きっと、その先へ。
ナイスネイチャの育成シナリオ最終目標、『有馬記念で1着』についての幻覚
『素晴らしい素質』という意味だと、母は自分の名前について語ってくれた。
幼いナイスネイチャは、自分には似合わない名前だなあとぼんやり思った。
ナイスネイチャは、今でも時々そう思う。
『有馬記念』。
人気と実力を兼ね備えたウマ娘のみが出走することを許される、国内のG1レースの更に上澄みに位置するレース。
ナイスネイチャが走る中で、これほどの大舞台はないと言ってもいいレース。一心不乱に走り抜け、最後のコーナーに差し掛かる。
だが。
(追いつけない…!)
トウカイテイオーは速い。
レースも最終盤、体力の管理を失敗したウマ娘たちが次々と脱落していく中、テイオーの速度は微塵も衰えていない。ナイスネイチャは辛うじて3着へ喰らい付いているが、それだけだ。ここから先、間違いなく4着以下の着順は変わらない。
『帝王ここにあり』とその全身で表現しているかのようだった。テイオーステップは冴え渡り、故障をまるで感じさせない。強豪ウマ娘たちをものともせず、テイオーは悠々とターフを駆ける。
手を伸ばせば届きそうなくらい近いようにも、どんなに手を伸ばしても届かないくらい遠いようにも見える。そしてこれまで、ナイスネイチャがトウカイテイオーに追い付けたことも、追い抜けたこともない。
どれだけ焦がれても届かない背中。昔も、今も。
(結局、ここら辺が関の山ってわけ?)
何度も経験した感覚。それに身を委ねそうになる。諦めてしまえと囁く何かは自分自身の本音に他ならない。俯きそうになったその時だった。
「ネイチャぁあぁぁぁぁぁ頑張れぇぇぇぇぇぇぇえ!!」
ずっと側で支えてくれた人の声が、ナイスネイチャの耳に届いた。
この数年、何度も聞いてきた声。今更聞き間違えようもない人の声。声を荒げるようなタイプでもないだろうその人が、大声を上げてナイスネイチャを応援していた。自分が編んだマフラーを律儀に身につけて、顔を真っ赤にして叫んでいた。
「ネイチャちゃーん!ファイトー!」
「頑張れネイチャちゃん!」
「気張れよぉネイちゃん!」
トレセン学園に通う前から応援し続けてくれた商店街のみんなもいた。トレセン学園の近くの商店街で仲良くなった人たちもいた。ずっとナイスネイチャの助けになってくれた人たちが、今ここでもネイチャの力になろうとしてくれていた。
あの調子ではトレーナーの喉は枯れること間違いなしだろう。商店街のみんなだってせっかく見に来てくれたのに、ナイスネイチャはどうせ──
(──は?待って、アタシ今何考えた)
思考が冷えていく。つい数瞬前までの自分は寝ぼけたまま走っていたのではないかと思うほど、思考が研ぎ澄まされていく。
レースが終わる前から負けた後の台詞を考えてどうする? 勝負はまだついていない。考えるべきは自虐でも言い訳でもなく、勝利の後に己の栄光を誇る台詞ではないのか。
負けるために有馬記念まで出張ってきたのか? 違う。自分は勝ちたくてこれまで走ってきた。三着になりたくてなり続けてきたわけではない。そんなわけがない。
勝ちたいと、輝きたいと、夢を掴みたいという思いは全部嘘だったのか?
そんなわけがない。
ウマ娘としての本能が、己を叱責するように荒れ狂っていく。湧き上がる怒りが鬱屈した感情を焼き尽くしていく。消えかけていた闘志が爆発的に勢いを増していく。
(ふざけんな)
3着の取りすぎで染みつきかけた負け犬根性を振り払う。テイオーの走りに圧倒された心を奮い立たせていく。
ブロンズでもシルバーでもないゴールドを掴むために、ナイスネイチャは走る。自分を快く送り出して、支え続けてくれた人たちのためにナイスネイチャは走る。
『勝ちたい』と心から思わせてくれた人のために、ナイスネイチャは疾走する。
3着の、その先へ。
既に最終コーナーは通過し、2500mのレースは最終盤、ラストスパートの頃合いだ。
大半の観客はナイスネイチャなど見ていなかった。トウカイテイオーとビワハヤヒデ、どちらが1着を取るかに気を取られていた。
ナイスネイチャの速度が上がり始めたことに気付けたのは、ごく僅かな人間だけだった。彼女をずっと見続けてきた僅かな人間だけが、彼女の気配が変わったことにいち早く気が付いた。
(負けて──たまるか!)
