魔界の国のお侍さん   作:アルジェリア

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第二十三話 「辻斬り(其の六)」

 

「それでは今日という善き日に、ジュピトリアムの紳士淑女と杯を交わせる栄光を祝して――乾杯!!」

 

 

 その声に応じる様に、会場にいる者たちは杯に満たされた葡萄酒をあおり、飲み干してゆき、その様子を、乾杯を号した豊臣秀綱は一点の曇りもない笑顔で見守る。

 今ここに催されているのは、豊臣秀綱公爵のための歓迎の宴だ。

 とはいえ、彼のジュピトリアム滞在はお忍び――つまりは非公式であるため、宴の規模も大々的にするわけにも行かず、この市庁内の小講堂には二十人ほどの人数しかいないのだが、それでも市長のゲイル・マルクスを始め、ジュピトリアム市の有力者がズラリと居並び、豊臣公爵家に対する精一杯の歓迎の意を表している。

 もっとも秀綱としては、それをいちいち感謝したりはしない。彼の持つ影響力を鑑みれば、この街の大物たちが自分を歓迎するのは当然のことだからだ。

 今も市長を筆頭に、ジュピトリアムの各種商業ギルドの頭取たちや、市警騎士団の団長などが、彼との知遇を得ようと順番待ちをしているような状態で、秀綱はその爽やかな笑顔と陽気な態度を保ったまま、次々に彼らと握手と挨拶を交わし、「武家の棟梁」としての社交をこなしていく。

 これこそが彼の日常だ――と言ってしまえば身も蓋もないが、それでも今更この「作業」を苦痛に思うほど、豊臣秀綱は幼くはない。

 

 挨拶と挨拶の合間に、ふとこの講堂の隅に目をやると、壁にもたれたまま鳥肉の串を仏頂面でかじるダークエルフ娘と、これまた苦虫を噛み潰したような表情で彼女に何かを話しかけている若い武士がいる。

 そっぽを向いたままのエルフ娘に業を煮やしたのか、武士は彼女の肩に手をかけ何かを言うが、エルフ娘はその手を強引に振り払い、怒りの表情もあらわに言い返している。

(おいおい……)

 その様子を見て秀綱は、苦笑を禁じえない。

 むろん発言の内容までは彼の耳には届かないが、二人の空気が殴り合い寸前の険悪なものであることは見ればわかる。

 しかし、非公式であるとはいえ、この豊臣秀綱ほどの者を遇する宴の最中に口論など始めては、結果的にその事実は彼らの不名誉となることは間違いない。が、さすがにそんなこともわからぬままに熱くなるほど馬鹿ではあるまい――そう思った矢先、侍装束の老人が、若い武士の後頭部に拳を一発叩き込み、二人の男女を黙らせる。 

 むろん周囲は誰も、この珍事に気づいていない。例外はこの自分だけだろう――と思いながら、秀綱は吹き出しそうになるのを懸命にこらえ、杯の中に残った葡萄酒を一気にあおった。

 

 

 

 この『共和国』の総人口はおよそ一千万人。

 大陸北部の人類文明圏諸国と比較すれば、その数字は膨大と言えるが、それでも『共和国』が存在するアーガマニア半島の面積から人口密度を換算すれば、この一千万という人口は、この広大な亜大陸全土を埋めるには到底及ばない。このアーガマニアの地はゆうに数億、あるいは数十億の民を養うに足る広大さと肥沃さを備えているからだ。

 その中でも、人類の占める比率はおよそ四割――つまり四百万の人間がこの『共和国』の国民として生存しており、さらにその四百万の半数――つまり二百万の人間が「武士」という階級の所属者である。

 とはいえ、この『共和国』における武家階級はニホン時代とは違い、武士が武士であるだけで主君から職と食を保証されるという貴族的特権を『共和国』から認められておらず、いまや彼らは、社会的には旧ニホン時代の文化と伝統を受け継ぐ名誉階級でしかない。

 主君に忠誠を尽くし、その報酬として俸禄米を保証される、「御恩と奉公」という武家の社会システムは、主君たる豊臣家とその家臣団(武士団)が政治的に切り離されたために崩壊し、かつて家格を表すバロメーターであった主君からの俸禄石高は、過去の無意味な数字に成り果てた。

『共和国』の武士たちは、たとえ武門に生まれた身であっても、合戦で武功をあげようと思えば、まずはこの国の国軍に入隊せねばならず、国家のためならぬ主君個人のために剣を取ることさえ禁じられたのだ。

