自分以外誰もいない状態でジャングルに投げ出され、異世界の無人島で28年もたった一人で暮らし、最後には奇跡的に冒険者たちに助けられた中身が日本出身の爺な竜娘の生涯と不思議で驚きに満ちた冒険についての記述   作:野良野兎

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お待たせしました
少し長めです。


生きるということ

 

「これでよし、と」

 

 翌日。

 朝霧立ち込める早朝から作業を始めた甲斐あって、お日様が空の一番高いところに昇るまでには、新しい落とし穴は無事完成と相成った。

 昨晩の大雨のおかげで穴の底は随分と泥濘(ぬかる)んでいたが、もうあとは杭を並べていくだけだったのでそう時間はかからなかった。

 しかし予想以上の力仕事だったことに加え、跳ねた泥を頭から被るわ、足を取られて泥の中にすっ転ぶはめになるわ。

 特に泥塗れになった髪が乾いた時など、頭に針金でも巻いているのかと思うほどの不快感であった。

 汚れるのはわかりきっていたので全裸で作業していた分、まだましだったのかもしれないが。

 

「ふぅっ、いやあ、一仕事終えた後の一服はたまらないな」

 

 そんなこんなで、水浴びである。

 無論、飲み水としても利用する水源であるので、今回のように汚れに汚れた場合は川の下流まで歩いて行ってから身を清めている。

 長い銀髪に纏わりつく泥を丹念に洗い流し、角の先端までしっかりと磨き上げる。

 うなじから首、胸、腰。面倒なのが、本来人間にはない部分。つまりは翼と尻尾。

 いかんせん手入れなどした経験がない部位であるので、ついつい忘れがちになってしまう。

 もっとも、翼の方は骨の部分に細かな鱗があるぐらいで、そう手間はかからない。

 大変なのは尻尾だ。

 何せこちらは長いし大きいし、硬い鱗がずらりと並んでいるので洗うにもコツがいる。

 まず表面を撫でるのにも一方向、根元から先端へ向けて撫でなければ、下手をすれば逆立った鱗で怪我をする。

 なので今までは上から下に水をかけながらゆっくり綺麗にしていたのだが、今回はそんな面倒を減らすための秘密兵器を用意した。

 

「ふふん、夜通しかけて作ったこいつを試す時が来たか」

 

 満を持して籠から取り出したるは、茶色くて丸くてごわごわしたもの。

 たわしである。

 いや、正確にはたわしのような何か、である。

 はじめは馬の毛繕いなどをするブラシを作ろうとしたのだが、試行錯誤(あーだこーだ)を繰り返した末に、何故だか不格好なたわし擬きが出来上がった。

 だが、見た目はどうあれ、触った感触はたわしである。

 

「こいつで、こうだ」

 

 私は泥だらけになった尻尾を腹の方で抱え込むと、ごしごしとたわしで擦り始めた。

 するとぼろぼろと落ちるわ落ちる。表面にこびり付いた泥が、面白いように落ちていく。

 やはり髪に櫛を通すのと同じで、上から下へとやらなければ引っかかってしまうが、これはいい。これは楽だ。

 まさにあっという間。いつもの半分以下の時間で、尻尾は元の美しい光沢を取り戻した。

 同じように、鱗に覆われた脚も磨いていく。

 こちらは鋭い爪があるのでより慎重に。

 地面と直接触れる部分であるので、鱗に細かな傷、破損がないかもしっかりと確認する。

 

「傷なし、汚れなし。いやあ、本当に頑丈な足でよかったよかった」

 

 すらりとした足を撫で、髪や身体からさっと水気を落とす。

 翼を二度、三度と羽ばたかせれば、表面の水滴はほとんどが取り払われてしまった。

 

「さて、それじゃあ朝飯でも取りに……何だ?」

 

