シービー→→→トレくらいのトレウマです。想いの発芽。
何ということはない土曜日の夕方。
滝のように降り注ぐ雨音をBGMに、ミスターシービーのトレーナーは自宅でパソコンと向かいあっていた。画面の中のレース映像を一時停止し、視線だけを逸らして外を見る。
「すごい雨だな……月曜までに乾けばいいけど」
一時間ほど前から降り出した大雨によって窓の外は既に薄暗くなり、今トレセン学園のグラウンドは不良バ場どころの騒ぎではなくなっていることだろう。今朝のニュースで確認した降水確率は70%だったが、まさかこれほどの規模とまでは気象予報士は伝えてくれなかった。
画面とノートに交互に視線を走らせていると、突然チャイムが鳴った。
トレーナーはコーヒーカップを置いて足早に玄関へと向かう。宅配便が届くような予定はない。何故だか、妙な胸騒ぎがした。
(……おお、マジか)
ドア越しに聞こえて来た鼻歌。聞き間違う筈もない声で、いつぞや聞いたラーメンの歌が微かに響いてくる。ドアの向こうにいる相手は一人しかいない。
急いでドアを開けた先に──いた。
ミスターシービーが。頭から爪先まで全身これでもかとびちゃびちゃに濡れた状態で。
彼女は、普段と変わらない笑顔で言う。
「あ、トレーナー。昨日ぶりだね」
「シービー!!どうしたんだ一体…!?全身ずぶ濡れじゃないか!」
「いやー、散歩してたらいきなり雨が降ってきてね。最初は楽しかったんだけど、でも流石に寒くなってきちゃってさ」
なんだそりゃ、と言いたくなる内容だがシービーなら納得できる。何より今するべきことはその行為の是非を問うことではなく、担当ウマ娘の心身の健康だ。にこにこと笑みを浮かべているミスターシービーの手を、トレーナーは部屋の中へと引き寄せた。
「とにかく中に…!拭くものを持ってくる!」
「お邪魔しまーす」
シービーは玄関先でぶるるるんと犬のように震えて水気を飛ばし、服の布地を絞って水分を落とした上でついでにぺこりと一礼してトレーナーの部屋へと入っていった。
その視線が工場見学に訪れた子どものものと同質であることに、慌てていたトレーナーは気が付かなかった。
バスタオルを一枚引っこ抜くと、全速力でそれをシービーへと投げ渡す。息を整える暇もなく、トレーナーは給湯器を操作して冷え切った湯船の再加熱を始めた。
「このコーヒーもらっていい?」
「それ俺の飲みかけだけど、いいの?」
「いいよ。うん、適温だ」
粗方の水気を拭き取ったシービーはトレーナーが座っていた席と向かい合う位置に腰掛け、微かに湯気が立っているコーヒーを飲む。
「突然ごめんね。入れてくれてありがとう」
「ひとつ、聞かせてほしい。何かあったのか?」
「何かって?」
「君が自由なのは今に始まった話じゃないけど……これまでこんなことはなかったから。少し気になった」
「うーん……ホームシック?」
「なんで疑問形なんだ……」
ぴろりろりんという電子音が会話を遮った。お風呂が沸きました、という機械的な音声が続く。
今は聞かなくてもいいか、とトレーナーは結論付けた。
「風呂沸いたみたい。入っていいよ」
「ありがと。……あ、入浴剤入れていい?んー…この森林の香りのやつがいいな」
「ご自由にー」
ひらひらと手を振りながら、トレーナーは心の中で頭を抱えた。
状況が状況とはいえ、未成年の教え子を自宅の風呂に入れる羽目になるとは想像だにしていなかった。
(知らないお風呂入るの、久しぶりだなあ)
並んでいるのはいつもと違うシャンプー。いつもと違うリンス。使ったことのない入浴剤を入れた造りの違う湯船に浸かってシービーは身体を温める。何もかもが新鮮だった。自分の知らない匂いが自分を包んでいくのは中々に心地よい。
何より今、同じ屋根の下にトレーナーがいる。
どくん、と心臓の鼓動が荒くなるのが分かった。浴室の天井を仰いでいると、トレーナーの足音が近付いてくるのが聞こえる。
「シービー。着替えここに置いとくから……俺の服で悪いんだけど、多分臭くはないと思う」
「ありがとー」
十分ほど湯船に浸かり、これまた知らない石鹸で身体を洗い流す。
いつもと違うバスタオルで身体を拭き、借り物のシャツに袖を通す。サイズは合っていないけれど、不思議なことに着心地が良い。
なんとなく安心する感覚。けれど胸がほんの少し高鳴ってくるような気がした。血流がよくなりすぎているのだろうか?
