「いったい……なんのことを言ってるのか……俺にはさっぱり……」
秀綱はもはや侍言葉さえ忘れたように動揺している。
クシャトリスはさすがに苦笑しながら、手近にあったテーブルから葡萄酒の瓶を取ると、彼の空になった杯に注いでやる。
そして、無様にうろたえる秀綱の目をまっすぐ見ながら言った。
「見苦しいわね。それがあなたの言い訳?」
彼はその表情のまま凍りついた。
この『共和国』で武家の棟梁と仰ぎ見られる豊臣秀綱。その出自、武勇、男性的魅力――それら全ての点において彼の右に出る男子は、この国には十人といまい。それほどまでの存在である秀綱が、ここまで醜い顔を他者に晒したことは、かつてなかったであろう。
が、それでも彼はさすがに、ただのネズミではなかった。
やがて力なく笑うと、その手の酒を一息にあおり、空になった杯をテーブルに置いた時には――その狼狽は綺麗に消え去っていた。
「確かに、今のは見苦しかったな」
そう言いながら、彼はやおら歩き出すと、わざわざクシャトリスの傍らを素通りし、どさりと壁に体重をかけてもたれた。
クシャトリスは一瞬彼が酔ったのかと思ったが、そうでないことはすぐにわかった。
壁にもたれた秀綱が、猛禽のような油断のない視線をめぐらし、この宴席を瞬時にして見渡したのが見えたからだ。
(まあ、そりゃそうよね)
クシャトリスは納得する。さすがにこの話題は、どこで誰が聞いているかわからない立食パーティーでするには危険すぎるのだから。おまけに秀綱はこの宴の主賓だ。いつ誰がどのタイミングで彼に近寄ってきても不思議はない以上、警戒するに越したことはない。
「なんなら、あなたの部屋に行く?」
クシャトリスはそう尋ねるが、秀綱は首を振る。
「その申し出は嬉しいが、宴の主賓が他の客を無視して女連れで消えるわけにも行くまいよ」
「お貴族様は割と平気でそういうことをするとも聞くけど」
「それは礼をわきまえぬ馬鹿貴族の話であろう。そんな奴輩と一緒にされたくはないしな」
「武家の棟梁様のわずかな失態が、サムライ全体の評価に関わる?」
彼女のその言葉が、秀綱の辻斬りという奇行に対する痛烈な皮肉であることは、さすがに彼にもわかる。もっとも一度犯行を認めてしまった以上は反論のしようもないため、彼としては苦笑するしかない。
「手厳しいな……もう少し容赦してくれれば助かるのじゃが」
「それは無理ね。下手すりゃ殺されてたのはあたしなんだから」
クシャトリスも応じる様に微笑を返す。
秀綱も杯の酒を一口飲むと、話を続けた。
「――で、余のことはいつから気付いておった?」
が、クシャトリスはいかにも呆れたような表情で秀綱を見ると、逆に聞き返す。
「アンタ本当に気付かれてないと思ってたわけ? 本気で?」
そう言われて、秀綱はようやく自分の質問の間抜けさを理解し、目をそらす。
クシャトリスが辻斬りの正体を秀綱と見抜くのは、ある意味当然であろう。
なにしろ、わずか数日のうちに、勝負の最中に地面の小石を蹴り飛ばすような相手に続けて出逢えば、それが同一人物だと考えるのは当然ではないか。そう言いたげな彼女の視線を受け、さすがに秀綱も「まあ、そうだわな」と恥ずかしげに頭を掻く。
しかし秀綱からすれば、戦闘中に地面の砂利や小石を武器として使用するのは、喧嘩に明け暮れた少年時代からの実戦における癖のようなものなので、迂闊(うかつ)にも彼はまったく自覚のないまま同じ戦法を使ってしまったのだ。
(余としたことが……いかにも無用心じゃったな)
舌打ちをこらえながら秀綱は、杯の中の酒を一口飲む。
そんな彼を見据えながら、クシャトリスは真顔で秀綱に向き直る。