 

 以上のことはすべて、初代豊臣公爵たる豊臣秀頼が『共和国』入府の際、当時の大統領であるエマ・ベッケナーが、彼らの市民権と生存権を認める代わりに出した交換条件であるという。

 ニホン時代に比べればあまりにも急変したというべき武士たちの立場だが、しかし彼らは『共和国』からの処遇に激怒して反旗を翻すような真似はしなかった。

 その「棟梁」である豊臣秀頼の決断に異を唱えることを躊躇したというだけではあるまい。おそらく当時の侍たちは、極東の島国から大陸最南端というべきアーガマニア半島にいたるまでの流浪の軍旅によって疲労の限界に達していたのだろう。

 そして、主君からの俸禄という収入源を失った武士たちは、その新たな居場所と働き口を『共和国』の国軍に求め、その死を恐れぬ勇猛果敢な戦いっぷりによって自分たちの存在感を国内外に示した。現在でも認められている、武士出身者の国軍への優先的入隊権の伝統は、この当時のサムライたちへの敬意から端を発していると言われている。

 

 

 余談が続くが、かつて豊臣秀頼が二十万の軍勢を率いて『共和国』に入府したのが、今からおよそ四百年前。

 それまでエルフや獣人たちの種族連合に過ぎなかった『共和国』が、その二十万の移民を得ることで、ようやく国家としての体裁を整える契機となったわけだが、逆に言えば当時の『共和国』はそれほどまでに深刻な人口不足に悩んでいた。

 エルフや獣人たちは、その個体の寿命や魔力・生命力に反比例するように、一様に出生率が低く、ヒト種の卓抜した繁殖力は当時のこの国にとっては何よりも魅力だったに違いない。現に秀頼入府以来、わずか四世紀の歳月で約五十倍という爆発的な人口増加を遂げ、人類文明圏諸国が手を出せない国力を『共和国』が持つに至る結果をもたらしたのは、人間と交配のおかげであると言える。

 二十万の軍と前述したが、当時の豊臣軍は純然たる外征軍どころか、むしろ本国ニホンからの亡命軍といった色彩が濃かったので、当然その行軍には家中の女性も多く同行しており、それらの多くが秀頼の命令で、獣人種やエルフ種と婚姻を結び、その彼らがまさに空前のベビーブームを生んだのだ。

 これもかつて前述したが、この世界における異種族婚に混血児は生まれない。異種族婚によって出産された男児はすべて父側の種として生まれ、女児はすべて母側の種として生まれる。

 つまり獣人同士のカップリングでは数年に一度、エルフ同士に至っては数十年に一度の繁殖期を待たねば新生児は生まれないが、獣人やエルフに嫁したヒト種の女性は、まさに年間を通しての妊娠出産が可能なため、秀頼入府数年でこの国に空前の人口爆発が開始されたのは、ある意味当然の結果だった。

 

 つまり、豊臣家はこの『共和国』においては、まさに国を挙げての恩人とも言うべき家系であり、その影響力は現在においても容易に衰えてはいない。齢を重ねたエルフの長老たちの中には、初代秀頼と面識を持つ者が未だに存命だったりするのだから、それも無理からぬ話であろう。

 それどころか、法的に切り離されたはずの豊臣公爵家に対する武士階級の忠誠心は、今なお健在であり、もしも豊臣家が反乱の兵を挙げよと檄を飛ばしたなら、そのほとんどが呼応するだろう。

 つまり秀綱は、竜族を除く『共和国』最高のVIPの一人なのだ。

 しかし――秀綱個人がその境遇にたまらぬほどの退屈を覚えている事実を知る者は、この場にはいない。

 

 

 

(この酒は美味いな)

 そう思いながら秀頼は杯に満たされた酒を飲み干し、杯をテーブルに置く。

 空になった杯は、給仕の手によってすぐさま新しく酒を注がれ、秀綱はそれをまた飲み干す。

 わかっている。

 酒が美味いのは、この酒が高級品だからではない。

 気分だ。

 抑えてはいるが、彼にしては珍しく興奮している精神状態が、口に入れるものの味を昇華させているのだろう。

 ならば何故昂揚しているのかと訊かれれば、答えは簡単だ。

 今日の午後、市庁の中庭で行われた真剣勝負の結果が、彼の心に常ならぬ上機嫌をもたらしているのだ。

 思い出すたびに緩みそうになる頬を引き締め、その喜びを、あるかなしかの薄い爽やかな微笑に変換すると、彼は歩き出す。

 目的地は、講堂の隅で仏頂面のまま壁にもたれているダークエルフの女剣士。 

 ちょうどジュピトリアムの要人たちの挨拶攻勢も一段落着いたところだったし、問題はなかろう。

 そう思いながら秀綱は、公爵家の略式礼装の襟元のボタンを外し、首をくつろげた。

 

