申し訳ないです。
(まだか……)
新左衛門は、半ばうんざりしながら、霊安室の壁にもたれ、クシャトリスを待っている。
そして、クシャトリスといえば、新左衛門を待たせていることに気付いていないかのような熱心さで、そこに安置されている四人の獣人の斬殺死体を飽くことなく観察している。
すでにこの本営庁舎内の霊安室に案内されて、四半刻以上の時間が過ぎているだろう。
「部屋の外にいる。終わったら出てこい」
そう言うと、新左衛門は部屋の扉を開けた。
むろん彼女は、その言葉に返事もしなければ、振り向きさえしない。
(まあいい……)
苛立ちを抑えつつ、そのまま新左衛門は部屋を出て、扉を閉めた。
池波新左衛門は、職業人としては市庁の官吏であるため、市の領内にある、この軍本営に関しても多少の顔は利く。
ここは、名義的にはジュピトリアム国境警備軍の「本営」であるとはいえ、軍そのものが常駐するのはここではなく要塞化された山脈内の山城や山砦なので、いわゆる普通の意味での軍事拠点ではなく、交代要員の詰所もしくは補給物資集積基地と表現した方が事実に近い。
そのためか、この庁舎は敷地の広さに比べてずっと小ぶりで、定期的に訪れる大量の国境軍交代要員を除けば、事務や経理といった内勤者たちが三十名ほどがいるだけの施設でしかない。
かつて新左衛門は、市庁の役目で何度となくここに来訪したことがあるが、ここには常にどこか寂しい、うらぶれた空気さえ漂っていたほどだ。
が、今日に関して言えば、まるで雰囲気が違っていた。
人員交代期ではないにもかかわらず本営の庁舎内はごった返しており、以前が嘘のような張り詰めた冷たい空気が支配し、廊下ですれ違う者たちも、皆どこか殺気立っている。
だからこそだろう。門番には市長の書状を見せることで速やかに入場できたが、しかしそこから先はそう簡単にはいかなかった。
不機嫌そうな軍人どもに誰何され、身分と要件を説明すればさらに鋭い視線にさらされ、声を荒げられ、しかもクシャトリス生来の無愛想さが、さらに彼らの不機嫌に油を注ぎ、新左衛門が少なからずここで顔の利く立場でなかったら、自分たちは死体の検分どころか、ここから追い出されていたかもしれなかった。
(まあ無理もないか)
新左衛門もそう思う。
なにしろ彼らは、つい昨日に同僚を無残に殺され、その犯人に手出しすることを完全に禁じられている。
この『共和国』では文民統制の原則が軍法の根底に存在するため、軍に籍を置く者ならば、市長の命令には絶対に逆らえないのだ。
しかも、その「犯人」は逃げ隠れするどころか、自分たちの目と鼻の先の旅館で悠々と酒と女を楽しんでいるとなれば、怒りで腹が煮えそうになっても当然だ。
ましてや、その「犯人」に唯一手出しを許されている自分たちが、いまだにこんなところをウロウロしているとなれば、周囲からの殺気混じりの視線を向けられても文句は言えない。
立場が逆であったなら、やはり新左衛門も、その討手とやらを睨みつけずにはいられないだろうからだ。
クシャトリスの言葉に反論できない形で、いわば仕方なしにここまでついてきた新左衛門ではあるが、それでも、この四体の被害者の遺体と対面して、その傷を目にした時、
(なるほど……)
と、納得したのは事実だ。
一騎打ちでオークの頭蓋を唐竹割りにし、残るワータイガー三人を、あるいは袈裟斬り、あるいは首刎ね、あるいは心臓突きの一撃づつで仕留めた、その斬撃痕は確かに凄まじいものだったと言える。
改めて自分の眼で確認したその太刀筋は、確かに新左衛門の予想以上のものであり、ズサの容易ならぬ実力を、改めて認めざるを得ない――そう思ったのは間違いない。
と、同時に、クシャトリスが言いたかったのは、こういうことなのだろうかと理解できた気にもなれた。
が……それでもやはり、ズサ・ハンマガルスの強さが、クシャトリス・バーザムズールを上回るとは思えない。
身内贔屓ではない。
客観的視点からの結論だ。
