自分以外誰もいない状態でジャングルに投げ出され、異世界の無人島で28年もたった一人で暮らし、最後には奇跡的に冒険者たちに助けられた中身が日本出身の爺な竜娘の生涯と不思議で驚きに満ちた冒険についての記述 作:野良野兎
グロ表現苦手な方はご注意ください。
テレビで三毛別事件を取り上げたと聞いて、盛り上がってしまいました。
でも多分、現実の熊はこれ以上に怖い。
※一部加筆修正を行いました。
時に、獣は想定される以上の能力を発揮することがある。
曰く、窮鼠猫を噛む。あるいは火事場の馬鹿力か。
窮地に立たされたヒーローが新しい力に目覚めるお約束、とまではいかないがともかく、追い詰められた獣は時として信じられない底力を発揮することがある。
あるいはそれは、鷹の前の雀があろうことか鷹の目玉を抉り取ったりだとか、蛇に睨まれた蛙が蛇を呑んでしまうことすらありえる、それほどの力なのかもしれない。
つまり何を言いたいのかというと、ことこの瞬間において、私はまだ野生動物というものを、自然というものを舐めていた、ということだ。
そんなことを私は加速する思考の中で考えていた。
吹き飛ばされ、泉の水の上をまるで水切りの石のように飛び跳ねながら、洗濯機の中に放り込まれたように上下左右と目まぐるしく入れ替わる視界の中で、そんなことを考えていた。
左腕一本と皮一枚。
開口一番、私が見上げんばかりの巨体を誇る熊に飛び掛かり、浴びせかけた斧による一撃の成果がそれであった。
そして、いくらデカかろうと熊は熊。そう回る知恵など持ち合わせていないだろうという、私の浅はか極まる愚かな行為のツケの清算は速やかに、これ以上ない痛烈さを伴ってやってきた。
私の攻撃に対し、熊が取った選択は防御。
飢えて飛び掛かることもなく、その大きな身体を機敏に動かしての回避でもなく、腕一本を犠牲にすることも厭わない防御。
そして、奇しくもそれはその場においての最善手であった。
飛び掛かってくれば、その爪が私を引き裂く前に、私の斧が熊の図太い首を刈り取っていただろう。
避けようとすれば、私は容赦なくその逃げ足を切り飛ばしていただろう。
どちらも命に係わる致命傷。であるならば、腕一本。大きな代償には違いないが、命よりは安い。そんな選択。
事実、私の一撃は差し出された熊の丸太のような左腕を切り落とした後、その奥に控えた熊のぶ厚い毛皮で押し止められることになった。
いわば、熊の覚悟の分だけ、私は奴の命に届かなかったのだ。
そして大きな得物を振り切って、中空で制止する少女の身体ほど狙いやすい的はない。
私が熊の思わぬ行動に面食らったほんの数秒。
ほんの僅かに生まれたその隙に、丸太のような右腕が叩き込まれた。
完全に意識の隙間を撃ち抜かれた一撃だ。防御する意識などあろうはずもない。
諸に入った。
大リーガーのフルスイングが温く見える速度の薙ぎ払い。
肋骨が浮き出るほど華奢な脇腹から、官能的な鎖骨へと破壊的な衝撃が抜ける感覚。
手放した大斧が地に落ちるより早く、私の身体は遥か頭上、大樹の枝へと打ち据えられる。
そしてこの世界においても万有引力はしっかりと存在している。
故に、上に打ち上げられたものはやがて下へ、地面に向かって落ちていく。
僅かに霞んだ視界の中、遥か彼方の地上で、今まさに私を打ち上げた化け物が勇ましく地を掻いているのが見えた。己が左腕を奪った怨敵へさらなる一撃を加えんとしてか、あるいはただただ痛みにもがき苦しんでいただけか。
ともかく、私はようやく回り始めた思考回路を死に物狂いで動かして、来るべき追撃に備えた。
差し出したのは、奇しくも熊と同じく左腕であった。
