自分なりに懸命に「高校生活」に立ち向かう女の子の話です。
そうでなくても排他的な空気のこもった教室で、ある女子生徒の机の上に花瓶が置かれた。白く細長く、間に合わせたかのように一輪の花が挿してあるだけの花瓶が。
その席の主、
「(誰がくれたんだろう……?)」
席についた華は興味深げにその花を手に取る。それから試しに、くんくんと鼻を近づけて香りをかいでみる。すると、手触りも香りも全て本物の花のそれだったので、彼女はそれが造花ではないことを確信した。そしてその後すぐに「茎の下の方が濡れている」ことに気が付いて、陸に打ち上げられて跳ねる魚を水面に戻す時のように、妙にあわててその花を花瓶に戻した。花瓶の中には十分に水が溜まっている。花が枯れるかどうかなんて、ここに花瓶を置いた人からすればどうでもいいことのはずなのに。
花を挿し直した華は、机に肘をついて満足気にそれを見つめ始める。送り主の分からない贈り物は初めてだ……と。
……同じ教室の中に、そんな華の挙動を心底気に食わない者たちがいた。机数個分を隔てた距離でさっきまでクスクスとねじくれた笑みを浮かべていた女子たちが、胸の内に湧いて来る不愉快さを見る見るうちに表情に表してゆく。
やがてそのうちの一人、最もカリスマ性のある女が立ち上がった。彼女の名は
「ねぇ、今この花動かなかった?」
「えっ、うそぉ~」
「気持ち悪いこと言わないでよー」
洞須に合わせて口々に流れに乗るとりまきの女子たちを見て、華はそこに座ったまま怯える小動物のように縮こまる。そしてこう思った。
「(しまった、やっちゃった、触っちゃいけない花だったの……?)」
けれど一瞬あとから彼女も、その思考が合理性に欠けていることに気が付いた。勝手に触られちゃ困る花がどうして自分の机に置いてあるんだろう? とか、そもそもこれはわたしへの贈り物じゃないの? とか。そんな風に数々の疑問が思い浮かんだ。
けれど、頭の上にハテナマークを浮かべたような表情をする彼女のことが、洞須を初め他の女子たちにとってはなおさら気に入らない。
「きゃっ、ねぇ見て!」
洞須がわざとらしく手を振りぬき、華の方に向かって花瓶を倒す。勢いに乗ってこぼれ落ちた水の大半は当然、おとなしく座っていた華の制服を深く濡らした。
「心霊現象よ、心霊現象!」
「こわぁ~」
「黒漆さん、わたしたちに何の恨みがあるの~!」
白々しい言葉の数々を浴びて、濡れた服の冷たさを感じながら、華は困惑した。彼女の思考回路では、いま自分に何が起こっているのかが分からないのだ。
道徳観をひとまず忘れて見るとこの状況の全ては、彼女のその異常な察しの悪さにこそあるのだと、そう言い表すことも出来るのかもしれない。華がそれを真に理解する日はあまりに遠く、あるいは来ないのだけれど。
「(えっ? えっ……? なに……? どういうこと……?)」
「むしろ感謝してほしいくらいなのにね」
「ねー、ちゃんと花だってお供えしてるのに」
「お願い黒漆さん、成仏して~!」
「……あっ!」
突然大声を上げた華の方へ、悪意の女子たちの視線が監視員のようにギロリと向く。しかし性懲りもなく何かを期待していた彼女たちの視線の先にあったのは、彼女たちが最も嫌う物の内の一つである、間抜けな顔をして大口を開けた華の顔だった。
その大口は「気付き」を意味していた。お供え、成仏、というキーワードを得たことでついに、華も女子たちが言っていることの意味を理解したのだ。まるで推理小説の主人公のように、彼女の頭の中では閃きの稲妻がバチバチと駆け巡り、個人的な感動を伴って答えにたどり着いたのである。
けれどそれは「女子たちが何を話しているのか」に気付いただけであって、その気付きは、「なぜそれが話されているのか」という疑問とは切り離されたところにあった。
「えっ…………と、生きてる、よ……? わたし……」
聞き終えるよりも早く、堀須が華の髪を乱暴にひきちぎるような勢いで掴み引き寄せた。
「……人をおちょくるとどうなるか知らないの?」
「え、えっ、えっ……?」
