「しかし、おぬしら手ぐらい握ったのか?」
新谷喜十郎が好色そうな顔を近づけ、ささやくように池波新左衛門に尋いてくる。
むろん誰との話をしているのかは一目瞭然だ。
「おれとアイツはそんな関係ではない」
新左衛門はそっぽを向いて否定するが、それで追求をやめるほど喜十郎は行儀のいい男ではない。酒が入ったときは特にだ。とはいえ、同じ店で飲んでる後輩たちや女将に聞えよがしな大声を出さず、店の隅で二人だけの内緒話の体を装ってくれてるだけマシなのだが。
ここは渡辺道場の門弟たちの溜まり場というべき「だるま」という名の飲み屋である。
現在ジュピトリアム市では有名道場の剣客のみを標的として狙う辻斬りが横行しており、渡辺源太夫もその対策の一つとして、道場からの帰り道は単独行動を禁じ、帰路を同じくする者同士で集団を組めと命じたが、新左衛門と同じく渡辺道場の高弟・新谷喜十郎の率いる組は――その飲み屋で酒を飲んでいる。
「おれとアイツはたまたま生家が隣同士だったというだけの仲であって、それ以上ではない。この説明は確かもう百回以上したはずだが?」
と、新左衛門はこの酔っぱらいに言うが、喜十郎は、それこそそんな言い訳は聞き飽きたと言わんばかりに鼻で笑うと、つまみの干し肉を口に放り込む。
くっちゃくっちゃと硬い肉を噛む喜十郎の訳知り顔が、新左衛門には非常にカンに障るが、だからといってここで声を荒げて、周囲で飲んでいる道場の連中の注目を浴びるのは、やはり新左衛門としては話題的にちょっと避けたい。
そんな彼の心理は、喜十郎も当然理解している。だからこそこんな密談のようなヒソヒソ声のボリュームを必要以上に上げるような真似もしない。が、この男の悪趣味なところは、新左衛門が嫌がることをわかっていてなお平気でクシャトリスの話を持ち出すところだった。
「しかしな新左、あのバーザムズールの家は、ダークエルフの氏族の中でもかなりの名家だと聞くぞ。そんな家の娘があの年頃まで身を固めずにいるのは、やはりおかしいじゃろう」
「それがどうした。おれに何の関係がある?」
そう言いながら杯に残った麦酒をくいっとあおる新左衛門。
が、喜十郎はそんな彼に勝ち誇るように言う。
「わからんのか新左、あやつがこの歳まで独りでおるのは、ひとえに貴様の求婚を待っておるからではないか?」
その一言に、新左衛門は思わず口中の酒を吹き出しそうになったが、かろうじてこらえ、なんとか飲み下す。
が、喜十郎は新左衛門のその反応を見て、むしろ意外そうに首をひねる。
「そんなに驚くようなことか? 普通に考えれば行き着く結論じゃと思うがのう」
「…………それはいくらなんでも飛躍しすぎだろう」
「馬鹿かおぬしは。男と違って女が意味もなく独り身でおるわけがなかろうが」
「それは普通の女の場合だろう。あいつはクシャトリス・バーザムズールだぞ? お前が考えるような精神構造をしていると思うか?」
「何をほざくか、女はしょせん女よ。エルフであれ人間であれ、それは変わらんわい」
と、言いながら豪快に笑う新谷喜十郎。
こんな男尊女卑的な酔言を吐く割には、彼は家に帰ればワージャガーの嫁さんに頭が上がらない恐妻家の一面もある。というより、恐妻家なればこそこういう必要以上に男の立場を強がってみせる発言をするのか。むろん未婚の新左衛門には分かりようもない。
しかし夫婦生活のことはともかく、新左衛門にもわかることはある。
それはクシャトリスが独身を貫く理由についてだ。
女が無意味に独りでいるはずがない――喜十郎はそう言ったが、それはやはりクシャトリス・バーザムズールという存在を、あまりにも理解していないと断じざるを得ない。
(あの女にとっては剣以外の全ては所詮どうでもいい俗事に過ぎないのだ。ただそれだけのことなのだ)
そう思う。が、無論そんなことを今ここで喜十郎に言う気はない。
そんなことを言えば、なおさらクシャトリスとの仲を勘ぐられるだけだし、それについて言い訳するのも馬鹿馬鹿しいからだ。