「むしろ訊きたいのはこっちの方よ。アンタ、あたしをわざわざ呼び出して勝負する気だったんなら、なんであの晩、あたしを狙ったの?」
その質問を前に、今度は秀綱が沈黙する番だった。
金属のごとく無表情になり、無言で自分の杯に葡萄酒を注ぐ。
「答えない気?」
「…………出来れば答えたくはないな」
「どうして?」
「どうしてもじゃ」
もっとも、クシャトリスは彼の反応を予測していたかのような表情で溜息をつくと、言った。
「別に言わなくてもわかるわよ、アンタがあの晩待ってた獲物はあたしじゃなくて、池波新左衛門だってことくらいわね」
振り向く秀綱の視線は、先ほどに倍して鋭くなったが、それを見返すクシャトリスの冷静そのものな視線を受け――やがてうなだれた。
「やはり気付くか。まあ、そなたならあるいはと思ったが、やはりな」
「そんなの当たり前でしょう」
なにしろ、渡辺道場からあのルートを通って帰宅するのは、クシャトリスと新左衛門だけなのだ。辻斬りが誰を狙っていたのかという疑問も当然この二人に絞られてしまう。そしてクシャトリスとは市庁で戦う気だったなら、あの晩に彼が待ち伏せていたのは本当は誰だったのかという疑問は、簡単な消去法ですぐにわかる。
秀綱は大きく息を吐くと、葡萄酒をあおり、恥ずかしげな表情をクシャトリスを向けた。
「まあ、この期に及んでそんな尻の見える隠し事というのも馬鹿げた話じゃが……余にも羞恥心というものがある以上、言わずに済むことは黙っておきたかったのよ」
「……ここまで聞いた以上、別にもう何を聞いてもアンタをあらためて軽蔑したりはしないわよ」
「そう言ってくれるのはせめてもの救いじゃな」
「でも、なんでなの?」
その発言が、具体的に何に対する問いなのか、彼女はハッキリとは言わなかった。
それでも彼女の言葉が「なぜ新左衛門を狙ったのか」ではなく「新左衛門を狙っていたはずなのになぜ自分を襲ったのか」でもなく「なぜ辻斬りなどするのか」という、彼の行為の本質に対する質問であることは秀綱にも、なんとなく理解できた。
「これは余の病のようなものでな……理屈で説明できるものではないのじゃよ」
「殺人衝動?」
「違う」
「自殺願望?」
「違う」
「退屈しのぎ?」
「それも違う――と言いたいが……敢えて言うなら確かにそれが一番近いかもな」
そう言って微笑する秀綱には、血に飢えた殺人狂のような歪みは見受けられない。
とはいえ、クシャトリスはそんな彼を一瞥すると、何も言わずに自分の杯に葡萄酒を注いだ。
そんな彼女に向き直ると、秀綱は囁くような声で言った。
「取り繕うなバーザムズール、そんなことを訊くまでもなく、お前には余の言うことが理解できておるはずであろうが」
「アンタと一緒にしないでよ辻斬りさん」
と、たまらず彼女は言い返す。
確かに、正直に言えば、この男の言うとおり、すでに訊くまでもなく彼女には秀綱の心理が理解できていた。
(こいつは命懸けの勝負そのものを楽しみたいだけなのだ。ただそれだけのことなのだ)
あたかもギャンブル狂が、賭博の利益のためではなく、賭博そのものがもたらす緊張感に中毒性を覚えるように、この男もただ単に勝負の緊張感そのものに病みつきになってしまっているのだ。
そして緊張感を追求したいのであれば、相手の実力、武器の危険度、周囲の状況など、条件は危険であればあれほどいい。なればこその辻斬りなのだ。防具・竹刀を用いた道場での練習試合と、路上での野試合では、危険度はまさに天地の差があるのだから。
かつて実戦練習として他道場の門弟たちと決闘騒ぎを幾度も起こしていたクシャトリスには、そのスリルを楽しむ気持ちは理解できる。理解できるが――しかし、だからといって秀綱の行動に共感できるかと言われれば話は別だ。