華には何も分からなかった。人をおちょくるとどうなるのかは確かに知らなかったけれど、けれど言うまでもなく彼女には、誰かをおちょくっているつもりなどこれっぽっちもないのだ。
しかし、それでも最近ようやく分かってきたことがある。どうやら自分の行動は度々「人をおちょくっている」らしくて、まわりの人にとってはそれが、特に今自分の髪を掴んでいる
だから、全てはもっと根本的なことからして根深く歪んで間違っている……という真実になど、華が気付けるはずもなかった。気付けないどころかむしろ、誰からどのように何度説明されても、それは彼女にとっていまいちピンと来ない話にしかならないのである。「理解したと思っていたことが間違っている」という現実は、黒漆華には難しすぎるのだ。
「ちっ」
チャイムの音と共に、事なかれ主義の男性教師がいつも通り魂を入れ忘れた表情で教室にやって来る。洞須はそれで潮時を悟ったのか、投げ捨てるようにして華の髪から手を放し、それから今度は本当に、机の上に転がったままになっていた花瓶を床に向かって投げつけた。
陶器の割れる音が響く。
「先生、黒漆さんが花瓶割っちゃったみたいです」
昼休みが来ると、華は巾着袋を持ってトイレに向かった。
「あんたみたいなのが教室にいると飯が不味くなるんだけど」
少し前に洞須からそう教えてもらった。それによって「どうやらわたしのご飯は人のいない場所で食べた方がいいらしい」と理解した華は、いろいろな場所をめぐりめぐってトイレの個室にたどり着いたのである。
巾着袋の中にはお弁当が入っている。華が毎朝自分でこしらえている物だ。蓋を下ろした便座の上に腰かけて、彼女はそれを自分の膝を机代わりに広げ始める。弁当箱のフタを開き、箸ケースから箸を出す。……彼女はこの、スライド式の箸ケースが動く時の「シュー」という音が好きだった。
「いただきます」
そう口にして手を合わせる。個室の中は静かだった。華は、静かな場所も賑やかな場所もどちらも好きだ。けれど静かな場所だと、特に物思いに耽ることがはかどる。
「(みんな、わたしとご飯食べるの嫌だったのかな)」
思い出すのは中学時代のこと。いや、小学校までも幼稚園までも、それから家の中までも、とにかく「誰かと一緒にご飯を食べる」という習慣があった場所と時代のことは、全てさかのぼって考えた。自分はずっとずっと友達に迷惑をかけていて、みんな優しかったからそれを我慢してくれていたのかな……とか、給食はずっとおいしかったけど、そう感じていたのは自分だけで、みんなはわたしのせいでおいしくないご飯を食べていたのかな……とか。
もしそうだったら、みんなに謝らないといけないし、そのことに気付かせてくれた洞須さんにはお礼を言わないといけない。でもそれはそれとしてもし本当にそうなら、中学時代までの友達はみんな、テレビドラマに出られそうなくらい演技が上手かったってことになる。自分は演技が下手だから、そうじゃない人のことはちょっと、いやだいぶ羨ましかった。
「(またみんなに会いたいなぁ……)」
高校へ進学する際、小中学校の友達とはほぼ全員と離れ離れになってしまった。けれど聞いた話、二十歳になると同窓会というイベントが開かれて、そこでまたみんなに会えるらしい。だから最近の華はいつも、二十歳になる日を待ち遠しく思っていた。
「(……うん?)」
華が思い出に浸っていると、近くから、バケツの中にものすごい勢いで水が溜められる時の音が聞こえてくる。ジャバジャバジャバと蛇口を全開にして、すごく急いでいる感じの音だ。なんだろう? と否応なしに気になってしまい、箸が止まる。
水の音が止まると、今度はコンコンと個室をノックされる音が響いた。「あっ」とあわてた華は気持ちだけでなく体勢まで前のめりになる。
「は、はーい!」
「黒漆さん?」
洞須の声だった。
「うん、華だよ」
「…………」
「……? 瑠々ちゃんだよね? 何か御用……?」
「…………」
扉一枚隔てた沈黙が、不自然に長く続く。華にはまたわけがわからない。なんだろう? わざわざ呼びに来るなんて初めてだ、急ぎの用事なのかもしれない。でもそれならどうして早く言わないんだろう……?