しかし、それを自覚しながらも一抹の寂しさに似た感情が、フッと新左衛門の心をよぎるのを抑えられない。あいつにとっては、このおれでさえもどうでもいい俗事なのだろうか――そう考えてしまう自分が、我ながらみっともなさすぎてどうにも耐えられない。なればこそ新左衛門は、そんな自分を全力で否定し、いま以上の関係を彼女との間に築こうと考えかねない自分を懸命に押し殺し、無視する。
そして、そういう誰にも言えぬ葛藤があればこそ、したり顔で彼女の話を続けるこの新谷喜十郎のデリカシーのなさが、腹が立って仕方がない。
もっとも、だからといってここで殴り合いを始めるつもりも新左衛門にはない。新谷喜十郎はこういう男ではあるが、それでも普段は気のいい友人であることは間違いないのだ。
「しかし喜十郎、そなたバーザムズールにやけにこだわるが、あやつのことが嫌いではなかったのか?」
「ではなかったのか、だと? 馬鹿を申せ、うちの道場であやつを嫌っておらぬ者など一人もおらんわ。おぬしと先生を除けばな」
真顔でそう言い捨て、ぐびりと米酒をあおる喜十郎だが、新左衛門にとってもそれは予想できる言葉だったので、特に表情も変えない。
「まあ、あれだけの才能があれば、先生があいつを可愛がるのもわかる話ではあるがな」
「そういうことを言っておるわけではないわ」
と、喜十郎は言い、一度言葉を切ると再び盃に米酒を注ぎ、飲む。
「道場に入ってくるときも挨拶一つせぬ。こっちが話しかけても返事もせぬ。後輩にまともに指導もせぬ。幼馴染のおぬしからすれば少しは庇ってやる余地もあるのかもしれんが、アイツのあの態度はいつになったら改善されるんだ」
「…………まあ、な」
それに関しては、新左衛門にとっても返す言葉はない。
クシャトリス自身が、道場で人間関係を築く気はないと明言していることを新左衛門も知っている以上、彼女の道場での態度が変わることはもはやありえないと言っていい。
かといって、ここで露骨に彼女の味方をする気にもなれないのは確かだ。なんといっても今ここで喜十郎が吐き出しているクシャトリスに対する不満は、それこそ数ヶ月前まで新左衛門自身が抱いていたものだからだ。
(だいたいアイツも悪いんだよな)
自業自得と言えば厳しいが、それでも敢えてクシャトリスをかばってやる気は、新左衛門にもない。これは所詮、クシャトリス自身が解決する気にならねばどうにもならぬ問題だからだ。
「しかし新左、おぬしもいかんぞ」
喜十郎の矛先が不意にこっちを向いた。
とはいえ、新左衛門は何を言われたのかも理解できず「はあ?」と目を剥くくらいしかできない。
が、喜十郎はまるで兄が弟に説教するような態度で、新左衛門に口を開く。
「おぬしが今もなお独り身を貫いておるからこそ、あやつも余計な期待を抱いておるということじゃ。もしもおぬしがとっとと身を固めておれば、バーザムズールもあそこまで頑なにならなかったのではないか?」
さすがにその論調は新左衛門にも予想外のものだった。彼としてはクシャトリスの独身と自分の独身を関連付けて考えたことなどなかったからだ。
「それこそ飛躍しすぎであろうが」
「飛躍なものかバカタレ。ならば聞くが、仮にも池波家の家督を継ぐ貴様が二十歳を過ぎて一人でプラプラしておるのは、どういう事情があるのじゃ? 答えられるものなら答えてみい」
「…………貴様には関わりのないことだろう、それは」
新左衛門が苦しげにそう言い返すと、喜十郎はニヤリと笑った。
「わかっておるわかっておる。おぬしにはおぬしの存念があると言いたいのじゃろう? あの女に勝つまでは求婚もできぬし、他の女と所帯を持つなど、それこそ論外と言いたいのじゃろう? 健気でいいではないか」
さすがにこの発言には、新左衛門も顔にハッキリと怒気が出たのだろう。
喜十郎も「おっと怒るな、悪かった悪かった」と一瞬怯えたような表情で、新左衛門をなだめにかかる。
「今のは確かに言い過ぎた。失言じゃ、許せ許せ……というか新左よ、いくらなんでも刀に手をかけることはないであろうが」
そう言われて初めて新左衛門は自分が刀の鯉口を切っていることに気づいてゾッとした。