認めるのも悔しい話だが、それでもあの幼馴染の強さは、師匠の渡辺源太夫を除けば、自分こそが誰よりも深く理解しているという自負が新左衛門にはあった。なればこそ、彼には自分の下した結論に対しての自信がある。
が、彼女は今になってもまだ、そういう「結論」を出さない。
それが何故なのか、新左衛門にはわからない。
同じ死体を検分しながらも、クシャトリスには見えたが、自分には見えていないものがある、ということなのか。
(それが、おれとあの女との差だというのか……)
そう考えるしかない現実が、彼の背中をチクチクと刺激する。
かといって、もう一度霊安室に入り、クシャトリス本人に、新左衛門自身に見えていない何を見ているのか――などと訊けるわけもない。
結局、彼は大きな溜息とともに、廊下の壁にもたれて、彼女の邪魔をしないよう黙って待つしかなかった。
「いっ、池波さん、大変ですッッ!!」
そう叫びながら、一人のリザードマンの青年が、霊安室前の廊下に駆け込んできたのは、その直後だった。
彼の顔面は光沢のあるウロコに包まれているため表情まではよくわからないが、その態度から、彼がひどく狼狽していることくらいはわかる。
「どうしたトムリャットくん、そんなに慌てて?」
むろん新左衛門は、このトムリャットという男を知っている。この本営の補給物資の管理担当の一人で、市庁の役人である新左衛門とは、互いに顔を合わせれば軽口くらいは叩く仲だったからだ。
「我が軍の者が数名、辞表を置いて姿を消しました!! どうやら……ズサ・ハンマガルスの元に向かったようですッッ!!」
」」」」」」」」」」」」」」」」
道を塞ぐ人だかりにをかき分け、旅館の前の通りに駆けつけたとき、新左衛門の眼前に転がっていたのは、無残に斬り殺された二つの死骸。
「…………ッッ!!!」
新左衛門は無意識に息を飲んだ。
右手を落とされ、悔しげな表情もそのままに、首を切り落とされたエルフ種の中年男性。
そして、どこをどう斬られたのか傷口は見えないが、地面に突っ伏したまま微動だにせず、大量の血をこんこんと流し続ける黒豹頭の――ワージャガーが一人。
そして――現在進行形で、ズサ・ハンマガルスとおぼしき全身甲冑の男と、道の真ん中で剣を構えてにらみ合うラミア種の女剣士。
ズサは面鎧を併用した鉄仮面のごとき兜をかぶっているため、その表情まではわからない。
一方、中段の構えからピクリとも動かないラミアは――しかし誰が見ても彼女が追い詰められていることは、剣の素人でもその表情を見ればわかる。
それほどまでに彼女の顔には明白な、恐怖と、焦燥と、後悔が浮かんでいたからだ。
「……あんた……いったい何者なの……ッッ!?」
「ただの人間だ」
その瞬間、ズサの構える両刃の長剣が動いた。
目にも止まらぬ速度で籠手を打つ――と見せかけたその剣は、とっさに鍔元を立てたラミアの半月刀の剣先をあっさり打ち払い、一瞬ではあるが、ラミアの防御は隙だらけになってしまう。
「――死ね」
彼女の顔面は、そのまま眉間から後頭部までズサの剣に完全に貫通され、無残すぎる死体がまたもや地面に転がる――はずだった。
もしも堪えきれずに新左衛門が小柄を投げなかったならば、だ。
その小柄は、ズサの兜に刺さりもせずハネ返されたが、その剣先にわずかながらも影響を与えたのだろう。
ラミアはかろうじてズサの突きを身をひねって躱し、代わりに斬り飛ばされた片耳と、その傷口から青い血をまき散らしながら、なんとか間合いの外に後退する。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっっ!!」
荒い息を漏らしながら、ひきつった表情とともにまだ剣を構えるラミア。
そんな彼女をかばうように前に出る新左衛門。
背後のラミアからは「え……?」という声が漏れたのが聞こえたが、もはや新左衛門に彼女を気遣う余裕は残っていなかった。
なぜなら、ズサ・ハンマガルスは突きの残身から剣を下ろすと、そのまま真っ直ぐ、決闘の乱入者に視線を向けたからだ。
