう少し細かく――え」
アルフィンの私室を開いたはずなのに、そこにはなぜかデュバリィがいた。化粧台の鏡の前で頬を赤らめ、ドレスを体に合わせている――まさにその瞬間だった。
どういう状況なんだ、これは。僕はアルフィンに呼ばれて来たんだぞ。部屋も間違っていない。『仲良くなった方がいいと思うから』みたいなことは通信で言っていた気がしたが、またシェラザードさん関係で何か企んでいるのかと適当に聞き流していた。
やったな。やってくれたな、アルフィン。
事態は理解できないが、非常にまずいことが起きているのはわかる。
見る見るうちにデュバリィの顔が紅潮し、瞳が激しく狼狽し、
「あ、あっ、きゃ――むぐっ!?」
叫ばれる。そう直感したと同時、考えるより早く体が動いてしまっていた。
彼女の口を塞ぎつつ、即座に背に回って後ろ手に拘束する。よし、士官学院で学んだ制圧術が活きて――いや、活きてるわけないだろ。とっさに何やらかしてるんだ僕は。
こんな状態を誰かに見られては――
「入りますよ、姫様。ご用事でしたら、もう少し詳細を――え」
エリゼが入ってきた。彼女もアルフィンに呼ばれたらしい。
終わった、おわった、オワタァ……。
「あのっ、あのののっ、これっは、仲良くするあれでっ」
「わ、わたくし、わたくしはっ、ロイヤルをお試しでっ」
言い訳は言葉として固まらず、震える空気と共に散っていく。
あばばばと口だけを動かす二人を、エリゼは静かに手で制した。
「デュバリィさんは姫様にこの部屋をあてがわれ、そこに別口で姫様に呼ばれたセドリックさんが入ってきて、お互いにびっくりしちゃったんですね。驚いて大声を出されそうになったので、それを防ぐために反射的にそのような恰好になってしまったと。おそらく私たちの親睦を深めようとした姫様の思いつきでしょうが、肝心の姫様が先にクローディア殿下とのお城探検に出かけた結果、この混沌の状況が生まれたわけですね」
『そう、それ!』
セドリックとデュバリィは力強く首を縦に振る。
アルフィンの思考パターンについては、爆速理解のエリゼだった。
★ ★ ★
――二枚目の破片に光が灯る――