華は考えた。そして閃きの稲妻は、再び彼女の頭の中を駆け巡った。急ぎの用事で、なおかつすぐには口に出せない理由があることってなんだろう……と考えた時、自分が今「トイレ」にいることを思い出したのだ。
きっと瑠々ちゃんはトイレに行きたいのに、個室が全部埋まっていて入れないんだ! だからわたしに出てきてほしいけど、恥ずかしくてそれがなかなか言えないんだ、絶対そうだ! ……と華は自らの閃きを信じて疑わなかった。
どうして自分のいる個室にピンポイントでノックが来たのかだとかは、まったく気にならなかった。
「待ってね瑠々ちゃん、すぐに出るか」
ら……と華が言い終える前に、滝のように、個室の中の彼女へ大量の水が降り注ぐ。
遠くから複数の笑い声が、歓声にも似た様相で聞こえてきた。
「(…………え?)」
頭の先から爪先までずぶ濡れになった。
膝の上から弁当箱を除けて立ち上がりかけていた華は、何が起こったのか理解が追い付かずに呆然となる。髪の先から指の先から冷たい水がぴちゃぴちゃと滴って、砂時計のように時間が経過していることを淡々と示す。それがなければ、その個室の中だけ時が止まっているようにも見えた。
「(誰かが水を上からかけてきた……? 誰かっていうか、瑠々ちゃん? なんで……?)」
実際に起こったこと自体はだんだんと飲み込めてきても、「なぜ」の部分に見当もつかない。全身ぐっしょり濡れたまま、頭の中で終わりの見えない「なんで?」「どうして?」を繰り返して大混乱に陥る華の体は、快適なはずの室温の中でもじわじわと冷えていった。
……しかしある時、彼女は視界の隅に食べかけのお弁当を見つけた。当然それもどうしようもないほど濡れているが、
「(……とりあえず食べてから考えよう!)」
と意識を切り替えて、彼女は座りなおした。そして白飯を一口咀嚼して衝撃を受ける。
「(うっ……。おいしくない……)」
びしょ濡れになったご飯はおいしくない。華は新しくそれを学んだ。
そしてその拍子に閃いた。
もしかして瑠々ちゃんは、「お前と食べる飯はそのくらい不味いんだ」ということを教えてくれたの……? と、発想した。そうだ、そうに違いないと、華は少し前のことを思い出す。
高校に入学したばかりの頃は、瑠々ちゃんも今ほどピリピリしていなかった。でもある時から「人をおちょくってる」と言って、いつも怒っている感じになってしまった。けれどきっと瑠々ちゃんは、本当は最初からずっとわたしの「おちょくってる」が気に入らなくて、我慢して怒らずにいてくれてただけだったんだ。だって考えてみれば最初のうちは、瑠々ちゃんだって楽しそうに同じ教室でお弁当を食べていたんだから。
でも全ては演技で、本当はあの頃からわたしの「おちょくってる」が嫌いで。わたしのせいでお弁当が不味くなっていたから、瑠々ちゃんはその恨みを返しに来たんだ。そうに違いない。だってそれ以外に、ご飯を食べている時間のわたしにバケツの水をかける理由が考えられない。
「……うぅ」
自分の出した結論のつらさに、華はちょっとだけ泣きそうになる。洞須瑠々が今のような復讐をするなら、今まで自分と一緒にご飯を食べてきた人間なら誰もが、同じように自分に恨みを返しに来る可能性がある。「恨むこと」と「復讐すること」では、向いている方向は同じでも重さが違う。自分は今までずっと、知らず知らずのうちに「恨むだけじゃなくて復讐したくなるくらいひどいこと」をみんなにしていたんだと思うと、華の罪悪感はやや耐え難いところまで膨れ上がった。
……が、涙が出るよりも先に、彼女はあることを思い出した。……あれ? でも瑠々ちゃん、笑ってたよね? 復讐って感じじゃなかったっぽい……?
