自分以外誰もいない状態でジャングルに投げ出され、異世界の無人島で28年もたった一人で暮らし、最後には奇跡的に冒険者たちに助けられた中身が日本出身の爺な竜娘の生涯と不思議で驚きに満ちた冒険についての記述 作:野良野兎
「だからな、お前さんはもう少ぅし警戒心というものをだなあ」
翌朝。
腹もすっきりし、引き締まったくびれが腰に戻ってきた頃、私は寝床のすぐ傍で、呆れながらそうこんこんと言い聞かせていた。
前足を持ち上げられ、目の前でびろんと伸びているのは先日からこの辺りをうろついていたあの狸である。
事の発端は今朝、寝床から這い出た私を出迎えるようにして、この狸がじっと座り込んでいたことから始まる。
眠気眼を擦りながらまた食料でも狙いに来たのかと身構えるも、狸が咥えていたそれを見て、私はまだ自分が寝ぼけているのではないかと己が目を疑った。
狸が咥え、私の足元にそっと置いたそれは鼠であった。
思い返すは、こいつと初めて出会った時の夜のこと。
――いいか、分けてやるのはこれっきりだからな。次からは鼠を捕るんだぞ。
そんなことを、言った。
たしかに、言った。
だがそれは鼠を捕って食え、という意味で、鼠を捕ってこい、と頼んだつもりはなかったのだが、どうやらこの狸は後者だと思ったようである。
いや、それにしたって驚いた。
目の前には、行儀よく座って丸い目でこちらを見上げる狸の姿。
その姿はどこか、投げたボールを拾ってきた犬のそれを彷彿とさせる。
「狸に化かされるっていうのは、こういうことを言うのかね」
うなじを揉みほぐしながら、そんなことを口にする。
転がされた鼠の尻尾を指先でちょんと摘まみ上げてみれば、仕留めてからそう経っていないのか、頭の先からは未だに血が滴っていた。
ううん、新鮮とはいえ食う気にはならないし、とりあえずこれは後で穴を掘って埋めておこう。
そうして、私は目の前で呑気にこちらを眺めている狸に向き合うような形で腰を下ろした。
そして、話は冒頭へと戻る。
随分と、本当に野生動物なのか疑問に思ってしまうほど、この狸は大人しかった。
それこそ、両腕を持ち上げた今の状態であっても、まるで抵抗する様子を見せないほどだ。
神妙に考え込む私を見て、狸が首を傾げる。
ともあれ、鼠の被害はまだ出ていないものの、こちらの意を酌んで鼠を狩ってきたことは事実な訳で、このまま以前のように追い払うのも気が引ける。
ううむううむと唸ること数度、私は狸にここで待つように言うと縄梯子をするすると登り、樹上から大きめの燻製肉を一つ取ってきて、言いつけ通りにじっと座り続けていた狸の鼻先にそれを差し出した。
「そら、鼠の礼だ」
鼠一匹と、燻製肉一つ。
正直、何度も邪険にされた私の前に姿を晒すぐらいなら、捕まえた鼠をそのまま食った方が割が良いと思うのだが、いったい何を考えているのやら。
そんな私の心中を知ってか知らずか、狸はぱくりと燻製肉を咥えると、さっさと藪の方へ走って行ってしまった。
くるりと振り向き、こちらを見やる。
それは何か、こちらに期待しているような、何かを求めるような、そんな目だった。
「ああ、また獲ってこい。そしたらまた、食い物を分けてやるよ」
何ともまあ、ちゃっかりしたやつである。
私がそう言うと、狸はさも言質は取ったと言わんばかりに一声鳴いて、茂みの奥へと消えていった。
残されたのは風の音と鼠の死体が一つ。
変わった協力者の登場に困惑しつつも鼠を埋め、昨日まで肉の処理に追われて手が付けられなかった作業に取り掛かる。
用意したのは大型の木枠と、大猪の毛皮。
まずは毛皮を川で何度も洗う。こびりついた血肉は事前にある程度こそぎ取っておいたが、ここでもしっかりと擦り、汚れやノミ、ダニなどを除去する。
しかしまあ、あの巨体を包んでいただけあって大きさもかなりの物で、加工するにも大きすぎるので三分割した今でさえ、私の全身をすっぽり覆ってなお余りある程である。
これだけあれば上着にズボン、敷物まで一式は揃えられるだろう。
しっかり汚れと血肉を落としたら、次はいよいよ皮を
通常はタンニンやらクロムやらを溶かした液に浸すらしいが、この無人島にそんなものがある訳も無いので、今回も例によって原始的な方法で鞣していく。
その方法とは、口噛み鞣し。
文字通り皮を噛んで柔らかくする、古来より伝わる鞣し方である。
他には動物の脳みそを皮に刷り込む方法もあったりするのだが、大猪の頭は埋めてしまったし、元々あの固い頭を割るつもりもなかったのでこちらの方法にした。
洗った毛皮を拠点に持ち帰ると、土がつかないよう広げた葉の上で作業を始める。
とはいえ、あとはひたすら皮を噛んでいくだけなのだが。
身体が成長し、膂力と共に顎の力も増しているだろうから、初めは力加減を間違えないよう慎重に作業を進めていった。
しかしまあ、これが想像以上の苦行であった。
まずあれだけ洗ったにも関わらずほのかに匂う獣臭さ。
実際に噛んでいるのは無味無臭の皮の裏側なのだが、時折鼻に入るこの匂いとくれば、何度かえずいてしまう程であった。