 

 

「あら、これはこれは公爵閣下じゃありませんか」

 不機嫌な顔をさらに歪めてクシャトリスは、一応といわんばかりのよそよそしさで頭を下げる。

 その様子を見て秀綱は思わず苦笑を禁じえない。この国で彼にこんな態度を取るような者とは会ったことがないからだ。

 が、そんな不遜なエルフ娘とは対照的に、老若二人の武士たちは半ば狼狽しながらその場に片膝をつき、挨拶の口上を述べようとするが、秀綱はそれを遮った。

「気にするな渡辺、今宵は無礼講じゃ、堅苦しい礼などいらぬ」

 と言ったはいいが、この二人は恐縮した顔をうつむかせるだけで、こちらを見ようともしない。もっとも武家の典礼には貴人に対してまともに視線を向けるのを無礼とする作法があるので、それも仕方がないと言えるのだが。

 やむをえず秀綱は二人に対して言葉をかける。本当は空気で察してくれれば楽だったのだが、そうもいくまい。

「少しこの娘と二人にさせてくれぬか。余直々に話があるのじゃ」

 

 

 

「――で、カンパクデンカ様が、このあたくしめに一体いかなる御用でございますか?」

 

 

 二人が立ち去り(とはいえ、会話が聞こえぬ距離からこちらの様子を伺ってはいるようだが)いかにも面倒くさげにクシャトリスがそう言う。

 彼女のそういう態度に対する新鮮さはまだあるが、言われっぱなしというのも面白くないので、

「えらく愛想がないが、そちの親はしつけに失敗したのか? それとも渡辺の道場で余の悪口でも吹き込まれたのか?」

 と言ってやると、クシャトリスは顔を引きつらせて凍りつく。

 その歪んだ顔に秀綱は思わず吹き出しそうになるが、あんまり煽るとこの娘はカンシャクを起こしてこの場を立ち去りかねないので、

「冗談じゃ冗談、これでも一応は公爵様じゃ。左様に怒った顔を向けるな」

 と、一応フォローを入れておく。

 もっともそんな一言で娘の表情が和らぐはずもない。

「あまりいい気にならないで下さいねカンパク様。あたしはあんな決着認めていませんから」

「ほう?」

「道場内だったら――いや、少なくとも公式試合だったらあんなことにはなってませんよ。あなたがやったのはどう擁護しても反則ですから」

 

 早口でそうまくし立てる彼女ではあるが、今度はそっぽを向いたままこっちを見ようもしない。

 むろん秀綱には、彼女が自分をまともに見ようとしない理由はわかっている。

 事実をむりやり捻じ曲げて解釈することで、彼女は自分の身に起こった現実をなかったものにしようとしている。その心苦しさがあるからこそクシャトリス・バーザムズールは豊臣秀綱をまともに見ようとしないのだ。

 その気持ちは彼にもわかる。気づかぬうちに自分の強さにおごり、酔いしれ、無意識のうちに他者を見下すようになっているときに現実を突きつけられれば、普通はそうなる。

 秀綱自身もそうだった。自分が仰ぎ見られることが当然だと思い込んでいるうちは、見たくもない現実から目を背けて、心中に言い訳を量産して己を慰めてしまうものなのだ。

 なので秀綱はあえて言ってやる。

「見苦しいなバーザムズール。それが貴様の言い訳か?」

「…………ッッ」

 その言葉に、クシャトリスは戦車のような勢いで振り向く。

 彼女のその目には、もはや怒りさえ伴っていると言っていい。

 しかし当の秀綱にとっては意外でもなんでもない。当然だろう。いま彼はクシャトリスのプライドを現在進行形で踏みにじっているのだから。

 が、彼女の目に宿っているのは、怒気だけではない。むしろ無分別な怒り以上に、そこに見える感情は、まるで裸を見られた乙女のような羞恥だった。

 しかし、秀綱にとって彼女が恥じらっているという事実は重要だった。つまりクシャトリス自身に、己が現実から目を背けているという自覚が十分にあるという証拠だからだ。

 なので、秀綱はむしろ安心して言葉を続ける。

 

 

 