 まるで傘みたいだな、とそんな呑気なことを考えながら伸びをすると、ざわりと何か言いようのない感覚が全身を襲った。

 角が震える、いや、ざわつくような感覚。

 それは昨夜、あの嵐の中で竜を見た時と似た感覚であった。

 だが、何だろうか、似てはいるが、どこか違う。

 竜を見たときは何というか、そう、危機感というか、危ないという感じはしなかった。

 だが今回は明確に、背筋に抜けるような冷たい感覚がある。

 刺すような、刃物の切っ先を向けられているような冷たさ。

 髪を流れ落ちた水滴が、小さな音を立てて水面に消える。

 弾かれるように私は川から飛び出し、防具を身に着けて槍を担いだ。

 何かわからんが、恐ろしいものが来る。

 直観に従って槍の穂先を向けたところで、むせ返る様な獣臭が森の奥から匂い立った。

 荒々しい息遣い。枝を踏み折る音。

 ずしんと、重々しい足音に水面が揺れる。

 

「よお、来たなあ化け物が」

 

 森の奥から、雄々しい巨大な牙が覗く。

 泥にまみれた、岩と見まごう大きな体。

 太い脚、硬い蹄が地面を抉る。

 鬼火を宿す、こちらを射殺すような黒い瞳は片方が閉じ、傷口から病気にでもかかったか、乳白色の目ヤニで随分と汚れていた。

 対峙する。

 ぶるりと、背筋が震えた。

 完治した筈の、尻尾と翼が疼く。脇腹が痛み出す。

 目は逸らさない。睨みつける。睨みつけながら、ぼんやりと見える周囲の光景から冷静に最適解を弾き出す。

 できることなら踵を返し、森の奥に引っ込んでほしい。

 偶然の、予期せぬ遭遇であってほしい。

 だが、私の賽の目は往々にして悪い目ばかりが出るようになっているようで、化け物猪はひときわ低く唸り声をあげると、その凶悪な牙を突き出しながら爆発的な加速を伴って、こちらを挽き潰さんと吶喊(とっかん)してきた。

 だが、前回とは異なり、今回はその僅かな前兆、行動の起こり(・・・)が見えている。

 蹄が地面を抉る瞬間、その体がほんの僅かにこちらへ沈み込むのとほぼ同時に、私はその射線から逃れるように身を投げ出していた。

 飛び出したのは、私から見て右側。

 つまりは奴の潰れた左目。死角になっている場所へと、回避した。

 水飛沫があがる。

 まるで丸太で素振りでもしたような、身の毛もよだつ轟音がすぐ傍を走り抜ける。

 へし折れた丸太が、めきめきと音を立てて倒れた。

 

「ああ、くそ、やられたっ!」

 

 思わず悪態を吐く。

 突進をかわしたまではいい。だが、奴が走っていった方向がすこぶる悪い。

 あれは、拠点がある方向だ。知ってか知らずか、完全にこちらの退路を断ってきた。

 立ち上る土煙の中で、奴がこちらに向き直る気配を感じる。

 奴の左目は完全に潰れている。こちらが死角に入っている限りは反応できない筈だが、獣の嗅覚と聴覚で、その弱点をある程度補っているのだろう。

 ならば、次善策をとる。

 槍を構え、じっと奴がいるであろう方向に視線を投げながら、私はじりじりと森の中へと後退していく。

 雄叫びが響く。

 奴が来る。

 土煙を吹き飛ばし、体中に塗れた泥をまき散らしながら、こちらへと向かってくる。

 左へ。

 回ろうとして、左の脇腹を何物かに強かに打ち据えられた。

 

「か、は」

 

 直撃。

 驚くことに奴は突進の途中で急制動をかけ、その牙を薙ぎ払ってきたのだ。

 獣とは思えない知能の高さである。

 だが、事前に突進を避けるため右に飛び込んでいたのが幸いし、その威力の大半は受け流され、前回のように骨まで衝撃が抜けることはなかった。

 とはいえ、尋常ではない巨体から放たれた攻撃である。大半を殺したとはいえ、その衝撃は私の身体を吹き飛ばすには十分すぎる。

 恐ろしい勢いで風景が回り、流れていく。

 だが、手にした槍は離さない。どれだけ枝にぶつかり、地面を転がることになっても、この最後の命綱だけは決して手放さなかった。

 

「ぐ、く、せっかく、さっぱりしたところだったのに、このっ」

 

 起き上がる。

 腕は、動く。足も動く。痛みはあるが、骨までは達していない。

 そして不幸中の幸いか、奴との距離は十分に取れた。

 あとは、誘導するだけだ。

 

「きたぞ、きたぞぉ」

 

