自分以外誰もいない状態でジャングルに投げ出され、異世界の無人島で28年もたった一人で暮らし、最後には奇跡的に冒険者たちに助けられた中身が日本出身の爺な竜娘の生涯と不思議で驚きに満ちた冒険についての記述 作:野良野兎
妻との出会いは、特に運命的でも、感動的でもなく、どうしようもなく俗っぽい、互いの親同士が決めた見合いの席であった。
美人ではなく、下町の居酒屋で注文を取っていそうな、いわゆる芋臭い女性だった。
訊けば親が田舎の、それなりの規模の地主で、普段は畑仕事に精を出しているとかなんとか。
当時は都会人だなんだと粋がっていた私は、なんでこんな女と見合いなどさせるのかと思ったものだ。
だが話しているうちに、不思議と私は彼女に惹かれていた。
己とは全く異なる価値観。
男勝り、とは少し違う、女性らしい心の強さ。
あの野菜はこう育てると良いだとか、この草は薬として使えるだとか。
彼女と共にあぜ道を歩き、ああだこうだと他愛のない話をする。
その時間が、実に楽しかった。
そうして数年の交際を経て、私は彼女に婚姻を申し込んだ。
あの時の光景は、今でもまだはっきりと覚えている。
茜色に染まる里山。
赤とんぼが飛び交うさまを、屋敷の縁側で眺めながら。
共に生きてくれと。
夫婦になってくれと。
彼女の手を握りながら、そう言って。
すると彼女は目じりに涙を浮かべながら、まるでお日様のような温かい笑みを浮かべて。
間違いなく、人生の絶頂であった、幸せな記憶――
「う、ん。いて、いてて、これは、ひどいな」
意識が覚醒する。
頭を振り、痛む身体を持ち上げる。
何やら、随分と懐かしい夢を見ていたような気がする。
あるいは、あれが噂の走馬灯というやつなのだろうか。
いずれにせよ、どうやら九死に一生を得たらしい。
右へ、左へ、視線を投げる。
あの獣は、あの化物はいない。どうやら、逃げてくれたらしい。
ひとまずは、難を逃れることが出来た。
「ああ、くそ、酷い目にあった」
化物が圧し折った巨木の根に体を預けながら、大きく息を吐いた。
一度、二度、呼吸を整えて、自分の身体を確認する。
さすがの治癒力というべきか、脇腹の痛みは既にない。
だが折れた翼、そしてあの突進をまともに受けた尻尾の回復はまだ十分ではなかった。
特に左の翼は酷い有様だ。破れた皮膜にはもう薄っすらと新しい膜が張っていたが、骨の方は半ばからぽっきりと折れてしまっている。
動かそうとすると、神経を引っ掻かれるような鋭い痛みが走った。
これは一度、正しい位置に骨を戻さないと後が大変そうだ。
「ああ、本当に参るな……」
溜息一つ。深く深呼吸を繰り返して、覚悟を決める。
傍に落ちていた枝を咥えると、ぐっと、折れた翼を握りしめた。
翼の骨、とは言ってもその太さは立派なもので、二の腕の骨、上腕骨程度にはしっかりとしていた。
「いっせえ、の、っせ……!」
ごきりと、痛々しい鈍い音が響く。
めきりと、口に咥えた枝に牙が食い込んだ。
額に大粒の汗が浮かぶ。
声にならない声。
焼き鏝を押し付けられたような熱さ、痛みが脳髄を焼く。
パニックに陥り、短く浅く呼吸を繰り返す身体の手綱を、理性で握る。
落ち着いて。落ち着いて。
深く、大きく息を吸い、吐く。
空を見る。木漏れ日の中に揺れる、枝葉の動きをぼうっと眺める。
よし、よし、大丈夫だ。
最後に一つ、大きく息を吐いた。
「ふうっ、はあっ、ああもう、厄日だな今日は」
額に流れる汗を拭う。
腕などの骨折ならば添え木を当てがった方が良いのだろうけれど、翼の場合は添え木を蔓などで固定することができない。
骨が引っ付くまで、安静にしておくしかないだろう。
さて、次は尻尾だ。こちらの様子も確認しておかなければ。
翼ほどではないにしろ、こちらもなかなかに酷い。
出血はしていないようだが、化け物の突進をまともに受けた部分の鱗が砕けてしまっており、下の黒い地肌があらわになっている。
まるで怪我をしたトカゲ、というよりは傷ついた魚を彷彿とさせる見た目だ。
出血はしていないようだし、消毒は必要だろうか。
爬虫類を飼った経験がないのでわからん。いや、そもそも爬虫類と同じ扱いで良いのだろうか。
とりあえず、拠点に戻ったら煮沸消毒した水で洗浄しておこう。
しかし、派手にやられたものだ。
そして、なんとも情けないな、と思う。
借り物の身体で、迂闊にも食あたりで死にかけた挙句、野生動物への警戒を怠って身体の一部に傷を作ってしまった。
自分の愚かさに、腹が立って仕方がない。
そうして散乱していた枝を杖代わりに周囲を確認してみたところ、地面は抉れ、木はなぎ倒され、岩は砕かれと凄惨極まる光景が広がっていた。
薪を作る手間が省けたと前向きに考えるべきか、これだけの惨状を作り出せる化物に目をつけられたことを呪うべきか。なんとも困ったものだ。
だが、思わぬ収穫もあった。
化物に砕かれた、私の鱗、だったものである。
杖を突きつつ、拠点へ帰ろうかとまっすぐ伸びた獣道、もとい私が吹っ飛ばされた跡を辿るように歩いていたところ、荒れに荒れた森の中、木漏れ日を反射してきらりと光る何かを見つけたのだ。
