誇り高きメジロよ 作:マイケルルマイケ
なんだか、体が軽いような気がする。
体を起こし立ち上がると、その感覚は更に顕著に感じられた。体中がスッキリしていて、何より脚の調子がいい。ココ最近停滞気味だったのが、汗でもかいて改善された?しかし季節は涼しい風の吹く秋。まあ、体が軽くなって損をすることはないのだ。そうだ、今日くらいは、何も気にせずスイーツを食べてしまいましょう!なんて考えながら布団をたたむ。
同室の彼女は既におらず、時計だけを気にし、余裕を持って支度をする。ヘアブラシが中々見つからなかったり、壁にかけた写真が消えていたり、と違和感は覚えつつも、どうせあの子のイタズラか何かだろうと気にせず進めていった。まあ、大したことではない。一通りの支度を終え鏡でチェックをする。
うん、体中どこにも問題はない。
体中どこにも…問題…ない?
もんだいない…
もん、だい…な、な……
だ、誰ですのこれ?
「あ、マックイーン。おはよう。今日は少しゆっくりなんだ─────」
「ら、ライアン!!おはようございます!!あっ、あの、私なんだかいろいろ変わってません!?特に顔のラインとか、私こんな感じでしたか!?」
お行儀が悪いとは思いながらも、自分の変容に対する動揺の方が大きくつい大声を出してしまった。本日初めて出会えた知り合いのライアンは、混乱しつつも答えてくれる。
「そ、そんなことないと思うけど…あぁ、でも。天皇賞・春にむけてトレーニング量増やしてたよね?その影響じゃないかな」
「天皇賞、春…?」
食堂だからか、好奇の視線が集まってくる。ライアンに申し訳ないのでとりあえず部屋に戻り、今の状況を確認してみることにした。
「あれ、マックイーンさん…だよね?どうしたんだろう。あんな大きな声出すの、初めて見たかも」
「ねー」
日々のトレーニングの感想などを書き連ねたノートがあるはずだ。机の上の本立てに置いていたはずだったが見当たらない。おかしい。まさかこれもあの子が?とも考えたが、よくよく考えるとあの子がしたことにしては迫力がないし、ネタばらしも遅すぎる。もっと、根本的に何かが違う。
机の周りを一通り探し終え、まさかと思いながら鍵付きの引き出しを開けた。鍵の隠し場所は同じだった。
「…トレーニングノート。どうして、ここに…」
友人たちからいただいたプレゼントやアルバムをしまっていたはずの引き出しには、トレーニングノートだけが入っていた。入学から一年に一冊消費していたはずなのに、一番上のものには3の文字。間違いなく、私の字。
恐る恐る、3号を開いてみる。
〇月〇日
本日のトレーニング
・早朝ランニング:〇km
・プール:〇〇回
・ジム:───────
食事
・にんじん:───
・鶏肉:───
・──────
・──────
早朝ランニングにて息切れ有り。ベストタイムより1.02遅い。メジロのウマ娘としての覚悟が足りていない。
反省点:──────
───────
〇月◎日
本日のトレーニング
・────────
・──────
ベストタイム更新するもレコードには程遠い。メジロを背負う者として、目指すべきはただ唯一の勝利だけ。
4月28日
果たしてみせた。メジロ家の悲願を、私の使命を。誇り高きメジロの名を、守ることができた。
あぁ、私は────────
しかし────────────
メジロのウマ娘として
メジロの誇りを持ち
メジロの名に恥じない
この字は私の字だ。間違いない。けれど、この内容はなんだ。
メジロ、メジロ、メジロ。私は確かに、メジロのウマ娘として生を受けたことを誇りに思っている。天皇賞・春二連覇を達成したことはメジロマックイーンとして誇れることだとも思っている。
それにしても、これは。
次のページをめくろうとした時、背後から音が聞こえてきた。
「…おや、マックイーンさん。まだいらっしゃったのですね」
「あ…イクノさん…えぇ、少し気になることがありまして」
「そうですか。私は忘れ物を取りに来ただけですので、これで」
「えぇ。いってらっしゃいませ」
動きを止め、何か言いたそうにこちらを見つめたイクノさんは、結局そのまま部屋を出た。そろそろ授業が始まる時間だ。私も教室へ向かわないといけない。
自分が三年前に通っていた教室へと。