「貴様は余に負けたのだ、クシャトリス・バーザムズール。あの瞬間、余はそなたを確実に斬ることができた。今そなたが生きているのは、殺せる相手を余が敢えて殺さなかったという結果にすぎぬ。それを敗北と言わずして何と言う」

 

 

 

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 風は南東。

 陽は中天。

 市庁の中庭に、豊臣家の桐の家紋入りの万幕で囲われ、急ごしらえで用意された「試合場」であるが、中で剣を構えているのはただ二人。

 下段に剣を構えるクシャトリス・バーザムズール。

 八相に剣を構える豊臣秀綱。

 

 検分するのは審判役の渡辺源太夫と、秀綱直属の家士数人。そして池波新左衛門。

 しかし、源太夫と新左衛門は露骨に顔を歪ませている。

 理由は明白だ。

 その下段の構えは、彼女自身の本気の構えとでも言うべきものであり、その構えから繰り出される突き技――そして突きを含む連携技は、道場ではまともにさばける者もおらぬほどに高い完成度を誇る。

 なにより彼女の発する気は、ただの剣気ではない。

 技を食らった相手が死んでも構わない。むしろ斬られる前に斬らねば、自分の身が危ない。

 そう覚悟した剣気――つまり、眼前の相手に対する遠慮のない殺意が、まともに伝わってくるからだ。

 むろん彼女は自分が対峙している相手が何者であるかを知っている。彼が、この国に生きるすべての武士にとっての旧主というべき男であり、彼を手にかけるということが一体どういうことなのか、彼女はすでに承知している。

 にもかかわらず、クシャトリスがこの構えを取ったということは、ある意味秀綱を評価すべきとさえ言えるかもしれない。

 つまり、クシャトリスがこの構えを取ったのは、あくまで彼女自身の意思ではなく、秀綱の剣こそが、彼女にこの構えを取らせた――そう解釈するしかないからだ。

 

(それでいい)

 秀綱はそう思う。

 生まれついての豊臣家の嫡男であった彼は、対戦相手に勝ちを譲られることなどゲップが出るほど経験している。

 しかし、なまじ剣に天稟のあった秀綱は、相手の遠慮によって一本を取るという行為に、次第に嫌悪感を覚えるようになっていた。

 無論そうせねばならぬ家臣たちの立場は理解している。彼らの遠慮は決して自分を侮ってのものではない。

 が、それを理解するほどに彼は剣の稽古に没頭した。

 その不満を解決するためには、自分の相手を務める者たちが、遠慮などする余地を持たぬ程に強い自分になるしかない――そう判断したからだ。

 むろん彼の両親は、秀綱の狂気じみた修行に激しく難色を示したが、彼自身はそんなことなど歯牙にもかけなかった。当時の彼は屋敷内での道場稽古以外にも、暇さえあれば木刀一本を携え、屋敷の外で実戦練習という名の喧嘩に明け暮れる、札付きの不良少年でさえあったのだ。

 やがて両親に心配をかけることのデメリットを悟った彼は、元服を機に、それまでの生活態度を嘘のように改めたが、その性根が完全に消え失せるものでもない。家督を相続して十七代豊臣家公爵となった今でも、お忍びで地方都市にふらりと赴いたりするのも、かつてのヤンチャな頃の名残であると言える。

 

 いや、かつての――ではない。

 現に秀綱は、今こうして自分に対して殺意をむき出しにするクシャトリス・バーザムズールに対して、たまらぬほどの喜びと楽しさを感じている。

 彼女に対して真剣勝負を提案したのは間違いなく、この瞬間の――白刃を手にして、命のやり取りをするスリルを味わうためなのだから。

(この楽しさを覚えてしまえば、女と寝る快楽さえ児戯に等しい)

 彼は半ば本気でそう思い、しかしその本音を腹中に深く秘している。彼が愉悦を覚えるのは、あくまで五分の条件での真剣勝負であって、殺戮そのものではないのだが、ある意味では、彼は歴代豊臣公爵の中で最も武士的な血を濃く受け継いだ存在なのかもしれない。

 だが「武家の棟梁」たる自分が、命のやり取りに喜びを見出すような人間であることを世間に知られるリスクは、やはり明白なのだ。

 しかし理性でいくら納得していても――所詮それは上辺のものでしかない。特にこういう、ギリギリの勝負の瞬間における血のたぎりは、その事実を十二分に彼に思い知らせてくれる。

(さあ……来い)

 そう思うほどに、秀綱の口元は楽しそうにほころんでいく。

 

 

