自分以外誰もいない状態でジャングルに投げ出され、異世界の無人島で28年もたった一人で暮らし、最後には奇跡的に冒険者たちに助けられた中身が日本出身の爺な竜娘の生涯と不思議で驚きに満ちた冒険についての記述 作:野良野兎
ここのところ、ごんの様子がおかしい。
相も変わらず何かにつけて我が家に顔を出すことは出すのだが、一日の殆どを寝て過ごすようになった。
怪我をしているだとか、病に蝕まれているような様子はないのだがどうにも動きが鈍く、食欲もない。
色素が抜けて灰色になった体毛。目は濁り、鼻は鈍り、名を呼んでも反応しないことが増えてきた。
恐らくは、老衰だろう。
それによって天寿を全うした私だからこそ、はっきりとわかる。
彼はもう、長くない。
この島で出会ってから、かれこれ十六年。
野生の狸がどれほど生きるかは知らないが、しっかりと体調を管理された飼い犬であってもその寿命はおおよそ十五年。そう考えれば、私と出会った時に一歳だったとしてもかなり長く生きた方だろう。
大往生も大往生。今となっては
「お前さんもおれに負けず劣らずの爺になっちまったなあ、ごん」
潤いなどまるでない、針金のようになったごんの背をそっと撫でる。
動きは鈍い。若かりし頃の機敏さはなく、しかしその図々しく太々しい性格はまるで変わりなく、鈍った鼻で私の指の匂いを嗅いだごんは腹が減ったとばかりにその濁った瞳でこちらを見上げるのだった。
「呵々。そうかそうか、それじゃあお前さんでも食いやすいのを拵えるかね」
変わるものと、変わらないもの。
胸を締め付ける寂しさの中で、今はただ、その変わらない心がありがたい。
目じりを拭い、私はさっそく昼餉の支度を始めた。
作るのは粥である。
それも稗や粟ではない、米の粥だ。
そう、ついに完成したのだ。年々こつこつと品種改良し、十年の時をかけて手塩に掛けた米が。
その名も
銘をつけたところで誰に見せる訳でもないが、こういうのは気分の問題だ。
米自体もその名の通りよく実り、病気にも強い素晴らしいもので、流石に味は現代日本のそれと比べれば劣るもののそこはそれ、私とて十年程度で、先人たちが代々心血を注いで作り上げてきた物と並び立てると思う程己惚れてはいない。
しかし、やはり手ずから育て上げた米というのは可愛らしく感じるもので、初めてこれを食べた時などは今まで食べたどの米よりも美味いと飛び上がって喜んだものである。
そうして地下の蔵から米と干し肉を持ってくると、まずは米を洗って炊いていく。精米せず糠を残したいわゆる玄米の状態だが、少しの栄養も無駄に出来ないこの島においてはこの状態こそが理想であった。
米を炊いている間に干し肉は一口サイズに切り分け、ハマダイコンの葉、根を刻んでひとまとめに。米が炊き上がったらそれらを投入し、全粥の状態になるまで水を足しながら煮込んでいく。
「あとは魚でも焼いて……と、おや、まだ残っていると思ったが、違ったか」
蔵の入り口に頭を突っ込みながら、床から飛び出た尻尾が右へ左へ。
燻製や干したものがまだ残っているものだと思っていたのだが、どうやら先日食べ切ってしまっていたようだ。たしかに保存食の類は冬を越す間に粗方消費してしまうのだが、これは何とも間が悪い。
しかし折角だ。どうせなら新鮮な魚を食わせてやろうと、私は蔵から頭を引っこ抜くと一転、翼を広げまだ雪解け水が流れる山向こうの川へと向かった。
ここで精のつく川魚、鯉などでも捕まえられれば上々なのだが、上空から水中を観察する私がまず見つけたのは流木に引っかかった、今まで見たことのない半透明の粘液であった。
初めはクラゲでも流されてきたのかとも思ったが、ここから海岸まではあまりにも距離があるのでその可能性は低い。
傍に降りて木の枝で突いてみれば、あまりの粘り気に突き入れた枝が半ばからぽきりと折れてしまった。まるで蜂蜜を混ぜているような力強い手応えである。
折れた枝を鼻先に持ってくる。ほぼ無臭ではあるが、ほんの少しだけ川の水と同じような香りが混ざっていた。となれば川魚か、それに類する生物が残したものだろうか。
ぬめりがある魚といえば
「また何ぞ、厄介な化物でも——」
流れ着いたか。
そう続く筈の言葉は、不意に足元を掬い上げられたことによって水泡へと変わった。
水底へ引き摺り込まれた。
元々、そう深くはない川である。一番深い場所であってもせいぜいが胸に達するかという程度。であるならば、足を滑らせたぐらいならさっさと立ち上がればいいのだが、脚に絡みつく何者かが私の身体をがっちりと川底へと縫い留め、その動きを封じていた。