昨日まで落ち葉で赤く色づいていたはずなのに、ほのかな桜色に溢れた道。たづなさんはお変わりないようだが、私を見ると頭を下げ逃げるように散っていく知り合い達。
何より、あまりにも軽いこの脚。
私は今、私ではないメジロマックイーンの中にいるのだ。
ありえない話だが、そうでないと説明がつかない。
…懐かしい。彼女は昨年、ご家族の転勤に伴って地方の学園へ転任なさってしまったのに。溌剌とした話し方に合った性格の方で、私も相談にのってもらったことがある。あぁ、ここは本当に過去なのだ。思い知らされる。
申し訳ないとは思うが、一度聞いた事のある授業だ。姿勢をただし話は聞きつつも、この異様な状況について考えることに時間を費やせてもらった。
まず第一に、今は天皇賞・春に初めて挑んだ年の春であること。
トレーニングノートやライアンの発言、そして咲き誇る桜からして間違いないだろう。
次に、この体は私であって私ではないメジロマックイーンであること。
交友関係、意識の持ち方、そしてなにより顔つき。似ている点ももちろんあるが、この三つは特に私と異なっている。特に顔つき!私こんな鋭い表情も出来たのだ、と、先程お手洗いで一人感心していた。
…交友関係については、割と心にくるものがあった。知り合いだったはずの方と目が合うと、ギョッとした表情で目をそらされる。何も言葉を交わさずに、ただ横を通り過ぎていく。中には私を睨むように見つめてくる方もいた。
この私がどのような考えで生きてきたのか、ズバリ言い当てることはできない。しかし、トレーニングノートを見るに、相当張り詰めて生きてきたのだろう。メジロの名が、重責になってしまうほどに。
チャイムの音が響き、午前の授業は終わった。昼食をとるために食堂に向かう途中、今朝会ったライアンを見かけた。
「ごきげんよう、ライアン。今朝は突然騒いで申し訳ありませんでした。今から昼食ですか?もしよかったらご一緒しても?」
「え…?あ…いや、気にしてないよマックイーン。うん、一緒に昼食ね!何か話でもあるのかな?」
「…いえ、ただ一緒に食事を、と思っただけです」
「! め、ずらしいね!あ、いや!そういうの、なんだか久しぶりだったから。あはは、そうだよね!そういうことも、あるよね!」
肩を揺らして笑うライアンに、私もただ微笑み返すことしかできなかった。
今の私が私でないように、私の前にいるライアンも、私が時を共にしてきたライアンでないことは分かっている。が、どうしても比べてしまう。
あぁ、メジロマックイーン。あなたはどういう風に生きてきたの。どうして私とここまで違うの。何が、私とあなたにこんな違いを生んでしまったの。
本当は、話したいことがあった。信頼できるライアンに、相談しようと思っていた。ライアンならきっと、信じて元に戻る方法を探してくれると。でも、あんな風に。あんな、怯えたような顔をされては、私は何もできない。信じてほしいのだ。信じざるをえないから、だなんて悲しすぎるではないか。
私がトレーを運び席に戻ると、先に座っていたライアンは驚いたような顔をしていた。朝食をとっていない分少し多めによそってあるが、そんな顔をされるほどの量ではないはず…もしや、この私は大食らいだったりするのだろうか!それなら少し遠慮した量も足してみたり───
「マックイーン、食事制限やめたんだ!うん、いいと思う。甘いもの、好きだったもんね」
「っ、えぇ!やはり我慢のし過ぎはよくないと思いまして。一区切りついた今、食生活を見直してみたのです」
そ、そっちですのね…この私は、中々忍耐強い方のようで。あぁ、確かにトレーニングノートに、甘味の類は果物しかのっていなかった。それでこのフェイスライン。納得ですわ。
ライアンと向き合い、静かに食事を口に運ぶ。騒がしかった食堂も、何故か私がお箸を手にとってから、徐々に静かになっていた。
正直、非常に気まずい。
しかし、話そうと思っていた内容は潰れてしまったし、雑談できるほど今の私に情報はない。ボロが出て不信感を募らされるだけだ。
結局、二人で(食堂にいる全員で?)静かにもぐもぐとし、残すところはデザートのプリンだけとなってしまった。
食堂の方々が丹精込めて作ってくださったカラメルプリン。市販のものに比べると柔らかく、卵の優しい味があたたかくて私は好んで食べていた。この私は、食べたことはあるのだろうか。
