「キミの母上に危害を加える気はないよ。でも、このまま我々に抵抗を続けるならば、こちらとしても非常手段に訴えざるを得ない」
「我々の要求が何かくらいは、貴女にも想像できるはずですね?」
「こんな結果になったことを残念に思うがな。貴様とは是非五分の条件で腕を比べ合いたかった」
無表情のまま、口々にそうしゃべる三人のリザードマン。
だが、クシャトリスはもはやそんな無駄口を耳に入れていなかった。
一切の思考が凍結したような感覚に襲われ、結局のところ、彼らがどうすれば母を返してくれるのかもわからず、呆然と三人を見つめるしかない。
さきほど、この四人組の殺意が本物だと理解した瞬間も、彼女の精神は動揺を見せた。
だが、いまクシャトリスを襲っている動揺は、その瞬間のものとはまさに比較にならなかったろう。彼女はまさに、自分の行動の責任によって母の生命を脅かしているという、あまりにも予想外の結果に、文字通り呼吸の仕方さえも忘れたような表情を浮かべ、その思考が完全停止した状態であることは、誰が見ても明白だった。
それまで彼女が杖を突きつけていたチビのリザードマンも、脇腹を抑えつつ、やれやれとばかりに起き上がり、
(おい、どうする?)
とばかりに、仲間と視線を合わせている。
先程までの冷静沈着な戦いぶりに比べて、彼女の狼狽ぶりは、さすがに予想外過ぎたのだろう。
やがて代表者のつもりか、標準体型のリザードマンが一歩前に出る。
「貴様がナマイキと呼んでいる竜の幼生を、こちらに引渡せ。さもなければバーザムズール家に二度と母上が戻ることはない」
(そんなことでいいのか)
とばかりに、クシャトリスの目に希望が灯る。
母親一人の命の危機に比べれば、今朝いきなり家にやってきたチビ竜一匹などどうなろうとも知ったことではない。
上空にいるはずの彼の姿を求めて、空を見上げるクシャトリスの目に映ったものは――狭い路地から見える、虚空の青空。
「あれ……?」
そこに幼竜ナマイキの姿はなかった。
いったい何が起こっているのかクシャトリスにはわからない。
なぜ彼がそこにいないのか。
この得体の知れない四人組から母を取り戻す唯一の手段である、あのチビ竜。
今日、自分が食べるはずだった昼食を食べ尽くし、母がまるで幼児を愛でるような待遇で世話をした、あの生意気すぎる竜の幼生。
それが――いない。
「あれ……?」
彼女の眼前がふたたび暗然たる色に染まる。
溺れそうになっている状態で顔を上げ、呼吸をした瞬間にまたも水中から足を引っ張られたような、そんな絶望がクシャトリスを包む。
「ちょっ……何やってるのよ……冗談はいいから早く降りてきなさいよ……」
絶望のあまり、その呼びかけすら小声になってしまっている事実に、彼女自身気付いていないようでさえあった。
そして、弾かれたように視線を戻し、四人組の表情を見た瞬間、クシャトリスの絶望は決定的なものになっていた。
彼ら四人のリザードマンの顔に浮かんだ表情は――いたましい者を見るかのような同情。
「まあ、結局こうなることは予想がついたけどね」
「自分の戦いに他者を巻き込んでおいて、自分は早々と逃亡か」
「所詮は緑竜王の子ということですよ。己の行動に芯を通せないザマは父親にそっくりですし」
「だがな、クシャトリス・バーザムズール」
――このままでは、我々は貴様に母上を返還することは出来ない。
クシャトリスは地面に膝をついた。
その言葉の恐ろしさに、背筋から一気に力が抜け、現状での自分の唯一の武器であるはずの杖さえも取り落としていた。
しかしリザードマンたちは、むしろいたわるような視線を彼女に向ける。
「安心しろ、今この瞬間に人質を殺すとは言っていない。貴様が取引に乗るならば、母上を無事に返してやってもいいということだ」
「とっ、取引!?」
あえぐように言うクシャトリスを見下ろし、そのリザードマンは言う。
「一日の時間をくれてやる。明日のこの時間――そうだな、明日の正午の鐘が鳴る時刻に、我々はジュピトリアム南区の円象山で待つ。そこで『目標』を引き渡してもらおう。さすればラヴィアン・バーザムズールは無傷で返すことを約束する。それでどうだ?」
」」」」」」」」」」」」」」」
「何じゃ、その成り行きは……?」
渡辺源太夫は話を聞いて、半ば呆れたようにクシャトリス・バーザムズールを見返す。