「いいお湯でした、っと。……ん?良い匂い」
「ドライヤーはそこにあるから。髪乾かしてもうちょっと待っててくれ」
「ご飯作ってくれたの?」
「多分何も食べてないんだろうなと思ったから」
「正解。アタシのこと分かってるね」
シチューの匂いが鼻腔を刺激する。ちょうど腹の虫がくぅ、と鳴いた。鼓動がおとなしくなっていく。
シービーが料理に舌鼓を打つ横で、スマホで天気を確認していたトレーナーは少し困ったように眉をひそめた。
「うーん、夜まで降りっぱなしか…シービー、どうやって帰る?タクシー呼ぼうか?」
帰りたくない。
何故そんなことを思ったのか、シービーにもよく分からなかった。思考が止まり、反応が遅れる。
「シービー?」
「あ、うん。そうだね」
「具合が悪いのか?」
「いや、そんなことは……」
ミスターシービーの胸中で悪魔が囁いた。
企み半分、体調が少し怪しいのがもう半分。
「ある、かも」
「じゃあもっと暖かくしよう。帰りは…ご両親に連絡して来てもらおうか。一人じゃない方が安心だろうし」
「……ここに泊まっちゃダメ?」
「……本気で言ってる……?」
「うん。ダメ?」
「逆に聞くんだけど良いと思ってる?」
「うん」
じいっ、とトレーナーを見つめる。シービー本人は知る由もないことだが、今の彼女の瞳は普段の印象とは大きく異なる小動物的なものであり……有り体に言えば、どうしようもなく庇護欲を煽るものだった。普段の彼女を知る者ほど強烈なギャップを感じる動作をシービーは無自覚に行なっていた。こうやって彼女に『おねだり』されてしまえば、断れる人間はどれだけいるだろうか。
しかしトレーナーとしては引き下がる訳にもいかない。しばらく二人は見つめ合い、言葉のない持久戦が続く。
先に折れたのはトレーナーだった。
「……今回だけ。それと、ご両親にはちゃんと連絡して許可を取ること。いい?」
「うん」
「一応、俺からも二人にお話するから…電話繋がったら教えてくれ」
シービーの鼓動が、また少し高鳴った。
(いーのかなぁ、これ……担当と一つ屋根の下って)
一悶着起きる覚悟だったのだが、思いの外すんなりとシービーの外泊は認められた。両親との電話に恐る恐る出てみれば、二つ返事で許可が下りる。スムーズに話が進みすぎて不安になってくる程だ。
しかしシービー本人の希望、それも両親からの許可付きともなれば断る理由はない。……よく考えれば許される理由もない気がしたが、見て見ぬふりだ。
時間はあっという間に過ぎていく。シービーの話に耳を傾けている内に、時計の針が22時を差し示す。
「ふぁ、ぁ……眠くなってきちゃった」
「俺がソファーで寝るよ。シービーはベッドに…」
シービーはソファーの上で胡座をかいたままそれを拒否した。
「え。やだ。こっちがいい。ふかふかだし」
「……分かった。でも毛布はちゃんとかけてくれよ。風邪引いたら大変だ」
部屋に泊めるという特大の要求を通してしまった後では、多少のワガママなど可愛いものだ。
一人暮らしの男性の部屋では基本的に掛け布団が余ることは少なく、必然的にシービーはトレーナーの使っていた毛布を使うことになるのだが……トレーナーはもう指摘することを諦めていた。彼女の自由さはよく知っている。
(風邪を引くよりはよっぽどいいよな…うん)
果てしなく申し訳ない気持ちになりながらトレーナーはシービーへと毛布を差し出した。シービーの方はといえば、にこやかにそれを受け取って包まった。
「おー、あったかいね」
「まあ…シービーがいいならそれでいいか」
「トレーナー」
「うん?」
「おやすみー」
「ああ、おやすみ。ゆっくり休んでくれ」
大雨によって洗い流された空は、雲間から覗く月の光をより美しく映し出している。雨音という雑音を取り払われ、人々の生活音が鳴りを潜めた世界は昼間よりずっと透き通っていた。
デジタル時計は深夜一時を示している。ミスターシービーは、呼吸を整えてドアの前に立つ。家主はこの先で眠っている。