「あたしにも確かに喧嘩好きの一面はあるけど、アンタのように夜な夜な辻斬りまでして実戦を楽しみたいとは思わない。わかるかと言われればわかるけど、それだけのこと。あたしはアンタの同類じゃない」
そう毅然と言い放つクシャトリスに、秀綱は一瞬酢を飲んだような顔になるが、やがて寂しそうに「そう、かもな……」とうつむいた。
が、彼女は彼女で、そんな秀綱に何かを言おうとはしない。もっとも、クシャトリスにしてみれば、今の言葉は混じりっけなしの本音の吐露なのだから、いまさら秀綱にフォローなど入れようもなかったのだろう。
二人のあいだに、ある種の気まずい沈黙が漂う。
が、秀綱は杯の中の葡萄酒を一気にあおると、ある意味サッパリしたような顔で振り向いた。
「ところでバーザムズール、池波新左衛門とは親しいのか?」
「え……なんで、そんなことを、訊くの……?」
「訊いてはいけなかったのか?」
「そんなことはないけど……なにしろ生まれついた時からのお隣さんだしね」
「ほう……」
そこで秀綱はようやく彼女の動揺に気付いたように、興味深げな視線を向ける。
「なるほど、道理で余の求婚をあっさり断るわけだ」
「ちょっ、何言ってんのよアンタッ!?」
反射的に大声を上げ、すぐさま周囲を見回してうつむくクシャトリス。その頬は褐色の肌ゆえにわかりにくいが、おそらく羞恥で真っ赤になっているのだろう。そんな彼女を、秀綱は可愛らしいとさえ思う。それはクシャトリスが今日初めて見せた、年頃の女性らしい反応だったからだ。
もっとも秀綱から言わせれば、彼が新左衛門の名を出したのは、秀綱がこの宴席で彼女に話しかける前に、彼女が新左衛門と口論していたのを思い出したからだが、それでも別に唐突だったとも思わない。なにしろ自分たちの話題が辻斬りの動機論になる前は、彼自身があの晩本当に待ち伏せていたのは池波新左衛門だと認めたばかりなのだから。
だからなのだろう。彼はクシャトリスが見せた、幼馴染の名に対する少女のような初々しい反応を敢えてからかうこともせず、聞きたいことだけをズバリと聞いた。
「で、池波新左衛門とは、どういう剣士なのだ?」
クシャトリスの表情が凍った。
いや、のみならず次の瞬間、彼女の目には再び殺気がみなぎり始める。
「それを聞いてどうしようっていうの?」
さすがに秀綱もその反応は意外すぎたため、思わず振り返る。
「どうした、何か気に障ったのか?」
「どうしたじゃないわよ……アンタまさか、まだ辻斬りを続ける気なの?」
(ああ、そういうことか)
その言葉にようやく秀綱はエルフ娘の反応に納得したが、しかしクシャトリスは納得などしていない。なので、そこはキチンと明言しておくことを忘れない。
「安心せい、もうこの街ではやらんよ」
「この街では?」
その言い様に秀綱は苦笑する。
「絡むなバーザムズール。お前たちに迷惑はかけぬと言っておるのだ、もはや池波にも手は出さぬ。これはあくまで興味本位の質問じゃ」
「……本当でしょうね」
「ああ」
そう言質を取らせてからようやく彼女は殺気の矛を収めたようだったが、とはいえ、クシャトリスの表情はまだ少し固いままだ。
「で、強いのか?」
「うちの道場の次席よ。弱いと思う?」
「思わぬ。思わねばこそ辻斬りの獲物に選んだのじゃからな」
「獲物って何よ、その言い草」
クシャトリスは思わず鼻白むが、さすがにもう秀綱は相手にしない。
「怒るな。それは認めたという言葉と同義じゃと思え」
「ふん」