 秀綱はいま八相に剣を構えている。

 八相の構えとは垂直に立てた剣を右肩に引きつけ、左足を一歩前に出した状態の構えで、一見すると野球におけるバッティングフォームに見えなくもない。

 が、これはあくまでも攻撃のための構えであって、防御のための構えであるとは言い難い。

 そういう意味でクシャトリスは、彼の取った八相を奇異に思う。

 いまクシャトリスがとっている下段の構えは、本来ならば防御の構えなのだが、それでも彼女にとってはそうではない。この下段から突きを含む多彩な攻撃を見せることこそ、大統領杯優勝剣士クシャトリス・バーザムズールの真骨頂というべき姿なのだが、それでも豊臣秀綱ほどの手練であれば、この下段が彼女にとっての最大攻撃の構えであることを見抜けるはずだからだ。

(つまり、こいつはあたしの攻撃を防御ではなく、迎撃で凌ぐ気なの? このあたしから後の先を取れると、本気で考えているの?)

 舐められた、という思考が一瞬彼女の頭をよぎる。 

――が、彼女はすぐにその雑念を捨てた。

 相手の構えなどどうでもいい。

 今わかっていることは、眼前のこの男を斬らない限り、自分はこの場を生きて出られないであろうという確実な予感だ。

 

 

 風がやんだ。

 さっきまで鳴いていた鳥も、何処かへ飛んでいってしまったのか、その声は聞こえない。

 クシャトリスは、その静寂に導かれるように、静かに一歩を踏み出した。

 

 

 見る者にとっては、その初動は瞬間移動のように見えたであろう。

 完全停止から、予備動作なしのわずか一歩で最大加速を得るクシャトリスの踏み込みは、まさに相手が反応するその瞬前のうちに間合いに入ることを可能とする。

 並の使い手ならば棒立ちのまま一本取られるしかない。一流の使い手であっても、かろうじて竹刀を揺らす程度の反射しかできない。

 しかし――そのスピードも、完全に予想外の攻撃に対しては、裏目の効果しか果たさない。

 豊臣秀綱は、クシャトリスに対する迎撃に、八相に構えた己の刀を使わなかった。いや、それどころか彼の取った防衛行動は、剣士としてのものでさえなかった。

 秀綱は、八相の構えで一歩後方に引いていた己の右足で、足元の地面を思い切り蹴り上げたのだ。

 蹴り上げられた地面は、当然小石や砂利が前方に飛び、それが――矢の勢いで彼に迫るクシャトリスの顔面を襲ったのだ。

 

 

「なッッ!?」

 

 

 彼女は思わず声を上げた。

 いや、それだけでは済まない。クシャトリスは、このあまりにも非常識な迎撃に、剣を持つ両腕で反射的に顔面をかばってしまい、その結果、瞬間的にとはいえ彼女の胴はガラ空きになってしまったのだ。

(しまった――ッッ!!)

 実際には、そう思う暇さえなかったろう。

 その瞬間には、クシャトリスは自分の胴を深々と両断する一撃をまともに食らい、意識を失ってしまったからだ。

 

 

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「でもアンタはあたしを斬らなかった。真剣勝負のはずなのにアンタはあの瞬間刃を返して、峰打ちであたしを打った」

 

 

 

 

 まるでヤケ酒のように杯をあおり、クシャトリスは据わった目で秀綱を見返す。

「なぜ斬らなかったの?」

 彼女の口調は、あたかも自分が生きている事実に不満を抱いているかのような響きがあった。しかし、その気持ちも秀綱にはわからなくもない。彼とて剣を己の魂と規定して生きる一個の剣客なのだから。

「何故と訊かれても、とっさのことじゃから理由など無いと言うしかないのだがな」

「なによそれ、まさかブシのナサケだとか言うつもりじゃないでしょうね」

 と言いながら秀綱を睨みつける彼女の態度には、有無を言わせぬものがある。

 それに怯えた――というわけではないが、しかしこれ以上うわべを取り繕っても仕方がないと判断した秀綱は、とりあえず本音をもらすことにした。

 

 

「敢えて言うなら、まあ……惚れた弱み、というやつじゃな」

 

 