そこを退け。
とびきりの闘志を滾らせて差を詰める。目前のウマ娘のペースが僅かに落ちた。それに乗じて差を詰める。祈りが通じたとは思わない。動揺させられたとは思わない。ナイスネイチャは自分にそんな圧があるとは思わない。
千載一遇の好機は見逃さない。一人は崩れた。追い抜くべきはあと一人。名高き『帝王』。数多の栄光をその手中に収めた、遥か高みにいるウマ娘。幾多の歓声を独り占めしてきた無敵の帝王。
『おっと、ここでビワハヤヒデ失速! トウカイテイオーとの差が開いていく、割り込んできたのはナイスネイチャ! ナイスネイチャ上がってきた! 上がって、いいやこれは…これは!張り付いた!ナイスネイチャ張り付いている! トウカイテイオーの真横へ張り付いた! ブロンズコレクターが1着の栄光へ王手をかけた!』
並び立つ。ぴったりと張り付くように並走する。だが横を見る余裕はない。視線を少しでもずらせばそのまま失速してしまいそうだ。テイオーがどんな顔をしているのかネイチャには分からない。
しかし果たしてこの瞬間、トウカイテイオーにナイスネイチャの顔色を伺う余裕があったかどうか。
『ナイスネイチャ粘る! ぴったり横に並び逃がさない!! トウカイテイオー引き離せない、しかしナイスネイチャも差しきれない! 残り200m、残された距離はごく僅か! 果たしてどちらが競り勝つ!? 有馬記念の栄光を勝ち取るのはどちらだ!?』
トウカイテイオーの華々しい戦績には、ナイスネイチャは決して及ばない。『ブロンズコレクター』だとか、『善戦ウマ娘』だとか、その辺りの評価が精々だと本人も思う。
けれど。
(アタシが……勝つんだっ!)
今この場で負けてやる気はない。
有馬の勝ちは渡さない。
心臓から噴き上がる闘志を全身へ循環させる。決して力まず、適切な場所へ適切に力を入れて走る。
拳は握らない。奥歯は噛み締めない。悔しさは飲み込まない。何度も何度もやってきたそれは、今することじゃない。ナイスネイチャはまだ敗北していない。レースはまだ終わっていない。例外たる七冠の『皇帝』ならまだしも、レースに絶対はない。
どんな番狂わせも起こり得る。どんなジャイアントキリングも現実になり得る。
レースの勝者とは、一番最初にゴールした者だ。
レースの敗者とは、それ以外の全員だ。二着も三着もビリも、一着以外はどんぐりの背比べ。レースとはそういうものだ。ただ一人の勝者とその他大勢の敗者を生み出す残酷な、故に人の心を魅了する仕組みだ。
本当に惨めなのは最下位ではない。1着を取れていないくせに『入着』とかいうお情けの処置をされているウマ娘の方だ。全身全霊で1着の為に走るナイスネイチャは、3着を取り続けてきたナイスネイチャは今、心の底からそう思う。
勝利を掴み取るために開かれた五指が空気を裂き、ナイスネイチャの道を開く。
トウカイテイオーは『まだ』勝者ではない。
ナイスネイチャは『まだ』敗者ではない。
(勝つんだ。みんなのために。あの人のために)
ナイスネイチャは、空気が軋む音を聞いた。
次いで世界が罅割れていく錯覚があった。備えもなしに未知の領域へ突っ込んでいく予感があった。それでも彼女の心には、一欠片の恐れも怯えもありはしない。
(1着はテイオーじゃない──アタシだ!)
