少女はその日を決して忘れない。
黒い髪に、黒い目をして、黒い学ランを着て、けれど黄金のように輝いている人を見た。
自分を見てくれていた訳ではないけれど。
自分が勝手に、遠目から後ろ姿を見つけただけだけれど。
「──君は、ヒーローになれるよ」
輝くようなあの人を、少女は決して忘れない。
◇◆◇
その後、駆け付けた消防隊によって消火作業が行われ、万世は警察が到着次第、事情聴取が行われる手筈となった。
死傷者はゼロといっても、放火は重罪だ。灯守は詳しい事情を他言するつもりはなかったが、万世に有利な証言をするつもりもなかった。全ては彼が、自分の意志で警察に話すことだ。
「この馬鹿どもが! お前たちときたら、全く! 俺は行くなと言っただろう!」
「言われてません」
「聞いてません」
「言う前に! 聞かせる前に! お前たちが走り去ったんだよ!」
灯守と一佳はヒーローインタビューを受けるどころか、絶賛説教中だった。
いいや、確かに一番に勝手な行動をした灯守は叱られて然るべきだろうが、一佳としてはそれを止めようとした立場である。叱責されるのは不服だった。
「至天堂……お前のせいで私まで……!」
「何を言う。鈍重な君が着いてきたせいで僕の足取りがバレたんだよ……!」
流石はヒーロー志望といったところか。危機管理が出来ている二人は、既に罪の擦り付け合いを始めていた。
痺れを切らした教師は怒鳴らずにいられない。
「勘違いするな! お前たち二人とも、平等に反省文だ!!」
「は、反省文ですか? 進路に影響はないですよね……?」
「拳藤、僕はちゃんと君のせいだと思っているぞ」
「お前はいつまで言ってんだ! 普通にお前の自業自得! 私はとばっちりなんだよ!」
灯守と一佳の頭に、男性教師の拳骨が振り下ろされるまで、あと三秒。
──警察が到着した。
その頃にはもう校舎の火は完全に鎮火されており、万世も抵抗する様子なく教師陣の誘導に従っている。
どんな事情があれ、事が事である。良くて観察処分か、もしくは少年院か。どちらにせよ、それに全く同情しない程、灯守の心は凍っていない。
「頑張れよ、武闘。僕は君の味方だ」
彼にかけられそうな言葉と言えば、そのくらいだった。
「……至天堂」
教師たちに腕を引かれながら、万世が言った。
「やっぱし俺にヒーローは無理だ」
「いや、そんなことは……」
「無理なんだよ。お前を見て分かった。分かっちまったんだ。……でもその代わり、一つだけ叶えて欲しい頼みがある」
灯守は静かに、そして強く頷いてから、その願いに耳を傾ける。
「俺をお前の──No1ヒーローのファン一号ってことにしてくれないか。いつか、自分に胸張れるような人間になったら、自慢したいんだ。俺は世界一偉大な男に救われた、ってよ」
「──ッ!」
世界中の誰よりも灯守自身が、自分が将来ナンバーワンヒーローになると確信している。しかし、他人に断定されたのは初めてだった。
世界で一番だと言われて嬉しくない男はいない。
言われた通り世界一の決意を胸に、灯守は答えた。
「どうせ自慢するなら、友達だって自慢しなよ」
「っ」
その言葉に、万世がどれだけ救われたか。
「……ありがとう」
それは至天堂灯守がヒーローとして、固定ファンをようやく獲得した瞬間であった。
◇◆◇
正午になった。火災のあった校舎で授業など続けられる筈もなく、全校生徒はそこで解散した。
灯守の歩く直射日光の照りつけるコンクリートの歩道は、平日の昼間ということもあって、人影一つ見られない。ふと通りかかった公園で、子供たちが遊具に群がっている光景があったくらいだ。
ふと──ザッ、ザッと駆け足で自分に近づく音に気付く。
「や」
「拳藤」
本気じゃなかったにせよ、喧嘩別れみたいになった彼女と顔を合わせるには、少しだけバツが悪かった。
「君の家、こっち方面じゃないだろ」
「お前を追ってきた」
だろうね、と多望は頷く。
「話がしたいんだ。少し……時間貰っていいか?」