そこからさらに必死に考えを進めて、華は一つの新たな結論にたどり着く。
「(そっか、わかった!)」
洞須がバケツの水をかけてきたことは、それは復讐以外の何物でもない。そこは確定している。でも、じゃあなぜ帰り際の彼女は楽しそうに笑っていたのだろう? ……それはもちろん、復讐が成功して嬉しかったからだろう。清々しかったからだろう。いつもみたいに怒った顔をしないで、機嫌の悪そうな声をしないで、高らかに笑えるくらい良い気持ちになっていたのだ。……つまりそれで満足してくれたってことだ! 自分がうっかり相手に与えてしまっていた不快感は、バケツの水でもってまさに「水に流された」のだ! 入学時からずっと引きずっていた「わだかまり」が無事に解けたと思って間違いないだろう。
「(なんだぁ、そういうことならよかったぁ。……それより、そういうことならもっと皆から水をかけてもらわないとだよね……。でもわたしが話しかけるとまた不愉快にさせちゃうかもしれないし、う、瑠々ちゃんが「みんなもやろうよ!」って言ってくれたらいいんだけどなぁ……)」
とかなんとか考えているうちに、昼休み終了のチャイムが鳴った。ハッと咄嗟に手元を見下ろした華の目に、空っぽになったお弁当箱が映る。どうやら考え事をしているうちに普通に完食していたみたいだ。
けれど華は、バケツの水に濡れたご飯のことを思い返して、こう思った。
「(でも、ご飯がおいしくなくなるのは、自分が人にやったくせに勝手なこと言うなって話かもしれないけど、でも、うーん……、…………でも嫌だなぁ)」
どうにかしてみんなの恨みをバケツの水で晴らしながら、自分はこっそりおいしくご飯を食べられないだろうか? そのような思考に耽りかけた華は、直後若干の自己嫌悪に陥った。こういうズルい考えが「おちょくってる」と思われるのかなぁ、と。
そんなふうに誠実さと食欲の間で揺れ動きながら教室に戻った彼女は、戻ってきて初めて、由々しき問題に気が付いた。そういえば学校には、着替えはともかくタオルがなかったんだと。そしてそれはさすがにちょっと、どうしようもなく仕方がないので、彼女はぐしょぐしょに濡れた服と体のまま、通った箇所を足跡代わりの水浸しにしながら着替えのジャージを回収して、女子トイレへと戻っていった。
「ねぇちょっと汚いんだけど~」
という嘲笑の声に、彼女は小さな声でずっと「ごめんねっ、ごめんねっ」と謝っていた。けれど由々しき問題を解決するにはそうするしかなかったのだ。
それから、個室の中で全身を完璧に乾かした彼女は、自分が濡らした床も全て完璧に乾かしながらジャージ姿で歩いて教室に戻った。席に着いた頃には、午後の授業にほんの少しだけ遅刻してしまったけれど、一人だけジャージ姿で遅れてきた華を見ても先生は何も言わなかった。
優しい先生だなぁ、と華は思った。
一方で洞須は、何事もなかったかのように乾いている華の髪を見て、狐につままれたような気分になっていた。
「黒漆さん、おはよう。よかったら、ちょっとお喋りしない?」
翌日、華が朝の教室に入った途端、珍しく気さくな様子で洞須が話しかけて来た。そのうえ愛想の笑みまで浮かべている。
「え、うん! いいよ!」
昨日わだかまりが洗い流されたこともあって、もしかしたら瑠々ちゃんと仲直りできるのかもしれない! と華は思った。満面の笑みの「いいよ!」には、これからまだ二年と半分以上続く高校生活へ向けた希望が纏われていた。
けれどその希望は、当然といえば当然、一瞬で打ち砕かれることになる。
「よかった。じゃあほら、座って座って」
洞須はかいがいしく華の椅子を引いて、そこへの着席をうながす。
華はその椅子が視界に入った瞬間、言葉を失った。
椅子の人が座るべき面に、几帳面に、出来るだけ少しの隙間も作らないように、無数の画鋲が設置されていた。そしてそれは見るからに雑な大量の接着剤で固定されていた。
華の脳裏を、数秒後の自分の姿がよぎる。
「(まずい、まずい、まずい……!)」
華の脳内にエマージェンシーの赤いランプがけたたましい音を立てながら光り輝く。この椅子に座るのは絶対にまずい! 華は、昔から両親に何度も何度も言い聞かせられていたことを改めて思い出していた。
いい、華? あなたが「他の人と違う」ことは、絶対に誰にもバレちゃダメだからね……。
「どうしたの? 座りたくないの?」
「え、あっ……、でも……」
「せっかくお喋りしようっていうのに、嫌なの? 私のこと嫌い?」
「ちがうよ! ちがうけど、椅子が……」
