「私はね、音ノ木坂に戻りたいの。帰り道を教えてくれるかな?」
私は女の子にそう告げました。
「帰るの?」
「うん」
女の子は不思議そうに首を傾げます。私はそれに躊躇なく首を縦に振りました。
「そうなんだ、分かった」
女の子は私に大したことない様に返事して私の手から離れます。そして私がやってきたのとは別の小道の方へと歩き出し、入口のところで立ち止まりました。
「こっちだよ。お姉ちゃん」
女の子は黒い長髪をなびかせながら私へと向き直ると、小さな手で手招きをしてきます。
その仕草はなんだか可愛らしくて微笑ましくなりながら、私は女の子へ近づき、小道の前で並びました。
「この道?」
女の子の横に立ちながら私は尋ねます。その道は一見するとネオ・ヴェネツィアではよく見かける横道にしか見えませんでした。建物と建物の間に挟まれた薄暗い道。それだけなら通ってきた道を大差はありません。本当にここが音ノ木坂に通じているのかな?
「うん、この道を通るの……でも、本当に良いの?」
女の子はそう呟きました。
「なにが?」
「だって、もう戻れなくなるんだよ? ここに」
「うん、でもね」
私は女の子の目線に合わせ、笑みを向けます。
「私はあっちでやらなくちゃいけない事が沢山あるの」
「やりたいこと?」
「うん」
女の子の疑問の声に私は間髪入れずに答えます。
「私ね、夢があるの」
「夢?」
「そう、夢」
女の子の言葉を聞きながら私は目を閉じます。瞼に浮かぶのは3人の姿。ずっと夢に向かっている皆の姿。
瞼の中の彼女たちが私へ振り替える。いつも私を支えて、見守ってくれた皆。その姿、顔を思い出し、なんだか泣きたくなりながら私は瞼を開ける。
「ネオ・ヴェネツィアで頑張る皆の姿を見たの。水先案内人って仕事は憶えることもたくさんあるし、
夢に向かって真っすぐに進んで、けれども時には悩んで迷って、立ち止まっちゃったりして、自分にはふさわしく無いんじゃないかってうずくまりそうになる姿も見た。
けれども3人共夢に向き合って、頑張ってた。
「だから、私も頑張って自分の夢と向き合おうと決めたの」
「ふうん、そうなんだ……なんだか素敵だね」
女の子は私の言葉を聞くと嬉しそうに笑った後、道の方を小さな手を上げて指さしました。
「じゃあ、お姉ちゃん。ここで私とはお別れ。この道を真っ直ぐに進んでね」
女の子の言葉を聞きながら私は道を見ます。まだ昼間だというのにこの小さな道は薄暗く、奥の方は真っ暗で何も見えません。
「なんか、不気味だね」
「ん? そう?」
女の子は道の暗さなど、大して気にしないみたいで私の言葉に首を傾げていました。
「お姉ちゃん怖いの? 大丈夫、特に迷うところもないし、危険なところもないよ。でも」
「でも?」
「一度行ったら、途中で戻ってきちゃ駄目だよ」
女の子のその言葉は閑静な広場にはよく響いた。
「道は一方通行なの」
女の子はそう付け足す……つまり。
「ここに足を踏み入れたら、もう戻れないんだね」
私が道を見ながら呟くと女の子は小さく首を縦に振った。
私はゆっくりと一度目を閉じます。そして深呼吸を一つ。冬の冷たい空気が肺に入ってきます。
真っ暗な視界、その中にふと見えたのは八人……私の大切な人たちの背中。
……うん、行かなくちゃ。
その背中を夢見た瞬間、私は覚悟を決めました。私も皆みたいに、夢を追うと決めたのだから。
「ありがとうね」
私は目を開いてそう呟いた。女の子は一瞬驚いた後、笑みを浮かべます。
「行ってらっしゃい。お姉ちゃん!」
女の子からかけられた暖かい挨拶の言葉。それを受けながら足を前へ……小道へと進めます。
私が真っ直ぐに道を歩み始めた時、背後から小さな鈴の音が1つ。私の耳に聞こえてきました。
建物に挟まれた小道をゆっくりと歩む。道に吹く風はとっても寒くて私の吐く空気は白く、空へとすぐ融けていく……元々、今日は冬のこともあってとっても寒い。更にずっと日陰の小道を歩いているせいで体はどんどん冷えてしまっていた。
けれども私は歩くスピードを下げない。女の子に言われたとおりにまっすぐ前を向いて歩く。小道はやっぱりとても暗い。太陽も当たらなくて、ほんの少し先も目を凝らさないとよく見えない位に闇が広がっている。
それでも私は足を止めない……後ろ髪を引かれる思いはずっとしている。
……以前、広場に迷い込んだ時の事を思い出す。私がいなくなったことで、夜まで灯里ちゃんを不安がらせてしまった。そのことを思い出して私は白い息をまた吐きだす。
また皆を困らせちゃうな。けれど、私は夢を追う為に進まなくちゃいけない。
「でも、皆に伝えたいな」
思わずそう一人心地る。……あの女の子に手紙でも何でも渡せばよかったのかもしれない。けれどももう遅いか。後ろは見ていないけれど、もうさっきまでいた広場は影も形も見えないのだろう。戻ったら駄目だって女の子も言っていたし……彼女に会う手段はもうない。
「……でも」
灯里ちゃん達に会うってのも充分奇跡だったもの。灯里ちゃん達に私が帰ったことを伝える方法位、いくらでもある筈。