「いま邪魔したのはおまえか」
新左衛門は答えない。
いや、言葉よりも早く、肉体がその問いに反応していたというべきか。
彼は自ら意識せぬままに抜刀し、その佩刀・甲州光政二尺三寸を構えていたからだ。
が、剣を抜いた新たな闖入者をみても、ズサのどこか虚無的な口調は変わらない。
「サムライ……ニホン人か」
「いかにも、拙者は池波新左衛門正春」
「なぜ邪魔をする」
「すでに勝負はついている。それとも戦意を失った女を斬るのが『帝国』の騎士道か」
「いずれかの死を以て初めて決着となすのが一騎打ちというものだ。それは貴様も理解していようが」
そう言うと、ズサは視線だけをふたたび彼の背後にいるラミアに向け――そして新左衛門の背中は、彼女が反射的に息を呑んだのを聞き取っていた。
おそらく、いま彼女の表情には、露骨なまでの怯えが浮かんでいることであろう。
(無理もない……)
新左衛門は――彼らしくもないが――このラミアに同情していた。
軍に辞表を叩きつけてここに居るということは、彼女にしてもおそらく自分の腕に相当の自信があったのだろう。それがこのザマかよと責めるのは簡単だ。
しかし、事態はそう簡単ではない。
剣を以て対峙し、新左衛門はまさしく自分が、この男に対して何も理解していなかった事実を思い知っていた。
獣人たちを一蹴したという話は聞いた。
その死体を直接おのれの眼で見、その剣筋を確認した。
それでこの男の実力のほどは理解した気になっていた。
――が、違う!
相対して初めて理解できることもある。
ズサ・ハンマガルスの放つ剣気は、もはや「妖気」と呼ぶにふさわしいほどの禍々しさに彩られている。こんな剣気にまともにさらされては、確かに現役軍人の獣人たちといえども気圧されずにはいられないだろう。
己の「気」で相手の戦意をくじき、その動きを封じる。
それは武芸の極意の一つとさえ言える。
戦いとは、しょせんパワーやスピード、テクニックだけが勝敗を決めるのではない。それらを含めた心技体――総合力で相手を上回った者こそが勝者となるのであり、それは武を学ぶ者ならば、誰もが知る常識だ。
死体に残された太刀筋だけを見ても、新左衛門はこの男が自分より実力が上だとは思わなかった。せいぜい五分五分といったところだと判断していた。
が、この男がここまで相手を圧する剣気を放てるのなら、池波新左衛門とズサ・ハンマガルス――勝負の帰趨はまさに明白と言うしかない。面鎧の奥の眼窩から届くこの男の眼光を前に、すでに新左衛門の肉体は、まるで蛇に睨まれたカエルのように萎縮しつつあったのだから。
むろん闘志までが完全に萎え切ったわけではない。
彼は、自身の心を必死に掻き立て、煽り立て、心の火を維持しようと懸命になっていた。
しかし、事ここまで及べば、新左衛門としても結論を下すしかない。
(この男……おれよりも強い……)
剣を交えれば、おそらく負ける――胸を押し潰されそうな敗北感にまみれながらも、しかし、新左衛門は不思議と屈辱を感じなかった。
いまや新左衛門は、眼前にいる全身甲冑の妖剣士が、確実に自分より「格上」の存在だと納得していたからだ。強者と弱者が戦えば、弱者が死ぬのは当然のことだ。そこに疑問を挟む余地はない。
が、敢えて言うなら……この男に対する一抹の違和感だけがあった。
(こいつが本当に、旅館のテラスで女をはべらせて酒を飲んでいた、あの下品な白人野郎なのか)
まるで別人だ――新左衛門は、そう思わずにはいられない。
しかし、所詮はそれだけのことだ。剣を抜く前と、抜いた後で、まるで別人格のように豹変する剣士など、珍しくもない。ない――はずなのだが、
(だが、こいつは何かが違う……)
という違和感が、どうしても拭えない。
が――そんな雑念は一気に消し飛んだ。
ズサ・ハンマガルスが、新左衛門に対して軽く頷いたからだ。
「よかろう。ならば、貴様から先に死ね」
ではまた二日後に。