隔てるものはひどく単純なドア一枚。ウマ娘の膂力ならば鍵がかかっていても容易く踏み越えられる。けれどミスターシービーは、部屋の中へ立ち入ることはしない。
「今日はいきなりごめんね。トレーナー」
漏れ出す言葉。それは謝罪ではない。伝えたいから言うのではなく、ただシービーが口に出したいがために紡がれていく言葉だ。
「今日のアタシ…ちょっとおかしかったよね」
シービーは手を強く握る。言葉を絞り出すために、自分の背を押すように。
「走るために生きてる。走るためだけに、生きてる…そう思ってたよ。これまでもこれからも、そうやって生きていくと思ってた」
自由でいたかった。心の思うままに、何にも縛られずにいたかった。
それが困難な道であることは理解していた。周りに迷惑をかけたことが何度もあった。それでも、在り方を変えることは出来なかった。そんな不器用な生き方がミスターシービーの軸であり、根幹だった。
「でもアタシは……それだけじゃ我慢できなくなったのかなぁ」
雨を全身に浴びながら。思うままの自由を楽しみながら。心の向かう先がここだった。
特別なきっかけがあったわけじゃない。それでも、ただ会いたかった。声が聞きたくて、話がしたくて、ただ傍にいたかった。
その望み通りになったのに、心がすごく暖かくなったのに──どうして、自分はまだ満たされていない?
「キミに会いたくて、迷惑かけちゃったね」
ドアに背中を預けながらシービーは言葉を紡いでいく。並べ立てられていく言葉は支離滅裂で、辿々しく、シービーの意思を上手く伝達できない。もどかしさを噛み潰しながら、やがてシービーの言葉が詰まり、止まる。
観念したように、或いは感極まったようにシービーは言う。
「……キミのせいだよ、トレーナー」
シービーの「自由」を肯定してくれて。
気ままなシービーにずっと着いてきてくれて。
両親と同じくらい──シービーを信じて、愛してくれる人。
ミスターシービーの頭と心は、いつの間にか彼のことで一杯になっていた。
母の気持ちをほんの少しだけ理解できた気がした。何かを投げ打ってでも抱え込んでいたい想い。自分の全てを注ぎ込んでしまいたくなる感覚。きっと、あの時の母も──他の何よりも一人の男を選んだ時の母も、自分と同じような気持ちだったのだろう。
ミスターシービーは思う。
この衝動こそを、きっと恋と呼ぶのだと。
我儘で都合の良い話だと、心から思う。自分は彼を振り回してばかりで、彼を顧みてこなかった。尽くされ愛されるばかりで、それに見合うものを返してあげられたとは思えない。
それでも。
(期待、しちゃおうかな)
もしも願いが叶うなら。
もしも父と母のような歩み方が出来たなら。
もしも──彼も、自分を選んでくれたなら。
なんてことを考えずにはいられない。
ミスターシービーの背を生温い寒気が流れ落ちていく。どうしようもなく不安になる。
否定。拒絶。断絶。そんな未来を否応なしに想像してしまう。シービーの思いは単なる一方通行で、望む未来は訪れないかもしれない。傷に変わるかもしれないのなら、この衝動は思い出にしてしまう方がいいのかもしれない。
「これからもよろしくね。アタシの大好きな特別」
だけど、それは足踏みをし続ける理由にはならない。
彼が諦めてくれないでいたのだから、自分も彼を諦めることはしない。それだけだ。
一言で言うなら、きっと『惚れた者負け』なのだ。
「もっともっと、アタシに夢中になって」
今はまだ、もう少しこの衝動を保持していたい。まずは彼に真正面からこの想いを言える自分になりたい。
顔も頭も茹だるように熱いのは、きっと雨を浴びたせいではないのだろう。
「おやすみ。トレーナー」
名残惜しそうにドアに目をやり、シービーは歩き出す。
ソファーに寝転がる前にシービーはもう一度夜空を見た。ついさっきまで雲に隠れていた三日月が、その姿を見せていた。
「……ふふっ」
──嗚呼、なんて綺麗なんだろう。
ミスターシービーは、月へ向かって手を伸ばした。
届かなくても、ただ手を伸ばせていることが嬉しかった。その事実を噛み締めながら笑って寝転んだ。