自分以外誰もいない状態でジャングルに投げ出され、異世界の無人島で28年もたった一人で暮らし、最後には奇跡的に冒険者たちに助けられた中身が日本出身の爺な竜娘の生涯と不思議で驚きに満ちた冒険についての記述   作:野良野兎

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熊風

 

 枝先に降り積もった雪が落ちる音で目が覚める、二百三十日目。

 私はまたしても、新たなる問題に直面していた。

 目の前には引き倒された丸太の戸と、食い荒らされた保存食たちの無残な姿。

 大樹の洞には主に拾ってきた宝箱の他に木の実や薬草などを保存していたのだが、ものの見事に食べ頃の木の実だけをごっそりとやられたようだ。

 ほんの少し、海岸まで魚を捕りに出掛けている間の出来事であった。

 とうとう鼠が出たか。

 否、鼠程度が丸太を組み合わせた頑丈な戸を倒せるはずがない。

 横たわる戸を持ち上げ、雪の積もる地面を観察してみればそこには無数の大きな足跡が。無論、人ではない。狸でもなく、虎や猪の類でもない。

 私の掌がすっぽりと収まってしまうほど大きなそれは、ほかならぬ熊の足跡であった。それも足跡から察するに、かなりの大物である。

 ううむ、と私は絞り出すように呻いて頭を抱えた。

 

「猪、鷲、虎、蛇ときて、今度は熊か」

 

 いや、正直なところ戦力的にはまあどうにかなるだろうと、自惚れなどではなく、こう、ぼんやりと、直感というか本能のような部分でそう感じるのだが、やはり熊というのは恐ろしいのである。

 頑丈な檻の中で、硝子越しならばなんとか対峙できるか、というのが正直なところだろう。

 いやいや、それを言えば虎も十分に恐ろしかったのだが、元日本人の爺としては、やはり熊の方が恐ろしい。

 何せ日本は北海道に生息するヒグマになれば三メートル、体重は三百キロを超え、世界最大級のホッキョクグマであればさらに倍以上、八百キロにもなるというのだから驚きである。

 ここで注意しておきたいのは、これがあくまで地球に生息する熊の大きさ、という点。

 思い返してみてほしい。ここまで様々な野生動物と戦ってきたが、そのどれもが地球のものとは比較にもならない大きさであったことを。

 この世界が特殊なのか、それともこの島に生物が巨大化するような要因があるのかは定かではないが、とにかく、猪も虎も蛇も、私の記憶にあるものより数倍は巨大であった。

 となれば、この熊もそれなりの化物であると思った方がいいだろう。

 つまりは四メートル、五メートル、さらには六メートルを超える個体が現れても不思議ではない、ということ。

 六メートルともなれば、その高さはおおよそマンションの二階程度に相当する。

 いや、足跡の大きさからして流石に六メートルは無いだろうが、それぐらいは覚悟しておいた方が良い。

 何せ遅かれ早かれ、この足跡の主とはやり合うことになるのだから。

 熊には、一度味を覚えるとそれと同じ物、場所に執着するという習性がある。

 そしてその執着心は、我々の想像を絶する。

 とある獣害事件では、大学生の登山グループが食料の入った荷物を熊に漁られ、隙を突いて奪い返したところ数日に渡って同じ個体の熊に追い回され、結果三名が死亡するという凄惨な結果となった。

 広い山の中で、たかだか数人分の荷物を追って、である。

 それほど、熊の執着心は強いのだ。

 さらに今は冬。本来ならば熊は冬眠している時期だ。

 この時期に出歩く熊は冬までに十分な食料を得られず、冬眠に失敗した個体である可能性が高い。

 穴持たずと、そう呼ばれることもあるこういった個体は飢えからか凶暴なものが多く、日本最大の獣害事件を引き起こしたのもこの穴持たずと言われている。

 つまり、大虎の時のように穏便に済ませられる可能性は極めて低い。

 幸いなことにツリーハウス、大樹の上に拵えた小屋に保管している干し肉や魚などは全て無事なので今のところ冬越えには支障なさそうだが、熊は木登りの名人でもあるので、ここも目をつけられたらそれまでである。

 全て抱えて逃げるか。いや、それも追いかけられたら同じだ。

 迎え撃つしかない。

 意を決し、背にした大斧を握りしめたその刹那。

 がさりと、大樹の向こうの茂みから音がした。

 直後、どこかまだ呑気していた頭とは裏腹に、身体は驚くほど俊敏に、速やかな戦闘準備を整える。腰は深く落とし、視線はぶれることなく音のした藪の方へ。

 口の両端から白息(しらいき)が煙のように溢れ、握りしめた大斧の柄が軋んで震えた。

 そうして、睨みつけるその先。

 張り詰めた空気の中。

 雪が振り落とされた茂みの奥から。

 一匹の狸がひょっこりと顔を出した。

 