「これは巷(ちまた)の世評じゃが、剣豪・渡辺源太夫の衣鉢を継ぐ者は、クシャトリス・バーザムズールではなく、池波新左衛門であるという声すらあるという」
「はぁ!?」
その言葉に、またもクシャトリスは目を剥いた。彼女はそんな世評など聞いたこともなかったからだ。
「その説によれば、バーザムズールはあまりに天才すぎるため、渡辺の指導を必要とせぬからだという。なればこそ渡辺にとっての真の後継者とは、そなたではなく池波新左衛門なのだそうだ」
「なにそれ……誰が言ってるのそれ?」
「誰が言ったのかも、その説が真実なのかもどうでもいい」
「そりゃ、アンタにとっては他人事だから――」
「余にとって重要なのは、世間に左様に評されるほどに池波という男が強いのかどうかという点だけじゃ。なにしろジュピトリアムの他の道場の連中は、余の予想以上に呆気なかったしのう」
そう問われ、彼女はにわかに黙り込む。
確かに新左衛門は強い――というより、かつてに比べて格段に強くなったと断言することができる。
かつてというのは、二ヶ月前に起こった例のズサ・ハンマガルスの事件である。あの日の鎧の幽霊騎士との決闘をクシャトリスは見ていない。新左衛門が戦っている間、クシャトリスは死霊術師ハンマガルスの確保に時間を取られていたからだ。
しかしそれ以降、道場における新左衛門の剣は、確実にその冴えを増した。おそらくはこのクシャトリス・バーザムズールでさえ、五分の立ち合いで絶対に勝てるとは言えないだろう。
とはいえ――それでも池波新左衛門が、豊臣秀綱に勝てるとは思えない。
クシャトリスは秀綱を一瞥する。
この男の剣は本物だ。斬撃の鋭さ、鍔迫り合いの上手さ、何よりその状況判断力。
そして、その腕以上に、この男は公式試合ならば反則となるはずの、なればこそ実戦ではその威力を発揮する技術に長けている。
踏み付け、頭突き、石蹴り――などといった技は、おそらくそのほんの一端にすぎないはずだ。この男に期待できるのは苦戦のさなかに援軍を呼ばぬという点くらいで、いざとなれば勝つためのあらゆる手段を迷いなく使うだろう。
「あいつは……アンタに比べりゃ育ちがいいからね」
その台詞は、秀綱にとっては何よりの皮肉であったろう。
彼は何しろ公爵家の嫡男として生を受け、この国の武士階級を統率する「棟梁」として育てられた身なのだから。
たまらず秀綱は破顔する。
「そうか、余はあやつに比べて育ちが悪いかハッハッハッハッハッハッ!!!」
その笑い声は、まるでそう言われたことを喜んでいるかのようだった。
いや、実際のところ秀綱は喜んでいたかもしれない。
何を競っても他人に勝ちを譲られ、何をやっても他人に名誉を守られる立場から脱しきれない自分自身に嫌悪感を抱き、剣に没頭することによってその境遇から飛翔しようと考えた――それがまぎれもない豊臣秀綱という男の本性なのだ。
そんな彼にとって「育ちが悪い」などと言うような者は誰もいなかったし、ならばこそ、その言葉は、彼にとって福音のごとく心地よい響きとなって聞こえたのだろう。
いかにも楽しげに笑い続ける秀綱だったが、もとより彼ならぬクシャトリスには、今の言葉の何が彼の笑いのツボを刺激したのかなど理解しようもない。なればこそ、秀綱の笑顔を見る彼女の視線は、かなり訝しげなものだったが――しかし、やがてその笑い声に引かれるように、彼女の表情もいつしか和らぎつつあった。
――そのときだった。
「殿下、マルクス市長閣下がお帰りの挨拶をなさりたいそうでございます」
という声を聞き、二人は同時に振り返った。
そこには、それまで誰もいなかったはずの空間に、忽然と一人の武士が立っていたのだ。
(いつの間に……!?)
