第三新東京市の高台にある平屋建ての小さな一軒家。
そこに住む一組の老夫婦は、近所でも評判だった。
門柱には『碇』との表札。
カラカラと引き戸を開け、出てきたのは赤い紬を着た老婦人。
かつての見事な金髪には白いものが混じり、肩まで切りそろえられた髪型は白銀の色を放っている。年齢に比して刻まれた皺は、化粧でも完全に隠しきれていない。
だが、ピンと背筋を伸ばした格好と青い瞳が、往年の彼女の美貌を十二分に偲ばせた。
旧姓惣流。
現、碇アスカである。
そんなアスカは玄関前でつと顔を上げる。
さして待つ必要もなく、坂の向うから三人組の人影がこちらへと向かい歩いてくるのが見えた。
「あ、おばあちゃん! ひっさしぶりー!」
元気よく手を振って一人の少女が駆けてくる。
アスカの前で急停止した途端、金髪が翻った。
青い瞳も併せ持つ彼女の名はカスミ。知り合いたちから若い頃のアスカに酷似しているとの専らの評判。
「ばあちゃんも元気やった?」
中肉中背の、線が細く繊細な印象を与えてくる少年の名はツバサ。
外見こそアスカの伴侶の面影を窺わせるが、妙な関西弁じみた物言いをするのは明らかに彼のもう一人の祖父の影響だろう。
「おばあさま、ご無沙汰しています」
最後に恭しく頭を下げてくる少女の名はシオン。
目こそ赤くなかったが、雪と見紛うが如き白い肌の持主である。
みな、アスカにとって、可愛い可愛い末孫たちだ。
「よく来たわね、あんたたち」
嬉しそうに眼を細めるアスカの目前で、カスミがくるりとその場で回って見せる。
卸し立てらしい制服のスカートがふわりと揺れた。
「どう、おばあちゃん。似合っている?」」
「ええ。とっても似合っているわ」
うなずくアスカの目に映るは、懐かしき第三新東京市第一中学校の制服。
半世紀以上も経つのにあまり変更されていないデザインは、とてもとても感慨深い。
春休みの今日。
中学校入学を間もなくに控えた孫たちが、揃って新調した制服を見せに来たいと連絡をくれたのは、アスカにとって嬉しいサプライズだった。
「さあ、暑かったでしょ? 三人とも中に入りなさいな」
かつて日本はセカンドインパクトで常夏の国となった。
どうにか四季のメリハリがついてきた現在も、その時の名残のような酷暑が数年スパンで来襲することもしばしばである。
事実、まだ三月末の今日、熱中症注意報が発令されていたし、ニュースでは海水浴に興じる若者も映されていた。
諸々の原因となったセカンドインパクトについては、中学で学ぶことになるだろう。
セカンドインパクト後にこそ色々とアスカも関わっているのだが、そのことに関してはアスカも孫たちには語ろうとは思わない。黙って墓まで持っていくつもりだ。
孫たちを案内したリビングはクーラーが効き整理整頓されていたが、どこか閑散としていた。
それも無理もない。今、この屋敷には、アスカ一人しか暮らしていないのだから。
リビングのテーブル前に腰を落ち着けた孫たちに、アスカは冷たい麦茶を振舞う。
真っ先にカスミが飲み干して歓声を上げた。
「ぷは~~ッ! 生き返った!」
そのまま彼女がジロリと見たのはツバサ少年。
「ったく、バカツバが待ち合わせ場所間違えるから、駅でダッシュする羽目になったんだからねッ!」
「はあッ!? ボクのせいやないやろ!? だいたい西口と北口を言い間違えたのはカスミの方やないか。それにお詫びのジュースだって奢ったわけやし…」
「男だったらグダグダ言い訳しないッ!」
「えぇ…」
絶句するツバサに、カスミは更に声を被せていく。
「それから、そのエセ関西弁もどうにかしないさいよ! だいたい関西弁しゃべるなら、一人称は『わい』とか『俺』にしなさいよね!」
「せかやてボクはボクやし…」
タジタジとなるツバサに、別方向から援護の声が上がる。
「個人的な嗜好に迎合する必要はないわ。ツバサくんはそれで良いの」
