「池波、バーザムズールはまだ目を覚まさんのか」
池波新左衛門が、自らの職場であるジュピトリアム市庁・特別総務掛の詰所に入ってくるなり、中にいた渡辺源太夫はそう聞いた。
もっとも、その返事はある意味聞くまでもなかった。新左衛門の絶望と疲労にまみれた顔を見れば、源太夫にも彼女の現在の容体はおおよそ察しがつく。
はたして新左衛門は力なく首を振り、源太夫自らが畳を敷いて和室に改造したこの「詰所」に入ると畳の上に腰を下ろし、無言のまま風呂敷から書類を取り出して仕事を始めようとする。とはいえ、こんな憔悴した状態の新左衛門に、平常通りの仕事ができるのかは源太夫にとっても果てしなく疑問だが。
「そのザマでは仕事になるまい。いいから帰ってあやつを看てやれ」
と源太夫は言ってやるが、新左衛門は頷かない。
「拙者が出来ることは……もう無いようなんですよ。向こうの親父さんにもこれ以上迷惑はかけられないと言われてしまいましたし」
と、かすれた声で言うと、新左衛門は書類を書見台に並べ始める。
「左様か……ならば、好きにするがええ」
我ながら陳腐な言葉だと思うが、しかし源太夫は、これ以外に眼前の愛弟子にかける言葉を思いつかなかった。
現在、クシャトリス・バーザムズールは昏睡状態に陥って四日目になる。
彼女が豊臣秀綱と真剣勝負をし、さらに秀綱を内々に歓迎する祝宴が市庁で開催されたその夜、自宅で眠りについた彼女は、その翌朝になっても、その夜になっても目を覚ますことはなかったのだ。
さすがに事態の異常さに気付いたバーザムズール家の家族たちは、一人娘の意識を覚醒させるためにあらゆる手段を使った。
幸いクシャトリスの父親ガルスは、このジュピトリアム市の警察機関である市警騎士団の本部長であり、彼は自分の娘に起こった異常事態の対処に、その持てる権力と人脈を最大限に利用した。
ジュピトリアムでも高名な治癒魔法や薬草調合の専門家を自宅に招き、または、この昏睡がある種の呪いである可能性を吟味して呪詛対処ために陰陽師まで自宅に招き、さらには幼竜ナマイキの人脈から、緑竜王の里から外科医まで招き、ガルスはクシャトリスの目を覚まさせようとしたが、その誰もがさじを投げざるを得なかった。
クシャトリスは幼児のごとくあどけない寝顔で眠り続け、一向にその意識が回復する兆しは見えなかったのだ。
そして、その寝顔と対照的に、彼女を看病する者たちの絶望は深まる一方だった。
点滴や注射による外部からの栄養補給の手段は、『共和国』の医療分野においては、未だ確立されていない。
つまり、眠り続けるクシャトリスは、必然的に飲まず食わずのままということになり、この昏睡状態があと数日続けば、彼女に待っている運命は確実な餓死以外にはなかった。
無論そんな状態のクシャトリスを放置して、のこのこと職場にツラを出すような新左衛門ではない。この男とクシャトリスの微妙な関係性は道場では周知のことであり、道場主の源太夫も当然承知している。
新左衛門から聞いた話によると、クシャトリスの父ガルス母ラヴィアンは言うに及ばず、家族ぐるみの付き合いのある池波家の家族たちも協力して、交代制でシフトを組んで看病につき、新左衛門も当然のように仕事や道場を休んでクシャトリスの傍にいた。が、その彼が今日、クシャトリスが倒れて以来初めて職場に顔を出したのだ。
とはいえ、これ以上の池波家の協力を拒んだクシャトリスの父親の気持ちを察するのは、源太夫にとっても容易だ。
いかに交流の深いお隣さんとはいえ、池波家とバーザムズール家は、種属も氏族も違う他人同士であることは間違いない。頼るべきは遠くの親戚より近くの他人という慣習が『共和国』にあることは確かだが、それでもガルスからすれば池波家は、身内にあらざる他人なのだ。ならばこれ以上、この隣家を娘の看病に巻き込むのは、やはり心苦しいのであろう。