 めきめきと、木々がなぎ倒される。

 手に唾を飛ばし、槍を固く握りなおした。

 地を蹴る音が響く。角がぴりぴりと震えて危険を知らせてくる。

 二歩、三歩左へ。

 反撃開始だ。

 

「来い、こぉい!」

 

 藪の中から、化け物が飛び出してくる。茶色い飛沫を口元から飛ばしながら、狂ったように突っ込んでくる。

 だが、ここから先は私の陣地だ。

 踏み抜かれた枝が折れる。それと同時に、化け物の後ろ足を頑丈なシュロの縄が勢いよく縛り上げた。

 つんのめり、化け物が転倒する。

 全力疾走している足をすくい上げたのだ。盛大に土ぼこりを巻き上げながら、岩のような巨体が転がり迫る。

 足を縛っていた縄が、結んでいた枝ごと引っこ抜かれた。

 

「らあーっ!」

 

 裂帛の気合とともに、転倒し、露になった横っ腹に槍を突き込んだ。

 鱗の穂先が、化け物の固い毛を断ち、皮を破りながらずぶりと奥へ突き刺さる。

 手元に伝わる生々しい感触に、思わず顔をしかめた。

 化け物が叫び声をあげる。

 豚の叫び声。痛々しい、獣の悲鳴があがる。

 そして化け物が身をよじる前に、私は素早く突き出した槍を引き戻した。

 槍はこれ一本しかない。折られてしまえば、唯一の武器を失うことになる。

 その場から飛びのき、次の場所へ。

 槍は刺さったが、致命傷ではない。分厚い筋肉と脂に阻まれて、内臓までは達していない。

 そして、手負いの獣ほど恐ろしいものはない。

 森の中を駆ける私の背後から、悍ましい叫び声が響く。

 今の今まで生態系の頂点に君臨してきて、手傷など負わされたこともなかったに違いない。

 さながら森の王者、いや、暴君といったところか。

 そんな存在が一度とならず二度までも、新参者に後れを取らされた。

 その怒りはまさしく怒髪天を衝く勢いだろう。

 

「よしっ、ここだ!」

 

 背後から迫る気配に冷や汗を流しつつ、私は無事に次の罠がある場所へと辿り着いた。

 振り返り、槍を構える。

 赤黒い獣の血に塗れた刃の向こうで、藪から化け物が顔を出す。

 そしてその表情を見て、私は冷や水を浴びたような、生き血を抜かれたような感覚に襲われた。

 悪鬼羅刹。

 脇腹から漏れる血で体を赤く染め、湯気さえも立ち昇らせる鬼の形相。

 興奮して傷口が開いたのか、潰れた左目から時折赤黒い血が噴き出していた。

 気圧される。

 押しつぶされそうな存在感。

 息ができない。手負いであることを知らなければ、なりふり構わず逃げ出していたことだろう。

 だが震えて奥歯を鳴らしながらも、失禁して股を濡らしながらも、それでも私は決して目を逸らさなかった。

 生きるか死ぬか、なのだ。

 自然界において絶対の掟。

 弱肉強食。

 食うのだ。

 食われるのではない、私が、俺が食うのだと。

 

「こい、こいやあ!」

 

 どちらともなく、叫ぶ。

 恐怖に竦む身体から、力を振り絞る。

 化け物が駆ける。その足元が爆発する。

 全てが、時間がゆっくりと流れていく。

 こい。

 こい。

 もう一度罠で足をとってやる。

 もう一度腹を見せたところを、とってやる。

 あと三メートル。二メートル。

 一メートル。

 枝が折れる。罠が作動する。

 縄が絞られる。その輪は、化け物の前足にしっかりとかかっていた。

 やれる。

 勝てる。

 勝った!