一口、口に運ぶ。
「─────おいしい」
ここに来るまで食べたことなんてないはずなのに、食べるといつも懐かしい気持ちになる。幼い頃、おばあ様がつくってくれたお汁粉のように、優しい温かみ。
そういえば、スピカの皆さんと一緒に、こうして昼食を食べたこともありましたっけ。
一口、また一口と食べ進めていく度に、スピカの一員として過ごした日々が蘇る。騒々しい方たちだと思っていたけれど、彼女たちがいたから、私は三度の天皇賞・春を走りきることができた。
それに─────
「───マックイーン?大丈夫?」
普段よりも眉を下げたライアンが、私の顔を見つめていた。食堂は何故か先程よりもしんとしていて、視線が集まっているように感じた。
「え、えぇ。特に何もありませんが…」
「本当に?なんだか、んー、なんていうんだろうな…ちょっとだけ、寂しそうな…どこかへ…ううん。センチメンタルそうな顔をしていたからさ」
サッと目を逸らしたライアンは、無理やりに口角を上げあたふたと話す。そんな変な顔をしていたのだろうか。
「そうですわね。このプリンがあまりにもおいしいので、少しうっとりとしていただけですわ。ライアンも、お一つ召し上がってみてはいかがですか?とても美味しいですわよ」
「……そっ、か…うん、それならいいんだけど。そうだね!一つだけ、食べちゃおうかな」
ライアンが席を立ち、今度は私が一人で座ることになった。こちらを見ていたらしい一つ下の後輩と目が合う。慌てているようだが、試しに優しく微笑んでみた。顔を真っ赤にして、逸らされる。横に目を逸らしても、後ろを向いてみても、サッと顔を伏せられる。
どうやら、この私の日頃の行いは、相当褒められたものではないみたいだ。
戻ってきたライアンと軽く、使い古された定型文まみれの雑談をし、あとはお変わりないであろうおばあ様の話などで時間を潰した。
「あはは!マックイーンとこうしておばあ様の話をするなんて、久しぶりだね!昔に戻ったみたいだよ」
「えぇ、そうですわね」
薄々感じとってはいたが、やはりライアンとの交流も少なかったようだ。優しいライアンは、私が微笑むたびに肩の力を抜いて向き合ってくれる。
「…本当に、昔のマックイーンに戻ったみたい」
「ん、ごめんなさい。何か言いましたか?」
「ううん!この前の天皇賞・春、おめでとうってちゃんと言えてなかったなぁって」
唐突な話の転換に少し戸惑ったが、当たり障りのない返事をした。
「やっぱりマックイーンはすごいよ。速かった。間違いなく、あの盾はマックイーンに相応しいものだよ」
「ありがとうございます、ライアン。えぇ、天皇賞・春は、私の…メジロのウマ娘としての使命でしたから」
「───そっか。うん、そうだね」
やりとりの後すぐ、何となく流れで一緒に食器を片付けた。私が美味しかったですわ、と食堂のおばさまに声をかけると、少し目を丸くしながらも、にっこりと笑い返してくれた。
会話のないまま、ただどこへ向かうわけでもなく廊下を歩く。
「それじゃぁ、あたしはこれから実技だから!」
「えぇ、ではまた」
随分と解れた笑顔で駆け出したと思ったら、急に足を止めてこちらに振り返った。
「ま、マックイーン!今度の宝塚記念では、きっと…きっとマックイーンに勝ってみせるから!!」
絞り出したような必死な声。きっとこれは、私でなくこの私に向けられた言葉。望むところだ、勝利は譲らない───と返そうと思っていたのに、口から零れたのは別の言葉だった。
「────えぇ。待っていますわ」
そう。これがあなたの気持ちなのね、メジロマックイーン。
無事にレース座学の授業を終えグラウンドへ向かったが、そういえば肝心のトレーナーの顔を知らない。スピカのトレーナーではないだろうし、それなら他のチームの────
「あのっ、ま、マックイーン…さん」
「あら、ごきげんよう。何かご用ですか?」
ジャージ姿で歩き回っていると、同学年の学友たちに声をかけられた。何やら青白い顔で。
「っ、その!」
「はい」
「私たちのチームから、抜けて…くれませんか」
「まぁ…それはまた突然ですわね。どうしてですか?」
動揺しないように、今日一日で得た私の中のメジロマックイーン像を演じながら微笑む。