私が地面に不時着するほんの少し前。長い銀髪が地面に流れ始めたその瞬間。
耳をつんざく雄叫びとともに、熊の全体重が私の左腕に浴びせかけられた。
熊の頭蓋骨。その硬さは我々の想像を優に超える。
歴戦の猟師、マタギですら苦戦する原因の一つであり、ちゃちな銃弾ならば貫通せず弾き返すというのだから相当である。
いわば、生まれ持った鉢金だ。
そしてそこに軽く三百キロ以上はあろうその巨体の重量を乗せる。
結果は見ての通り。
私はダンプカーに跳ね飛ばされたように錐揉み回転しながら横へと吹っ飛び、ちょうど開拓予定であった場所の木々をほんの四、五本ほど圧し折って血だらけ土塗れの有様へと相成った。
だが、見てくれほど怪我は酷くない。
派手に吹き飛ばされはしたが、頑丈になった身体のお陰で目立った傷は左腕の一本だけ。
他は細かい切り傷などもない、綺麗な状態を保っている。
ともあれ、その左腕は見るも無残な状態だ。
肘から先は二つに折れ曲がって第二の肘関節を作っているし、肩は砕けて感覚が無い。
ダンプカーに撥ねられてこの程度で済んだと喜ぶべきか、あるいは自分の迂闊さを呪うべきか。
とりあえず、私は尻尾の先で肘を固定し、己の左手首を右手でがっちりと握りしめた。
「いくぞ、いくぞっ、いち、にの、さっ……!」
ごり、と鈍い音が腕から脳天まで走り抜け、焼き鏝を押し当てられたような激痛が襲う。
音にならない悲鳴。苦悶の声が漏れる。
何せ控えめに言っても乱暴なやり方で折れた骨を戻したのだ。神経も肉も筋繊維もずたずたのぼろぼろだろう。
だが、元の位置に戻ったのならそれでいい。
ならば、あとはこの身体の尋常ならざる治癒力がどうにかするだろう。
だが、少なくとも今日のうちには回復しない。あの馬鹿げた大きさの熊を相手に片腕とは、少しばかり気が滅入る。
そして、この時点でもまだ私は侮っていた。
それを思い知らされたのは足元に黒い影が差し、凄まじい力で顔面を地面に叩きつけられた時だった。
鼻が折れ、口いっぱいに土の味が広がる。
地面に押し付けられ、呼吸することも困難な状況で私は考える。
誰にやられた。まさか、あの熊か。
もう私に追い付いてきたのか。あの頭突きで百メートル近くは吹き飛ばされた筈だが。
いや、熊の走る速さは最高時速六十キロ。地球に存在する熊でもそれほどの速度であるので、あの規格外の個体であればそれ以上の速度で走っても不思議はない。
しかし前足を一本切り落とされた直後だというのにこの速度で走り、あまつさえ逃げもせず向かってくるとはなんという熊だ。
だが、問題はそこではない。
後頭部を押さえられ、まともに顔も上げられないこの状況。これは非常に不味い。
翼と尻尾で何とか追い払おうと試みてはいるが、あの巨体に対しては焼け石に水。
そして、恐れていた事態が訪れる。
「ごっ、おっ、いぎっ……!?」
脇腹に激痛。
うつ伏せに組み敷かれたまま乱暴に、まるで遠慮の欠片もなく脇腹を貪られたのだ。
鉄並みの硬さを持つ外皮であろうとも、化物じみた熊の牙は止められない。
顔を上げようにも三百キロを超える重量が首にかかっている為、そうそう容易くはいかない。むしろ重さで頸椎がへし折れていないだけ幸運なのだろう。
腹が裂かれる。
これまで数々の化物じみた生物と戦ってきたが、吹き飛ばされ、溶かされ、食われそうになったことは幾度もあった。
しかし、生きたまま食われるだなんて。
何とか飛んで逃げようと翼を必死に動かそうとも、頭を押さえられ、脇腹に食い付かれたこの状況で浮き上がる筈も無く。
「やめ、おっ、ぎゃっ」
腹に口先を突きこまれる激痛、不快感たるや。