12歳とは思えぬ落ち着いた物言いをするシオンだった。
凛とした雰囲気が漂わせ、雪の肌をもつ少女は真っすぐにカスミを見つめる。
「遅刻の件も含めて、言い過ぎよ
「~~~ッ! 何よ何よ
「実際にあなたが一番年下なのだから仕方ないでしょう?」
孫たちは揃って同級生なのだが、シオンの言葉通り、カスミは3月の早生まれなので三人の中では一番年下となる。
4月生まれのせいか、何やら貫禄めいたものを見せるシオン。
それが余裕に見えたらしくカスミが更に牙を煌めかせたところに、アスカの苦笑が割って入った。
「どおれ、お昼でも作ろうかしらね。みんなしてお昼はまだでしょ?」
「え。べ、別にあたしたちは制服を見せにきただけだから…」
代表するようにカスミがそう答えるも、直後彼女のお腹はきゅるるるっと盛大な音を鳴らしている。
顔を赤くするカスミにアスカは破顔。
「まあ食べて行きなさい。一人分を作るのも人数分作るのも、大して手間は変わらないし」
よっこいしょ、と立ち上がりながら、アスカの笑顔はややシニカルな色合いを帯びた。
「それにね―――年寄り一人で食べる食卓ってのも寂しいものなのよ?」
しばらくして碇家の食卓に並べられた幾つもの小鉢。
一口大に切られた大根とこんにゃくとさつま揚げの煮つけ。
キャベツのお浸しにちりめんじゃこをあえたもの。
短冊切りの山芋にメカブを載せたもの。
育ち盛りの孫たちのために、アスカはこれにソーセージも茹でる。
そしてメインはハンバーグだ。デミグラスソースにおろしポン酢、チーズソースなども卓上へと並ぶ。
「頂きます!」
あらかじめ朝にたっぷり焚いておいたご飯をよそってやれば、孫たちは示し合わせたように健啖ぶりを発揮。
「…あ」
「おお!?」
「うん、これ美味しッ」
三人が声を揃えて感嘆の声を上げたのは、やはりメインのハンバーグ。
「美味しいでしょ? 冷凍しておいたやつだけどね」
アスカは自分のハンバーグを頬張りながら応じる。
「あれ? でもこれって爺ちゃんの味じゃ…」
首を捻るツバサの横っ腹を、すかさずカスミが一撃。
「こらッ! それをいっちゃあ…!」
「いいのよ、気を使わなくても」
そっけなく答えたアスカの視線の先。食卓に空いた席が一つ。
そこに座っていた人物の幻影に語りかけるるように、アスカは目を細める。
「あの人ったら時々無性に自分勝手になってね。止めても一人だけでさっさと先にいっちゃうんだから…」
食卓にしんみりとした空気が漂う。
気を使うようにシオンがおそるおそる口を開く。
「ということは、このハンバーグはやはりおじいさま手製の…?」
「ええ。あの人が作っていってくれた最後の分よ」
「そんな貴重なものをあたしたちが食べちゃっていいの?」
「大丈夫。孫たちと一緒に食べたって伝えれば、絶対に喜ぶに決まっているから」
「ほなら、遠慮なく頂きます」
ツバサがフォークを動かし、大きく切り分けたハンバーグをがぶりと一口。
「アンタねえ。おじいちゃんの作っていった最後のハンバーグなのよ? もうちょっと丁寧に味わいなさいよ!」
すかさずカスミが噛みつくが、
「…ごっくん。そういうカスミかて、もう全部喰っとるやないか」
「いいから残りの半分をよこしなさい! あたしは育ち盛りなのよ!」
「そんなんボクかて一緒や!!」
二人でギャイギャイと揉めていると、カスミの皿にデンとハンバーグが載せられた。
「ユングステ、私のを半分あげるから」
見兼ねたシオンが自分のぶんの切り分けたものを譲ってくれたらしい。
これにはカスミも歓声を上げると思いきや、逆にシオンを睨みつけている。
どうにも姉貴風を吹かせられたのが気に食わない。
アスカ譲りの青い瞳は黙然とそう訴えていたが、口にした台詞はそれに輪をかけてしゃらくさい。
「遠慮するわ。
そのままオホホと高笑いしそうな勢いに、シオンの雪の肌にサッと朱が差す。