「ふざけてるの?」

 そう畳み掛けるクシャトリスの目には、もはや先程までの羞恥はない。そこにあるのは屈辱に耐え兼ねた純粋な怒りだけだ。

 しかしそんな彼女を、これ以上ないほどに真摯な視線で見返しながら、秀綱は言う。

「ふざけてなどおらん。余は本気じゃ」

「聞こえないね、貴族のお坊ちゃん。これ以上あたしをからかうつもりなら、今度こそ容赦しないよ」

 そう言いながらクシャトリスは、壁に立てかけていた愛用の杖を手に取り、素早く秀綱に突きつける。

 が、それに応じて彼が腰の剣を抜くことはなかった。むしろ彼はその杖の先端が己に触れる寸前の距離まで前に出る。

「死にたいの?」

「馬鹿言え。自害がしたければ他人の手など借りぬわ」

「馬鹿を言ってるのはそっちの方でしょ? 一体アンタがいつあたしに惚れる暇があったっていうの」

「野暮を申すな。男女の仲に時間など関係あるまい」

「もう一度だけ訊くわ――死にたいのアンタ?」

 クシャトリスの目に、いよいよ本物の殺意が宿る。つい昼間に一度見た表情だけに、さすがに見間違えようもない。そして秀綱は、そんな彼女さえ美しいと思ったが、とりあえずこれ以上、この睨み合いを維持するわけにはいかない。なにしろ彼は豊臣秀綱なのだ。雑談ならばともかく、これ以上宴席で剣呑な真似をしていれば騒ぎになってしまう。

「とりあえずその杖を下ろせバーザムズール。そろそろ周りの者も気付き出すぞ」

 その言葉に、彼女もしぶしぶ杖を下ろすが、その眼光だけは秀綱に固定されたままだ。どうやらこの娘は、もはや戦闘中と同じ次元で秀綱を警戒し始めているようだった。

 なので、秀綱は再度その言葉を吐き出した。

「こちらも今一度言う。余は本気じゃ」

「本気って……いったい何が本気だって言うのよ」

 

 

 

「余の妻の一人となり、我が子を産め――そう言うておるのじゃ」

 

 

 

 こんなことを、この豊臣秀綱から言われて動じぬ女など、恐らく『共和国』には一人もいまい。

――そういう思いが彼にあったのも間違いない。

 秀綱は自分の男っぷりに少なからず自信を持っていたし、実際のところ、たとえ身分を隠したままであっても彼はモテた。ぶっちゃけた話をすれば「武家の棟梁」「豊臣公爵家当主」などという冠を持たずとも、彼の男性としての魅力は、この世の平均的な男どもに比べて卓抜していると言えるレベルだったろう。

 なればこそ秀綱は次の瞬間の、彼女の返答に耳を疑わざるを得なかった。

 

「お断りよ。他を当たりなさい」

 

 先程までの怒りが言わせた台詞かと思ったが――しかし、彼女の表情はすでに冷静だった。クシャトリスの表情が示していたのは、一分の妥協もありえないほどの冷厳なる拒絶だった。

「何故じゃ」

 そう問う声が震えなかったのは、まさに奇跡に近い偶然だろう。

 この衝撃は、かつて自分の求愛を拒む女性など見たことがないという彼の驕りだけに由来していない。つまりは――それだけ秀綱は本気だったということなのだ。

 彼がいかに自身の客観的魅力に自負を持ち合わせていたかは先述したとおりだが、それでもいま秀綱が、クシャトリスに求婚したのもプレイボーイの道楽ではない。

 繰り返しになるが――彼は本気だった。

 エルフ種特有の繊細な美貌は、秀綱の女性の好みに添ったものであったし、何よりその剣の腕、その気の強さは大いに彼に心を揺さぶった。

 むろん勝負を挑んだ時点から彼女を口説こうと思っていたわけではない。

 あの瞬間、彼はクシャトリスを本気で斬るつもりだった。にもかかわらず、手首を返して峰打ちで眠らせるに留めたのは、まさに純然たる反射行為というべきものであり、その、己自身の肉体の反応を見て、そこで初めて彼は、クシャトリス・バーザムズールという女性を豊臣秀綱が欲している――という己の感情に気付いたのだ。

 しかしクシャトリスはそのプロポーズを拒んだ。しかも、まるで躊躇の余地もなく、だ。

 そして、その理由として彼女が発した返答によって、秀綱はさらに完膚無きまでに言葉を失う結果となる。

 

 

 

「だってアンタなんでしょ、最近この街を荒らしてる辻斬りは? 公爵様だかカンパク様だか知らないけど、そんな男と契りを交わすなんて、いくらなんでも無理よ」

 

 

 

 忍び装束で護衛を務めた家士以外、誰も知らぬはずの事実をズバリと言い当てられ、秀綱は呆然と立ちすくんだ。

 

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