とはいえ、この男に煽られたという事実は間違いないので何かを言う気はないが、それでも酒が入ればここまで煽り耐性がなくなるというのは、新左衛門自身も自覚してなかったことなので、少なからず狼狽もしたし、それを隠すために必要以上に険しい顔でそっぽを向かずにはいられなかったが。
とはいえ、喜十郎が言ったことも、まんざら違っていないのは事実なのだ。
人間という種は、この『共和国』の知性体の中では、最もその寿命が短い。
それを補って余りある繁殖力があるため、人口比率的にある程度の発言力を他種族に対して持っているが、それでも平均寿命百歳の獣人種や五百歳のエルフ種などに比べれば、その結婚適齢期はあまりにも短いと言わざるを得ない。
そういう意味ではクシャトリスの結婚について、人間である新左衛門や喜十郎が何かを言う筋合いはないとさえ言える。エルフ種の外見年齢は個人差があるためハッキリとは言えないが、それでも新左衛門や喜十郎が老衰で死んでもなお、下手をすればクシャトリスは今のままの若さを保ちかねない生物なのだから。
しかし、亡父の跡を継いで池波家を宰領していかねばならない新左衛門が、いつまでも独身のままというのは、確かに『共和国』の武家常識に比べて奇異というしかない。とっとと嫁を見つけて嫡子を育てねば、家が維持できないのだからそれは当然のことだ。
とはいえ、実は新左衛門にとっても、今もなお身を固めぬ確たる理由があるのかと問われれば、そんなものは無いと言わざるを得ないのが正直なところなのだ。
あえて言うなら、それこそ喜十郎が言ったとおり、剣においてクシャトリスに差をつけられたまま、結婚という新生活に逃避する気になれないというところであったろうか。そういう意味では、彼にとっても剣以外の生活要素は「俗事」と切り捨てて後悔しない程度の存在でしかないのかもしれない。
(まあいい)
そう思いつつ、新左衛門はしかめた顔をつるりと撫で、杯の中の麦酒を一口飲む。
その独特の苦味を味わいつつ、横目で喜十郎を見る。
彼は、少し所在無さげな表情を浮かべつつ、無言で米酒を盃に注いでいる。しかし、これ以上新左衛門にクシャトリスの話を振るのは危険だと判断したのか、これ以上何かを話しかけてくる気配はない。
新左衛門はため息を一つ吐くと、口を開いた。
「そういえば、今この街に関白殿下が来ておることを知っておるか?」
その意外すぎる名に、喜十郎は先程に倍する反応を見せる。
「殿下が……ジュピトリアムに!?」
「驚くことはなかろう。あの方のお忍び癖は有名だからな」
「いや、まあ、確かにそうだが……しかし新左、それを俺に教えていいのか?」
クシャトリスの話をしていた時以上に声をひそめて喜十郎は尋ねる。が、新左衛門は意に介さない。
「いかんということはなかろう。仮にも我らの御主君様だ。どこかの道端ですれ違う可能性を考えれば、むしろジュピトリアムの武家衆はすべからく殿下の所在を知っておくべきでさえあるはずじゃ」
「頭の悪いことを申すな新左、それではお忍びである意味がなかろうが」
「ふん」
面白くもなさそうに、つまみの干し肉を新左衛門は口に入れる。
関白豊臣家は『共和国』の武士階級の頂点に立つ「武家の棟梁」と呼ばれる名家であり、その家督を継ぐ者は、旧ニホン時代の官位である「関白」という敬称を世襲することとなっている。
そもそも『共和国』におけるこの武士という階級は、かつて四百年前、人類文明圏の中でも極東に位置するニホンという国から、豊臣秀頼という男が二十万の軍を率いて『共和国』に入府したことに端を発する。
その大規模すぎる亡命劇によって『共和国』は一気に人口を増やし、国内の労働人口と戦闘要員の増加に貢献したという功績により、武士という身分をそのまま制度化し、その「棟梁」であった豊臣家に公爵位を贈って国政に取り込んだのは、当時の大統領であったエマ・ベッケナーという女エルフである。
