外に出ると、雪はすでに止んでいた。
月下に見える町並みは、刺すような寒気と共に綿のような美しい雪化粧に覆われ、これまた幻想的な眺めとしてそこにあった。
しかし、そんな光景を目にしても、もはや新左衛門は詩を作ろうとは思わない。
口を利くのも億劫なほどの怒りが、彼の胸を占めていたからだ。
「それでは、今宵は失礼いたしました」
そう言いながら新左衛門は、腹立ちを顔に出さぬよう懸命に努力しつつ、玄関まで見送りにきてくれた渡辺源太夫に深々と頭を下げる。
弟子としては当然の礼儀ではあるが、そのままちらりと隣を横目で見ると、バーザムズールは同じく師匠に頭を下げるどころか、わずかに黙礼を返しただけで口すら開かない。
もとより道場内では無愛想で知られた女ではあるが、その態度はさすがに新左衛門も、改めて苛立ちを覚えずにはいられなかった。
もっともこのダークエルフ娘の態度の悪さは昨日今日のものではないので、新左衛門もいまさらその非礼を咎める気にもならない。
彼女は門下生としては新左衛門と同じく幼少の頃からの入門で、そういう意味では同期の――幼馴染とさえ呼べる仲であるが、その当時から簡単に他人に頭を下げない女だった。
エルフとは元来非常に礼儀正しいとされる種族ではあり、また新左衛門の知る彼女の両親は温厚で常識的な人格者なのだが、その娘は、彼が心配になるほどに素っ気ない性格だったのだ。
「先生、こんな時間ですが、少し道場をお借りしてよろしいですか?」
そんな彼女が、ようやく口を開いたと思ったら、吐いた言葉がそれだった。
「おい、バーザム……」
さすがに新左衛門も言葉を挟もうとするが、それをさらに源太夫が遮って破顔する。
「おう好きに使え。というより、そなたならそう言うと思っておったわ」
そう言って道場の通用門の鍵をたもとから取り出し、バーザムズールに放り投げる。
「まあ、今夜の話が話じゃったからな。武者震いの一つもしたくなるのは当然じゃろう」
師匠の言葉と、それを聞いて顔色ひとつ変えないバーザムズールを横目で見ながら、新左衛門は(好きにしやがれ)とばかりに荒い鼻息を吐きつつ背を向けた。
が、そんな彼に源太夫は言い放つ。
「どこへ行く気じゃ池波。おまえもバーザムズールの稽古に付き合ってやらんかい」
――あぁ!?
という顔で反射的に振り向くが、源太夫はニヤついた表情で新左衛門を見返し、その視線に、むしろ新左衛門はひるんだ顔を見せる。
「もう夜も更けたし帰れと仰ったのは先生、あなたですよ? こんな時間にバタバタやってたら近所迷惑だと思いますが」
「気にするな、なんなら朝まで一緒におってもええぞ」
「先生、いい加減にしてくれないと怒りますよ」
さすがに眉間にしわを寄せながら言い返すが、源太夫は取り合わぬ顔をして笑う。
「ま、わしも玄関先で弟子に怒られたくはないから冗談はここまでにして、じゃ」
そこで言葉を切って不意に厳しい顔を見せ、言った。
「池波……実はこの一件、わしは嫌な予感がしてならんのじゃ」
「嫌な予感、ですか?」
「あの娘を守ってやれ。それが出来るのはそなただけじゃ」
新左衛門は師匠の意外な言葉に、気を呑まれたように絶句する。
が、次の瞬間、源太夫の表情はふたたび、いつものいたずらっぽい顔に戻った。
「ま、いい加減うまくやれや。お前ら二人、もう古い仲じゃろうが」
その言葉に、新左衛門は慌ててバーザムズールを振り向くが、彼女はすでにこっちに背を向けて、薄く積もった雪に足跡を残して遠ざかりつつあった。
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渡辺家の屋敷と道場は背中合わせになっており、屋敷の正門から出て塀伝いに半周したところに道場「練武館」の門はある。
開きっぱなしになっていた通用門をくぐると、すでに道場内に火は灯されているらしく光が漏れ出ており、敷石に揃えられているエルフ種独特の革靴が見えた。
そして、それは――新左衛門に幼少の頃の、彼女に伴う記憶を回顧させた。
風や水気を完全に遮断してしまうその靴は、新左衛門たちが日常的に履く草履(ぞうり)に比べれば、はるかに冬場に適した履物であったが、しかし通気性が悪いために悪臭や水虫の原因になるという欠点があり、新左衛門ら武士階級に属する人間たちはあまり好まない。寒ければ厚手の足袋(たび)を履けば問題なかろうという理屈からだ。
もっとも、大陸でも南国に位置する『共和国』の平均気温は年中通して温暖で、そんな足袋すら所持していない武士たちすら多いほどだ。
しかし新左衛門は、普段履くこともままならぬその「靴」に言い知れぬ憧れを抱いていた時期があった。
むろん現在ではない。幼少の頃の話だ。
その当時、新助という幼名で呼ばれていた彼にとって、同年代の遊び友達は隣に住む褐色の肌の美少女しかおらず、ほぼ毎日のように彼女の家に押しかけ、そこに住むダークエルフの夫妻もそんな娘の友達を歓迎した。