事実、大人びた雰囲気とは裏腹に、シオンの身長は三人で最も低い。加えて彼女はイカ腹の、いわゆるロリ体型に近かった。
対するカスミの腰の高さよ。日本人離れしたスタイルの良さは間違いなく祖母であるアスカ譲りで、街でモデルのスカウトを受けたこともあるのが彼女の自信の源泉である。
「…私の身体は成長過程なだけ。年齢相応よ。特に発育が不足しているわけじゃないわ」
唇を震わせながらシオン。
「あらそう? でもごめんなさいね、一年近く年少のあたしの方が先におっぱいもおっきくなっちゃって~」
うそぶくカスミ。おまけに胸を寄せるような仕草で煽る煽る。
結果、ぐぬぬと睨み合う少女たち。
そんな修羅場をよそに、能天気な声を上げる少年が一人。
「あー、ほなボクがもらうわ」
「ッ!?」
んがとツバサは大口を開け、カスミの皿にあったハンバーグを丸ごと頬張り、咀嚼。
「…ツ~バ~サ~ッッ!!」
「なんや? いらんゆーたろうに」
「だとしても! あたしが貰った以上あたしのモノなのッ!」
「だったらボクのぶんにも手ぇ出さんといてよ…」
「お黙り! アンタのものはあたしのもの! あたしのものはあたしのものよ!」
「それは違う、ユングステ。ツバサくんは貴女だけのものじゃない…!」
それは、決して高い音ではなかった。
パシンと卓上に箸を置く硬い音。
にも関わらず、少年少女たちは一瞬で硬直。まるで怯えたチワワのような瞳を音の出どころへと向ける。
視線の先では、ゆっくりとアスカが立ち上がるところ。
「それだけ食欲があるならデザートも食べるでしょ?」
優しい眼差しと声音で、アスカは孫たちを見回す。
「は、はひッ!」
カスミがどうにか上擦った声で返事。もしかして怒らせちゃった…? とアワアワするツバサと視線を交わし合う。
シオンに至っては元々白い肌を蒼白にしてプルプルと震えるのみだ。
それも無理のないことだろう。
『あの人だけは絶対に怒らせるな』
常々両親から硬く戒められていることである。
一方で、アスカは別に怒ったわけではなかった。
実際に食欲旺盛な孫たちを嬉しく思い、手製のデザートを出してやろうとしているだけ。
「て、手伝いますぅッ!」
「そう? ありがとう」
孫たち総出で手伝ってもらい、切り分けられて提供されたのはケーゼトルテ。
要はチーズケーキで、ドイツではメジャーなお菓子だ。
ドイツ産のチーズを使ったレシピなので、酸味があり、ヨーグルトのような味わいも楽しめる。
「どう? 美味しい?」
「美味しいです!」
先ほどの緊張もどこへやら。紅茶片手にケーキを貪る孫たちに屈託はない。
アスカ自身、それでいいと思う。
子供は余計なしがらみやトラウマを負うべきではないのだ。
そして、またもや勃発するケーキの取り合い合戦。
懲りないわね、なとど眺めるアスカの頬に笑みが浮かぶ。
目前で展開される光景は、決して勘気に触れるものではない。
むしろ懐かしくさえ思えて、彼女の
―――ああ、あの頃のあたしたちがここに居る。
大人たちの事情に翻弄された果て。
挙句、盛大にお互いを傷つけあう羽目にはなったけれど。
奇跡のような時間は、確かに存在したのだ。
それは黄金の価値を持ってアスカの脳裏に焼き付いている。
この子たちは、きっとあたしたちと違う道を行くのだろう。
それは当たり前のことで、それもまた一つの奇跡。
その道筋をつけてきた先達の誇りを胸に、アスカはそっと孫たちに向かって爆弾を投げつけている。
「時にあんたたち、いとこ同士でも結婚出来るってコト、知っている?」
頬に浮かぶのは、往年の小悪魔めいた笑顔。
返ってきたのは僅かな沈黙。
そのあと。
「え、ええ、おばあちゃん。そ、そんなの知っているに決まっているじゃない! 常識よ、常識ッ!」
カスミは顔を真っ赤にし、声を震わせながら意味不明に両手を大きく動かしている。