(まあ、同じ立場ならわしも同じように言うであろうな……)
源太夫もそう思わざるを得ない。
他者に迷惑をかけてはならない――というのは、社会における大人の一般常識だ。他者から頼られる喜びという感情も確かにこの世には存在するが、度を越すとそれはただの甘えになってしまう。ガルス・バーザムズールが池波家の人々に「もういい」と告げたのは当然のことであったろう。
(とはいえ、その父親も酷なことを申し渡したものよ……)
新左衛門の顔を盗み見するに、源太夫もそう思わずにはいられない。
それほどまでに彼の目は明らかにうつろで、書見台に置いた書類など何一つ目に入ってないことは確実だった。
池波新左衛門は苦悩していた。
もちろん昏睡状態の幼馴染のこともある。
が、それ以上に、彼の心を悩ませていたのは、この事件の裏に豊臣秀綱の存在が関わっているであろうという確信であった。
少なくとも例の夜、自分とクシャトリスの前に出現して消えた、あのワーウルフの酔っ払いが、彼女を今の状態にした直接の下手人であることに間違いはない。
バーザムズール家に招かれた治癒魔導師や薬師、陰陽師、そして外科医までが、声を揃えて昏睡の原因は毒物でも呪詛でもないと言ったが、新左衛門にとっては正直そんなことはどうでもいい。
あの晩のワーウルフが、秀綱配下の忍び衆の変装だとしたら(そうとしか考えられないが)クシャトリスが意識を失ったのは、その忍者流の暗殺術に類推される何らかの技術であり、ならば市井の医者や魔導師ごときに簡単に治療できるはずがないのだ。
そしてクシャトリスは、豊臣秀綱から命を狙われる理由を持っている。彼女は、秀綱が最近ジュピトリアムに出没している辻斬りの犯人である事実を知っていたし――何よりこれが重要な点なのだが――彼女はそれを新左衛門に「話して」しまったのだ。そしてそれを、おそらくは市庁より彼女の監視についていた忍びの者たちに見られた。
(おそらくはアイツがおれに喋らなければ、今度の事件は起きなかったに違いない)
そう思う。
ならば何故、彼女から話を聞いた池波新左衛門が無事に済んでいるのか、と訊かれれば答えは簡単だ。
(おれが武士――関白殿下に忠誠を誓っているはずの、現役の侍だからだ)
仮にも武士たる者が、その「棟梁」にとって明らかな醜聞となるはずの情報を、余人に漏らすはずがない。それゆえにわざわざ口を封じる必要もない――それが秀綱の判断なのであろう。
そして、新左衛門個人にとって非常に無念かつ不本意なことに、その判断は間違っていないと言うしかない。なぜなら、彼自身の胸の内にも、父祖の代から叩き込まれた豊臣家への忠誠心が根付いているのだから。
もしも、新左衛門自身が現役の武士でなかったとしたら(無意味な仮定ではあるが)今回の一件に対しても、取るべき手段はシンプルだ。
クシャトリス・バーザムズールの昏睡も、秀綱配下の忍び衆の仕業であると現時点で判明している以上、その治療手段を持つ者もまた彼らであると判断できるであろう。
ならばやるべきことはハッキリしている。
秀綱のもとへ出向き、クシャトリスの治療を依頼すればいい。奴がそれを渋るなら、辻斬りの一件をネタに脅迫すれば否応もないだろう。
クシャトリスの父親は市の警察機関の上級幹部だし、なにより今バーザムズール家には緑竜王の息子ナマイキがいる。その両方のコネを使えば、わずか数日で『共和国』全土にこの醜聞を拡散することができるだろう。その事実を条件に交渉すれば、いかに豊臣秀綱が剛毅強情であっても首を横に振ることは不可能だ。
つまり新左衛門が、武士としての忠誠心などドブに叩き込んでしまえば、今日中にもその程度のアクションは取れるのだ。そして、それはクシャトリスの命を救うほぼ唯一の道でもある。