気付かなかったのだ。クシャトリス・バーザムズールともあろう剣士が、知らぬ者に知らぬ間に己の間合いに入られ、それを気付かなかったのだ。
いや、気付かなかったのは秀綱も同じであろう。目に狼狽の色を残しながら、
「なんじゃ山中か、驚かすな」
と、威厳を取り繕う。
そのヤマナカという名は初耳であったとはいえ、クシャトリスもその顔は一応覚えていた。確か秀綱の近従を勤めていたはずの男であった。
(いや、ということは――)
クシャトリスは不意に気付く。秀綱の側近ということは、この男も辻斬りの際にニンジャ装束で彼を護衛していた者たちの一人に違いない。ならば、この見事すぎる穏業も納得できなくもない。
「しかし帰るとはどういうことじゃ? 宴はまだまだこれからではないか」
「それが、どうやら市長閣下に急用が入ったようでござります」
「左様か、ならば是非もないのう」
「はっ。閣下はこちらでお待ちでございます」
「うむ、参ろう」
そこで秀綱はようやく彼女を振り返り、
「というわけじゃバーザムズール殿。済まぬがこれで席を外させてもらうが、どうか最後まで楽しんでいってくれ」
と告げ、ふたたび背を向けた。
おそらく彼は、もはやクシャトリスの傍らには戻るまい。さっき彼女が見た秀綱の表情は、まさに言いたいことを全て言い終えたとばかりの顔だったからだ。
彼はこれより再び「武家の棟梁」としての象徴存在に戻り、宴が終わるまでその仕事を全うするのであろう。
それはいい。もはやクシャトリスに口を挟む義理も義務も権利もない。
突然の求婚や辻斬りの自白など、あの男の「告白」はまさにとんでもない内容ではあったが、それでも豊臣秀綱という男の印象は彼女の中ではそこまで悪くはない。種族も階級も違う自分に、あの武家の棟梁は己の素顔を見せ、本音を以て相対してくれたのだ。その素直さはやはり大器の片鱗と解釈せざるを得ないだろう。
しかし、それでもクシャトリスは、胃の中にしこりの残ったような違和感を、どうしても拭えなかった。
それは何故か、などと思うまでもない。
あのとき――自分に全く気配を感じさせなかった、あの山中というニンジャ(推測ではあるが)が一瞬自分に送ったあの目線が、どうにも彼女の心に引っかかっていたのだ。
」」」」」」」」」」」」
「なん、だと……ッッ!?」
池波新左衛門は、隣を歩くクシャトリス・バーザムズールからそれを聞いて、開いた口が塞がらなかった。
もっともクシャトリスは、自分がさほどに重大な事実を漏らしたという自覚も無さげな顔で歩いているが、これが世間に漏れたら一体どういう事態になるか想像もできない。
「本当なのか……本当に例の辻斬りの下手人が……関白殿下なのか?」
「うん。本人もそう言ってたから間違いないよ」
時刻は子の刻――午前零時。
市庁で開催されていた宴も無事終了し、二人は闇夜の帰路をてくてくと歩いている。
師匠の渡辺源太夫は、秀綱が用意した駕籠によって先に帰宅し、すでにここにはいない。
風はさほどに冷たくはないが、月も星も出ていないため、新左衛門は提灯をかざしており、その熱が冬の夜道のちょうどいいカイロ代わりになっていた。
ちょうどそんな時だったのだ。
クシャトリスが雑談の合間に、そういえばさ――と何気ない調子でその話を持ち出したのは。
もとより新左衛門にとって、その話は寝耳に水だった。
辻斬りなどするのは、武士の中でも食うに困った貧乏浪人か、もしくは余程の高級武家の御曹司の退屈しのぎだろうとは思っていたが、それでもまさか『共和国』の武士の頂点に位置する御方の犯行だったなど、あまりに予想外すぎた話だからだ。
というより、彼が気になっているのは、実はそこだけではない。
「クシャ子……おまえ、なんでその話をおれに聞かせた? 気軽に他人に漏らしていい話かどうかくらいわかるはずだろ?」
