自分以外誰もいない状態でジャングルに投げ出され、異世界の無人島で28年もたった一人で暮らし、最後には奇跡的に冒険者たちに助けられた中身が日本出身の爺な竜娘の生涯と不思議で驚きに満ちた冒険についての記述 作:野良野兎
木々の間から差し込む朝日が冷え切った身体を優しく包み、私は背の翼を目いっぱいに広げながらその温かさを余すことなく受け止める。
そうして十分に身体を温めたあと、気付け代わりに泉の水で顔を洗う。一度、二度、すっかり可愛らしくなった手で水をすくっていると、そこでふと気が付いた。
「これはまた、驚いた」
昨日火おこしをしようと格闘した際、両手にできた
まるで初めからそんなものはなかったかのように、そこにあるのは傷一つない、白魚のような美しい掌であった。
やはり見た目通り人ではない、ということなのだろう。どういう原理なのかはさっぱりわからないが、都合がいいことには変わりない。
手を振って水気を飛ばしながら、私はじっと水面を見つめた。僅かに揺れるその奥で、土色の肌をした少女が、深紅の大きな瞳で同じようにこちらを見つめている。
爬虫類を思わせる縦に裂けた瞳孔。頬に張り付く白銀の髪が輝き、長いまつ毛から滴った水滴が水面に小さな波紋を作る。
少女の鏡像が揺らめいて水面に消えると、ぐう、と可愛らしい音が鳴った。
「腹が減ったなあ……」
火はまだ起こせていない。故に水も食物も加熱して殺菌することができず、肉や魚を手に入れたとしても、そのまま生食すれば食中毒や寄生虫のリスクが付きまとう。
しかし、火を起こす為の体力が必要なのもまた事実。さすがに魚介類や生肉は避けるべきだろうが、果実などであればまだ危険性は低く、比較的安全だろう。
私は川の水で軽く喉を潤した後、火おこしの際に必要な薪と枯草を日向に干してから探索へ出発することとした。
目的地は海岸、川沿いに進んでいけば、深い森の中であっても迷うことはないだろう。
しかし驚くべきは、この身体の健脚ぶりである。足裏は固く、川辺の尖った石の上を歩いてもちくりとも痛まない。
半日歩いても息切れしない程度には、体力も底抜けだ。
これで腕力もあればサバイバルにおいて有利であるが、外見的には十五も超えていないような少女の身体にそう期待するのも酷であろう。
サバイバル環境において過信、慢心は命取りだ。
「だがせめて、
そう呟きつつ前を遮る小枝を払えば、私の小さな耳がこれまでとは違う水音の様子を耳ざとく捉えた。
小川のような穏やかなものではない、いくつも桶をひっくり返したような激しい水音。
自然界でこのような音が出る場所などそう多くない。
その音を耳にして、老いて枯れ果てた筈の男心が僅かに弾む。
枝をかき分け、視界が開けたそこにあったのは小さな滝。
私が両手を広げた程度の川幅ではあったが、一段、二段と分けて流れ落ちるその様は、男心をくすぐるには十分すぎる光景だった。
辺りに漂う霞が肌をしとりと濡らし、髪が腰に張り付く。
高さは今の私の背丈ほど、滝つぼ付近も腰が浸かる程度のもので、水浴びにはもってこいの場所だ。
だがそれ以上に、こういった場所には魚が集まりやすいので罠を仕掛けるにも適しているだろう。
事実、傍から目を凝らすと水中できらりと光るものがいくつも見受けられた。
木漏れ日が魚の鱗に反射しているのだ。
可能であれば罠を仕掛けるか、釣り上げるかしたいものだが、残念ながら今は道具がないし、火も起こせていない。
課題はまだまだ、山のように残っている。
肌に張り付く髪を指先で弾き、口元に笑みが浮かぶのを抑えられずに私はまた歩を進めた。
不安がないわけではない。だが、私は奇跡的にも素晴らしい環境に巡り合えた。
頑丈なシェルターを手に入れ、水場が近く、魚や木の実、果実が獲れれば食料も問題ない。
あとは火さえどうにか用意できれば、盤石とは言えずとも最低限生存できる程度の生活を送ることも夢ではないだろう。