ならば、なぜ新左衛門は行動しないのかと問われれば、その答えも簡単だ。
その行動を選択するということは、もはや言い逃れのしようもない程に明白な「武家の棟梁」への反逆を意味するからだ。
(それでもあの夜は、殿下に対して剣を向ける覚悟があったというのに……)
そう思うと新左衛門は、我ながら泣きたくなってくる。
確かにあの晩――自分とクシャトリスに向けて近づいてくる気配に対し、新左衛門は剣を抜いて抵抗する意思があった。接近してくる気配が秀綱の放った上意討ちだったとしても、少なくともこの幼馴染を、むざむざ死なせてたまるかという思いが、彼に刀に手をかけさせたのは間違いないのだ。
しかし、今となってはどうしようもない。
あの時は、眼前に迫る身の危険という緊張感があった。だが一度冷静になってしまえば、もうダメなのだ。
(これが侍の血、というやつか……)
ヘドを吐きたくなるような思いとともに、新左衛門は瞑目する。
武士道という概念は、主君への忠誠心と切り離されては存在し得ない。ならばこそ武家階級の所属者たちは父や祖父から、四百年前に政府によって関係を切り離されてしまった豊臣家への忠誠心を、繰り返し刷り込まれる。
もちろん人間は、エルフ種や幻獣種のような長寿を持たぬため、かつての故国ニホンや初代秀頼の時代をリアルタイムで知る者はいない。なればこそ親から子へ、子から孫へと語り継がれるその忠義は多分に情緒的なものとなり、主家から引き離されて失業者となった当時の武士たちの苦労譚ではなく、家臣を失って孤独となった歴代豊臣家の旧主を慕うエピソードが中心となる。
今こうして自分たちが『共和国』に生きていられるのは、すべて豊臣家のおかげであると――それこそ読み書きソロバンや魔法の基礎と同じレベルの常識として、価値観の根底に、その思考を刻みつけられるのだ。
それは池波新左衛門としても、決して例外ではない。
彼もまた、社会における一匹のパブロフの犬に過ぎないのだ。
『お兄さん、大変だよお兄さん!!』
新左衛門は顔を上げ、とっさに周囲を見回した。いったいそれが誰の声なのか判断がつかなかったからだ。
いかにも挙動不審な新左衛門を、訝(いぶか)しげに見守る源太夫の様子から、その「声」が物理的な音声ではなく、彼の耳にのみ届いている念話魔法だと気付くと、新左衛門はようやく冷静さを取り戻した。
念話という魔法は『共和国』においても一般的と言えなくもない魔法技術だが、その行使には送信側受信側ともに魔力を封じ込めた水晶玉が必須であり、せいぜいが政府官庁や商業ギルド、もしくは軍隊における部隊運用に使用されるような技術であり、民間に普及しているとはとても言えない。
しかし、ナマイキを始めとする竜族の古代語魔法であれば、そんな水晶玉のような高価な触媒も必要とせず、まさに携帯電話のごとき気安さでの双方向通信が可能なのだという。
『ナマイキ、か?』
『うん、驚かせてごめんね。でも、こっちもちょっとビックリするようなことがあってさ』
『びっくりって……まさかクシャ子が起きたのか!?』
『いや、そうじゃないんだけど……ちょっと、さ』
『何だ、ハッキリ言え』
『トヨトミヒデツナってお偉いさんが、家来を二人連れて今この家に来てるんだよ。お姉さんのお見舞いだとか言って』
その瞬間に、新左衛門は空を睨んで立ち上がっていた。
書見台からバラバラと書類が落ちるが、そんなものは彼の視界には入っていない。
「おい池波、さっきから一体どうした?」
たまらず源太夫が聞くが、その声もやはり新左衛門の耳には届いていない。
「池波!!」
「あ、はい」
振り返った新左衛門の顔を凝視した源太夫は、しばしの間を置いて立ち上がり、やがていたわるような目をして言った。