「おま、お前なあ、いい加減に、お前は本当になあ」

 

 張り詰めていた緊張感が、溜息と共に霧散する。

 構えた大斧をそのまま杖代わりにして、私は目の前のお調子者を睨みつけた。

 そして気付く。

 現れた狸、ごんが歩いた後の雪が、赤い。

 咄嗟に、私はごんを抱え上げていた。

 出血していたのは、後ろ足。

 骨には至っていないが、肉を裂く刃物のような切り傷があった。

 襲われたのだ。

 恐らくは、保存食を漁ったものと同個体の熊に。

 そして、何とか這う這うの体でここまで逃げ果せてきたのだ。

 ここが一番安全な場所であると、ここならば助けてくれると、冷たい雪の中を必死になって、片足を引きずりながらやってきたのだ。

 私はごんを抱えて小屋へ飛び込み、すぐさま傷の手当てを始めた。

 とはいえこんな、文明とは程遠い島の中である。薬も無ければ、傷口を保護する包帯も無い。

 せいぜいが傷口を清め、身体を温めてやる程度。

 囲炉裏の傍でせっせと傷口を舐めるごんの姿に、胸が痛む。

 よくも、とは思わない。

 可哀そうだとは思うが、これが野生の生き物同士の、自然の掟に従っての結果であると理解しているし、私だって兎や猪を狩って食らっている。

 それを、見知った相手の時だけ憤り文句を言うのは、些か都合が良すぎるのではないかと、そう思う。

 ごんを襲った熊だって、生き延びることに必死なのだ。

 

「だが、まあ、うちの食料の件はまた別だわな」

 

 赤く明滅する囲炉裏の炭を眺めながら、息を吐く。

 そうすると、本当にこの狸は運が良い。

 熊に襲われておいて運が良いとは妙ではあるが、熊に襲われても生き残り、さらにはその個体が私の食料にも手を出している不届き者であったことは、幸運と言える。

 そして、助けを求められた以上、ごんを放って一人逃げる訳にもいくまい。

 奴さんは、近いうちにまたやってくるだろう。

 それこそ、早ければ今夜のうちにでも。

 熊はかなりの大食らいで、聞くところによるとホッキョクグマは日に一万キロカロリー以上を摂取する必要があるという。

 であれば、それを超える巨体であろう今回の個体ならばその倍は食うだろう。

 実りが少ない冬の森で、それほどの量を確保するのは相当に難しい。

 他の動物を狩るにもデカい身体は雪の中でかなり目立つだろうし、熊は臭いもキツイ。不意を打つにしても、風の流れや周囲の状態などが上手く嚙み合わなければ狩りなど成功しないだろう。

 手負いにしたごんを取り逃がしていることが、それを証明している。

 いや、普段は呑気しているこいつであるが、実のところ見た目以上にずる賢く知恵が回る。そんなこいつに一撃を食らわせているのだから、奴さんも相当な手練れなのかもしれないが。

 しかし、自分の十分の一にも満たない大きさの狸にまで襲い掛かるということは、それほどに飢えている証拠でもある。

 そんな中見つけた、大量の食料。

 まず、戻ってくるだろう。

 まだある筈だと。まだまだ腹いっぱい食えるはずだと。

 私が熊ならば、まずそう考えるだろう。

 洞の食糧庫には私の匂いもかなり染みついていた筈だが、飢えた獣がそんなものを警戒するとは思えない。

 奴の頭の中は今、食い物のことで一杯の筈だ。

 まず、戻ってくる。

 今日中に。

あるいは今、この瞬間にも。

 角の付け根が疼く。

 壁に立て掛けた大斧を手に取り、私はおもむろに外へ出た。

 吹き付ける風雪の中、鼻の奥にこびり付く様な獣の匂いが混ざっている。

 胸を打つ心臓の音が、やけに耳に残った。

 大斧を担ぎ、視界を塞ぐ程の雪の向こうを()め付ける。

 その先から幽鬼の如く、染み入るように現れたのは、大岩であった。

 

「よう、うちの狸が世話になったみたいじゃないか、なあ」

 

 大岩が身じろぐ。

 そうして足が生え、手が生え、やたら大きな頭が生えて、それはのっそりと立ち上がる。

 おおよそ私の倍ほどはある高さになった大岩は、その突き出した口元から真っ白な息を吐き出した。

 それこそまさに、地獄から這い出てきた鬼のように。

 斧を構える。

 足の爪が、雪に深く食い込んだ。

 犬歯を剥き出し、決して気圧されぬよう全身に力を巡らせる。

 腕に、胸に、脚に走る紋様が、一層激しく火花を散らす。

 瞬間。

 雪を吹き飛ばすほどの咆哮が、森の中に響いた。

 

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