それは雪解け水が混ざる川の中にあって不気味な冷たさを持ち、まるで巨大な舌に舐め回されるような気味の悪い感覚があった。しかし両足は絡めとられたものの上半身、つまり両腕は無事である。だからこそ咄嗟に下手人を引き剥がさんと手を伸ばしたわけなのだが、伝わってきたのはぬろりとぬめる気色の悪い手触り。
まさか、うなぎか。
ぬめりがあり、脚に巻き付くほど胴の長い魚など、私はうなぎしか知らない。
しかしうなぎだとしてもこのぬめりは何だ。指に絡みつく、などというものではない。
ぬめりを取ろうと動かせば動かすほど、藻掻けば藻掻くほどそのぬめりは粘り気を強め、今となってはまるで水飴の塊に両手を突っ込んでいるよう。この身の怪力があればこそまだ動けているが、これは悠長にやっている時間はなさそうだ。
翼を広げ、水掻き代わりにして水を捕らえる。本来ならばひと打ちで陸まで飛び上がる程の力を込めたつもりだったが、しかしその感触は石でも抱え込んだような重々しいものであった。いや、事実抱えているのだ。足に絡みついたうなぎらしき生物が纏う粘液、それが川底にある石を巻き込んで私の身体を川底に繋ぎとめていた。
そうこうしているうちに、ぬめりはついに私の胸元にまでやってきた。ここまでくると、先程まで粘液に隠れていた下手人の顔も見えてくる。
それは、うなぎとは似て非なるものであった。
鋭い歯がずらりと並んだ削岩機のような口。そしてそこから伸びる髭。妖しく光る四対八つの赤い目。胸びれも背びれもないつるりとした体。
それは記憶に残るうなぎの姿とはあまりにもかけ離れており、まるで映画に登場するエイリアンにも似たその風貌に私はつい怯んでしまいそうになる。
いや、いつぞやか見たヤツメウナギ。正面から見ればそれに似ていなくはない。
必死に翼を動かし、何とか陸地へ逃れようと足掻く私であったが、うなぎモドキがその丸い口を大きく開き、自身の胸元目掛け飛び掛かってきたのを見てぞっとした。
咄嗟に龍の姿にした右手を盾にして防いだものの、びっしりと並んだ鋭い牙が回転し、腕を食い破らんとしているのが鱗越しに伝わってくる。
とはいえ、今となっては鋼鉄の強度を誇る我が鱗である。いくら大きかろうが魚如きの牙で貫けるほど軟な代物ではないのだが、このごりごりと牙が鱗を噛む感覚、そして何より全身を粘液で包まれるこの気持ち悪さときたら筆舌に尽くしがたい。
何というか、生理的に受け付けない。
そんなわけで、そろそろ押し通らせてもらうとしよう。
――全身に力を込める。
浮かび上がるは深紅の紋様。魔力の流れ。
身体中に力が行き渡るのを感じながら、私は未だ自由であった左手でもって思い切り川底を殴りつけた。
この島で暮らし始めた頃、川でガチンコ漁というのをやったことがあった。石と石をぶつけ、その衝撃と音で魚を気絶させて捕まえる漁法であるが、この時、龍の腕が川底の岩で炸裂させたそれは数秒とはいえ川の水さえ吹き飛ばし、うなぎモドキの意識を狩り取った。
ふっと脚を締め付ける力が緩んだその隙に、私は再び翼を広げて宙を舞う。そのまま全身を回転させて粘液と共にうなぎモドキの拘束を振り解く。
「ふ、んっ……?」
その拍子にぞり、と、粘液に塗れた長い胴体が全身を舐めあげた。
ぶるりと身体が震える。まるで電気を流されたような、これまで感じたことのない感覚が背骨の芯を走った。
それに思わず首を傾げるも、今はその未知なる感覚の正体を探っている場合ではない。振り落とされ、空中に投げ出されて無防備になったうなぎモドキの頭を掴んで急降下。足元の岩へと叩きつけた。
飛び散る体液。幸い顔面に浴びることはなかったが、身体は奴さんの体液まみれ粘液まみれ。あまり生臭くないことが救いだが、これは少し、人様にはお見せ出来ない有様であろう。
ねばつく液体に塗れた美少女となれば何とも劣情を催す様相を思い描くだろうが、それが自身のこととなればこれがまた情けないやら頼りないやら。
「精のつく獲物を得たのはいいが、こりゃあ水浴びが先だな」
べとべとになった両手を振り振り、溜息を吐く。
しかし、これであの同居人も少しは元気になってくれればいいのだが。
そんなことを考えながら、空を見る。
――ごんが息を引き取ったのはそれから三日後、二重の月が満ちた美しい夜のことだった。
ついにこの時が来ました。
賛否両論ありそうですが、彼には一生物として天寿を全うしてもらいました。
たぶん爺様はしばらく病みます。