「今日はもう帰れ。やはり貴様は、しばし出仕には及ばぬ」
「……申し訳ございません、先生」
今にも泣きそうな顔で頭を下げると、新左衛門はそのまま刀を掴んで部屋から飛び出していき、その背中を、源太夫も沈んだ眼差しで見つめていた。
源太夫にしてもクシャトリスを心配する気持ちは当然ある。なんといっても彼女を国内最強とまで言われる剣客に育て上げたのはこの渡辺源太夫なのだ。付き合いの長さ古さ以上に、あの不器用な娘には、弟子というより孫娘でも見るような愛情もある。
しかし、そんな源太夫でも、この新左衛門の様子を見ていると、さすがにたまらなくなってくる。
(アホンダラが……そんなにあの娘のことが心配なら、ちゃんと起きてるうちに口説かんかい……)
源太夫もそう思う。
とはいえ、こればかりは、たとえ二十年来の剣の師匠とはいえ、どうしようもない。男女の縁というやつは、所詮は本人たち以外には如何ともしがたいものだからだ。
街角で辻馬車を拾い、池波新左衛門はそれに乗り込む。
バーザムズール宅の住所を御者に伝え、叫ぶように言う。
「全速力で頼む。運賃は割増込みで言い値で払ってやる。行け!」
その言葉にニヤリと笑った御者席の中年オークは「はいよォォ!!」という、新左衛門への返事なのか馬への叱咤なのか分からぬ一声を上げ、そのまま馬にムチを入れた。
馬車が猛然とスタートするが、首都グワジニアの主要街道ならばともかく、ジュピトリアムの田舎道など舗装は当然なされていない。胃の内容物が逆流しそうなほどの揺れが新左衛門を見舞ったが、しかし馬車酔いを気にしているような状況ではない。
新左衛門は、いまだに念話が繋がったままのナマイキに話しかける。
『いま仕事場を出た。馬車を拾ったのでそっちにはすぐに着ける』
『うん』
『とりあえずナマイキ、殿下が何をして何を言ったのか、逐一教えてくれ』
『逐一って、そんな面倒なことはできないよ』
『おい、こっちは冗談で言ってるんじゃないんだ』
『だから、こっちだって冗談で言ってないさ。あのお偉いさんは、もうお姉さんの部屋に入って家族を締め出しちゃってるんだからさ。何を言おうが何をやろうがボクに分かりようがないんだよ』
『なん、だと…………!?』
『とりあえずお姉さんにトドメを刺しに来たわけじゃないのはわかるけどね。でも、部屋の中で何をやってるのかまでは、ボクにも知りようがないんだよ』
『トドメってナマイキ……おまえ、殿下とクシャ子のことを知ってるのか?』
『え、あんたに頼まれてこの人相手に八百長試合やらされるって、お姉さんが散々愚痴ってたけど、それ以上に何かあるの?』
『……いや、ならいいんだ』
(いったい殿下が今更あいつに何の用があるというんだ……)
新左衛門にはわからない。
もしもクシャトリスに対する害意があってのことなら、秀綱が自らバーザムズール家に姿を見せる意味などないのだ。放置しておけば彼女は確実に死ぬのだから。
ならば、純粋にクシャトリスを見舞いに現れたということなのか。
(それもありえない)
そう思う。クシャトリスの昏睡の裏に秀綱の意志が介在している以上、そんな嫌味ったらしい行動を、あの関白殿下が取るとは思えない。
ならば、クシャトリスの衰弱状況を確認しにきたというのか。あの女がいつ死ぬのか、それをこの目で確認するために、わざわざ秀綱が足を運んだというのか。
(それもまた、ありえない)
ナマイキの話によるならば秀綱は、自らの従者だけを連れてクシャトリスの部屋に入り、人払いをしたという。彼女の現状を確認するためだけが目的なら、そんなことまでする必要はないはずだ。
(いや、そもそも……)
彼女の死が確実でないというなら、そんな方法での暗殺を秀綱が指示するはずがない。