しかしこの作業をしっかりと行わなければ皮は固くなり、使い物にならなくなってしまう。
ただでさえ肉の加工と処理に二日使ってしまって劣化が進んでいるのだから、なるべく手早く済ませなければ。
そうして格闘すること数時間。
ようやく鞣す工程を終えると、後は用意した木枠に毛皮をしっかりと固定してひとまずは完了だ。
「やれやれ、顎が外れるかと思った」
一息つき、土器で湯を沸かしながら細い顎をつるりと撫でる。
大昔、この口噛み鞣しを行っていた女性はみんな歯が平たく削れていたそうだが、そうなるのも納得の重労働だった。
次からは脳みそを使って鞣そう。うん。
白湯を飲んで一息つけると、次は拠点作りの建材集めに森へと入る。
他にも幾つかの道具を入れた編み籠を尻尾に吊るして、手には石斧と、先日作り直した鱗の槍を。
大猪がいなくなったとはいえ、野生動物に襲われるリスクが無くなった訳ではないのだ。
あの狸のように、大猪の脅威が無くなったことで現れる動物も少なからずいるだろうし、用心するに越したことはない。
まずは消費の多いシュロの皮、薪になりそうな小枝を集め、籠の中へ。
ある程度集まったら、私の腰程度の太さの木を数本切り倒し、均等な長さに揃えてから持ってきたシュロ縄でまとめる。
膂力が増したお陰でこの程度なら特に苦労せず楽々切り倒せるようになったし、多少重量のある物を持ち上げても息切れ一つしなくなったのは実に僥倖であった。
そうしてしっかりと縛り上げた丸太を担ぎ、上機嫌で拠点へと向かっていた私であったが、その道中で予想だにしていなかった、目を疑うある物を発見した。
それは何の変哲もない、ただの平べったい、長方形の木の板。
一見少し大きなまな板にも見えるそれを目にした瞬間、私は手にした丸太を投げ捨て、飛びつくようにそれを掴み取っていた。
そう、ただの木の板。
切り揃えられたその形、滑らかな断面は明らかに加工された、人の手が加えられたもの。
そして、私はこんな代物を作った覚えはない。
つまりこれは、私以外の人間が作った物。
私以外の人間が、この島にいる。
「誰か、誰かいるのかっ!」
溜まらず、声を上げていた。
何度も、何度も、喉が痛くなるまで叫んだ。
だが返ってきたのは風と、鳥の声のみ。
人の気配は、ついぞ感じなかった。
呆然と、その場にへたり込む。
周囲を確認するとどうやらこの木の板は一枚だけではないようで、茂みのてっぺんや木々の枝先にと、まるで木々よりも高い位置からばら撒かれたような様子で散乱していた。
驚くことに、その中には金属製の釘が打たれたものまであった。
散らばったそれぞれの形から察するに、どうやら元々は四角い木箱のようなものだったらしい。
それが木にぶつかり、ばらばらに砕け散ってしまった、と。
見上げれば、相当な太さの枝に大きな傷が入っているのが確認できた。
枝の周囲に不自然な木屑が散らばっているのを見るに、どうやら木箱はあそこにぶつかったようだ。
あれだけの高さと木箱の大きさからして、猿や鳥の仕業ではない。
となると、考えられる可能性は一つだけ。
「他の島から、落ちてきたのか」
以前、この島の上空を他の島が通り過ぎたことがあった。
恐らくはああいった具合に島同士がすれ違った際に、この木箱は落ちてきたのだろう。
つまりその島には人が住み、この木箱を作れるだけの技術を、この大きな木箱が必要になるような文明を築いている、ということ。
村か、あるいは町か。
規模はともかく、人が暮らしている。
それだけでも、生きていく活力が湧きあがる心地であった。
生きる希望が、見えた。
「よ、よかったあ」
飛ぶ練習をしよう。
空を自由に飛ぶことができれば島から島へ、渡り鳥のように旅することもできる。
そうしていけば、やがては人の住む島に行きつくことも、夢ではないだろう。
何日、何年かかるかはわからないが、やる価値は十分にある。
と、そこでふと気づく。
木箱が壊れたのなら、中に入っていたであろう品はどこに消えたのか。
まさか木屑まで詰めておいて、空だったということはないだろう。
少しばかりふわふわした足で立ち上がると、木片を回収するついでに周囲を探索する。
かなりの勢いでぶつかったのだろう。木片は予想よりも広い範囲に散乱していた。
だがこれはこれで、まな板や拠点の屋根に利用できそうである。
そうしているうちに藪の中から見つけ出したのは、これまた何の変哲もない代物であった。
それは日本でも見慣れた、真っ赤で丸い艶のある果物。
りんごである。
それが、三つ。
勿論、この島で林檎の木など見かけたことはない。
あの木箱にたったこれだけということはないだろうから、残りは動物にでも持っていかれたのだろう。
さすがに少し傷んでいるが、食えないほどではない。
鉄製の調理器具や鉄板でも出てくればと思っていたのだが、まあそうそう上手くいくはずもないか。
だが、これ以上ない収穫はあった。
じっと、私は木々の間から覗く青空を見上げる。
「辿り着いて見せる、いつか、必ず」
そうして齧りついたりんごはこれまでで一番甘く、酸っぱい味がした。