改まった少女の様子は、単なる談笑を予感させない。灯守が静かに頷くと、二人は公園に内接されている河道へと移動した。短い雑木林に差し掛かると、同じ市内の筈なのに、別の国に来たかのような自然の匂いがした。
──歩幅を合わせてくれている。
女子にしては長身の部類の一佳だが、灯守はクラスで二番目くらいに背が高い男子である。親交が無かった時には気付きもしなかったが、歩幅にかなりの差があった。
しかし今はそれもない。少年が、歩くペースを少女に合わせてくれているからだ。
(こういう所だよ、至天堂)
些細な気遣いが、互いの隔たりを実感させてくる。同年代であっても、まるで年上と接しているかのような感覚を押し付けてくる。
無論不快ではない。むしろ瞠目している。
今日は、特に痛感した。我が身を顧みず危険に飛び込んだ灯守のことを思い浮かべながら、一佳は口を開く。
「あの時、火の海になった理科実験室で私、動けなかった」
灯守はきょとん、と効果音の出そうな顔をした。
「いいや、動いてたぞ」
「あ~、多分そういう意味じゃなくて……。何をするのが正解なのか、分からなかったんだ」
一佳は手を伸ばすだけで、止まってしまった。
ヒーローとして万世に歩み寄った灯守が、少女の目にどれだけ遠く見えたか。
保身の意識の上でどう動くか考えた少女と違い、少年は直感として最善の行動を導いていたのだ。
「火災が武闘万世の仕業だってことは、あの現場の雰囲気で何となく直感できた。それで、私はどうやって奴を倒すかってばかり考えてたんだよ。……会話なんて通じる奴じゃないと思ったからだ」
「そう感じる奴もいるだろう」
「でもお前は違った」
例えば、火事の中で一人取り残された子供を救うためなら、一佳は即座に火の中に飛び込む覚悟がある。
しかし、放火魔の為に自分を犠牲に出来るかと言ったら、話は別だ。
至天堂灯守は根本的に違うのだ。彼は誰に対しても平等で、救うべき可能性を捨てていない。そして、救えるか否かを瞬時に判断することが出来る。
果てしなく優しく、賢いと、痛烈に感じるのだ。途方もなくヒーローだと、嫌なくらいに感じるのだ。
「腹をぶっ刺されても、それを受け入れて。きっと顔色一つ変えなかったんだろう? ……お前は、戦おうとしなかったんだ。私と違って、戦う必要すら見出してなかったのか?」
「刺されても、か。確かに、そういう『
「──違う! 可能性じゃない!」
自分の雄姿を一欠片の価値もないかのように称する灯守が、少女には許せなかった。
少年は可能性を増やすごとに、自分の決意の重みを、行動の偉大さを、希釈していっているのではないだろうか。そんな茫漠たる不安が、一佳を黙らせない。
「いたんだよ! 火の海なんて全然怖がらずに、歩み出たお前がいたんだよ! 誰かを助ける為に躊躇なく命を懸けた、お前が確かにいたんだよ!!」
どうして少女の方が怒鳴っているのか、灯守は理解できていたのだろう。もしくは、いつか誰かに指摘されると覚悟していたのか。
灯守は反論しなかった。そして、一佳も引き下がらなかった。
「私の目の前に、いたんだよ」
「……そうかもね」
少年は物憂げに目を伏せて、少女を見た。出口の見えない会話に、形のある回答を求めて。
「で、何が言いたい?」
勇敢で、しかし歪に、輝いて見える少年に対し、一佳は万感の想いがある。憧れと尊敬と哀れみが同時に渦巻いているような、矛盾しながら成立している奇妙な感情だ。
それを上手く言語化しようとして、ようやく紡がれた言葉。
「私は、お前みたいになりたい」
「?」
言っている一佳ですら、支離滅裂だと違和感を感じたが、何処か自分で納得できる表現だった。
しかし、灯守は少女と全く別方向の違和感を持ったらしく、
「なれば?」
「……な、何それ。お前、結構私は真剣で……」
「君の目標が何であれさ。なれるよ、拳藤なら。君は僕が出会った中で、一二を争うぐらい立派な奴なんだぞ。それに、僕が自分を顧みて成長出来たのは、ほとんど拳藤のおかげなんだから」