クシャトリスの昏睡が、一般的な毒でも呪詛でも病気でもない以上、その起因に秀綱の意思があるのは確実なのだ。ならば、秀綱自らが経過を視察に来ねばならぬような半端仕事を、彼の配下の忍び衆がするはずがないではないか。
(わからぬ。いったい殿下はいかなるつもりなのか)
――その瞬間だった。ナマイキの悲鳴のような念話が彼の脳を直撃したのは。
『お兄さん、お姉さんが!! お姉さんが!!!』
『おいどうした!? ナマイキ!! 返事しろナマイキ!!』
新左衛門はそう念じるが、もはや一度切れてしまった念話魔法は、あのチビ竜の側からでないと通信を再開できない。
(まさか――)
という思いに顔が歪みそうになったその瞬間、拷問のようだった馬車の縦揺れが停止した。
「ほい、着いたよ」
その声はまさに新左衛門にとって天使の声のようだった。
気付けばここは見覚え深い池波家、そしてその隣家のバーザムズール家の前だったからだ。
「ありがとう」
そう言い捨て、新左衛門は馬車を飛び出し、彼女の家に駆け込む。
玄関で草履を脱ぎ捨て、廊下を走り、階段を駆け上る。
そして、開けっ放しになっていたクシャトリスの部屋に突入する。
そこで彼の網膜に飛び込んできた景色は、ベッドに横臥するクシャトリスに抱きつき、号泣するラヴィアン・バーザムズールと、その肩に手を起きながら妻を慰めるガルス・バーザムズール。そして親子の頭上を狂ったように飛び回るナマイキの姿だった。
(間に合わなかったのか……おれは)
新左衛門がそう思った瞬間だった。
「あら、今度は新助じゃない。アンタまで一体どうしたっていうの?」
泣きじゃくる母親に抱きつかれ、困惑顔のままクシャトリスが、部屋の入り口で凍りつく新左衛門に言う。
もっともその顔は、ここ数日の昏睡でむくみ、栄養失調によって頬はげっそり痩せこけているが、どうやら自分がどうなっていたのかさえ彼女はまだ認識していないらしい。
「母さん、その、もうわかったから、離してくれない? ちょっと苦しいからさ」
「ああ、うん……ごめんなさいね」
ラヴィアンは謝りながら娘から離れ、ガルスはそこでようやく新左衛門に向き直り、妻子のもとを離れて新左衛門の傍までやってくる。
「君にも心配をかけたね。ありがとう新助くん」
「いったい、何をなさったんです?」
そう新左衛門がかすれた声で聞き返すが、しかしガルスは静かに首を振った。
「それは私にもわからんのだ。この子を目覚めさせたのは私ではなく豊臣公爵閣下だからね」
「殿下が……!?」
「ああ、さきほど見舞いにこられてね。家伝の秘術でこの子を治せるかもしれないと言うものだから、藁にもすがる思いでお任せしたら……ふふ、このとおりさ」
そう言って父は娘を振り返る。
クシャトリスはといえば、泣きながら喜ぶ母親にいまだに困惑しながら父親と新左衛門の方向をチラチラと気にしているようだった。とはいえ父親が発した「豊臣公爵」という言葉に反応しないところを見ると、まだ意識がハッキリしていないのかもしれない。
「もっとも家伝の秘術なればこそという理由で、この部屋から人払いを食ったわけだが、まあその甲斐はあったというものだよ。一体どんな魔法を使ったのか聞きたいものだが」
「殿下は?」
「さきほど帰られたよ。明日にはグワジニアに戻られるとも言っておられた」
「そう……ですか」
そこで新左衛門の表情が微妙に変わったのを、ガルス・バーザムズールは気付かない。もっとも意識不明だった一人娘が四日ぶりに目覚めたばかりという現状であれば、眼前の相手のそんなわずかな表情の変化に気が付かないのは無理もない。
「何にしろ、とりあえずよかった」
そう言って新左衛門は、そこでナマイキを振り返って手招きし、そしてチビ竜を伴って廊下に出る。
「お兄さん、どうしたの? 今ならドサクサまぎれに、お姉さんのほっぺにキスの一つくらいしても怒られないと思うけど」