そうして、さらさら流れる心地よい川音を聞きながらどれぐらい歩いただろうか。
深い茂みからようやく抜け出た私をこれまでにない強い日差しが照り付けた。
思わず目を細め、手で
寄せては返す波の音。鼻先をくすぐる潮の匂い。まったく手付かずな、処女雪のように美しい浜辺を歩けば、太陽に優しく照らされた心地良い温かさが足裏からじわりと伝わってくる。
目の前に広がる原始的な絶景に言葉を失いつつも、私の興味は別のことになった。
非常に非現実的で未だに信じられないが、この島は空に浮かぶ天空の孤島である。
山から辺りを確認した際、彼方の水平線の向こうには雲が広がり、海がその縁から流れ落ちていく様を、私は確かに見た。
にも拘わらず、この砂浜にはそんな事実などなかったかのように平然と波が打ち付けており、水位もまるで変わる様子はない。
あれだけの水量が島の端から流れ落ちているのにもかかわらず、だ。質量保存の法則を完全に無視した、物理学者が見れば卒倒しそうな光景である。
だが海が枯れず、生前の世界と同じような姿であるのならば、そこから得られるものもまた、相応に期待できるというもの。僥倖、実に僥倖だ。
魚介類に海藻類、塩。海がもたらす恩恵は、それこそ数えきれない。
そして、期待に胸を膨らませる私の前に現れたのは、海の幸とは言えないが、南国の砂浜ではお約束ともいえる、その植物。
陸から海岸にしなり、首を垂れるその植物は太い幹を持ち、頭の方には扇状に裂けた大きな葉をいくつも付けていた。そしてその葉の根元に丸々と肥えた、ラグビーボールほどの大きな実をつけている。
南国ではお馴染みの、ココナツの木だ。
まさかと目を疑ったが、縄を巻き付けたような独特の縞模様も、天辺から広がる大きな葉も記憶にある姿そのままで、まず間違いはないだろう。
どうして生前の世界の、地球の植物がそっくりそのままと首を傾げはしたが、とりあえずはまあ、それはまた考えるとしよう。
肝心なのはあの瑞々しい、いかにも美味そうな青い果実をどうやって手に入れるかだ。
木の高さはおおよそ十メートルほど。垂直ではなく、少し海側に傾いているため登ろうと思えば何とかなりそうだが、万が一足を滑らせて転落すれば無事では済まないだろう。
胡坐をかいて座り込み、ううむと唸ってココナツの実を見上げること数分。
木から落ちて怪我をする恐怖よりも、先程からやかましく主張する腹の虫が勝るまでそう時間はかからなかった。
要は、落ちなければいいのだ。
そんな適当な誤魔化しで恐怖心を薄れさせながら、私はココナツの木に手をかけた。右手、左手、そして右足を幹に引っ掛けたところで、私の身体が完全に地面から離れる。
そうしておっかなびっくり木登りを始めた私だが、いかんせん本来人間が持たない
右にふらふら、左にふらふら。
足が人間のものとは違う、木登りに適していない形状をしていることも相まって、気を抜けばすぐにでも滑り落ちてしまいそうな不安定な状態に、冷や汗が流れる。
だが食料を目の前にして、諦めるという選択肢は既にない。一歩一歩。じわりじわりと縮まる距離。
やらなければ、あと少し、あと三歩ほど。手を伸ばせば、届く距離。
ぐっと力を籠め、震える指先を必死に伸ばす。
ほんの少しの焦り、不注意。
それがいけなかった。
あっと言う間もない。ぐるりと半周する視界。全身から血の気が引く感覚。体全体に、地面に叩き潰さんとする力が加わる。
しっかりと掴んでいたはずの左手が離れる。
爪先で幹を引っ掻く。足先はまるで役に立たない。
トカゲのようなつま先は、物を掴むには余りにも不向きであった。
落ちる。
だが覚悟を決めたその瞬間、がくりと何やら身体を引き留めるような力が働き、私は四肢を投げ出したまま宙にぶら下げられる格好となった。