狼狽する華の両脇に、いつの間にかいつものとりまきの女子たちが立っていた。彼女たちは数の暴力でもって、華の腕や肩や、それに頭を押さえつけて自由を奪う。無理やり画鋲だらけの椅子に座らせようとする。
「あっ……」
ついには耐えかねて、華はその椅子の上に勢いよく座ってしまった。
……目に見えて真っ青になっていく彼女の表情を見た洞須たちは、ようやく得られた満足感に口元を歪める。そしてサディスティックな声音で、言葉だけは平穏を装って言いだす。
「ねぇ、私たち、本当はあなたともっと仲良くなりたいんだ。黒漆さんの方はどう?」
言いながら、椅子の足を蹴る。思い切り、出来るだけ振動を与えるように。そしてそのたびに、青い顔のまま呼吸が乱れていく「むかつく女」を見て、己の心を満たした。
……一方で、華は気が気ではなかった。
「(どうしよう、どうしよう、どうしよう、バレるバレるバレちゃう……)」
彼女の頭の中にあるのは、「それだけ」だった。それ以外のことは彼女には分からないのだ。
たとえば黒漆華には、痛くて声を上げるという感覚が分からなかった。
というかそもそも、痛いことはつらいことだ、という感覚さえ理解していなかった。
しかしだからこそ、痛い時に声を上げないことが「人として」どれだけ不自然なことなのかを、彼女は人一倍理解している。さらには己の演技力の無さについても、十分に理解して自覚しているのだ。
上手に痛がらないとバレる。自分が「他の人とは違う」ことがバレてしまう。そしたら大変なことになってしまう。もうここにはいられなくなるかもしれない。……そのような理由で追い詰められた華の顔は、偶然にもちょうど良い感じに青ざめていったのだった。息遣いはどんどん過呼吸へ向かっていったのだった。
普通の人間が、痛くて痛くて仕方がないがそれを口に出せない状況に追い込まれた時のリアクションとして、それは不自然とまでは言えないものだった。
「わ、わたしも仲良くしたい、よ……?」
誤魔化すために浮かべた笑みが勘にさわったのか、洞須がなおさら強く椅子を蹴る。華はビクッと肩を跳ねさせた。極度の緊張の中で椅子を蹴られたことで、単純に驚いてそのようなっ反応を見せた。
その後も華に対する拷問は続いた。肩に手を乗せて体重をかけられたり、体を揺らされたりした。……けれども結局、幸運なことに、彼女の怯えようは朝のホームルームまでの時間を「激痛に耐える少女のリアクション」として解釈されたまま乗り切ることに成功したのだった。
無様な悲鳴か、あるいは許しを乞う泣き顔が拝めるだろうと思っていた洞須にとって、それはやや不本意なものだったけれど、これまでの黒漆華のあからさまにとぼけたような反応に比べればそれでも全然マシな方だった。不本意ではあっても、不満とまではいかなかった。
次からも痛みで責めるようにしよう。そう決めた彼女は華に振ったどうでもいい話を適当に切り上げて、とりまき達と共に自分の席へと戻っていった。
華はひとまず胸をなでおろす。そして今まではなあなあで誤魔化してきたけれど、自分にとっていよいよ演技力の確保が急務になったことを自覚した。
スマホを取り出して、親友に「今日の昼休み会いたい」と連絡を送る。そうしながら華は自分の鞄の中身を思い出して、ズルをしようとしたからバチが当たったのかもしれないと思った。
その日の昼休み、華は口の閉まりきっていない巾着袋を持ってトイレの個室へ向かった。
閉まりきっていない……というか、その巾着袋の中身はギリギリ、あるいは無理やりそこに押し込められているだけだった。さすがに剥き出しのままで持ってくることははばかられたそれが今、満を持して窮屈な袋から解き放たれる。
赤色のフタが、それがインスタントのきつねうどんであることを主張していた。
シューといい音でスライドする箸ケースから箸を取り出し、インスタントうどんのフタを開けて、華は準備万端となる。するとちょうどその頃になって、昨日聞いたのと全く同じ音が、バケツに水を溜める音が聞こえてきた。
立ち上がってうどんの容器を天高く掲げ、その時を待つ。間もなくして個室のドアをノックする音が来た。
「はーい!」
「黒漆さん?」
「うん、華だよ」
はぁ? なにそれ、と嘲るような笑い声と共に、やはり容赦なく大量の水は降り注ぐ。その水の内のいくらかはうどんの容器を満たして、残りが華の全身と個室の中を満遍なく濡らしていった。
「やられるって分かってるのに、あたま弱いのかな?」
可笑しそうにそう言いながら、女子数名の笑い声が遠ざかっていく。