「馬鹿たれ、するかよそんな真似」
そう言って苦笑するが、そんな彼をまっすぐに見据えながら、ナマイキは、
「そういえば、今は何か怖い目をしているけど、もっと喜んでもいいんじゃない?」
と、言った。さすがにガルスと違い、ナマイキは新左衛門の表情が厳しくなったのを見届けていたらしい。
新左衛門は真顔のまま、幼竜の視線を受け止めると、尋ねた。
「ナマイキ、関白殿下がクシャ子を目覚めさせたというこの事態、お前はどう判断する?」
ナマイキは、しばし瞬きを繰り返し、新左衛門を見返す。
「どうって……お兄さんはお姉さんが起きたのが不満なの?」
「そういうことじゃない。おれには、この一件の顛末があまりにもわけがわからないから、参考までに訊いたまでだ」
「買いかぶってもらっちゃ困るよ。最初から最後までこの件に関わってたお兄さんがわからないことを、ボクがわかるわけないじゃないか」
そう言って口を尖らせるナマイキを見て、さすがに新左衛門もうなずかざるを得ない。
「……たしかにな。だから、これからそれを確認に行く」
「確認?」
「アイツが目覚めたことは嬉しいが、それで一件落着と締めくくるには、おれにはあまりに納得のいかないことが多すぎる。そう言ってるのさ」
「いや、でも確認って?」
「今から殿下に会いに行く。今度の一件、いったい何がどうなったのか、すべて説明してもらう。その上で、今後二度とこういうことが起こらないよう、お頼みする――それだけだ」
そう言うと、新左衛門は部屋の中を覗き込んだ。
あなたはこの四日間ずっと眠ってたのよと娘に語って聞かせる母親と、それを信じられないような顔で聞く娘。
そして、そんな娘に、お前のおかげで父さんの休暇は全部使い切りになってしまったんだぞ、今後はせいぜい親孝行してもらうからなと苦笑いで言う父親。
そこにあったのは親子水入らずの団欒だった。
新左衛門はそれを見届けると、無言で背中を翻し、足音を立てぬように廊下を階段の方へ歩き始める。
「本気なの、お兄さん? 下手したら殺されちゃうよ?」
そう耳元で言うナマイキ。勿論その声に、いつものような人を揶揄する響きはない。
当然であろう。新左衛門がこれから行おうとしていることは旧主への詰問であり尋問なのだ。いや、それだけではない。彼は今度の一件に関して旧主に思い切った諫言をするつもりでいた。そんな真似をすれば、たとえ寛容で知られた秀綱といえど激怒することは間違いなく、彼は確実に殺されてしまうだろう。
が、新左衛門の胸の内の憤りは、もはや自身の死など問題にはしていなかった。
「死ぬことは怖くない。このまま殿下がグワジニアに戻られてしまったら、おそらくこの一件は永遠に闇に葬られてしまうだろう。おれにはそれこそ納得できない」
「綺麗事を言ってる場合じゃないでしょ。本当に死んでもいいの?」
そう言いながら、ナマイキは新左衛門の前に立ちふさがるように飛び回ると、言った。
「お姉さんを悲しませてもいいの?」
新左衛門の足が止まる。
が、それも一瞬だった。彼はナマイキに道を譲るようにして廊下をすれ違うと、階段を下りる。
「ナマイキ、おれは臆病な男だ。武士であることを言い訳にしてなすべきことを迷っていた」
ナマイキにとっては何のことかわからない。新左衛門が今日ここに来る前に職場でどれほどの懊悩を見せていたかなどナマイキにとっては知る由もないし、それに例の辻斬りの犯人を知らないナマイキには、新左衛門の苦悩など推測する余地さえ無いと言ってもいい。だが、それでも彼が何を言いたいのかくらいは、おおよそ見当はつく。
「それは豊臣公爵のことなんだね?」
新左衛門はうなずく。