このベッケナーが辣腕であったのは、豊臣秀頼を優遇しておきながらも、法理的には豊臣家の私兵でしかなかった二十万の武士たちを「棟梁」である秀頼個人から引き離して『共和国』国軍に再編成し、豊臣家の武士たちに対する実権を奪ったという点であろう。
とはいえ、それは『共和国』が世襲による封建的主従関係を否定した共和政を国是としている以上、ある意味当然の処置であったとも言える。竜族のコミュニティならばともかく、ただのヒト種の一個人ごときに軍閥を丸々構成できる兵力を持たせておくなど危険極まりないことだからだ。
結果的に豊臣家は、公爵という爵位と引換に、その家臣団であった武士たちへの法的な指揮権を剥奪されたという、無様な現実のみが残った。この国における貴族は、中世ヨーロッパのごとく広大な土地所有を認められておらず、貴族としての家格筆頭たる公爵位といえど、実際には元老院議員への世襲くらいしか特権を認められぬお粗末なものであり、二十万の兵力ととても見合う条件とは言えない。しかし「棟梁」であった豊臣秀頼は、むしろ望んでその待遇に身を任せたという伝承さえある。
それに法的な軍権こそ奪われたが、今もなお豊臣家は武士階級をはじめとする『共和国』内のヒト種に対して絶大な影響力を保持してり、盆と正月には国中の武士たちが、首都グワジニアにある豊臣家の上屋敷に詣でるという慣習が、未だに根強く残っているほどだ。
そして今、その十八代豊臣公爵家継承者・豊臣秀綱という男がジュピトリアムに来ている。
「これ以上仕事を増やさないで欲しいんだよなぁ……とっととグワジニアに帰ってくれればいいんだが」
武家言葉も忘れ、そう言いながら頭を抱え込む新左衛門。
「新左、その物言いはいくらなんでも無礼であろうが。仮にも相手は関白殿下だぞ」
「ここにおらぬ相手に無礼もへったくれもなかろうが」
そんな彼の乾いた杯に、喜十郎は自分の米酒を注いでやりながら、尋ねる。
「先程からやけに言いたいことを言っておるが、おぬしと先生の部署になんぞ面倒な御下知でも届いたのか?」
「……まあな」
「しかし今更おぬしらに護衛の命令でも来たわけでもあるまい。殿下ほどの御方であれば護衛にしろ自前の家士を使うはずじゃしな」
「そんな簡単な話なら貴様に愚痴をこぼしたりはせぬよ」
「ならば、一体何があった?」
「…………」
新左衛門は答えず、喜十郎が注いだ米酒を一口含み、ごくりと飲み干す。美味いとも不味いとも言わない。
「焦らすな新左、とっとと言えよ」
そう言いつつ、喜十郎は新左衛門の杯に自分の米酒を追加する。それを横目に見ながら新左衛門は重い口を開く。
「大統領杯優勝剣士クシャトリス・バーザムズールと会いたい――殿下はそう仰っておられるそうだ」
」」」」」」」」」」」」」
月は未だ雲に隠れたままだ。
が、本来は森林狩猟民族たるエルフ種であるクシャトリスの赤い瞳は、闇中に潜む辻斬りの存在をハッキリと捉えていた。
彼女の「ツラを見せな」という言葉を聞いたからかどうかはわからない。
だが、数間先の路地の曲がり角に隠れていた「そいつ」は、その言葉の直後に、道に姿を現したことには間違いない。もっとも路上の暗さは真の闇に近かったので、人間なら到底その姿を視認できなかっただろうが。
獣人ではない。エルフでもない。そこにいるのは、紛れもなく人間であった。しかも黒ずくめの羽織袴に黒い頭巾という衣装から判断して、武家――それもかなりの階級上位者であると思われる。
それは何も着衣や頭巾の生地が一見してわかる高級布地であるから、というだけの理由ではない。姿を現した武士とは別に、さっきまでそいつが隠れていた路地から、さらに数人分の気配を感じるからだ。
(護衛、か……)
おそらくはそのサムライから出てくるなと言われているのであろうが、いざとなればそいつらをまとめて相手せねばならないと考えれば、事態は少なからず厄介になる。
その殺気から判断するに、この辻斬りはかなりの使い手であることは間違いない。となれば最悪の場合、その護衛を含めて、手練を数人まとめて相手にするとなれば、これはさすがに無事では済まない公算が強い。
(どうする……?)