日の光を浴びてうっすらと透けるそれは、化物の攻撃によって砕かれた、私の鱗の残骸。成れの果て。
手触りは鱗というより硝子に近く、しかしその頑丈さは私が両手で力を込めても折れず、曲がらず、さらにその断面は研ぎ澄まされた刃物のように鋭い。
実際、興味本位で触れた指先が薄っすらと切り裂かれる程であるので、その切れ味はそんじょそこらのナイフなど目でもないだろう。
つまり、これを上手く利用すれば調理用のナイフにも、斧の代わりにもできるということだ。
竜の鱗、恐るべしである。
いや、それを言うならば、その頑丈な鱗を砕くあの化物が如何に恐ろしいか、ということなのだが。
牙を受けて砕けたのか、それとも鼻面の頑強さが鱗を上回ったのか。
猪の鼻は、想像以上に固い。
地面に埋まっている根っこや筍を掘り出すときに使うのだから当然といえば当然なのだが、鉄と見まごうこの鱗を砕くほどかといえば、そうでもない。
まああの体格からして地球の生物と比較すること自体が間違っているし、どのみち突進を食らえば致命傷になりかねないのだ。
鱗で受け止められるから警戒しなくてもいい、ということにはならない。
「色々と、備えたほうがいいのだろうなあ」
自分の姿を見下ろして、そう独り言ちる。
今回は翼と尻尾だけだったとはいえ、これらも立派な身体の一部。
嫁入り前の玉肌に傷をつけたことには変わりなく、今まで衣服にまで頓着していなかった自身の迂闊さに、今は恥じ入るばかりである。
だが、さすがに明確な外敵が現れた以上、いつまでも腰みの一枚という事態は何としてでも避けなければならない。
私には、この娘にきちんと身体をお返しする義務があるのだ。
その時まで、なるべく大切に扱ってやらなくては。
気を引き締め、改めてそう思う。
「となると、防具、か。いや、まずは素材の吟味からだな」
不幸中の幸いというべきか、剥がれた鱗は何枚もあり、いくつかを道具に使ったとしてもまだ余る。
この鱗がどれぐらいの衝撃に耐えられるかは未知数だが、それを加味したうえで、最低限の防具は作るべきだろう。
竜の鱗で作った防具。
字面だけで見れば、なかなかに格好もつく。
とはいえ、数が限られているので、鎧やら盾やらと、そう大層な物は作れないだろうが。
三か所、あるいは四か所。
最低限の急所を防御する為の装備。
となると、胸、脇腹、太腿、この辺りだろうか。
素材が素材だけにうまく加工できるかが不安ではあるが、こればかりは多少不格好になろうとも何とかするしかない。
武器も必要になるだろう。
弓、は駄目だ。
鳥や小動物など、皮が柔らかい動物ならばまだしも、化物のあの分厚い毛皮を、素人が作った矢が貫けるとは思えない。
となると、槍が妥当だろうか。
化物の巨大な牙、その間合いの外から攻撃できる武器。
手に入れた鱗を使えば、恐らくはあの毛皮を貫く威力は出せるだろう。
しかし、いくら防具や武器を作ったところで、真正面からあの怪物を相手にするのは無謀すぎる。
熊に素手で挑むようなものだ。
この身体に小説やお伽噺に出てくる竜のような力でも宿っていれば話は別だが、今のところは怪力を発揮したことも、口から火を吐いたこともない。
その頑丈さと体力、治癒力の高さはたしかに人間離れしているが、それであの化物を倒せるわけでもない。
だからこそ、知恵を振り絞る。
罠だ。これしかない。
くくり罠や落とし穴などの罠にかけて動きを封じ、奴の間合いの外から止めを刺す。
これが、私があの化物に勝ちうる唯一の方法だ。
無論、こちらが手傷を負わせたことで、安易に手を出してはいけない脅威であると奴さんが判断してくれるのが一番平和的だが、縄張りが重なっている以上、そうそう思い通りになるとは思えない。
私自身も、この資源溢れる土地を離れるつもりはない。
しかし罠にかけるとなると、少し前に拠点近くに作った落とし穴も作り直さなければならないだろう。
あの深さでは明らかに不十分だし、底に設置した杭も明らかに強度不足。
せめて深さは倍にして、杭ももっと太いものを使わなければ役に立たない。
いやそもそも、あの化物が簡単に罠にかかるとは到底思えない。いや、思わないほうがいい。
少なくとも、地球の生物と同じ感覚で挑んではだめだ。
ここは島が空を飛び、双子の月が浮かぶ異世界。
徹底的に、執拗に、過剰ともいえる対策をして、ようやく十分。
それぐらいの気構えでいたほうがいい。
それにこちとら伊達に一世紀近く生きてきた訳じゃない。
蓄えてきた知識を、搾れるだけ搾り出してやる。
老獪さ、というものが私にあるかはわからないが、泥臭く、狡賢くやってやろうではないか。
とも、あれ。
「まずは体調を整えるところからだなあ」
這う這うの体で拠点に戻り、大樹の枝の上で私は腹を抱えた。
人心地つき、気が緩んだところであの腹痛がまたじわじわとその顔を覗かせ始めたのである。
これはまた、別の意味で長い戦いになりそうだ。
枝の上でげんなりと伸びる私が苦痛から解放されたのは、日がすっかり落ち切った夜のことであった。