「…………はい」
ぼそっと呟くようにいったあと、耳まで真っ赤に染めて黙り込むシオンは、ある意味一番わかりやすい。
「へ~、そうなんだ。知らんかったわ~」
本当に初耳とばかりに、呑気に、そして全くの他人事のように感嘆の声を上げるツバサ。
挙句、
「どうしたん、二人とも。顔が赤いで?」
心底不思議そうに口にした途端、両サイドから脇腹へと一撃を喰らっている。
「まあ、この年頃の男の子は本当にガキだからねぇ…」
どうにも笑いをこらえきれず、アスカは肩を震わせてしまう。
「ええ、本当に」
「こればかりはユングステに同意…」
ここぞとばかりに意気投合する少女たち。
「? なんや二人してそんなジト目になって。って痛い痛い! 尻はやめてぇな…!!」
「それじゃおばあちゃん、ご馳走さまでした」
「ご馳走様でした」
「ほな、ばあちゃん、まったな~!」
三人の孫たちが帰っていく。
その後ろ姿が見えなくなるまで見送ってから、アスカはゆっくりと空を見上げた。
青い空だ。もう二度と赤く染まることはないだろう。
同時に一抹の寂しさが去来するのは止めようもない。
あの灼熱の時代を知る人も、その多くが鬼籍へと入ってしまっている。
全てがまるで遠い昔のよう。
…そんな風に懐かしむなんて、あたしも焼きが回ったのかしらね?
ゴホン、とアスカは咳込む。
急に身体のだるさを意識した。孫たちの手前、意地を張っていた反動だろう。
体調の違和感を振り切るように、アスカは熱い太陽を仰ぎ見る。
この世界の何ものかへと強く祈る。
―――それでも、もう少しだけ。
もうしばらく、この平和になった世界を堪能させて下さい。
視線を下げたアスカは、これまた胸中で祈りにも似たものを抱く。
今度のそれは最愛の伴侶へと捧げるもの。
―――そしてシンジへ。
あたしの子供たち、孫たちは立派に成長しています。
だから。
だからね。
どうか安心して、雲の上からあたしたちのことを見守っていて下さい。
強い日差しの降り注ぐ午後。
アスファルトから立ち昇る熱気に、アスカの赤い紬姿が溶けていく―――。
キキ―ッとタクシーが急停車する音。
勢いよく後部座席から飛び出してきた人影がある。
この暑い最中に完全に登山グッズに身を固めた人物は、小走りでアスカの前に来て「…ああ、間に合わなかった」と嘆息。それから顔を上げると、
「ひどいよ、アスカ! なんで僕がいない間にカスミたちに会っているのさ!」
年齢の割には背筋は伸び、足腰も矍鑠としている。
だが、黒髪の七割は白く染まり、童顔もずいぶんと老けていた。
もともとの線の細さから全身が骨ばって、その痩身はかつての冬月コウゾウを彷彿させたかも知れない。
しかしてその正体は、もちろんこの屋敷の当主であり、アスカの夫でもある碇シンジその人である。
「…ちッ」
「あ、いま舌打ちした。ねえ、なんで? なんでさ?」
「いちいちうっさいわねえ! カスミたちが急に来たいっていったんだからしょうがないじゃない!」
「そ、それはそうだけど」
「そもそも富士山に登っている最中に呼び戻しても間に合わないでしょ!?」
「…だからって、もともと富士山登頂ツアーは君が勝手にペアで申し込んだんじゃないか! なのに当日になって風邪気味だってキャンセルしたのはともかく、日の出をライブビューイングで中継するように僕だけを送り出したクセに!」
「過ぎたことをグダグダ言ってんじゃないわよ。年喰っても本当に男らしくないわね、アンタは!」
「アスカこそ、いつまで経っても唯我独尊で野放図で…!」
「あーあー聞こえない。年のせいで耳が遠くなって聞こえませ~ん」
「だから、そういうところが…!」
第三新東京市の高台にある平屋建ての小さな一軒家。
そこに住む一組の老夫婦は、近所でも評判だった。
いつまでも年甲斐のない夫婦喧嘩を繰り返す二人ということで。