双方の互いに向ける評価がすんでの所で噛み合わず、致命的なすれ違いをしているようなもどかしさがあった。
だが、灯守の平然とした語調の発言が少女を納得させる。
「っ」
少女は自分が相手に求めていたものを察するのに、数秒を要した。
至天堂灯守に変わって欲しいなんて思わない。そのままでいい。そのままがいい。むしろ、自分が彼のようになりたい。
その願望がどういう意味なのか、彼が初めて自分を見てくれていると実感して、ようやく分かった。
「い、言いたかったことは、コレじゃない。もう一つ、あって――」
「何だよ」
誤魔化すように話題を変える。
「連絡先教えてくれないか? もう数か月の付き合いなのに、連絡先の一つも知らないなんてちょっとおかしいだろ」
「そうだな、確かに。……でも僕、SNSとかやってないし」
「本当に現代っ子かお前!? 仕方ない、じゃあ私の携帯番号教えてやるから――」
そう言って一佳がスマホを取り出そうとスカートのポケットに手を伸ばすと、鬼気迫る勢いの灯守が、手首を掴み上げた。
乱暴とも言える突然の暴挙に、一佳は動転する。
「ちょ、お前何を……!? 痴漢か!! ついに痴漢なのか!?」
「違う。火傷だ」
灯守が凝視していたのは、一佳の二の腕の外側に出来た火傷痕だった。焼けた直後に十分冷やしていたのでもうかなり引いていたが、女子にとって目立つ位置の身体の傷は、男のそれとは訳が違う。
心底申し訳なさそうに、灯守は眉尻を下げた。
「すまない」
「は? 何で、謝るんだよ」
「僕のために傷ついてくれた君を、今まで気付けなかった。すまない」
本気で心苦しそうにする至天堂灯守を、初めて見た。
引け目を持った時の彼は、ヒーロー然としている時と違い、叱られる赤子のように小さな姿をしている。怒る時に遠慮せず、褒める時に自重しない少年は、謝罪する時にこんな風になるのか。
興味深そうに少年を観る少女の心境など知る由もない灯守は、謝意と感謝を込めて頭を下げた。
「さっきは責めたが、本当は嬉しかったよ。僕を追ってくれてありがとう。これは、その時に出来た火傷だな?」
「だろうな。だけど別に気になる程でもないし……」
「これは恩だとは思わない。借りだ。責任は取ろう」
「は、はぁ!? 妙なこと言うな! バカ!」
恐らく灯守が込めたであろう意味合いと、一佳が汲み取った言葉のニュアンスはかなり異なっている。少女は恥ずかし半分、不快半分で――いや、キモイという感情で八割くらいが埋め尽くされ、少年を突っ撥ねるという拒否行動に出た。
突き飛ばされた灯守は至極真剣そうに言う。
「僕にとっては只事じゃない」
「私にとっては些細なことなんだよ!」
何だか気色悪かった。
灯守の言動は生理的に嫌いなのではない。灯守も薄々感じ取っているだろう甘い空気が、どうも一佳には苦手なのだ。彼としては、意識しても特段恥ずかしがったりはしないようだが。
「お前との言い合いは凄い疲れるんだ。連絡先交換は、今度にしよう」
言って、目を背けて、歩き出す。
一佳の後ろの方から、少年の足音が着いてくる。
それから他愛のない会話が何度かあった気もするが、少女は上の空だった。
拳藤一佳は自覚する。
──その日、拳藤一佳は恋をしたんだろう。
素直に恋と呼ぶには恥ずかし過ぎるこの感情に、まだ結末はいらない。
今はただ、輝くような人と一緒にいられるだけで、胸がいっぱいだった。
「至天堂。最後にちょっとしたお願い」
でも、まるで心が痺れを切らしたかのように、飛び出た一つの本音がある。
「私、お前のファン二号になっていいかな?」
そう言った少女は、照れ臭くて少年の顔を見れなかった。
日光に焼かれて、頬が熱くなっているせいもある。
少女の願いに、彼はどう答えたんだったか。
ああ、確か──。
「……愛の告白に近い意味合いを感じるんだが、流石に気のせいだよな?」
その日、至天堂灯守と拳藤一佳の交友関係史上、最大の大喧嘩が勃発したことは言うまでもないだろう。