あまりの痛みで気が飛びそうになるが、続く痛みがそれさえも許さない。
いっそ狂ってしまったほうが楽なのかもしれない。そう思うほどの地獄。
みしみしと軋む音は、己の首から鳴るものだった。
規格外の重量に、とうとう首の骨が悲鳴を上げ始めたのだ。
折れる。
私は己の凄惨な死に様を想起した。
あまりの恐怖に身の毛がよだち、喰われてがらんどうになった腹から言い様のない冷たい感覚が脳天へと走り抜けた。
下腹部がじわりと温かくなる。
恐怖で失禁したか、あるいはただ熊に膀胱が食い破られたか。
熊を、自然を侮ったツケの代償としては、あまりにも暴利が過ぎる。
違う。本当はもっと上手くいくはずだった。
心の中でそう吐き捨てた悪態は、誰に向けてのものか。
死ぬ。今すぐにでも。生きたままクマに食われて。
思考が、心がどろどろとした黒いものに蝕まれていく。
だがその時、そんな私を窮地から救い上げる救世主は、意外なところからやってきた。
突然響く、苦悶の声。
それは私のものではなかった。
同時にふっと軽くなる頭。
すわ何事かと霞む視界で見上げてみれば、そこには勇猛果敢に熊の頭に食らいつくごんの姿があった。
否、あれは勇猛などではなく蛮勇。
あまりにも無謀すぎる行いである。
「ごんっ、お前っ、何してるっ!」
がらんどうの腹を引きずって、私は叫んだ。
その体格差は、大人と子どもの比ではない。人が象に挑むようなものだ。
勝てるわけがない。
「馬鹿っ、逃げろ、さっさと!」
熊が頭を振って抵抗する。ごんの牙はがっちりと、熊の片耳を捕えていた。
だが、そんなささやかな抵抗などそう長く続くものではない。
ほんの数秒。
私が立ち上がり、満身創痍で何とか熊の気を引こうと枯れ枝を拾い上げている間に、ごんは暴れ回る熊の頭から振り落とされる。
まるで投げ放たれた砲丸のように放物線を描きながら、ゆっくりと、ごんの姿が遥か彼方、雪の中へと消えていく。
その光景を、私はただぼうっと眺めていることしかできなかった。
「おい、嘘だろ、お前、お前えっ!」
目の前が真っ赤に染まる。
腹も食われ、首も折れかけているのに、身体中に熱い血が駆け巡るようであった。
心臓が、胸を突き破らんばかりに鼓動する。
「お前っ、お前っ、よくもっ、ヨクモッ!」
髪を振り乱し、血が流れるほど頭を掻きむしる。
身体が熱い。
まるで溶けるようだ。
熊が、僅かに怯むような様子を見せた。
身体中が、五臓六腑が切り刻まれるような感覚。
だが、痛みはない。
感じたのは、快感すら感じるほどの開放感。
ぐるりと世界が一周する。
光が溢れる。
身体を包み込むのは、月の光にも似た銀の糸。
巻き付く。巻き付く。巻き付く。
それはまるで、蚕が紡ぐ繭のように。
変わり、変わって、変わり果てて。
ゆっくりと、繭が解けていく。
帯が解けるようにゆっくりと、繭のその奥、そこに隠されていたそれは、黒曜石のような鱗に覆われた、見惚れるような龍であった。
官能的な美しさすら湛える龍が、宝石のような、見るだけで陶酔しそうな紅い瞳で獲物を撫でる。
獲物は動けない。動けるはずもない。
体格は己と同じ、いや、あるいは己の方が勝っているはずなのに。
それでも、動けない。そしてそれは道理であった。
対峙するは己などその姿を見ることすら憚られる、絶対的上位者。
生物の理の外。
自分たちが隷属する、自然の摂理そのものであるのだから。
――嗚呼、汝
――
脳髄に染み渡るような、甘い声が響く。
それはまるで母のような、溺れそうな程の愛に満ちた優しい声。
その声に溶け込むように、やがて私の意識は闇へと堕ちていった。
???「余だよっ!」