……全て華の予想通りだった。自分が瑠々ちゃんと同じ教室でお昼を食べたのは一度や二度ではなかった、だから水をかけにくる回数も一度や二度ではないはずだ……と、待ち構えていたのだ。ズルをするために。
掲げられた容器が胸の前に降ろされた頃には、その中身はグツグツと明らかに煮立っていた。
「よしっ」
カチャンと小さな音を立てて個室のカギが解かれた瞬間、そこから華の姿は忽然と消え失せる。床に壁にぶちまけられていたはずの水は、跡形もなく乾いて同時に消え去った。
その直後、全身カラリと乾いた状態の華の姿は、立ち入り禁止となっている屋上に現れていた。瞬間移動で来て、瞬間移動で帰れば、立ち入り禁止でもバレないという寸法だ。
「ん、おいし」
備え付けの粉を湯に溶かして混ぜた華は、他に誰もいない屋上で三角座りをして悠々とうどんをすする。湯を入れてから三分どころかまだ三十秒も経っていないけれど、どうやら「事」はそれでも問題なく回っているらしい。
うどんを半分ほど食べ進めたあたりで、どこかから一羽のカラスが彼女の隣に飛んできて止まった。ピョンピョンと人懐こく跳ねてさらに近づいてくるそのカラスの頭には、嫌に毒々しい赤色のキノコが生えていた。
そのキノコが、華がうどんを一度すする間にみるみる巨大化して、「人間」の大きさと形になる。そしてその人間大の巨大キノコが、次の瞬間には本当の「人」になっていった。
華とは別の学校の制服を着た女子高生が、そうして屋上に現れた。カラスはその隣で静かに干からびて死んでいる。
「いいもの食べてんじゃん」
華の親友、
「食べる?」
人の昼食を見て暗に「よこせ」と言ってきた結に、善意で、これはくれぐれも純粋な善意で、華はうどんの容器と箸を渡した。
ためらいなくそれをすすりつつ、結は聞く。
「学校にお湯使える場所あるんだ?」
「あ、ううん、ないよ。……えっとね、それとも関係あることなんだけど……」
華は、ここ最近の洞須絡みで起こったこと、それについて困っていることや疑問に思うこと、手助けが必要なこと……といった諸々を、洗いざらい結に説明した。
その話の内のあるタイミングで眉をひそめた結が、ゆっくりとした動作でうどんの容器を返却してくる。中身はまだ残っていた。
「全部食べていいよ……?」
「いや、あのさ、汚いと思わないの?」
首をかしげる華に、結はため息をつく。
「汚いじゃん、水が。トイレのだよ?」
「え? トイレのって、普通の水道水だよ」
「じゃなくて、バケツの方が! モップとか突っ込んでるやつでしょって」
「……あー、たしかに、そういえばそうかも」
と言いながら華は残りのうどんをすすり、あまつさえ残りの出汁も飲み始める。
「おいおいおい!」
「大丈夫だよ、沸騰させたもん」
「そういう問題か……?」
久藤結は、黒漆華に比べれば基本的に常識人である。普通の人間が大抵は理解しているようなことなら、結だって同じくらい正しく理解できるし、演技も上手い。だから基本的には、彼女の方が「生活」も上手いということになる。
そしてだからこそ彼女は、華のことを可愛がりつつも、たまにその鈍感さにドン引いたりしている。ちょうど今みたいに。
「で、華ちゃん。まず一言言いたいんだけど」
「なんだろう?」
華の両の手のひらの中で、空っぽになった容器が燃えて消えた。箸は「シュー」っと箸ケースにしまってちゃんと普通に片づけている。
「なんでもっと早く相談してくれないの……?」
「えっ? だって痛いことされたのは、今日が初めてだったから……」
「いやそうじゃなくて。そういう問題じゃなくて。華ちゃん完全にいじめられてるじゃん」
「うん。そうだと思う」
それは本人にもなんとなく分かっていた。なぜいじめられるのかだとか、どれがいじめ行為でどれがいじめ行為じゃないのかだとかは、全然よく分かっていないのだけれど。全体的な雰囲気だけはなんとなく察している。
「相談してよ! もっと早く!」
「どうして……?」
「どうしてって、そりゃ助けたいから」
「えー、大丈夫だよ。仲直りは自分の力でやらないとだから」
「……それ本気で言ってるの?」
「うん!」
「そっかぁ……」
結はそれ以上問い詰めることを諦めた。同時に、別に今初めて気付いたわけではないけれど、改めて「華がいじめられている理由」の大体も察せた気がした。「まぁいっか」が出来ない上に権力の強い人間が、不幸にもクラスの中に紛れ込んでいたのだろう。……いや、それとも何事もなく過ごせていた中学時代までが変だったのか?