「勝ちたい」という意思が他の全てを塗り潰す。勝利を求める心があらゆる不安要素を跳ね除ける。極限まで高められた闘志が余計なものを全て意識から排除する。
限界の先の先へナイスネイチャは抜け出していく。そしてほんの僅かな時間、一人のウマ娘が限界を超越した。走る本人すらそれに気付かないままだった。
「勝て」と魂が叫んでいた。『素晴らしい素質』の意味を思い知らせるかのように、ナイスネイチャは更に速度を上げた。軋むように痛む全身は、それでも決してナイスネイチャを裏切らない。
『ナイスネイチャ来た! ナイスネイチャ更に加速!ついにナイスネイチャ抜け出した! 差は僅か、しかしテイオー追いつけない!トウカイテイオー、ナイスネイチャを抜き去れない! 残り100! テイオー差を縮められない! ナイスネイチャ差した!差しきった! 僅かにトウカイテイオーの前を走っている! この差を持ち堪えられるか!?』
思い出せ。幾度となく味わった敗北の苦さを。
思い出せ。勝ちたいと決意した日を。
『……アタシ、テイオーに勝てるかな?』
『勝てるよ。絶対』
思い出せ。
こんな自分に勇気をくれた、あの折り紙のトロフィーを。
どんな黄金よりも宝石よりも価値のある、一番の宝物を。
低く、低く、研ぎ澄ますように前へ前へ前へ!
頭ひとつ、指一本分、1センチでも前へ!
1番になるために──前へ!
「ネイチャちゃん!」
「ネイちゃん!頑張れー!」
「行っけぇぇぇぇぇぇ!!」
「頑張れぇぇぇぇぇぇ!!」
声援を力に変えるなんて魔法みたいな真似、きっとレースの中には存在していない。レースは残酷なまでの実力勝負で、そんなオカルトが介在する余地がないことをウマ娘たちはよく知っている。
だけど今この瞬間、その魔法は確かに実在していた。
応援してくれる人たちの声がナイスネイチャの背中を押してくれる。
「勝てぇぇぇぇぇぇぇぇネイチャァァァァァァァァ!!」
自分を選んでくれた人の声が、ナイスネイチャに最大の活力を与える。
(うん、勝つよ)
勝って、一番になる。
飽きるほど見たブロンズのその先へ。
あと少しで逃してきたシルバーの先へ。
焦がれるほど夢見た黄金へ。
そして。
『ゴォォォォル! 1着は──』
「……………………あっ、ぇ?」
走って、走って、走った。
どれだけキツい走りの後でも、足を痛めない減速の仕方は身体に染み付いていた。
荒れた息を整えたナイスネイチャは、思い出したように着順表を見た。
3着はビワハヤヒデだった。
2着は…トウカイテイオーだった。
そして、1着は。
『1着はナイスネイチャ! 強豪ウマ娘たちを打ち破り! 驚くべき逆転劇を魅せ! 有馬記念の栄光を手にしたのはナイスネイチャ! ナイスネイチャ今、黄金の栄光をその手に掴み取った!!』
「1着?アタシが?本当に?」
夢かもしれない、と思い即座に首を振る。
全身の疲労がこれを現実だと声高に主張していた。
観客の大歓声を一身に受けているのは、ナイスネイチャだ。右も左も輝かしい主人公ばかりの中で、『名脇役』がその中心にいた。誰もが認める主役の座は今、ナイスネイチャただ一人のものだ。
「ネイチャ…!おめでとう!」
汗だくで息を荒くして駆けつけてきたトレーナーの、嬉しさに満ち溢れた表情と掠れ気味の声を五感で感じ取って。ナイスネイチャはつられるように笑った。
「トレーナーさん。アタシ、勝ったよ」
『素晴らしい素質』は、遂に黄金の栄光を手に入れた。
ほんのちょっぴり、ちょっぴりだけ名前負けしないようになったかな…などと思いつつ。
「……折り紙のトロフィー、おねだりしてもいい?」
ナイスネイチャは勝利の美酒に酔い痴れる。
彼女だけが持つ1着の特権を、ナイスネイチャは心待ちにする。