「……うん、帰ったら頑張ることは幾らでもあるね」
私がそう呟く。いつの間にか小道は行き止まりに来ていた。私の前には1つの扉。どこにでもあるような普通の扉。けれど、私にはずっと見覚えがあって……懐かしい扉。ありきたりな扉だけど、私にはすぐ見分けがついた。
「……私の部屋のだ」
私の自室の扉。物心付いてからずっと、毎日のように見てきた扉。それがネオ・ヴェネツィアの建物の裏口に付いている。
なんだか……とってもアンバランス。夢みたいにふわふわな景色で見るような奇妙な感覚。けれど、それでもここが私の帰るべき場所だという確信がありました。
「ふぅー……」
扉の前で深呼吸を一つ。そして目を開いてドアノブを掴みました。そしてドアノブを捻る。どこか手に馴染む感覚に懐かしさを覚えながら私は扉を開けました。
「……ただいま!」
……ふと、目を覚ました。カチカチと時計の音が聞こえる。ゆっくりと顔を上げる。
そこには今まで通りの/どこか懐かしい自分のお部屋。何気なく時計を眺める。時刻は午後9時頃。カーテンが中途半端に開いていて、隙間から真っ暗な空が広がっている。
そうだ、今日は部活とかあってすぐに寝ちゃったんだっけ……いや、もっと色々あって随分遠くに行っていた気もする。
なんだか、2つの思い出が混ざっているような不思議な感覚。
「……カーテン閉めないと」
私はぼんやりと考えながら立ち上がる。カーテンを閉めるついでに外を眺める。至って普通の音ノ木坂の夜景。
外に点々と光る明かりたちを眺める。毎日見慣れている景色の筈なのに……どこか懐かしい感じ。
「……ん?」
ふと、違和感を覚えた。何だか、着ている服が違う気がする。何がどう違うのかはよく分からないけれど、寝る前にこんな服を着ていた筈は無いような……。そう思っていたらガラスに映った私の格好が目に入った。
青い線の入った白いロングスカートを着ている。うん、いつも着ているARIAカンパニーの制服……間違って制服のまま寝入っちゃったのかな?
「……あれ、灯里ちゃん?」
思わずそう呟いた。それに対する返答は勿論ない。私の部屋にいるのは私1人だけ。それを良く知っているはずなのに、ここ最近ずっと一緒にいた彼女の姿を一瞬探してしまった。
「そうだ……私は帰ってきたんだ」
口からぽつりと声が漏れた。その瞬間、思い出すのは灯里ちゃんの笑顔。それがもう見られないことの寂しさがいっぺんにやって来る。
その実感が湧いてくると何だか不思議な感情に満たされる。嬉しさと寂しさみたいなのが混じっているような気持ち。それを感じて私は思わず部屋でぼうっと立ち尽くす。
ヴーヴーっと振動する音が聞こえた。
私が音の方へ向くと、机の上に置かれた私のスマホが振動して何かを伝えていた。
私はゆっくりと近づいてスマホを見ると、画面には電話を伝えるメッセージが出ていて、電話の画面には『穂乃果ちゃん』の文字。
それを見て直ぐに電話を取った。
『あ、もしもしことりちゃん。ちょっと遅いけど、今時間大丈夫?』
私のスマホから流れる声。それに私の動きは止まってしまう。
『あれ? 声聞こえてることりちゃん? もしもし? もしもーし』
スマホから聞こえる明るい声は立ち尽くしてしまっている私に対して声を掛け続けている。
その声はとても懐かしく感じられた。とてもとっても大切な、明るくていつもまっすぐな……大好きな友達の声。
「穂乃果ちゃん……?」
その声を聞いて私の思わず声を上ずらせながら、返してしまう。
『え!? こ、ことりちゃん? ど、どうしたの!?』
電話の声は私の声で異変を感じて、分かり易くうろたえ始める。その彼女の明るく懐かしい様子に私の目から涙が漏れる。
「ご、ごめんね。穂乃果ちゃんの声聞いたらなんだか、涙が出てきちゃって……」
『え、えぇ!? どうしたの? ことりちゃん、な、なんか嫌なことあったの!?』
「ううん、全然。穂乃果ちゃんの声が聞けてとっても嬉しかったの」
『え、えぇ、そんなに嬉しかったの? 別に今日も会ったし、大げさだよ。ことりちゃん』
「うん、そうだよね……うん」
『もー、変なの。ことりちゃん、それでね――』
スマホから聞こえる穂乃果ちゃんの明るく楽しそうな声。その声を聞いているととても嬉しいのに、涙は溢れてしまいます。
本当に、戻ってこれたんだって私の心にその暖かな実感が染み渡る。
「ねぇ、穂乃果ちゃん」
『うん、どうしたの?』
「穂乃果ちゃん、声を聞かせてくれてありがとう」
『え? もうだから大げさだよ……じゃあ、ことりちゃん。また明日ね』
「うん、穂乃果ちゃん。また明日」
私がそう呟くと電話を切られました。
「また明日……」
穂乃果ちゃんの言葉を噛みしめるように呟きます。……また明日、明日になったら穂乃果ちゃんに会える。
そう思うと部屋で1人なのに嬉しくなって微笑んじゃいます。
「にゃあ」
「……?」
ふと、どこかで猫の声が聞こえた気がしました。部屋を見渡してみるけれど、もちろん部屋には私だけ。
だけれどもその鳴き声はしっかりと私の耳に残りました。