「結果としてクシャ子は目覚めた。それも関白殿下自らの御手でだ。それはいい。だが、もうこれ以上、忠義という言葉を言い訳として使いたくはない。それはおそらく、武士としては最も見苦しい姿のはずだ」
「それは死ぬ覚悟が出来てるってこと?」
「ああ」
「ねえ、お兄さん……もし、お兄さんが死んだら、今度はお姉さんが黙ってないよ? あの人が本気で暴走したら、もう誰かに斬られなきゃ止まらないよ? そうなったら討手に選ばれるのは間違いなく先生だよ? そこまで考えて言ってるの?」
その言葉で、ふたたび新左衛門の足が止まる。
確かにナマイキの言うことももっともだ。新左衛門にとって己の死は己一人の問題でしかないが、他人にとってもそうであるはずがない。
ことにクシャトリスは間違いなく豊臣公爵家に殴り込みをかけるだろう。そうなってはもはや事態は秘密裏に決着をつけるどころではない。下手をすれば『共和国』内の政治問題の火種になりかねない。
しかし新左衛門は、そうならないための方法を一つだけ知っていた。
「そうなったらナマイキ、お前の魔法で、あいつからおれの記憶を全部消してやってくれ」
そう言って寂しげに笑うと、玄関に腰を下ろし、乱雑に脱ぎ捨てられた草履(ぞうり)を履く。
自分を見る幼竜が呆気にとられているのはわかる。
わかるが、もはやこれだけはどうしても抑えきれないのだ。
今回の一件の説明を聞くと言ったが、新左衛門もそう簡単に秀綱が何もかも話してくれるとは思ってはいない。それよりも彼の胸中の真意は聞くことではなく、言うことにある。
とはいえ旧主が働いたこれまでの凶行を公表する気はない。脅し文句として交渉のネタにする気もなくはないが所詮は脅しだ。本気ではない。だがそれでも、今後一切、辻斬りなどという誰にとっても不幸しか産まない犯罪を重ねるのはやめてくれと、新左衛門は言わずにはおれないのだ。
もはやこれは、武士道や忠義がどうこうのといった話ではない。
新左衛門にとっては意地とさえ言ってもいい。
「わかったよ……ボクも付き合ってあげるよ、仕方ないからさ」
ナマイキはそう呟くと、草履を履き終え、立ち上がった新左衛門の肩にチョコンと、オウムのように止まったのだ。
「仮にも緑竜王の息子が立ち合えば、少なくともその場でお兄さんがあっさり斬られちゃうことはないでしょ。後のことは知らないけどね」
「ナマイキ……」
「勘違いしないで欲しいんだけど、ボクはお兄さんがどうなろうと知ったことじゃない。でもお姉さんたちを悲しませるのも本意じゃない。それだけなんだからね」
「いいのか? お前もまとめて殺されるだけかもしれないぞ?」
「人間風情に不覚を取るようなボクだと思うかい? 竜族を舐めてもらっちゃ困るなあ」
そう言いながら一人と一匹はバーザムズール家から外に出ると、そこには、先ほど新左衛門が乗り付けた辻馬車が待っており、御者席の中年オークが怒りで顔を真っ赤にして、姿を見せた新左衛門に運賃を払えと叫んでいた。
「こりゃ、おあつらえだ」
懐から財布を取り出すと、新左衛門は小判を一枚手渡し、高台寺の住所を告げる。
そこはいわゆるブッ教の寺院であるが、『共和国』各地に存在する豊臣家の菩提寺の一つでもあり、その敷地は広大で、豊臣公爵がジュピトリアムに滞在する際には宿所として利用されるのが慣例になっている。
新左衛門は御者に、そこへ行けと指示したのだ。
もっとも、今度は急げとは言わなかったが。
「そういやナマイキ、お前さっきの念話、絶対わざと勘違いさせるような台詞で締めやがっただろ? お姉さんが~~とか言ってよ」
「あ、憶えてた?」
「憶えてたじゃねえよ! てっきりアイツが死んだかと思ったんだぞバカ野郎!!」
「なんだよ唐突に怒り出して面倒くさい……いいじゃないか生きてたんだから」
「お前のそういう! そういうところがイマイチ信用できないんだよこっちは!!」