「っそんな白々しい!あなたのせいでトレーナーが周りのトレーナーから非難を受けているって分かっていますよね!そんなにあなたの思い描くトレーニングがしたいのなら、一人でやってください!私たちを、トレーナーを、巻きこまないで!!」
最初から最後まで目を合わせずに伝えられた言葉だったが、嘘や偽りは感じられなかった。ここまで経験したことのない出来事だと、まるで映画でも見ているような俯瞰感を覚える。いい加減、この私の尻拭いも疲れてきた。
「…分かりました。脱退届をいただいても?」
「へっ…あ、はい…どうぞ」
自分の名前を書き込んでいる間、元チームメンバーは誰一人として言葉を発さなかった。ただ、腫れ物が消えた顔ではなく、苦虫を噛み潰したような顔だけをしていた。
「これでよろしいでしょうか?ごめんなさい、提出はあなたにお願いしますわ」
「…はい、確かに受け取りました」
「今更なんだ、と思うかもしれませんが…ご迷惑をおかけしました。皆さんのご健勝、お祈り申し上げます。それでは」
謝罪もすべきかと思ったが、それは所詮ハリボテだ。いつかこの私があるべき姿に戻った時、本人にしてもらおう。思ったことを言い切り、頭を下げその場を離れようと踵をかえす。
「あな、たに…憧れていました」
「───へ?」
チームの中で唯一、年下のウマ娘からの声だった。
「…そう。ありがとうございます。では」
ごちゃごちゃと複雑な気持ちになる。それでも決して振り返らず、足を進めた。その後、チームの───元チームのメンバーから、声をかけられることはなかった。
いろいろと迷惑はかけられたが、一応他人の(?)体なのだし、一通りのトレーニングはこなしていく。走っている間は余計なことを考えずに済むし、何よりやはり、私は走ることが好きなのだ。懐かしい爽快感に浸る。
日が暮れ少し早めにトレーニングを切り上げると、どこから噂を聞きつけたのか、数名のトレーナーに声をかけられた。しかし、そもそもこんな状況だし、心に響くものもなかったので頷くことはなかった。
シャワーを済ませ、夕食も済ませた。私が現れるとどこも空気が静まり返るのがひっかかったが、もう気にするだけ無駄だ。部屋に戻り、ストレッチとトレーニングノートへの書き込みも終わった。今日はもう、いろいろと非現実的で疲れた。
まだまだ就寝には早い時間だが、ベッドに入り目を瞑る。今日一日を反芻し明日への不安と戦っていると、ふっと電気が消えた。
「…イクノさん?まだ読書中でしたよね。私は明るくても大丈夫ですから、電気はつけたままで構いませんわ」
「! そう、ですか…感謝します」
カチリ、とまた電気がつく。
さて。
あぁ、今思えば本当に朝のアレは悪手だった。普段の私ですらあんな態度をとったことはないのだから、この私なら尚更だろう。いやでもそもそもこの今の状況で冷静でいられる方が、いや今の私は冷静ですわね。我ながら感心してしまいま───
「マックイーンさん、変わりましたね」
「ん゛んっ!と、突然ですわねイクノさん」
「そうでしょうか。それならばお互い様、というものです」
体を起こすと、イクノさんは真っ直ぐと私の目を見つめた。久しぶりだ、こうして以前と変わらない態度をとられるのは。
「マックイーンさん」
「はい、なんでしょうイクノさん」
「マックイーンさんは、私のことをイクノディクタスさんと呼びます」
「…そ、そうですわねイクノ、ディクタスさん」
しまった。
「もしや、あなたの中に別の誰かが入る、なんて頓珍漢なことでも起こっているのでしょうか」
「ごほっ、ごほっ!なな、何を!!そ、そんな奇想天外な、あ、あわわわわ」
「落ち着いてください、ジョークです」
むせながら彼女を軽く睨みつけると、以前の変わらない笑みを向けられた。
「…まさか、本当だとは。朝から違和感は覚えていましたが、軽く貶されて終わりだと思っていました」
「まだ、認めたわけでは」
「この状況でそれは無理がありますよ、マックイーンさん。私のことはイクノで構いません」
「…ありがとうございます」
こちらに来て軽く背中をさすってくれたイクノさんは、爆弾発言を放置してまた読書に戻った。深く聞かないでいてくれるのは、正直ありがたい。今口を開くと、いろんなものが決壊してしまいそうだったから。
「おやすみなさい、マックイーンさん」
「…おやすみなさい、イクノさん」