考えても仕方がないことだけれど、人間社会に溶け込むことに関してそれなりの努力をしている結にとって、華の「鈍感」で「ありのまま」で、そのわりには不幸ばかりでもない半生は、いつも少しだけ自分の理解を超えた物として映る。けれどついにそんな華にも、どデカい不幸がやって来たようだった。本人はそれと気付いていないようだけれど。
そのいじめっ子の頭にもキノコを生やしてやろうか? と。結は一瞬だけ思う。けれどそれを実行することはない。当事者である華が、それを良しとしないことを今までの経験で知っているから、基本的にはしない。
「で、じゃあまぁ諸々のことは気にしないことにするけど、それで? 演技が出来るようになりたいの?」
「うん。ちゃんと痛がれないとバレちゃうかもしれないし、それに、こいつ変だって思われたら、もしパパとママの言うようなことにはならなくても、普通に嫌われちゃうかもしれないし……」
「うんうん、なるほどね。あたしはそのいじめっ子をしばいた方が全てにおいてベターだと思うけど、確かに演技は出来るに越したことないもんね。ちょうどいい機会か」
「うん! 結ちゃん上手いから教えてほしい」
「じゃあ実戦形式で練習しよう。ちょっと待ってね」
グゥッ……と、どこかから不気味な音が鳴る。地の底から何かドロドロとした物が湧き出るような、どこか暴力的なニュアンスを連想させる音が聞こえてくる……。
やがてその音は結の喉を上った。
「ぐげっ……お゛え゛っ……!」
結が何かを吐き出した。
胃液なのか唾液なのか、とにかく何らかの体液に塗れてねばついた、小さなプラスチックケースが、結の口の中から(正確にはもっと奥から)出てきたのだ。閉じられたそのケースの中には無数の画鋲が入っている。
そしてそれを人差し指と親指でつまんで、華に渡そうとする。
「ほい、まず一回やってみ」
「えっ……。ばっちぃよ……」
「お前……。いいからやれ!」
「はいっ」
汚いと言ったわりにためらいのない鷲掴みで画鋲ケースを受け取り、中身を適当に地面にばらまく。そして靴を脱いだ華は、またしても少しのためらいもなくそれを踏みつけにした。
「ぎゃああああああああああああああ!! いたいいいいいいいいいいいいいい!!」
「うるせぇ!」
やまびこのように声が遥か彼方まで飛んで行った気がして、華もあわてて自分で自分の口をふさぐ。
「大げさすぎるんだよ画鋲踏んだだけで」
「だってよく分かんないんだもん……」
「そっか、まぁ方向性は分かった。じゃあ次はあたしがお手本見せるから、よく見てて」
「うんっ」
同じようにケースの中から適当に画鋲をばらまいて靴を脱ぎ、針が天に向かった物を目がけて足を踏み下ろす。直後、結の全身がビクッと跳ねて強張った。
「い゛っ……!? っ……!」
「おぉ」
「なにこれ、画鋲……? なんでこんな……、……いぃっ!?」
足の裏に深々と食い込んだ画鋲を抜こうとして、ちょん、と少し指が触れただけでまた体が強張る。結の表情にはたしかに恐怖や不安が見て取れるようで、痛みにもだえる姿がほどよく哀れに映っていた。
「すごい! やっぱり上手い!」
「ふふ、じゃあ次は今の真似してみて?」
ぱちぱちと小さな拍手をする華をよそに、刺さった画鋲を事も無げな顔をしてグリグリと捻りつつ抜き取った結は靴を履きなおす。
その隣で華は、深呼吸をしてから再び演技に臨む決心を決めたようだったけれど、どちらかといえばその所作の方が「これからどうしても画鋲を踏まなければいけない人」として、いくらか本物らしく見えた。
「いっっっっっったぁ! ひぃ~~~~~!! あ~刺さって取れな~い!」
「……こりゃ先は長いなぁ」
一本足でびょんびょんと跳ね回ったあと倒れこみ、痛いよー痛いよーと地面を転げまわり始めた親友を見て、結は一人長期戦の覚悟を決める。明日も、明後日も、昼休みになったらこの屋上へ来なければ……と。
彼女たちの生活は昔から、いつも大体そんな風に流れているのだ。