「え……でも、あのデンカさんは特に『誰にも言うな』とは言わなかったよ?」
「お前酔っ払ってるのかよ!! いちいち言われるまでもないことだろ!!」
「そんなことを配慮する義務はないでしょう。あたしはサムライでもなければ人間でもないんだから」
と、言い切るクシャトリスの顔は、ほんのり赤らみ、宴席で飲んだ酒がまだ完全に抜けていないことは明白だ。
しかし、そんな話を聞かされた新左衛門はそうもいかない。ほろ酔い気分はみるみるうちに覚め果て、途方に暮れそうな現実だけがのしかかってくる。
だが、クシャトリスの方はそんな彼に平然と言い放つ。
「っていうか、アンタだから話したんじゃないの。誰彼構わずこんなこと言えるわけ無いでしょ、馬鹿じゃないの?」
その言葉に、新左衛門はしばし呆然となり、さらに数秒後、覚めたはずの酔いが突然ぶり返したかのような勢いで頬を染め、顔を背けた。
「い、いきなり何を言ってやがる」
「あによ照れてんの? カワイ~~」
「この……張り倒すぞお前!!」
「でもまあ、今のはアンタが期待したような意味じゃないわよ? アンタだってこの事件の当事者になるはずだったんだから、真相を知っておく必要はあると思ったのよ」
そう言ったクシャトリスの目には、理性と冷静さが宿っている。
つまり、この女が自分にこんな話を持ち出したのは、厳然たる理由があるということだろう。その結論は、わずかに新左衛門の心を失望させたが、さきほど彼女が漏らした「当事者」という言葉も気になる。
「よし、最後まで聞かせろ」
「そうしてあげたいところだけど……」
そう言って彼女は歩みを止め、前方の闇に厳しい視線を向ける。
「どうした?」
と言いながら新左衛門も、同じく足を止め、前方に提灯を向けるが、人間の視力ではダークエルフの暗視力にはとてもついていけない。彼女がそこに何を見ているのかまではわからなかった。
いや、そうではない。見えずともその気配を感じることは新左衛門にも出来る。
(……誰か来る?)
だが、その気配は一人だけだ。
しかも新左衛門の経験則から言えば、ここまで開放的な気配は、どう考えても素人の一般人のものであり、敵のものではありえない。
しかし、クシャトリスの緊張は本物だった。彼女は道端に手荷物を投げ捨てると、愛用の杖を逆手に構え、魔力を込め始めたのだ。そこには先程までの酔態など毛ほども窺えない。
(やはり、敵……なのか)
新左衛門としては、彼女の反応からも、そう判断せざるを得ない。
とはいえ、考えられる「敵」としては、秀綱が、事情を知りすぎたクシャトリスに刺客として忍びを放つくらいだが、それでも彼としては、それがクシャトリスの勘違いであることを切に願うばかりだ。
なにしろその敵が秀綱の意思であるならば、ここから起こる戦闘は、下手をすれば新左衛門にとっては、武家の棟梁への反逆を意味するものであり、それすなわち彼個人の武家社会との永久的な決別を意味するのだから。
果たして、あの若すぎる関白殿下が、そこまで恥知らずな真似をする男なのかという疑問が残るが、秀綱と直接コミュニケーションを取ったことのない新左衛門には、もはやそれは想像の外だ。
しかし、ここで見て見ぬフリを決め込んで、このヤンチャすぎる幼馴染を見捨てるという選択肢も、彼にとっては存在しない。
(しょうがねえなぁ……)
ワーキャットの母と妹に心中で詫びながら、彼もまた、そっと刀の鯉口を切った。
数秒後、ようやく新左衛門の視界に、例の接近者の姿が入った。
しかし彼には、それはどう見ても、ただの酔っ払いにしか見えなかった。
千鳥足で鼻歌を唄い、耳まで真っ赤になったワーウルフの男性。仕事帰りなのかその背にザックを背負い、もちろん手には武器らしきものは何も持っておらず、その上機嫌っぷりは傍目に見ても明らかだ。
(囮か……?)