あぁ、今日は本当に疲れた。
「あなたは、何故走るのですか」
誰かが私に話しかける。嫌という程聞いてきた声。
「私にその能力があり、そしてなにより私は、誇り高きメジロのウマ娘ですから」
「でも…メジロの使命を果しても、その先には何もないのです。何も、私の前には何もないの」
空っぽの声。目の前の彼女はきっと空虚なのだ。
「私の…言葉不足でしたね。走る理由はたくさんありますわ。ライバルと共に競えること、心を通わせたチームメイトと成長していけること、自分が新たな一歩を踏み出すようになれること…その全てが私の走る理由です」
「私にはそのどれもないの。ライバルも、チームメイトと呼べる存在も、一歩を踏み出す理由も」
「それはあなたが、まだ見つけていないだけです。ほら、一歩を踏み出す理由が見つかりましたわね」
いじいじを言い訳を並べられる。顔を伏せたままの彼女は、静かにすすり泣いていた。
「できない…できないわ…今まで私の走る理由はメジロの使命を果たすことだけだったのに!気づいてしまったの…その先にも、結局何もないと…ライバルもチームメイトも、作ることなんてできないの…だって、みんな離れていく…私はいつも、一人で…」
「できます。私にできたんですから」
「できない!私とあなたは違うって、今日一日で分かったでしょう!?私はライアンとあんな風に話せない!チームメンバーに追い出されて冷静でいられることも、冗談を言われることも…私にはできないの…」
泣き方までそっくりだった。泣きなれていない、嗚咽を繰り返して、苦しくてたまらないという泣き方。高貴さも、誇りもない。
「誰も、誰も私についてきてくれなかった!私が走った後、振り返るとライアンはいつも辛い顔をしていて、他のウマ娘も…悲願は果たしたの…もう、これで終わりたいの…だから、わたくしはあなたを」
「お黙りなさい」
泣き虫毛虫のいじけ虫。地べたに手をついて苦しい苦しいと叫ぶことしかできない不器用者。
「思い上がりも大概になさいませ。それは他の方々への侮辱ですわ。ライアンは貴女が思っているよりも強いのです、もちろん、皆様も。貴女の弱さの言い訳に、他人を使わないで」
「でも、でも…わた、くしはぁっ…」
彼女の傍に腰かけ、背中をさする。
「でもでもだってはいりませんわ。ほら、顔をあげて。貴女の今までが知りたいの」
「…っぐす…私の、今まで…」
そうして、嗚咽混じりの彼女の話を聞いた。
幼い頃は体が弱かったが、ただただ走るのが好きで、ライアンと一緒によく走り回っていたこと。
メジロの誇りを抱いて入学し、クラシック路線でライアンとぶつかり、無敗の三冠を達成した時から、走ることが楽しくなくなっていたこと。
天皇賞・春で盾を手に入れた時、全ての走る理由が消えてしまったこと。そして、走りたくなくなって、気づいたらこうなっていたこと。
「お、思っていたよりも壮絶ですわね…」
「貴女は違いますの?」
「えぇ。人並みに敗北も経験済みですわ」
「そう、なのね…その敗北が貴女と私の違いなら、私はどうしようもできませんけれど」
「イヤミな言い方ですわ!まあ、それでこそ私、と言ったところかしら」
チラリと横に目線を向けると、ブスくれた私がいた。今日一日、私に尻拭いをさせた私だ。
「…まだ走りたくありません」
「我儘を言わないでくださいまし。走りたくても走れない方だって…いるのですから」
「私には関係ありませんわ。私は私、他は他です」
「…そうですわね」
変なところでしっかりしているのだから、なんだかなぁというものだ。でも、そうだ。彼女が巻き込めるのは、私だけなのだ。
「分かりました。もう少しだけ、貴女の代わりになりましょう。私にも利点はありますし。ですが、次の宝塚記念までには走る理由を見つけてください。ライアンは、貴女との勝負を求めているのですから」
「ライアン…」
まったく、夢の中でも疲れされられた。そろそろ目が覚める気がする。
「不器用で弱虫な私。今だけは、私が貴女を甘やかしてさしあげます」
「…本当に、私とは違うのね、貴女は」
そう言って、彼女は初めて顔を上げた。鏡でみた氷のような表情は、少しだけ溶けていた。
最後までご覧いたただきありがとうございました。
誤字脱字、矛盾点などあればご指摘いただけると幸いです。
マックちゃんはいいぞ。