髪も腰みのも逆さになった阿呆のような格好ではあるが、何故だかわからないが、地面に叩きつけられる惨事は避けられたようである。
いったい何がどうなったのか。未だ混乱する頭を懸命に働かせながら、私は視線を頭上――今の状態では足元になるが――に向ければ、そこには太い幹にしっかりと巻き付いて離さんとする尻尾の姿。
どうやらこれが無意識のうちに木の幹を掴み、命綱の役割を果たしたようだ。
まさに九死に一生。猿のような使い方ではあるが、助かったのなら文句はない。
尻尾様様である。
だが、ここからがまた一苦労だ。
逆さまになったまま、私はぐっと腹に力を入れて上体を起こし、手を伸ばす。
「よっこら、せい!」
ぐっと伸ばした指先、あと少しで掴めそうなそれを助けたのは、またもや人間の身体にはないはずの器官だった。鱗が生えた、目一杯広げれば両手よりも大きな翼。
その半ばにある鋭い爪が、三本目の腕として木の幹を引っ掻かり、ほんの少しばかり私の身体を引き上げたのである。
そのおかげで私は幹をしっかりと掴み、身体を木の上へと引き戻すことができた。
なんとも奇妙な感覚である。本来持ち得ない器官であるにもかかわらず、それが当然かのように無意識のうちに動かし方を、使い方を理解している。
そう、まるでこの身体が、長年連れ添ってきた慣れ親しんだものであるかのように。
この肉体の本来の持ち主、その魂の影響か。あるいはそんなものなど元から存在せず、この肉体に私自身が順応し始めているのか。
いや、今はそんな小難しいことを考えている場合ではない。今はただ、生きること、生き永らえることにこそ集中すべきだ。
今度はうっかり足を滑らせないよう、しっかりと幹を掴みながらじわりじわりと木を登っていく。
尻尾を木の幹に添わせるように張り付け、翼を身体よりも下げることでかなり重心は安定するようになったが、見た目も相まってまるでヤモリにでもなったような心持ちである。
だが、うむ、これはとても便利だ。素晴らしい。
使い方を覚えてしまえば、自在に動かせる腕が二本、尻尾を含めれば三本増えたようなもの。
さらに尻尾はもちろんのこと、翼の方も見た目以上に頑強にできているらしく、自分の体重程度ならば余裕で保持できてしまいそうだ。
そうしてゆっくりと、しかし危うさを感じないまま私はココナツの実が成っている場所まで登りきると、丸々と肥えたそれをもぎ取り、一つ、また一つと地面へと落としていく。
そして最後の一つ、三つ目となるココナツの実をもぎ取った所で、私は少し離れた場所にごつごつとした岩場、磯場が広がっているのを見つけた。
辺りの浜辺よりも少しばかり高くなっていて、岩の隙間からは白い波の飛沫が飛び出したり引っ込んだりしている。
ああいった岩場には潮だまり——潮が引いた際にできる水たまりのようなもの——ができやすく、運が良ければそこに取り残された小魚などを捕獲できるかもしれない。
するりするりと木から滑り降りた私は集めたココナツの実を木陰へと転がして、件の磯場へと向かった。
そこは予想通りいくつもの潮だまりがある大きな磯場だった。
怪獣の背びれのような尖った岩に波がぶつかり、さざ波程度まで細かく砕かれて潮だまりの水面を静かに揺らしている。
顔を出している岩の表面や隙間には小さな貝類がいくつも張り付き、潮だまりの中を覗き込んでみれば、驚いた小魚たちが慌てて岩陰に逃げ込むさまがはっきりと見て取れた。
予想よりも遥かに理想的な漁場を見つけ、思わず頬が緩む。だが食料に恵まれていても、火がなければ安心して食べることは難しい。まずは火、火が必要だ。
歯がゆい思いをしながらも磯場の探索を終え、ココナツの実を保存している木陰へと戻ってきた頃には日はもう一番高いところを通り過ぎ、ゆっくりと反対側の空へと下り始めた頃であった。
ここから拠点へ帰る時間、そして火を起こす為に必要な時間を考慮すれば、そろそろここを発った方が良い。