とも思ったが、しかし周囲に殺気はない。
しかも当の酔っぱらいが、どうやら自分たちの殺気じみた態度に気付いたようだ。
「おろ、なんじゃ兄ちゃんたち、わてに何か用か?」
少し驚いた表情で、そう言うワーウルフ。
とはいえ、道の真ん中で強面を晒しながら男女に待ち伏せなどされたら、誰でもそんな声を出すだろう。おまけに今は深夜だ。下手をすればこっちが辻斬りと疑われてもおかしくない。
「いえ、すみません、どうやら人違いです」
そう答えて道をあけたのは新左衛門だが、同じようにクシャトリスも安堵の息を漏らしたのが聞こえたため、彼も安心して刀にかけた手を外し、臨戦態勢を解く。
「おっとっとっと」
その瞬間、酔っぱらいは足をもつれさせ、クシャトリスの方向によろめいた。
すぐさま新左衛門に緊張が蘇るが、ワーウルフは彼女にぶつかる寸前で態勢を持ち直し、
「いや、こら済まなんだな姉ちゃん」
と笑うと、その手でクシャトリスの尻をパンと叩き、
「おう、エルフにしちゃええケツしとるわ。大事にしたれや兄ちゃん!!」
と、新左衛門に笑いかけ、そのまま鼻歌を再開させながら、道の向こうに去っていった。
「ふぅ……驚かせやがって」
そう言いながら新左衛門がクシャトリスを振り向くと、ギョッとなった。
深夜のことゆえ褐色の肌のダークエルフの顔色までは新左衛門の視力では確認しようがない。が、それでも彼の目には、クシャトリスがさっきまでとはまるで別人のように怯え切っているように見えたからだ。
「クシャ子……?」
「ああ、うん……じゃ、帰ろうか」
そう言いながら、彼女は新左衛門の視線から逃げるように背を向け、道端に投げ捨ててあった自分の荷物を拾う。
「どうした?」
思わず訊くが、彼女は取り繕うように新左衛門に笑顔を見せるだけで、何も言わない。
そのままクシャトリスは、彼を振り返ることなく足早に歩き始め、それを追った新左衛門はいよいよ訝しみ、彼女の肩を掴んだ。
「どうしたクシャ子」
「なんでもないよ」
そう言って振り返った幼馴染の顔を、新左衛門は一生忘れることはないだろう。
それほどまでにクシャトリスの顔には、今まで彼が見たこともない負の感情と、それを取り繕おうとする理性との葛藤が見えたのだ。
このような顔をされては、さすがにもうこれ以上「どうした?」とは訊けない。「なんでもない」という女の言葉が偽りであることはあまりにも明白だが、それでも訊けない以上は「そうか」と言うしかない。
そのままクシャトリスは、池波家の隣にある自宅に到着するまで沈黙を貫き、その背中を新左衛門は見守るしかなかった。
「おいクシャ子!」
時間的には非常識な声を出したのは、新左衛門にしてみれば精一杯のことだったであろう。
振り向いた幼馴染の顔には、さきほど見たような絶望的な表情は、もはや張り付いていない。
彼女はそのまま、少し寂しげな笑みを浮かべながら、新左衛門に向けて、
「おやすみ」
とだけ言い残し、そのまま家の中に入っていった。
そして――クシャトリスはそのまま、翌朝になっても、そのさらに翌朝になっても、目を覚ますことはなかった。