 槍を突き込む。前に、前に踏み込む。

 前に、踏み込まれた。

 地面が沈む。蹄が半ばまで埋まるほどの強烈な踏み込み。

 縄が、引き絞る力が拮抗した。

 ほんの一瞬、刹那の硬直。

 そして、ただの木の枝が、化け物の頑強な骨格に勝ることなど、あるはずもなく。

 枝が折れる。

 刹那の拮抗が崩れる。

 止まらない。

 信じられないことに、化け物は罠があることを承知の上で、そのうえで全てを力で捻じ伏せて、突っ込んできた。

 駄目だ、間に合わない。

 止まらない。

 咄嗟に構えた槍の柄を、化け物と自分の間に挟み込む。

 だが所詮は棒切れ。それで化け物の暴力を受け止めきれるはずもなく、笑えるほどあっけなく、私の手元でそれは砕けた。

 どん、と衝撃が背後(・・)に抜ける。

 腹がかっと熱くなった。

 

「あ、が、」

 

 突き上げられた巨大な牙。

 その槍先に、私の身体はぶら下がっていた。

 化け物の牙は私の右脇腹を貫き、まるで勝鬨をあげる侍のように、まるで戦利品を誇る戦士のように、私の身体を天高く掲げていた。

 焼き鏝を押し付けられたような、なんて生半可なものではない。

 かつてないほどの激痛に、喉が裂けてしまいそうな程の、自分のものとは思えない叫び声があがった。

 だが、化け物の攻撃はそれだけに留まらない。

 びりっと、角が何かを察知する。首を横に動かす気配。

 咄嗟に腹に突き刺さった牙を掴むが、もう遅い。

 牙を大きく振り回し、化け物は私をまるで礫か何かのように放り投げた。

 腹から夥しい量の血を吹き出し、私は空を飛ぶ。

 木々の帳を突き破り、飛ぶ。

 飛ぶ。

 地面にぶつかる。

 弾む。

 弾む。

 転がる。

 血反吐を吐きながら地面に転がり見上げた空は、それでも憎たらしいほど快晴だった。

 手には、もはやナイフのように短くなった槍の穂先が。

 どうにもこんな目にあって、まだ生き汚く握っていたらしい。

 耳元に、水が流れる音がする。

 ぱちりと、焚火が爆ぜる音。

 どうやら何の因果か、拠点の傍まで吹き飛ばされたらしい。

 我ながら、悪運尽きぬ男である。

 なら、悪運尽きるまで足掻いてみようか。

 ちらりと、抉れた脇腹を見やる。

 これは酷い。腹の三分の一は持っていかれたか。

 それでもなお手足を動かす活力が残っているのは、この身体の特殊さ故か。

 なんにせよ、ありがたい。

 両手と翼、尻尾まで使って、血反吐を吐きながら身体を起こす。

 起こして、奈落の底のような目がそこにあった。

 まさに、目と鼻の先。

 息がかかるほどの距離に、それは立っていた。

 口元から血の泡を吐きながら、どこか力のない足取りで。

 まるで吟味するかのように、こちらをじっと見つめていた。

 だが、すぐには襲ってこない。

 恐らくは前回、死に体だった私に左目を潰されたことを覚えている。

 手負いの獣は恐ろしい。

 化け物はそれを本能で、体で覚えている。

 だからこそ、完全にこちらが弱り切るまで待っている。

 血を流し、力尽きるのを待っている。

 右往左往(舌なめずり)しながら。

 落とし穴の、すぐ傍を。

 ここにきて、化け物は冷静で、慎重だった。

 だからこそ、勝ちの目が出た。

 死に物狂いで、死ぬ気で勝ちに来なかった。

 

「かかっ、俺は勝つぞ、化け物」

 

 半ば、無意識での行動だった。

 血を失い、意識も混濁した状態での、本能に近い行動。

 地面を蹴って、翼で大きく風を掴み、身体ごと前へ、前へ。

 そしてそれは化け物の予想を大きく超えた勢いを生み出し、その巨体をほんの数センチ、後方へと押し込んだ。

 大雨の後の、まだ少し泥濘んだ地面である。

 化け物の蹄は、地面を掴まなかった。

 落とし穴の、蓋が抜ける。

 落ちる。落ちる。

 化け物ごと、私ごと落とし穴の底へ。

 断末魔の悲鳴。私のものか、奴のものか。

 知るものか。

 息が続く限り、もがき続ける。

 手にした槍の穂先を、振り上げる。

 突き刺す。

 突き刺す。

 突き刺す。

 身動きが取れなくなるまで、身動きを取らなくなるまで。

 力尽きるまで、振り下ろし続けた。

 そうして残った柄が折れ、穂先の鱗が粉々に砕け散った頃。

 落とし穴の底、血と泥に塗れながら、私は狂ったように雄たけびをあげたのだった。

 

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