彼女は自身を恥じるようにうつむいたまま口を開かない。
それでなくとも普段から重いクシャトリスの口から、ポツリポツリとちぎったように語られる言葉を繋げながら話を聞いていたので、老人としてはこの不可解すぎる超展開に呆然となるのは、ある意味無理もない。
が、新左衛門としては、さすがに黙ってはいられない。
なんといっても、その話の中で誘拐されたという彼女の母親は、隣人たる新左衛門にとっても他人ではない。幼馴染の母親という、ある意味親戚や友人などよりはるかに近しい存在なのだ。
「で、クシャ……バーザムズール、おばさんは結局家に帰ってきたのか?」
彼女はその質問に一瞬身を切られるような顔をして新左衛門を見上げ、そして俯き、ゆっくりと首を振った。
「ッッッ……馬鹿野郎!! だったらこんなところで油売ってる場合じゃねえだろ!! とっとと騎士団に連絡を取って――」
「ダメだッッ!!!」
怒りと後悔と悲しみに顔を歪めながら、エルフ娘は叫ぶ。
「この一件を騎士団に通報したら、人質はその場で殺す――奴らはそう言ったんだ。だから通報できない。父さんに話すこともできない。母さんが殺されてしまう!!」
その剣幕に新左衛門も一瞬ひるんだように仰け反るが、源太夫はむしろ納得したように深く頷く。
「じゃろうのう。……いや、状況としては当然な話じゃ」
ここで言う騎士団とは、軍の戦術単位としての騎兵集団ではない。
市街地の治安維持と犯罪捜査を主任務とする警察組織「市警騎士団」のことであり、クシャトリスの父親ガルス・バーザムズールはその組織の上級幹部の一人なのだ。父にも相談できないと叫ぶ娘の気持ちも至極当然というべきであった。
そこまで聞くと、源太夫はやおら立ち上がり、座布団に座ったまま深くうなだれ、肩を震わせる彼女の頭を抱き寄せ、優しく撫でてやった。
「わかった。わかったからもう泣くなバーザムズール。この一件はわしらが何とかしてやる。だから大丈夫じゃ」
「せんせい……」
涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔を上げるクシャトリス。
「独りで色々と辛かったじゃろう。ようわしらを頼ってくれた。頑張ったのうバーザムズール」
そんな孫と祖父のような二人を見ながら、しかし、新左衛門の胸中には苦いものしかなかった。
(そんな調子のいいことを言って……)
数年ぶりに見る幼馴染の涙にすらも、内心腹立ちを抑えきれない。
クシャトリス・バーザムズールが道場の外で色々とトラブルを撒き散らしていたのは彼も知っていた。
尋常の立ち合いであったとはいえ、決闘騒ぎで死者を出したことさえある。
これまで彼女は、そういった件を新左衛門や源太夫に頼ることなく解決してきた。それを水臭いとも寂しいとも思ったこともある。
が、それでも今度のこの一件に関しては、彼女のそういう生活態度が敢えて招き寄せた厄災であるように新左衛門には思えてならない。
が、もはや今はそんなことを言っている時ではないのだ。
ラヴィアン・バーザムズールの命がかかっている以上、こうなってしまっては、一分一秒を争ってその幼竜を探すしかない。幼竜を見つけ出し、そのリザードマン四人組とやらと人質交換を無事果たすしか、ラヴィアンの命を保証する手段はない。
ドラゴン直属のリザードマンというのは、市街地で市民生活を満喫しているリザードマンとは完全に別種の思考法をする連中なのだ。法や倫理よりも、最終的に主君の意思を何よりも優先する彼らは、必要とあれば容赦なく人質を殺すだろう。
だが、結局のところ事態は、さきほど源太夫と二人で天を仰ぎつつ途方に暮れていた時から何も変わっていない。
自分たち二人だけでは――結局のところ、その緑竜王の幼生を見つけ出すすべがないのだ。
「…………いや、存外そうでもないようじゃぞ?」
まるで新左衛門の思考を見抜くようにつぶやく師匠は、ほれ見ろと言わんばかりに窓の方向を目で指し示す。
新左衛門が何気なく振り向き、そして絶句した。
「ドラゴンが本当の誇りを持ち合わせておる種族であるなら、己が巻き込んだ災厄の種によって泣く者どもを、平然と無視することは出来まいて」
と、この結末をあらかじめ予期していたかのように言う源太夫。
窓ガラスの外には、まるで照れたように顔を赤らめたヌイグルミのような生物――竜の幼生がふよふよと浮遊していたのだ。