もちろん当時のクシャトリス・バーザムズールも、やはり無愛想で無口で素っ気ない性格だったが、それでもまだ今と比べればかなりマシだったと言える。少なくとも彼の前では、感情の赴くままに泣いて笑う、年齢相応な幼女だったからだ。
だから新左衛門――当時の新助は、その興味のままに彼女にその靴をくれと頼み、クシャトリスは文句も言わずに自分の予備の靴を新助に与えた。
彼は自身の体格の成長によってその靴が履けなくなるまで愛用し、二人はともに泥まみれになるまで近所を駆けずり回ったものだった。
(もう昔の話だ)
新左衛門は顔を歪める。
思い出というものは、それが甘いほどに、対比する現在の苦味が表面化するものだ。
ともに道場に通うようになって、二人の関係は変わった。
もとより天稟があったのか、新助はメキメキと腕を上げ、元服して「新左衛門」を名乗るようになった頃には、道場内はおろかジュピトリアム市でもほとんど負け知らずと言っていいほどに強くなった。
しかし、そんな彼にして、どうしても敵わぬ目の上のたんこぶがいる。
クシャトリス・バーザムズール。
彼女はまさに天才だった。
道場主の渡辺源太夫をして「剣を振るうために生まれてきた女」と言わしめたクシャトリスは、昨年度、そして一昨年度と大統領杯――出場者の種族・武器を問わぬ『共和国』で最も権威のある武道会――で連覇を果たし、いまや国内最強とさえ評判される剣士にまで成長を遂げたのだ。
しかし彼女は、強くなるほどに驕るどころか、さらに寡黙に、陰気に、他者を遠ざける空気を発散するようになっていき、反発するように新左衛門もクシャトリスから距離を取るようになっていった。
(何故おれが、そんなアイツと……)
いかに「上」の命令とはいえ、あんまりだ――新左衛門としてはそう思わざるを得ない。
草履を脱いで道場に入り、足袋越しに床板の冷たさを足裏に感じながら、険しくなる表情を懸命に抑え、無表情に徹する。
クシャトリスは外套を道場の隅に無造作に脱ぎ捨て、スカートのまま床に座り込んで、これまたエルフ独特の股下まで伸びるタイツのような長い靴下を脱いでいるところだった。
見る角度によっては彼女のスカートの奥に下着が覗けたかも知れないが、新左衛門は一瞬でもそんなことを考えた自分を恥じるように目を閉じて頭を振り、雑念を捨てる。
上着を脱いで衣紋掛けに吊るし、刀の下げ緒でたすきをかけ、壁にかかっている十数本の木刀から一本選び、二三度素振りをして感触を確かめる。
(…………うっとうしいな)
むろん新左衛門も気付いている。
さっきから自分の背中に粘りつくような、何か物言いたげな空気が貼り付いているのを。
敢えて無視してやろうかとも思ったが、しかし結局、新左衛門は振り返った。赤い瞳をこっちに向ける、ダークエルフ娘を。
「何か用か」
「別に」
「面倒くさいな。言いたいことがあるなら言えばよかろう」
「……言っていいの?」
「あ?」
「じゃあ聞くけど、討手にあたしが選ばれたのが、そんなに不満?」
新左衛門は答えない。答えられない。
「あたしが指名されたのは、あなたよりあたしの方が強かったから。あなたが指名されなかったのは、あなたがあたしより弱かったから。それだけのこと」
「…………」
ぐうの音も出ないとはこの事だろう。
新左衛門は屈辱で憤死しそうになりながらも、しかし反論すら出来ずに唇を噛むしかない。この女は、大統領杯の二連覇を果たしたという実績もさることながら、道場内でもまさしく敵なしといった状態で、ここ数年は新左衛門でさえクシャトリスから稽古で一本を取ったこともない。
何より、師匠の渡辺源太夫でさえ、道場内の席次で彼女を首席とし、新左衛門を次席につけた。それが師匠から見た厳然たる評価なのだ。
「……だから、どうしたと言うんだ」
――そう。だからといって、現実に屈する気は彼にもない。
「確かに今のおれは貴様に及ばぬかもしれん。だが……だが……断じてこのままでは終わらん……いずれ必ず貴様に勝ってみせる! それだけのことだッッ!!」
新左衛門の怒りに満ちた眼光を向けられながらも、しかしクシャトリスは目をそらさない。
むしろ静かな、すべてを見抜くような怜悧な目を彼に向けてくる。
一切の感情を伺わせない、何かを観察するような目だ。
普段の新左衛門なら、その冷静そのものな視線に耐えられず、逆に顔を背けてしまったかもしれない。
しかし、今の彼は違う。
胸に怒りが渦巻いていた。
幼馴染の、あまりに直接的すぎる言葉に対して――ではない。
彼女の強さに追いつけない、自分自身の不甲斐なさに対して、だ。
ならばこそエルフ娘の、心を見透かすような小賢しい目を、彼は全力で睨み返す。
「そう……ならいいよ」
そう言い、クシャトリスは目を閉じ、うつむいた。
ただうつむいただけではない。新左衛門には見えた。
瞑目した瞬間、彼女は確かに、何かに安心するように笑ったのだ。
その微笑が何に対してのものだったのかは、新左衛門にもわからない。
だが、数年ぶりに見たこの幼馴染の染み入るような笑顔に、彼は何も言えなくなってしまった。
ではまた二日後に