いざとなれば逃げることも視野に入れなきゃならないかな――そう考えながら、クシャトリスは不意に失笑する。
眼前の黒い武士に対する笑いではない。この場を無事に切り抜けるために、敵に背中を見せることさえ無意識の内に選択肢に入れていた自分自身に対して、つい可笑しみを覚えたのだ。なぜなら、数ヶ月前の彼女なら、こんな格好の実戦機会をむざむざ見逃して是とするような思考は絶対にしなかったはずだからだ。
その瞬間だった。
サムライが動いた。
とはいえ、それは腰の刀を抜いたわけでも、こちらに向けて間合いを詰めようとしたわけでもない。何かの呪文を唱えたわけでもない。
なんと彼は――地面に転がる石ころを、彼女に向けて蹴飛ばしたのだ。
見るからに高級武士らしき着衣や護衛の存在、さらには辻斬りでありながら奇襲を仕掛けてこなかった態度などから、無意識に正攻法の攻撃を予想していただけに、こんなチンピラまがいの喧嘩殺法は、まさにクシャトリスの思考の死角を突いたと言っていい。
が、それでもそんな石ころをまともに喰らうほど狼狽はしていない。それまで脳裏を占めていた雑念は瞬時に消え失せ、思考を必要とせぬ反射が彼女の四肢を支配する。
「ふんっ!」
わずかに杖を動かして石を弾き飛ばし、なおかつバックステップで一歩身を引き、間合いを取る。
客観的に考えるなら、黒衣の武士が石を飛ばした狙いは明らかだ。
クシャトリスが一瞬でも石に気を取られたその隙に間合いを詰め、抜き打ちの一撃を振るうつもりだろう。
攻撃魔法や飛び道具による中距離攻撃を一発かました上で間合いを詰め、近接戦闘に持ち込むのは、路上の喧嘩ならばある意味清々しいと言えるほどの「正攻法」ではある。
しかし喧嘩慣れせぬ一般道場生ならばともかく、クシャトリス・バーザムズールには通用しない。
彼女が間合いをとったのは、距離を詰めてくるであろう眼前の敵に備えての無意識の行動だったが……しかし、そこでクシャトリスは思わず驚きに目を剥いた。
黒衣の武士は、襲いかかってくるどころか、そこで身を翻して背を向け、黒い袴に包まれた己の尻をポンポンと軽く叩いたのだ。まるで「クソでも喰らえ」と言わんばかりに。
いやそれのみならず、一瞬だけ振り向いた彼の顔には――頭巾によって顔自体は完全に隠されていたにもかかわらず――「あかんべー」と言わんばかりの、無邪気な子供のような挑発が見えた気がした。
そこから脱兎のごとく彼が走り去ったのは、その直後のことだった――もちろん彼の後を、慌てて追いかける護衛とおぼしきニンジャ装束の者たちが続く。
そして、そこには、呆気にとられて立ちすくむクシャトリスだけが取り残された。