そう考えた私は両手、そしてかなり動かしやすくなった尻尾で一つずつココナツの実を抱え、川をさかのぼっていく。
できることならば、この川底にある石も拾って戻りたいところなのだが、二兎を追うものは一兎をも得ず、欲をかきすぎれば足をすくわれる。
今は一つ一つ、足元を固めながら確実に前へと進んでいくしかない。
さて、拠点へ戻ればまずやることは火おこし――ではなく、腹ごしらえである。
せっかく手に入れた貴重な食料、大事に大事に頂くべきではあるのだが、それはともかく私の空腹もそろそろ限界に近い。少しだけでも、何か腹に入れておくべきだ。
問題はどうやってこの固いココナツの実を割り、中に詰まっているであろう甘い果汁にありつくか、というところである。言わずもがな、素手で割るのは不可能に近い。
であるならば、知恵を凝らしてこの問題を解決するほかない。しかしながら道具という道具があるわけでもなく、その方法は原始的な、良い言い方をすれば極めてシンプルなものとなっていく。
用意するものはココナツの実を固定するための土台となる石がいくつかと、とびきり大きな、私が両手で抱えられる程度の大きさの石を一つ。
くるみを割るときのような、ココナツの実の先端に圧力を加えて押し割るような仕組みを意識する。
尻から頭へ、どんぐりや栗のように一定方向へ繊維の筋が入っているのを見つけて思いついた方法だが、果たしてうまくいくだろうか。
幸い、必要な石は近くの小川で見つけることができた。
地面にココナツの実の尻が埋まるぐらいの穴を掘り、その底に大きめの石を敷く。ココナツの実を叩いた時の衝撃が、柔らかい地面に吸収されてしまうのを防ぐためだ。
さらに側面にも小石を詰め込み、ココナツの実をがっちりと固定してしまう。
最後に私の頭二つ分はあるだろう大きな石を持ってくれば、準備は万端。すきっ腹に響く作業ではあったが、力を振り絞る思いで何とか用意することができた。
ココナツの実がしっかりと固定されていることをもう一度確認し、私は祈るように石を頭上へと掲げる。
狙いは一点。ココナツの実、その天辺目掛けて振り下ろした。
石と石がぶつかる音。
ココナツの実が縦に裂け、隙間から水しぶきが噴きあがる。
やった、と思ったのも束の間、私は裂け目から止めどなく果汁が溢れ出るさまを見て、慌ててそれを拾い上げた。
「ああっ、だめだ、待て待て待て!」
なりふり構わずココナツの実を拾い上げ、零れ落ちる果汁を一滴も無駄にしないよう大きく口を開けて、顔中が果汁まみれになるのも気にせずに無我夢中でしゃぶりついた。
想像していたよりは甘くない。薄めたスポーツドリンクのような味気無さ。
しかしそれでも久しぶりの甘味ということもあり、その刺激は脳天へと突き抜けるようであった。
最後の一滴が、舌の上で跳ねる。ぶるりと身震いをし、ぴんと張っていた尻尾からようやく力が抜けていく。
「くあーっ、こいつは効くなあ!」
呵々と笑みが漏れる。
裂けた実を力任せに引き裂くと、中から真っ白な、瓜のような果肉が現れた。
がりがりと爪でそれを削り、一口頬張る。
目覚めてからこっち、初めて口にする固形物。ありがたく味わいながら、ゆっくりと咀嚼していく。
うん。
うーん。
うん?
なんだろう。これも想像とかなり違う。
食感はかなり柔らかく、そして意外と弾力がある。
味はかなり薄く、甘みなどが全て果汁のほうに漏れ出してしまったのではないかと思ってしまうような、まるで寒天をそのまま食べているような感じだ。
不味くはないが、なるほどこれは、果汁と一緒に味わった方がより美味しく食べられるだろう。
しかし味はともかく貴重な食料だ。余すところなく、ありがたく頂くとしよう。
そうして二つに割れた片方をぺろりと平らげた私は、満足げに腹を撫でながら手を合わせたのだった。